初めまして。タイトル通りなのですが 誰かに必要とされたい、愛されたいという気持ちが強すぎてしんどいです。 その反面、人からは興味を持たれず、愛されず、必要とされてないので余計に苦しくなり孤独感を感じる一方です。 人から必要とされないのならば生きてる価値なんてないと考えてしまうのです。 こういう気持ちをなくすにはどうしたら良いでしょうか? こころを無にして楽になりたいです。 文章力がないので支離滅裂かもしれません。すみません。よろしくお願いします。
日本の仏教(浄土真宗を除く)は何故『肉食妻帯』が許されるのでしょうか? 浄土真宗を除く宗派は『肉食妻帯』の禁止が前提で作られていたのでは無いのですか。 肉食関して仏陀は肉食を禁止していないや三種の浄肉をおっしゃる方が多くいますが、その部分だけを引用するとそう解釈できるか分からないですけど、当時は「托鉢」や「午後の食事の禁止」が前提の話で、日本の僧は「托鉢」や「午後の食事の禁止」をしているわけではないのに、その部分だけを引用するのは如何なものでしょうか。 また中国経由の日本の仏教には関係のない話であり、仏陀は肉食を禁止されなかったという個々の考えがあるのであれば、上座部やチベット、真宗などに改宗するか新たに肉食を禁止されない宗派を開宗すべきで妻帯の禁止及び菜食主義であった既存の宗派を変える事は以ての外ではないでしょうか 私は肉食妻帯に対して反対しているのではなく、真宗以外の諸派は肉食妻帯な禁止が前提として作られているのだからそこは徹底的にして欲しいのです。 妻帯については後継者問題があるからとは言いますが、なぜそこまで出家にこだわるのに、妻帯の禁止にはこだわらないのでしょうか。出家せずとも知識ある在家としてお寺を見守る家系として生きていけばいいではありませんか。 出家しているのに妻帯だと在家とあまり違いが無いではありませんか。 これは勝手な私論ですが 末法無戒を、唱えた日蓮上人ですら肉食妻帯をしていませんよね?それは「僧が袈裟を着る事」や「人が人を殺す事はいけない事」と同じ様なもので、その当時は肉食妻帯はしないのが当然なので末法無戒には含まれないからでは無いのでしょうか。 もし政府が「僧の服の着用勝手たるべし」とでも法令出したとしても、日蓮上人は直接は言及していないが、服を着るのは当然でその上で末法無戒と言ってるなんて誰でも分かるじゃないですか。 まとめると肉食妻帯の容認を当初からしている真宗以外は、かつてと大きく肉食妻帯に対しての意識が変化しているのにも関わらず、別宗派を作らず元の宗派を名乗ったまま肉食妻帯を許しているのか。 また現在における出家と在家の違いはなんなのかです?
先日、大学の授業で教授が「福祉の考え方は西洋から日本に入ってきた。ヨーロッパやアメリカはキリスト教の隣人愛の精神にのっとって助け合う心が人々にあるから福祉が充実しているけれど日本ではキリスト教がメジャーではないからなかなか助け合いや福祉の精神が広まっていない。」と話していました。私は宗教についてあまり詳しい方ではありませんが隣人愛という言葉は知っていますし、確かにキリスト教を信仰する人が多い国で福祉の心が根付いているというのは何となく納得が出来ます。 でも、日本人にも助け合うという考えはあるはずだと思います。熊本の地震があった際も、火事場泥棒などひどいことをする人もいるようですが現地にボランティアに行ったり募金などの支援をしたり、困っている人を助ける動きがあるという話もたくさん聞きました。なので、教授の「キリスト教が浸透していない国では福祉の考えも浸透しない」といった話を聞いて何だかもやもやしてしまいました。 そこでお聞きしたいのですが、仏教においてもキリスト教でいう隣人愛のような、誰かと助け合う、支え合うという教えはあるのでしょうか。無宗教だという人も多いので何も宗教の考えだけが人の助け合いのベースではないと思いますが、日本は仏教が身近という人も多いと思うので、仏教にもそういった教え、精神があればぜひ教えてください。
家族に大切にされていると思えません。 家族とは、「族」とつくだけあって、他の家族が苦しい時は、励ましたり、助けてくれる存在だと思っていました。 しかし、現実はいじめられても、「お前が弱いから」、「お前がいるからお金がかかる」、などの言葉を浴びてきて、最後までどんな子が生まれてきても、育てる覚悟がないなら生まないで欲しかった、夫婦になるまでなら良かった、自分さえ生まれてこなければ、と困難が起こる度に、消えたい、死にたくなります。 自分の幸せを親に応援された事は無いです。好きな事をするとお前は自分勝手でええよな、と母親に言われて育ちました。 敵の中に生まれたような気分です。 困難の量に対して、生きたい、乗り越えたいというような熱量や野心が、もう灰のように、カスカスに枯渇しています。 親や兄弟、親の兄弟の家族とも仲は良くなく、心療内科や就労支援機関のカウンセリングや薬などに頼りながら生きています。 今は前職を一昨年辞めて、生活保護手前までなりましたが、金銭だけは親が出してくれています。今は世話になっていますが、元を辿れば小さい頃の暴力の恨みや進路を親に支配され、思い通りに生きられてない虚無感を与えられたのが原点で、31歳になったから〜成人したから〜で簡単に親への殺意もなくなりません。 何をどういうマインドで残りの人生を生きればいいのかに苦しんでいます。 カスハラなどにも沢山出会いましたが、これ以上辛い思いをして働く、もとい、生きる気力が、薬も強いものを飲んでいますが、湧きません。 何か考え方に助言があれば、教えて頂けたらと思います。 春の盆ですが、親への恨みが強いので、先祖の墓参りも苦しいです。こいつらがいなければ…と思ってしまいます。 よろしくお願い致します。
ハスノハ書籍本をリビングに置いてます。子ども達と何気ない会話の中でハスノハの本を見ながら自分だったらどんな質問するかな?こんな下世話な事をワザワザ質問してもいいのかなぁ?と呟いてる子どもがいて 「仏様ってB型っぽいね」…すみません。あまりにもショーもない子どもの質問に お坊さまなら、なんと回答してくださるかなと思ってしまいました。大学受験を控え、日本史や倫理の教科書を毎夜✏一所懸命と励んでるのだから、たまには柔らかい?こんな質問にも付き合ってあげようと「AB型っぽくない?」とだけ答えておきました。日本人は血液型に拘りすぎてると言われるけどタイプ的に括りは、なんとなくアルアル血液型…と思う場面もありそういえば、あたしが通っている坐禅の仲間はO型がやたらに多いんですお坊さまはお話しする方3人とも…B型なのです。 たまたまなのですが、、、最後に子どもが仏様は血より濃い違うものが身体に流れてるんじゃない?…と あまりにショーもない質問となりました。こんなですが仏教系大学を一般入試する子どもに幸あれ!です (/-\*) ハスノハで親子の会話を楽しみつつもっと深く話せるようでありたいなとなりました。 質問者:男性18歳…呟き
【質問】 自分の中に芯と呼べるものを形成するには、何をすべきでしょうか? 【質問背景】 現在、4社目となる居場所の退職手続きを進めています。 前向きな理由からの退職ではなく、 1.他人と長期的な関係を築く事が出来ない。 2.会社に帰属意識を持てない、歯車に成り切れない。 3.お金以外で働く理由が見つからない。 上記の様な思いを常に持っている状態で、どうしようもなくイライラして 逃げ出す以外になかったのが正直な所です。 逃げ出した所で自分に何か出来る訳でもなく、お金に困ったらまたどこかで働いて、似たような理由で辞めてを繰り返す事が予想出来ます。 逃げ出してばかりの情けない人間ですが、良い方向に変化したいと願っています。退職する事によって自由に使える時間が生まれるので、今こそ自分を変える時だと信じて行動したいです。
死後の世界ってあるんでしょうか?
昔から自分で決めることがとても苦手です。 いつも誰かの決定に従って生きていきたい、と思うほど自分で決めることが出来ません。誰かに決められないと、何をすればいいのか分からず非常に不安になります。 高校のころまでは自分で決めなければならない場面が少なかったため、こんな性格でもなんとか過ごせてこれました。けれども最近は自分で決めなければならない場面に多く直面しています。そして周りの子が当たり前に自分で決めているのを見るたびに、自分もああならなくては、と焦っています。そんな風に焦ってはいるものの、結局自分で決めることが出来ず、友人にどうすればいいのだろうと決定を求めてしまっているのですが…。 自分で決められないのは、自分の決定に責任が伴うのを恐れているせいだろうと思います。また、何に対しても「そういう考え方もあるんだなあ」と疑問を持たずに受け止めてしまい、結局何が正しいのだろうかと悩んでしまう性格のせいだろうと思います。 責任を持てないふわふわとした自分に嫌悪感があふれ、このような性格のまま生きていけるのだろうか、と不安を抱える毎日です。どうすれば自分で決めることができる人間になれるのでしょうか。(こうして聞いている時点で人に決定をもとめていますね…笑) 長々と申し訳ありません。つまらない悩みかもしれませんが、何かお言葉を頂ければ嬉しいです。
悟りって本当にあるのですか?悟っているお坊さんはどのくらいいますか?
先日、年忌法要の為に帰省したのですが、そこで受けた説法が今も引っ掛かっています。 その説法とは『身内葬で済ますのは不幸なこと』『親族の傲慢』といった内容で、 (忘れようとしているのか)細部まで記憶していませんが、とある事情から恥ずかしながら非常に怒りを覚えました。 その事情とは、年忌の前日に別の親族が亡くなり、事情から親族だけの葬儀にしていたからです。 つまり、その説法と亡くなられた親族が被ってしまい、 『なんて身勝手なことを言うのだろうか』という怒りがあったのだと愚考します。 ただ、親族の代表として向かった手前、怒りを堪えたものの、未だにお坊さんが唱えられた話が引っ掛かっています。 身内だけの葬儀は悪いことでしょうか?確かに親族や友人、知人を呼んで大きく葬式を行うのが一般的でしょう。とはいえ、それが絶対かというと腑に落ちません。 また、説法を行ったお坊さんとは今後も顔を合わせることになるでしょう。 その時にどう顔を合わせたものかと思うと、辛いものを感じます。 (今は説法に対する怒りの感情というより、疑問が凝り固まっているような状態です。) 不躾な文ではありますが、ご教示願えればと存じます。 余談ですが、出来れば浄土真宗本願寺派のお坊さんのアドバイスを頂ければ幸いです。 もちろん他宗の方のお話もお聞きしたいです。
僕はこの前、呪いの動画を見て怖くなったと質問した者です。 改めましてご回答ありがとうございました。ですが、僕が一つ余計僕を不安にさせてモヤモヤさせられた回答がありました。それは、「怖いままでいい」「いつ死んでも良い」という回答でした。僕はそれをみた瞬間、一気に不安が込み上げてきて正直頭がクラっときました。 これだけ僕が怖がってるというのに怖いままでいると、これからの生活に影響すると思いますし情緒不安定になると思います。それなのにも関わらずこれから怖いまま生きていかなきゃいけないんですか?もしそうなったら親不孝とかもありますし周りの人も悲しむじゃないですか。遠くの人と繋がりがある人とも音信不通になる。極楽へ行こうと地獄へ行こうとそんなの不安です。 その回答の追記コメントでも納得できずた言っちゃ悪いですが、だただその回答は僕を悟らせてるみたいでした。本当に的外れです。 僕はもうどうしていけばいいかわからなくなってきました。
こんにちは。 大学の演劇サークルで新人の指導係をしています、ひなこと申します。 毎日稽古して厳しく教えるのが伝統のサークルで、新人が何人もつらい、やめたいと言い出しております。 逃げると後悔するよと引き留めても頑として怖いから嫌だと言われます。 このまま引き留めていて良いのでしょうか。 彼らの人生の選択として やめることを祝福し、応援すべきなのでしょうか。
僕は「生きる意味」を自問自答し、それを見出せませんでした。僕は僕の意志に主体性が介在しないという結論に至り、もうすぐで寿命が尽きてしまいます。どうすればいいでしょうか。 「知」の欲求が、「生」の欲求を上回り、生活を営めないがために健康を害し、身体が悲鳴を上げている。 これを自覚してなお、僕は自らの意志に主体性を見出せず、仏様から授かった寿命が尽きてしまうことを悲しいと思うことしかできません。しかもこれに対して僕はどうすることもできません。 取り急ぎ回答をお願いしたいと存じます。
先日夫が自殺しました 毎日泣いて苦しいです 立ち直れるのだろうか?と不安です 自分も後を追いたいと考えてしまいます 自殺した人は天国に行けない、成仏できないとネットや友達から言われました それはそれでかわいそうだと感じました お坊さんのお考えを聞きたいです
密教の在家信者でも悟りに至ることができるのか、質問したものです。出家者にお布施をして悟りに至るとのことですが、即身成仏の問題があります。 在家信者でもご真言を唱えれば即身成仏できるんですか?(出家者にお布施なしで)
こんにちは。 昔、芥川龍之介の書いた『蜘蛛の糸』という小説を読みました。 お釈迦様がガンダダが救おうとして結局救われないという話だったと思います。 しかし今思い返すとあの話は少し変だと思いました。 あの話ではお釈迦様は極楽浄土にいて、そこから糸を垂らしてガンダダを救おうとします。 しかし仏教では解脱したら輪廻が終わり、無に還るだけだと説いているので、浄土にお釈迦様がいるのは場違いです。 そして調べてみると極楽浄土というのは阿弥陀仏の浄土なのでお釈迦様がいるのはやはりおかしいそうです。 またお釈迦様が人を物理的に助けるというのもおかしな話です。 お釈迦様は神様ではありません。(仏教的には神さまよりも上の存在(?)) あくまで現世で弟子たちに教えを残しただけです。 この作品は日本人に誤った仏教感を植え付けていると思いませんか? もちろん作品の演出だと言えばそれまでですが、日本で古くから信仰されている宗教だからこそ日本人は仏教を正しく認識する必要があると思います。
古代人は、漢語が分かったので、あえて日本語に訳す必要がなかったそうですが、現代人にとっては、難しいと思います。本来、仏教は生きている人への教えなはずです。みんなに教えを分かりやすく伝えることが大切ではないでしょうか。お坊さまの中には意訳を取り入れている方もいらっしゃると聞いています。もっと、意訳勤行が広まればいいのに・・・と思います。 当方は、真宗大谷派の門徒です。
アイドル育成ソーシャルゲームにはまって数年が経ちました。 そして某ゲームでつい最近、自分の推しアイドルがいわゆるガチャに登場したのですが、いくら金を積めどもガチャからそのアイドルをスカウト出来ませんでした。 正直そのゲームを引退したいくらい辛いのですがまだ煩悩とわずかな希望を持ってガチャを回し続けてます。ムキになってるというのは分かるのです。もう回したくないのですがどうやって辞めるべきですか?ありがたい一言を聞きたいです。 あと煩悩を捨てきった時に彼はガチャから出てきてくれますか?
戦国時代の大河ドラマをみていました。 織田信長が比叡山を焼き討ちにした後、信長の奥さんがお坊さんをたくさん殺すなんてとんでもないと信長を激しく非難します。 しかし、信長は「比叡山の僧は酒をくらい女を抱き、夜盗のような暮らしをしている。あんなものは僧ではない」といいます。 だからと言って殺していいわけではないと思うのですが、確かにお坊さんなのに武器を持って武士を殺し、仏を敬わず酒色におぼれる。 お寺に住んでいるけれど、戒律を守らずに略奪ばかりしている。 とてもお坊さんと呼べるような人たちではありません。 もちろん時代劇ですので、面白いように脚色しているのはわかります。 しかし、現代でもお坊さんなのに悪いことをする人もいるし、権力闘争で世間を賑わす人たちもいます。 一度仏門に入ってしまえば、悪いことをした後でもお坊さんとしていられるのでしょうか。 お坊さんも僕らと同じ人間なので、誘惑に負けたり間違った判断をすることがあると思います。お坊さんが悪いことをするとどうなるのですか?悪いことをして死後地獄におちた場合、お坊さんだと仏様に近い生活をした分だけ罪が軽くなるのでしょうか?
現在代々続く和洋菓子屋の5代目として家族などでお店を営んでいます。 毎日仕事をしていても月日ばかり過ぎるだけで成果がなかなかでません。また両親との考えや、やり方が合わずになかなか気持ちが前に向きません。 考え方の違いで揉めたりもします。 僕は40歳までに今のお店を大きくしたい気持ちがあります。 仕事で成果するためには商売において目先の内容をよくする事よりも、 人間本来の気持ちの方が大切なのでしょうか? 仕事に一番必要な事は何でしょうか? 成功するためには何が必要でしょうか? チャンスはどんな人に訪れてくるのでしょうか?