幼少の時に母親から虐待をうけました。頭を殴られたり、蹴られたりしました。何年も躾だと思ってきましたが、友達に話をするうちにもしかしてあれは虐待なのかと思うようになりました。思えば、幼少の頃は母親の顔色を伺って生きていたように思います。物事の何がダメなのではなく、母親が怒りそうなことがダメなのだと思うようになりました。 虐待は暴力だけではなく、言葉で傷をつけられました。 虐待のことはなぜか、記憶を自分で強制的に思い出さないようにしてきたのか、それなのに最近は過去のことを思い出すようになってしまいました。 私は、自分のような子供を作りたくないので、結婚も子供も諦めました。 それでも、結局は最後に母親の老後は私が見るようになるでしょう。 一緒に暮らしていますから、老いていくのもわかるので、見捨てるわけにはいかないのです。頭ではわかっていますが、なんだか腑に落ちないモヤモヤした気持ちでいっぱいです。この気持ちは何とかならないのでしょうか
ゴキブリを見つけると、私はつい「うわっ!」と叫び、急いで殺虫剤を手に取ってしまいます。おそらく、多くの人が同じような反応をするでしょう。 でも、ふと考えてみると、ゴキブリを見て気持ち悪い!と思うのは人間だけではないかと気づきました。 例えば、キリンや犬やハトがゴキブリを見て、「ギャー!ゴキブリ!無理無理無理!」と大騒ぎすることはありませんよね。 そもそも、なぜ私たちはゴキブリを嫌だと感じるのでしょうか? 生理的な反応なのか、文化的な刷り込みなのでしょうか? キリンや犬も天敵に出会えば騒ぐことを考えると、もしかしてゴキブリは人間にとっての「天敵」なのでしょうか? ゴキブリに感じる嫌悪感の正体を教えてください。
ネットで宗教の議論をしました。 議論の相手は、頭を丸めていて、仏教系の大学にいたと自称し、自分が僧侶であることをほのめかしていたのですが、本当は違うらしくよくわかりません。 最初は、その人は別の方と白熱した議論をしていて、その僧侶風の人が間違った情報を述べていたので、責めるつもりもなく単純に指摘しました。 その後僕とその人で議論になりましたが、最終的に罵倒合戦になってしまいました。その人には「馬鹿しか生まれてこないと分かっているのにお前を産んだ親は間違っている」とまで言われました。しかし僕も相手の挑発に乗り無礼な言葉を使ってしまったので反省しております。 僕以外にもその人に暴言を吐かれた人が複数いて、その中の一人にこの人間と話していてもいいことはないからやめよう、そしてあなたの考えを僕は支持する、ということを述べお互い意気投合しもう議論を放り出しました。 しかし、後日その僧侶風の人との議論を読み返すと、相手の発言が事実と違うものでした。個人の見解を述べるものではなく、情報、知識レベルの議論だったので相手が間違っていると確信しました。しかもその人間の発言自体が矛盾しており、故意にデタラメを言っているとすら思いました。相手は議論より勝ち負けにこだわっていると発言しており、自分としては嘘までつかれて悲しいです。 議論は全く納得に値せず、無力感や自己嫌悪を覚えました。 宗教的立場を自称する人間にかなり厳しい発言をされたことは僕にとって衝撃的な体験となりました。 それ以来この出来事を忘れようとしているのに度々フラッシュバックしてしまいます。その原因はきっと、自尊心を傷つけられたことにあると思います。 また宗教にたいして、怖いという印象をもつようになってしまいました。これはどうしてなのかわかりません。きっと自分はかなり混乱しているんだと思います。 とても苦しいです。どうしたら宗教に対する嫌悪感を払拭し、フラッシュバックしないようになるでしょうか。 トラウマのようなものに対して、これ以外にも困惑するようなことがあります。 どうしたら精神的な安定が得られるでしょうか。 よろしくお願いします。
日本の仏教(浄土真宗を除く)は何故『肉食妻帯』が許されるのでしょうか? 浄土真宗を除く宗派は『肉食妻帯』の禁止が前提で作られていたのでは無いのですか。 肉食関して仏陀は肉食を禁止していないや三種の浄肉をおっしゃる方が多くいますが、その部分だけを引用するとそう解釈できるか分からないですけど、当時は「托鉢」や「午後の食事の禁止」が前提の話で、日本の僧は「托鉢」や「午後の食事の禁止」をしているわけではないのに、その部分だけを引用するのは如何なものでしょうか。 また中国経由の日本の仏教には関係のない話であり、仏陀は肉食を禁止されなかったという個々の考えがあるのであれば、上座部やチベット、真宗などに改宗するか新たに肉食を禁止されない宗派を開宗すべきで妻帯の禁止及び菜食主義であった既存の宗派を変える事は以ての外ではないでしょうか 私は肉食妻帯に対して反対しているのではなく、真宗以外の諸派は肉食妻帯な禁止が前提として作られているのだからそこは徹底的にして欲しいのです。 妻帯については後継者問題があるからとは言いますが、なぜそこまで出家にこだわるのに、妻帯の禁止にはこだわらないのでしょうか。出家せずとも知識ある在家としてお寺を見守る家系として生きていけばいいではありませんか。 出家しているのに妻帯だと在家とあまり違いが無いではありませんか。 これは勝手な私論ですが 末法無戒を、唱えた日蓮上人ですら肉食妻帯をしていませんよね?それは「僧が袈裟を着る事」や「人が人を殺す事はいけない事」と同じ様なもので、その当時は肉食妻帯はしないのが当然なので末法無戒には含まれないからでは無いのでしょうか。 もし政府が「僧の服の着用勝手たるべし」とでも法令出したとしても、日蓮上人は直接は言及していないが、服を着るのは当然でその上で末法無戒と言ってるなんて誰でも分かるじゃないですか。 まとめると肉食妻帯の容認を当初からしている真宗以外は、かつてと大きく肉食妻帯に対しての意識が変化しているのにも関わらず、別宗派を作らず元の宗派を名乗ったまま肉食妻帯を許しているのか。 また現在における出家と在家の違いはなんなのかです?
こんにちは この頃私はすぐ泣いてしまいます 母から買って貰った物や、家族とよく一緒に通る道やスーパーを一人で歩いたり、家族との思いでがある場所(家の中など)にいると、胸が苦しくなって、手が震えて涙がぼろぼろ落ちてくるんです。 一人になるとすぐそんな事になってしまって辛いです。 私は小学5年生ぐらいの時から、母のようなお母さんになりたいと思っていたのですが、今思うと 母のような人になりたいのでは無く、母になりたいんです 優しくて強い父と結婚して、私を生んで、数年したら妹を生んで、私と冗談を言い合って、父がゲームをしている所を私と一緒に見て、近所のスーパーに私と行って、今自分が住んでいる家で私と妹の子育てをしている母に憧れていたんです 母のようなお母さんになって新しい家庭を作るのではなく 母自身になりたいんです 今住んでる家を出て、違う家で、違う場所で、家庭を作るんだと思うと この先私は幸せになれるのか不安です ずっとこのままでいたいんです ずっとこの家で母 父 妹 おじいちゃんおばあちゃんと暮らしたいんです そんな事は出来ない事は分かっています でも苦しいんです 怖いんです これからそんな気持ちで生活するのは嫌です、でもすぐに悲しくなってしまいます 何か楽しい事をやっていると落ち着くのですが それをやめると どっとつらい気持ちになります それがもう2週間も続いています こんなネガティブで家族離れできていない自分が嫌です どうしたら、そういう事を考えないように出来るでしょうか 助けてください 死んじゃいたいです
旦那は休日になると必ず実家に帰省します。 「子供見たいって言ってるから」などと理由をつけ、一日ならまだいいのですが、必ず泊まりで、帰る日も夜8時頃に自宅に戻ります。 わたしは実家に月1帰るか帰らないかなのに、、わたしの祖母だって見たいはずなのに、、 嫁になったのだからそちらの家族も大切にしなければいけないのは分かってます。だけど自立して家庭を持ったなら、その家庭、家族を最優先にしたいし、平日は5ヶ月の娘と2人なのでなかなか普段掃除出来ない所を、旦那が休みの時に掃除したり、買い物に行ったりしたいのですが、なかなか自分の気持ちをよく伝えることができません。伝えてもそこまで聞き入ってくれるとは思えません。 嫁になったんだから我慢しなきゃ、色々良くしてもらってるのだから、と思う一方で、たまになら良いけど、なぜ毎週毎週休日に気を使ってつかれなきゃいけないんだと、気持ちを抑え、葛藤していたら、実家に帰る前日になると動悸がしたり息苦しくなったり、気持ちが落ち込んだり、自分の手首を切ったりしてとうとう鬱になってしまいました。 なぜ、すぐに実家に帰りたがるのでしょうか。 毎日気分が沈んで「また来週も行かなきゃ行けないのだろうか」とか、週末になるに連れて気分の落ち込みに拍車がかかってきます。 もう限界です。わたしの器が小さいのでしょうか。わたしはダメな嫁なのでしょうか。
お坊さんのご意見をお聞かせ下さい。 数年前に祖父が亡くなり、親戚のおばちゃんと話していた時のことです。 そのおばちゃんは、「自分自身もいつかあの世に旅立つ時が来る。その後も残った家族にしっかり見てもらいたい(供養してもらいたい)から、今しっかりとご先祖様の供養をしている」と言っていました。 それを聞いた私は、独身で結婚の予定も全くありませんし、このまま天涯孤独になる可能性もないとは言えません。なので、例え自分が独りで息絶えたとしても、「その後を姪たちに見てもらえたら・・・」「供養するという姿勢をしっかり見て覚えて欲しい」と同居こそしていませんが少しでもその姿勢を見せたいと毎朝のお仏壇にご飯を供えることを買って出ました。 もちろん母の家事を軽減させたいという理由もあります。 うっかり寝坊してしまった時や、家の別の用事をする時などは母と交代してやっています。ご飯が残っていたとしても、毎日お供えする分だけのお米を研がないといけないので、体調が優れない時は正直なところ、面倒だなと思ってしまうこともあります。ですが、私が今存在するのはご先祖様があってこそ。自分だって毎日お腹を空かせて食事をするわけなのだから、ご先祖様だって同じと言い聞かせ、今も続けています。ちゃんとやっているでしょ!と、つけ上がっているつもりは一切ありません。 もちろん、日々見守って頂いているという感謝もありますが、既にお話した通り、将来自分が生命を全うした後、残った家族に見てもらいたいという気持ちがあるのも事実です。 果たしてこれは見返りを求めているということになるのでしょうか? ちゃんと供養出来ているのか心配になってきました。 どうかご見解をお聞かせ下さい。
生きているのが辛いです。 そう言っているうちは大丈夫とも言いますが、 毎日重い気持ちを抱えまま、 たぶんこのまま辛いままなのだと思います。 子供の頃から、 阿呆なことばかりやってきました。 小さな動物を痛めつけ、 誰かに意地悪をしては やり返されて痛い思いをし、 騙して、笑って、 自分の生き方すら自分で決められず、 自分を痛めつけても変われず、 自分の親すら好きになれず、 他人も受け入れられず、 未だに弱い者に八つ当たりをし、 それらが悪い事だと 分かっていながらやめられず、 自分の感情が爆発するたび、 後悔して、痛みがまた増える。 生まれてこの方、 仲良くできたのは痛みだけでした。 幸せに笑う裏で心を削り、 いつも異常な自分をひたすら隠して、 知らぬうちに疲れていく。 疲れが爆発すればボロが出て、 また痛みが増える。 痛みも慣れると言いますが、 慣れれば慣れるほど、 異常になる自分が怖い。 大切な存在がありながら、 異常者の自分と比べてしまい、 心が地の底に落ちるのです。 今度こそ大丈夫。 と、天まで舞い上がっては、 またダメだった。 と、地の底まで落とされる。 泣いて笑っての繰り返し。 それが人生というものでしょうか? 普通の人ならばそうでしょう。 ですが異常者は異常のまんま。 普通のそれとは違うのです。 痛みと仲良しこよしで、 めまぐるしく上がり下がりを繰り返す。 毎日生きれば生きるほど、 普通の型にはまれず、 型からはみ出た部分は千切れます。 千切れておさらばかと思いきや、 ふとした隙に異常に戻っている。 千切れるたびに痛いのに、 たぶんこの先ずっと普通にはなれないまんま。 痛みをかかえ生きてゆき、 自分の気持ちすら、 騙して、笑って、 いつも自分のことすらわからないまんま、 痛みが増えるたび、 抱える記憶も重くなる。 今日も舞い上がって、 落とされて、 千切れて、 なんと、まぁ、愉快な事でしょう。 けれど、私の異常さで迷惑をかければ、 実際の被害も洒落にならない。 これ以上重くならないうちに、 やはり死んでしまおうかと思いますが、 死後に起きるだろう家族のいざこざや、 しがらみ、 トラブル、 それらを考えると死ねないまんま。 生きるのが辛いまんま。 (読みにくい長文でごめんなさい。)
畜生道に行ったとし、犬猫になったとしたら、お盆に帰るとされるのは空想上のは犬猫ですか?現実世界の犬猫は、なんなのですか。人と畜生は、現実世界に存在するので、二層空間の世界観なのですか?
初めまして。 夫、4歳の息子がおり、現在妊娠5ヶ月です。恐らく傍から見たら何不自由無く幸せに見える家庭ですが、だからこそ、私の存在が邪魔に思えて仕方ありません。 周りが気に入らずイライラする自分、失敗する自分が大嫌いで、自分の存在を否定することが辞められません。また、「ママのこと嫌いでいいからね」等とわざと息子に言い聞かせてしまいます。 夫は家事育児を手伝ってくれるし、息子は良く食べ良く遊ぶ健康な子です。しかし夫の家事育児のちょっとしたやり方が気に入らなかったり、息子の行動(食事の仕方やテレビの時間、片付け等)について常に口煩く、笑顔でいるより不機嫌でいる時間の方が遥かに多いです。子供だから仕方ないことも分かっているのに、優しく接する方法を選べなくなっている自分に気付きます。 他人には完璧主義のような要求をするくせに自分は落ち度だらけで、失敗をする度、また息子を叱りつけたりする度に、私の存在がいけなかった、私が母親になってはいけなかったんだと、わざと息子に言い聞かせてしまいます。 子育てについて、正論なのだろうけどあるべき姿が強すぎて自分を苦しめている、と夫には良く言われます。分かってはいるのですが、その枠を外したとき、自分がルーズになりすぎたり、子どもに悪影響があるのではと考えてしまいます。 少しリフレッシュしたとしてもまたすぐ戻り、不機嫌・叱る↔自己嫌悪・存在否定の繰り返しです。 一番懸念しているのは、息子への悪影響です。母親がイライラしているのは自分のせいだと思い始めている様で、私の機嫌を取ることが多々あります。自分の存在価値を母親に求めるのが幼児ですから、それが満たされないと自己肯定感が低く育ってしまうことも分かっています。私のイライラは叱ってしまう自分に対してなのに、息子が不憫に思えてなりません。改めて、私が母親でなければ良かったのに…と、存在を否定したくなる日々が続いています。 息子はこんな私のことが大好きで、普段からべったりです(恐らく離れていってしまうかもという不安も強い様に思います)。私がいなくなることがこの子にとって一番の恐怖であることも分かっています。勿論夫や両親にも迷惑かけますし。。一つ願いが叶うとすれば存在を無かったことにしたいのですが、それが叶わぬ今、こんな母親の人間性を今一度戒めて下さい。 長文失礼いたしました。
悟りとは何ですか? 本当にあるんですか?証明できますか? なんで釈迦の時代以降ずっと悟った人が出ていないんですか? ずっと悟った人が出ていないのは伝わった修行法に欠陥があったためとは考えませんか? 悟りはキリスト教の死後の世界のような鼻先に吊るされた架空の餌ですか? なぜ悟ってないのに人に指導するのですか?知らないことを人に教えるのは間違いを産む原因を作ってると思いませんか?まずは確実に悟ってから人に教えた方がいいのでは?
旦那と犬の躾について価値観の違いが生じています。 犬が悪さをすると、毛をつかみキャンと言わせました(2回) やめて欲しいと言うと 躾 と言われました。 そういう暴力を躾と言うのはおかしいと言いましたが、 加減をしているし骨が折れるわけじゃない などと言われ反省もしていないそうです。 どう言ったらおかしい考え方だと分かって貰えるでしょうか?
職場でゴミ見たいな態度の人がいます。 他者への尊敬がない、格下だと思うと見下す、自己利益しか考えない、ズル、攻撃的。 サイコパシーが高いというか人を適当にあしらって、心のうちにある攻撃性で他者を否定する人が何処にでもいます。 サイコパス研究ではサイコパスでなくても他人を攻撃して悦に浸る人は統計上とても潜在してるようです。 そしてその人達は自分は何も悪い事をしてないとヘラヘラしていて感情や他者の尊重といった概念がありません。あくまで相手が悪い。 相手がどう苦しんでも笑い、見下し、どうでも良いかのように扱う。 本当に苦しんでる人をバカにする。 死者をバカにする、貧しい国の人たちをバカにする。 バカにしたサイコパス達には何の被害もこない。 バカにしたらストレス解消ができるのでサイコパス達にはメリットがある。 学校でも教師という生徒からしたら絶対的な人達が正義だと良い理不尽な対応をしていました。 そんな人達から攻撃されたら、相手はヘラヘラしています。 アフリカ人を土人とバカにしたら、可哀想な人や不幸な人や貧困な人を見たら自業自得プププみたいな感じ。 事故で死んだ人がいたら爆笑してSNSにあげたり。 それらの憎しみや、世の中のやるせなさってのは仏教的にはどう対処してるのですか? 私は怨みに対しては実際に反撃するしかないのでは?と思います。目には目よというか。 でも殴る事はできないし、反論してもヘラヘラしてるだけです。 例えば教師に反論しても負けるのは生徒でしょう。 その理不尽さを受け入れるしかないのですか? 世の中強い者は攻撃したままで弱い者はそれを受け入れるしかないのですか?
私は小・中学時代にいじめに遭っていました。集団でからかわれたり、お金を取られたり、殴る蹴るの暴行を受けたりして、非常に辛かった覚えがあります。 もう済んだ話なのですが、25年経った今でも、当時のことを頻繁に夢に観て、うなされてしまい、苦しいです。また、自分の子供が同じ目に合うのではないかと、常に必要以上に心配してしまうのです。 そのせいか、すっかり人付き合いが苦手になって、暗い性格になってしまいました。 SNSで当時の同級生たちの幸せそうな顔を見ると、怒りがこみあげ、不幸になればいいのにとも思います。 こういう自分が嫌いで、何度も克服しようとしてきましたが、やはりトラウマから脱することができません。 どうすれば、過去の自分と決別できるのでしょうか…
どんなに理不尽だったりおかしなことが挟まっていたとしても、それでも自分が嫌な気持ちになったことだけは事実で、だけど、相手はその理不尽な所に腹が立っていたら、こちら側がもう悔しかったり悲しかったりした感情はなかったことにしなければいけませんか? 普段、友人や姉妹に対しては、感嘆されるほどに気が長くて、怒ることは滅多にありません。だけど、彼に対してだけは、自分でもどうしてこんなに、ただ箸が転んだ程度の些細なことでも不機嫌なのを押さえ込めないのか全然わかりません。ほんの少し寂しく感じたり悲しく感じたら、相手がその何倍負の感情を背負っていたとしても、どうしても譲れません。そしてなにより、ごめんなさいという言葉を言おうとしたら、喉の奥が詰まったような感覚になって、頭では言おうとしているのにどうしても言えません。小さい頃から、叱られることが怖くて、謝罪の前にまず言い訳とか弁明することに必死な正確でした。24歳にもなって、未だに親が怖くて、多少嘘をついてでも言い逃れようとしてしまいます。そういった育ち方が災いしてか、私はごめんなさいという言葉が本当に言えません。言いたいと思っていても頭が真っ白になってしまって、沈黙を1時間でも貫いてしまいます。 もう、質問の趣旨がなんなのかもわからないですが、こんな毎日に疲れてしまいました。 どうしてこんなにわけのわからないことでイラッとしちゃうんだろう。しょうもないことなのに譲れなくて楽しかった日をめちゃくちゃにしちゃうんだろう。けど、それと同時に、どうして私が寂しいこと、腹が立ってしまうこと、わかってくれないんだろう。いろんな感情が混ざりあって、頭がパンクしそうになります。そういう時の私が選択する道もめちゃくちゃで、後から考えるとなんであの程度のことでそこまで思ってしまったかわからない選択をしてしまいます。私は頭の中に欠陥があるのでしょうか?本当に疲れてしまって、お休みしたいです。
私には物心ついた時からずっと謎めいていることがあります。 それは、物心ついた時から悪いことばかり考えていたことです。 例えば、人が傷つくことをわざと言ったり、わざと怒ったり。お店に行くと『万引きしたらどうなるんだろう』と考えたり。 幼稚園や小学校低学年までは、仲良しな友達の物を盗んでは返す、ということをしてました。 小学生の時に自転車に乗っていた時、近くを歩いてるおじさんにわざとぶつかってみたり。 小学生の時は人と喧嘩するのが楽しくて、わざと友達に怒って口論する状況を作り出しました。 また、仲良くしてくれる友達を順番にいじめては仲直りする、ってことをしていました。 しかし、はっきり言えるのは、どれも好奇心でしていて、嫌われたくてしていたわけではありません。相手の反応を見たくてしていました。 盗んだのも、欲しくて盗んだんじゃないし、ちゃんと返すつもりで盗むのです。 人間関係においても同じです。 人が嫌な想いになる言葉をすぐ思いつき、わざと言ってました。 はっきり言うほうが相手のためだと思っていた面もあるし、傷つく姿を見たかった自分もいるのです。 大人になるにつれて、わざと傷つけることはしなくなりましたが、この歳になっても無意識に人を傷つける言葉を発しているみたいで、人が離れていきます。 自分では、どの言葉が人を傷つけるのかが本当に分からないのです。 私に関わる人何人かから注意されることもあったけれど、治らないんです。 自分は傷つけるつもりで話してないからです。 振り返ると後悔ばかりの人生です。 もう『傷つけたい』『争いたい』っていう想いをもたず、『私は人を幸せにすることができる』と心にとめて生きていこうと決めました。 しかし、どうして私は物心ついた時から悪いことばかり考えていたのでしょうか? こういう私みたいな人は前世とかで何かあったんですか? どうして争いが好きな子として産まれたのですか? これから争わないように生きていくことはできます。 しかし、私は自分の心の中で『人を傷つけてやりたい』という想いがあったこと自体が嫌なのです。しかも幼少期にです。 ちなみに、親は大事に愛情を持って育ててくれています。 なのにどうしてこんな想いがあるのでしょうか?
3年半ぶりに質問します。 私は学校に行かなくなってからずっとニートです。 小学校後半くらいから不登校になり、何度か保健室登校をしましたがその後また卒業式の日まで行かず、中学も1年生のほぼ最初のうちに行かなくなりました。 高校は勿論受験していませんので、行っていません。 それからほぼ引きこもり生活をし、2度目の友達の文化祭も結局行けず、特に何も変わらないニートの日々を送ってきました。 ついにその子とは誕生日にしか連絡をとらなくなったり……ネ友も話せる人がいつの間にか居なくなっていて少なかったり。 もう11日で 20歳 になるにも関わらず、ずっとYouTube(主にゲーム実況)を見たりゲームしたり、ほぼ寝ています。 丸一日寝てしまう時もあります。 風呂も面倒くさくて1年丸々入らなかった時もあったり、何ヶ月かに1回しか入りません。最近は歯医者に行っているので次の予約までの間に1度は入ってはいますが… 去年は1年間、本当に外に出ませんでした。 もう20になるし…変わろう、変わらなきゃ!と思っても恥ずかしいという思いが勝ってしまい、結局変われず何も出来ないままです。 うちは片親でそんな稼げてる訳でもないので、私が働かないとキツくなって来ています。 母親は、親にお金を借りたり、普通にやっている仕事とは違う稼ぎを他にしています。 このままニートでいる訳にも行かないので、しっかりと生活して働こう!と思っていても、やはり普通の生活が送れずに昼夜逆転したり戻ったりを繰り返しています。 当然、早く免許取ってくれ・働いてくれと親達から言われます。 自分の事・これからについても、人間関係も、どうしたらいいか分かりません。 どうしたらニートではない普通の生活が出来るのでしょうか。 文章を考えるのがとても下手なので分かりにくいかもしれませんが、よければ回答宜しくお願いします。
はじめまして。お忙しい中、この質問を見てくださってありがとうございます。 表題の通り、「なぜ死ぬことが悪いのか」ということを教えて頂きたいです。 決して、今から死ぬということではありません。ただ、「いつ死のうかな。早く死にたいな」と思って生きています。思い上がりかもしれませんが、私が死んで悲しんでくれる婚約者や姉兄がいるのは知っています。それでもどうしても死ぬことを考えてしまいます。考えないように「命は尊い」と思い込もうとするのですが、イマイチぴんときません。 私が初めて死のうと思ったのは5歳の時でした。物心ついた時から両親の怒鳴り声の絶えない家庭でした。親のことはあまり思い出せませんが(理由はプロフィールに簡単に記載しております)、父親は私が言うことをきかないと決まって「じゃあお父さん今から死ぬわ。お前が言うこと聞かないから死ぬ。お前のせいで死ぬ」と目の前で自分の首を絞める振りをしたりしていました。幼稚園に入るか入らないかくらいの年齢だった私は、本能的に「死ぬ」ということがとても怖いことだと思って泣きながら謝っていました。 そのせいなのか、気付いたら私の中の「命の価値」は相手に言うことをきかせるためのトレード品程度になってしまいました。 5歳の時に死のうと思ったのは確か、家族の誰かと喧嘩をしたので自分の言うことをきかせるためだったと思います。そして少しばかり「お前のせいで私が死ぬんだぞ、責任を感じろよ」と思っていました。 大人になった今でも、どうしてもわかりません。「神から授かった命」とか「地球より重い」とか言われても全く頷けないのです。自分の命は交渉材料でしかありません。私が今死んでいないのは今まで自殺に失敗してしまった経験から二の足を踏んでいるためです。「生きたい」と思えません。死にたいとこぼすとそんなこと言うな!と頭ごなしに叱られますが、結局どうして死ぬことは悪いのでしょうか? 自分なりに考えても答えが出なかったので、皆様のお考えをご教授いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
私は、虐待を受けて育ち、眼のガンと闘い視力障害を持ちました。社会生活には支障なくお仕事をしてますが、この事実をお話しすれば、遠退いて行きます。 私が、何かいけない事をし神様を怒らして私を幸せに導いてはくれないのでしょうか? 私は、虐待を受けて自殺まで考え、誰からも私は、愛されないのでしょうか? 私は、何の為に産まれて来たのでしょうか? 私は、誰かさえ分かりません。 私は、どうして生きているのか分かりません。 私は、笑い方も泣き方も知りません。 知っているのは、愛されない悲しさと振り向いてもらえないさみしさと絶望だけです。 知りたいです。私は、何の為に産まれて来たのか知りたいです。 助けてと叫んでも叫んでも誰も助けてくれなかった。 私は、誰なのでしょう? 教えて下さい
今、父親と母親と自分の三人で生活しています。 私は、母親が40前半、父親が30後半の時できた子供です。 幼い頃から、母親が暴力を振るわれ、怒鳴られている姿を見続けています。 結婚当初から、続いているらしいのですが、 父親は離婚することを決して許しません。母親も、できるだけ逃げようとしていましたが、 なかなかうまくいかず、今もギクシャクしながら生活してます。 母親が教えてくれたのですが、私を妊娠したとわかった時、 父親は、「おろせ」「勝手に作りあがって」「こどもなんかいらない」 と暴力を振るいいていたそうです。 ずっと、母親の居心地のために、 父親のご機嫌取りを物心のついた頃からしているのですが、 正直、顔を直視できないほど父親が苦手です。 恐怖の塊に見えます。 しかし、父親はそのことを露知らず。 また、母親を怒鳴っていたことが、私にとってどれだけ恐怖だったかを知らず、 私のことを”大切”に思っているというのです。 年を追う毎にこの父親と私の認識の違いに耐えられなくなってきました。 両親とも年を取り、落ち着いてきているのですが、 私の気持ちだけが取り残されてしまっている感じで、 父親の顔も姿も視野に入れたくないです。 長い文章になってしまいましたが、ただ、まだ、自分がお子様だから、 父親を見ることができないのか、改善策があるのかどうか、教えていただきたいです。