少し前までは天国や極楽浄土があるのが死後だと思ってましたが身内の死以降そう思えなくなりました。死ねば骨になり土に帰りそれでおわり。 天国や極楽浄土の世界はどの宗教にも共通してあり古代エジプトでは来世で甦るための肉体が必要だからミイラにし復活をするという概念がありました。でもそれはすべて現世の人が作ったもので実際みたわけではありません、臨死体験などの話もありますが夢なのか区別がつきづらく天国や極楽浄土が垣間見れていい死後世界だったという話はきいたことがありません。 霊柩車内部にも極楽浄土の絵が描かれ死者が三途の川を渡れるように六文銭をもたせたりする風習があります。ただそれもすべて現世の人が作ったもので実際そうかは誰もわかりません。 身内がなくなり何年もたち、やはり死んだらこの世から存在がきえ手元に骨が残され、墓という形あるものに集約され彼岸に墓参りするという残された現世の人のためで、墓も遺骨をいれる場所としか思えなくなりました。 位牌は魂いれをしますが私にはただの板にしか思えず遺骨だけか故人そのものでその先の死後世界は今まではあるように思えたけどそれは無いのだなとしか思えません。身内を亡くすと死がどういうものかよくわかります、人がいなくなるというのがどいうことかが。なので現世にいる時がすべてて誰もみたことない死後世界は存在するとはもう思えません。 広い世の中、少なからずにたような考えもった人はいるでしょうが誰にでもできる話じゃないので周りに同じ考えの人がいるかきける時があればきいてみたいです。
いつもお世話になっております。 また新たな疑問がありまして、質問させていただきます。ご回答、アドバイスを頂ければ幸いに思います。 私の家は浄土真宗なのですが、なぜ浄土真宗では 南無阿弥陀仏とお念仏を唱えなければならないのでしょうか? 死後にお浄土に生まれさせて頂くため? 今現在の悩みや苦しみを解決して頂くため? まだまだ40代と若く?自分が死ぬことがなかなか実感として沸いてこない年代なのですが、 どういった心持ちで日々南無阿弥陀仏のお念仏を唱えていけばよいのでしょうか? 良きアドバイスを頂ければ幸いに思います。よろしくお願いいたします。
自分の能力では、自分の望む生き方はできなさそうです 自分以外の人に生まれたかった。努力したらした分だけ、他の人より成果を得たかった でも自分は能無しなので努力しても無理です もう死にたいです
こんにちは、宜しくおねがいします。 生き方について悩みが多く、暴れる心をなんとか鎮めたいと最近、 浄土真宗の聞法に通っています。 随分昔に死んだ明治生まれの祖母を思い出したからです。彼女は封建的な夫に黙々と仕え、息子に戦死されても、一人娘に急死されても、毎日の日課を黙って静かにこなし、仏壇になんまんだを唱え、老いては子に従い、右を向いていろといわれれば右を向き、左を向いていろといわれれば左を向いているような、大切にはされていたのでしょうが全く存在感のない祖母でした。無口で静かでしたから声も覚えていないのです。すっかり忘れていたのです。 ところが、自分も老境に入り、しかしいまだ心穏やかならず、怒りや貪りに振り回され苦しむ有様で、あの諦観したのか、または阿弥陀様にお任せしきったのかのような祖母の姿が私を聞法に向かわせました。 しかしこの身はしぶとく、聞法をいただいている間は少しは素直な気持ちになるのですが、それもなが続きしません。 第一、近代教育を受けた私には、「はからいを捨て、お任せする」のは難しいです。はからうことばかりを目指し、学び、訓練してきたのですから。もしかすると、もっと死が近づいたら少しはそんな気持ちが持てるのかもしれませんが・・・ ただ、三木清が言うように「自分は最後は親上人の言葉どうり、あの世で懐かしい人たちに会えることを信じている」のは私も同じです。 問題はあの世のことでなく、日々の生活で心配や怒りや嘆きに振り回されることです。 そんな私が禅宗の教えで行住坐臥を整えることや、禅の言葉に従うことで、少しは苦しみから離れられるように思うことがあります。 子供のころ永平寺を訪れて、「こんな風に生きている人もいるのだ」とショックを受けたことから大人になって、禅林句集や道元禅師を読むようになりました。指針になります。 阿弥陀様にお任せできない私が曹洞宗に頼るのはいけませんか? 浄土真宗では一筋でないといけないと聞きます。お任せしきらないといけないと聞きます。浄土真宗と曹洞宗の二股みたいで罪悪感があります。 迷える私にお言葉をいただきたいです。 宜しくおねがいします。 とんぼ
北朝鮮情勢が緊迫し、アメリカが日本海に空母を送り込んだあたりから「自分は近いうち死んでしまうのではないか?」と思うようになってしまいました。 戦争に対する恐怖感は、ここで他の方の質問の回答を見てだいぶ無くなりましたが、(といっても北朝鮮に加え中国や韓国も怖いですが) 最近、調べ物をしてたら「死海文書によると2018年に人類滅亡」とか、今年とそれ以降の人類滅亡に関する予言とか、そういった予言の記事を偶然発見し見てしまい、最近はそっちの方に恐怖感を抱いています。 ノストラダムスの予言の後に生まれたので、ノストラダムスに関してはあまり知りませんが、2012年のマヤ文明の予言にはすごくビビっていた記憶があります。 そういった記事を見てしまったおかげで、頭の中で終末の時の感じとかを想像してしまったりして怯えたり、「今すぐ世界の終わりが来たらどうしよう」などといったことを四六時中考えてしまったりするようになって体調がさらに悪化し、この間主治医に相談して精神安定剤もまた飲み始めましたが、それでもこの胸の気持ち悪さは治りません。主治医の先生には環境が変わって気が張ってるのかな?って言われましたが、そうでもない気もします。 「まだ見たい景色や、やりたい事も沢山あるのに、若いうちに死にたくない!そういった予言怖いわ!そんな全人類が一斉に死ぬなら戦争で死んだ方がまだマシ!だけど戦争も怖い!」って思うのと、今までの人生ろくなことがなかった自分の母親の人生についに光が射し始めているというのに、こんな予言に振り回されたり恐怖感を持ち体調を思いっきり崩したりして母親を振り回している自分が恥ずかしいです。 一日でも長く生き延びるために、この負のスパイラルから抜け出したいです。 長文乱文失礼しました。
よく回転寿司に行くのでそこで気づいたことを質問です。 煩悩とは何でしょうか。 『煩悩とは苦(ドゥッカ)である』 では終わるので少し掘り下げてみたいのですが、『欲』は生存に必要なものでこれを満たさないと自分の身体の生命維持ができないもの、として『食欲』『睡眠欲』などの根本欲は煩悩ではないと仮定します。 これはブッダも否定しませんでした(否定したら弟子ができる前に死んでた。睡眠不足で目が潰れた弟子もいる)。 次に『渇愛』ですが、これは自身の生命維持には必要でない『性欲』や喜怒哀楽(動物がもっている感情)と慈悲喜捨(善行)などの心(想い)に付随するものだと考えております。 最初は『渇愛』の中に『欲』も入れていたのですが、分けて考えないと生存と平穏はないなと思うようになりました。 では、『煩悩』とは何かというところになってくるのですが、『欲』や『渇愛』に『執着』がくっ付いたものではないかなと思います。 そして煩悩はそれぞれ『貪』『瞋』『痴』に分かれる。 『執着』だけではそれに寄生にする宿主(欲or渇愛)が無ければ『煩悩』にはならない。ただ、執着は一切のものにくっつく可能性があり、一切は煩悩になりえるのではと考えています。 つまり煩悩とはいかに執着を持たないかというところにあるのかなと思うようになりました。 ここで冒頭の回転寿司の話になるのですが、 1.凄くお腹が空いたから食事をしに外に行った。回転寿司を見つけたから入って適度に食べた。 2.すごくお腹が空いたから外に出た。どうしても回転寿司が食べたかったから回転寿司を適度に食べた。 1番は食欲を満たすだけなので煩悩ではなく、2番は食欲に執着がついているので煩悩である。 同じ例えで、 1.ボランティアで被災地に救援物資を送った。 2.ボランティアで被災地に救援物資を送ったが、力足らずだと思って悲しんだ。 どちらも大悲によって行った行為ですが、2番目は足りないという執着が生じているので煩悩である。 出家者は小欲知足と、渇愛のうち動物がもっている感情を滅し、慈悲喜捨に執着が付かないようにし心を乱されることなく過ごし、在家者は欲や渇愛は滅する必要はないが執着が付かないようにする。 ちなみに、十二縁起が全く理解できなかったので、四諦と八正道から経験を踏まえて考えてみました。 アドヴァイスをお願い致します。
こんにちは。 初めて質問します。 私は、いろんなことがよく頭の中で渦巻いて、ごちゃごちゃしています。 ”空”にすることはとても難しいです。 6、7年前に自律神経系を著しく崩して、死がそこまで来るほどに患いました。 いろんな人たちの援助やさまざまな治療方法で、細かい不調はありながらも何とか今、生活できています。 生きていることの毎日が修行のようですが、頭(心や魂でしょうか)の部分で、改善はしていますがどうしても”何か”を越えられません。 現在、私にはもう仏教修行の道しかないのか、或いはその道が最適、ぐらいの考えにあります。 インターネットでいろいろ調べましたが、そのうちに宗派や修行内容など、考えると訳がわからなくなってきました。 (修行体験として出てくるのは限られている気もします。) 身体面で、厳しい修行(横になってはいけない、断食、極寒でひたすら立ち尽くす、1000日歩き続ける、など...)に耐えられるのかどうか不安です。また、死ぬような思いをするのかな、と。 わたしにとっては、その部分の修行は1度やった、ぐらいの感覚であるほど苦しかったんです。(修行を軽く捉えてるわけではありません) 無理ならば、健康でなければ出家はできないということになってしまうのでしょうか。 このような状況や、修行の内容と宗旨のバランスを、自分に当てはめてみたとき、何を選べばいいかわからないです。 このような私に、ご教授よろしくお願いします。 長文、お読みくださり、ありがとうございました。
こちらで戒名を載せていいものか悩みましたが、どなたかアドバイス頂けますでしょうか。 先日、最愛の実母が亡くなりました。長い長い闘病生活、長くはない命と分かっていながらも素直になれず困らせたり、もっと何かをしてあげればよかった、の後悔ばかりの日々を送っています。 私達(姉がいます)に父親はいません。母の葬儀が人生初の葬儀(幼少期に祖母がなくなりましたが記憶に薄いです)となり、姉が喪主となり2人で右も左も分からないまま、ただ母の旅立ちをしっかりととの思いで通夜告別式を執り行いました。 準備段階での事です。母に戒名を頂くために、母の両親を連れ、ご先祖様のお墓のあるお寺の住職さんに戒名のお願いしました。しかし、住職さんはお年を召してるのか全くこちらの話を聞いて下さらず、ただただ同じ事を繰り返し言うのみ。遠方だったので、一度戒名をつけて頂きたいと電話で伝えた際に姉がうまく伝わっていないと思う、と言うので心配になりいざ出向いてみるとすでに戒名が決まっていました。電話で伝えたのは名前と歳のみです。 私達はお恥ずかしながらあまり知識がなくネットなどで調べるのが精一杯です。戒名とは、俗名から一字、人柄から一字、というのは間違った情報でしょうか? 母の戒名は、瑞雲蓮花妙○○大姉霊位、です。○○の部分には母の俗名がそのまま入っています。意味を伺っても、読み方しか教えてくれず、母の両親に訴えても、もう決まったみたいだから、と。 もちろん、頂いた戒名に不満があるわけではありません。ただ、人柄なくして戒名がつくのか、どういった意味合いなのかが知りたくて投稿させて頂きました。 よろしくお願いします。
ずっと心に気になっていることがあり、お伺いします。よろしくお願いします。28年前に結婚し、マンションに野良猫がよく来ていたので、餌を与えていました。離れているぶんには逃げないのですが、手を出すと逃げていくような関係でした。でもある日、とても雨がひどい日のことでしたが、その猫が具合が悪いのか濡れそぼってやって来て、部屋に入りたがりました。今まではいくらこちらから近寄っていってもさっと逃げて行っていたのに、猫のほうから部屋に入れてと言うように鳴きながらやって来ました。私は長女を妊娠中で、お腹の子への影響を気にして(猫が持っている菌による奇形)可哀想と思いながらも入れてあげませんでした。猫はしばらく鳴いていましたが、どこかへ行ってしまいました。いくらお腹の子への影響が心配とはいえ、ひどいことをしてしまったと、この時のことが心から離れません。思い出すと、心が痛く、自責の念から逃れられません。長女はトラブルメーカーで何かと心配事を次から次へと起こし、実家を離れて一人暮らしをしている妹も姉の愚痴を聞くの嫌だから帰って来たくないと言います。長女がこのようなのは、あの時助けを求めていた猫を見捨てた報いなのでしょうか?
数年前に得度をさせて頂いて週末、お寺でお経などの勉強をしてたのですが兄弟子達が、だらしなく嘘・ごまかしばかりして住職(師匠)に隠し事ばかりして 結局…バレて怒られる事を何度も何度も繰り返し全体責任で私も毎回怒られれ、余りにも兄弟子達を見てるとバカバカしく思えてお寺に行くのも嫌になり 住職(師匠)に辞めさせて欲しいと言ってお寺を後にしました が師匠には恩も有るから何かさせて欲しいと言う気持ちは、有るのですが こんな兄弟子達が居てると思うと又…一緒に怒られると思うとアホらしく思うのです、兄弟子達は某大学や某高校(仏教系)卒業した人たちです、学校で誤魔化す事を教わって来たのかと思えて仕方ないです。 得度を受けたら他のお寺で勉強する事は無理なんでしょうか?
同棲して2年になる恋人がおります。 付き合いだしてから、彼の名前を一度も呼べないことに悩んでいます。 彼にいくつかあだ名を提案しましたが、結局は「呼ばれたことないのでしっくりこない」とやんわり拒否され、前妻・元彼女さんに呼ばれていたあだ名でしか返事をしにくい とのことです。 その言葉で私のほうは落胆してしまい、なかなか私から名前を呼ぶ気持ちにもなれず「ちょっと」「ねえ」などなど、ごまかし続けています。 私に対しては下の名前で呼んでもらっておりますが、彼の名前は発音し難いです。 今も上記の気持ちでいるのかはわかりませんが「いつになったら名前を呼んでくれるのか」と急かされています。 それ以外は、本当に仲良くしているのですが…。 やはり名前を呼べない不便も感じております。 軽い気持ちで呼んでみればいいことは頭で分かるのですが、喉まで出かかって、声が出なくなります。 この気持ちをあと一歩進められるよう、皆さまのお智慧をお借りしたいです。 ふと思ったのですが 仏教では「名前を呼ぶ」という行為にどのような意味があるのでしょうか…。
父は次男で最近は、親戚とも疎遠になっってきています。私もバツイチで子供もいないので将来のことも考え永代供養納骨堂を契約しました。 永代供養は宗旨・宗派を問わないとの事ですが、供養に関しての読経は真言宗とのことです。私の父の実家(本家)臨済宗です。こう言う場合、お葬式は臨済宗・真言宗どちたにするべきでしょうか? 永代供養のお寺(高徳院)にお聞きしたところ、改宗しても問題ないとのことですし改宗した方が良いのでしょうか
僕は中学生で、興味のある職業について調べています。 僕が選んだ職業は、趣味の仏像鑑賞にも精通する僧侶です。 質問の内容なのですが ・仕事内容 ・その職業に就くためにどうすればよいか ・仕事中に心がけていること ・その仕事をしていてやりがいを感じるとき この質問に答えていただけないでしょうか。宗派や、寺院によって変わることは、承知しております。 答えづらい質問は無視していただいて結構です。 よろしくお願いします。
外敵の脅威に晒されず、田畑をのんびり耕し、子どもは伸び伸び育ち、ご近所さんや家族仲間と笑いあい、物々交換しあっていた日の差す日本が羨ましい。 もうその頃の善意良心、温かみだけで成り立っていた世には戻れない。 「安楽死」の言葉、なんて魅力的。「安楽」が布団の中でぬくぬくすやすや眠るイメージ。 しかしやる事は自殺。それも他人様に殺人の罪を被せるわけだから制度として確立されるわけがない。 死ぬのは怖い。それでも知りたいのは自分の死期。委託殺人があった、制度が出来たら死ななきゃダメなの?みたいなクソ漫画もあった、海外と日本の考えが全く違うのも分かる。 希望は内側から開けられない、逃げられないカプセルの中に入り、瞬殺するガスのボタンを自らの手で押す。処理だけはお願いしておく。これが理想、これなら誰も悪くない。 自分の死期はここまでって選択として握っていたい。安楽死制度がもし出来たら私の守りになる。今より熱がきっともてる。明確なそこで死ぬというゴールが欲しい。 某占い師ばりに寿命を断言してほしい。 死期の知り方を教えてください。
抽象的なタイトルで申し訳ありません。 いつもお世話になっております。 ついこの間、戦場でジャーナリストをしておられる方のお話を聞く機会がありました。その方はさまざまな紛争、内戦地域に行っておられ、そこに住む家族の写真や子どもたちの写真を撮り、私たちに見せてくださいました。 お話を聞いてとても衝撃を受けました。言葉では知っていた戦争というものが本当に今も起こっている地域があることが辛く、そんなことも気にせず今までのうのうと生きてきた私がなんとも残酷な醜い生き物に思えました。お話を聞いて、自分がどれだけ恵まれていたか改めて気付きました。 何か少しでも世界から戦争を減らすために行動を起こしたいです。お寺さん方に質問するのは少し違うかもとは思いましたが、私は世界の平和のためになにをしたらいいと思いますか。募金などは見かけたらやっていこうと思いますが、なにせ世界のことは壮大すぎて難しいと感じます。どうかご意見をお聞かせください。
生きながらえている、とは書きましたが大病をしたわけではありません。 ただ、この死因にあふれた世の中で運よく日々を生きてこれてしまったわけですが、いつまでものらりくらりと生きていていいものか疑問に思います。 なぜこのように考えるようになったか順を追いますと、私は昔から他人の期待に添うように行動してきました。 親や学校の先生、友達、赤の他人… そうしているうちに、突然、「私ってなんだ?」という疑問が降ってきたのです 「いい子だね」という言葉に惑わされ、へらへら笑っているうちに本来の自分をどこかにおいてきたのではないか? そのことに気づいてからはちょいちょい心の健康を損ないました。 いくら疑問を抱いても、長年しみついてしまった「いい子であること」はそうそうやめられません。 何度か死にたいと思うこともありました、そのたびに「実際そんなに死にたくないな」と思って先延ばしにしていました。 直近のことです、就活が始まる年なので、インターンシップなどを調べていた時のことでした。 「働いてまで、お金を得てまでしたいことってなくないか?」 ということに気が付いてしまったのです。 これまで、つらいことがあったら「あと○年頑張れば自分でお金が稼げる」と思って心の支えにしてきたのですが、よくよく考えてしたいことって? そもそも今も研究室に朝から晩まで拘束されてほかのことなんてろくにできず いつキレるかもわからない教授たちにおびえ、六に教えてもらえないまま実験をし… 書いていておなかが痛くなってきたので尻切れとんぼになりますが、私はどのように考え方を改めたら、どのように日々を受け止めるようにしたらいいのでしょうか。 まとまらない長い文章をすみません、よろしくおねがいします。
生きていく指針を探しているうちに仏教が合うのではないかと思うようになりました。 大学がキリスト教という事もあり、キリスト教の宗派だけでなく、イスラム教や神道も調べてみましたが、自分の考え方とは異なる印象があります。 キリスト教の一宗派であるプロテスタントの勤勉さやキリスト教全体が持つ他者との共存や無償の奉仕には同意するのですが、自然に対して人間優位的な部分も見られるので、研究対象にはできるのですが、生きていく指針として合いません。 そういった経路もあり、仏教に重きを置くようになりました。そこで、仏教の宗派を調べています。私が持つそれぞれの宗派についてですが、法相宗の色々な修行がある事には同意するのですが、『この世の物は自分が作り出したものである』という暴力的な印象を受け、日蓮宗や密教、浄土真宗、浄土宗はただ念仏を唱えているだけ、そして禅系は座っているだけという印象を持っています。 私自身は、自分の心身を持って他者に貢献しながらも、修行をする事で悟りは開けるものだと考えています。また寺などのいわゆる(適切ではないですが)宗教施設にいるのではなく、浮世に属しながら伝えていくのが伝道だと考えており生き方にしたいです。 伝えられていないとは思いますが、教えを下さい。
初めまして。中学3年生、受験生です。 勉強、入学、就職と進んで行っても、 結局「死」にたどり着くと思うと脱力感がぬけません。 動物たちを見ていても 別の魂に生まれ変わるのだと信じられないのです。 日々どんなふうに過ごしてゆけばいいのでしょうか。
はじめて質問します。こんにちは! 早速ですが… お寺につく、"山号""院号"とは一体何なのでしょうか。 お寺さんにはそれぞれお名前があるかと思うのですが(寺名?寺号と言うのでしょうか…)、あるお寺には山号があり、院号があり…ないお寺もあり…。 もともと山にあるお寺にその名前を冠した山号が付いている、と何かで知ったのですが、だとするとこれは住所ということですか?どこどこ村の某、みたいな…? ならば院号は…?院と堂は違う…?堂≦院∈寺??? 自身でも多少調べたのですが、当事者たるお坊さま方がどのように考えていらっしゃるのか知りたくて質問しました! 頭の中がぐるぐるしていますが、主の質問は 山号についてです!お手隙の際にでもご教授ください、お願いします!
先日 墓前に手を合わせてきたのですが いつもなら ただ心のままに手を合わせ小さい時から耳馴染んできた南無阿弥陀仏と声に出さずとも…なのに 今は亡き父が闘病生活で今まで仏壇すらなかった家に見たこともない位に大きなそれに手を合わせ南無妙法蓮華経と一心不乱に題目してた記憶が頭の中を駆け巡り自然と南無妙法蓮華経と呟いていた自分が居ました。横で手を合わせていた子ども達が不思議そうに私を見て ふ と我に戻ったような気持ちで家についてからも悶々とした状態でした。数ヶ月前から、何度となくハスノハに質問し、有難い回答を宗派問わず色々な角度から聴かせて頂き、座禅会や供養で敷居が高いと遠慮していたお寺にも足を運び 随分と穏やかに過ごせるようになった今 菩提樹もなく仏壇もない自分ですが 一つの宗派にとことん向き合い毎日を丁寧に生きたいと強く思うようになりました。 ただ一つに決める事が出来ず身近な信頼してる人の話しを聞いたり足を運んだりしながらも本を読んでみたり…良いとこどりのズルイ信心だねと 、からかわれたり… しばらく、こんな状態が続きそうで ごめんなさい、コチラで愚痴らせていただきました。 ハスノハは、こんな中途半端な私の拠り所となり有難い居場所です。