仕事も人間関係も健康も、、何をやってもうまくいかず、四面楚歌状態です。 男なのでもっとしっかりせねば、と思います。今年35歳ですし、焦りもあります。 今考えている目標が成就できそうもないので、別の新しい目標を立てようと思います。 生きることは辛さ、苦しみで満ちていると思いますので、「その辛さ苦しみをなくすこと(なくすことはできなくても可能な限り軽減する)」というのは、どう思いますか? 漠然としていますが…。 よろしくお願いいたします。
初めまして。こんばんは。 私は高校三年生の受験生なのですが、タイトルの三つの理由で勉強が手につきません。受験前なので、このままではいけないと思い、相談します。 勉強からの逃げ癖がついたのは中学三年生の頃です。第一志望に受かる可能性が低くて、つらくて、親の眼を盗んでさぼるようになりました。そんな毎日だったのに、第一志望の高校に合格したためあまり反省はできませんでした。また、入学してからは、授業についていけないのと、厳しい部活の日々によって、勉強からかなり遠ざかってしまいました。いまは受験前なのに、勉強する振りにいそしむ日々です。 信頼できる友人に相談して手助けしてもらった事もありましたが、挫折しました。親には、ずっと勉強していると嘘をついていたので、こわくて話せません。 将来の夢や大学でしたいことは明確にあるのですが、どうしても勉強から逃げてしまいます。 三つの事について詳しく説明すると、 現実逃避:締め切り間近など、余裕がなくなると、逃げてしまうのはもちろん、余裕があるときも、まだ大丈夫、今やらなくていいだろうと、後回しにしてしまいます。時々勉強するときも、現実を見るのが怖いから、とりあえずの、現実逃避的な勉強になってしまいます。またできもしない事、たとえば睡眠時間をなくすとかほかの人の十倍勉強するとか、をできると思い込んでしまったりします。 ネット依存:私はSNSやネトゲではなく、ウェブ小説、漫画、ネットサーフィンに依存しています。一番ひどいときは、見てないとイライラするくらいだったのですが、今はふとしたときに我慢できずに見てしまうくらいです。小説は一回のめり込むと読破まで数時間費やしてやめられなくなってしまいます。 無気力:外面がいい分、気の抜けている休日に多いのですが、なにも、特に勉強はやりたくなくなってしまいます。お風呂にも入らず、ごはんは凍ったままの冷食や生米ですませてしまいます。なかなか抜け出せません。 高校一年生から三年間、何度もこんな自分をかえたいと挑戦してしまいましたがうまくいきません。一日有意義に過ごせても、そのぶんその後の五日間を無駄にしてしまいます。無気力がひどすぎて自殺を考えた事もありました。 今の目標は第一志望に受からなくていいから、毎日まじめに勉強する事です。助けてください。
この度はお世話になります。 私も家族もキリスト教の洗礼も受けていないし、仏教の宗派にも属していません。 きちんとどこかに属されて宗教を信仰されている方々からしたら無宗教と言われるかもしれませんが、神様、お釈迦様、仏様・・・具体的には分かりませんがすべてに感謝し、毎日何度か感謝と祈りを心の中で唱えています。 両親の実家はお寺とのお付き合いもあり、法事もきちんとされていたのですが、私の実家は兄弟が多く、裕福な家庭ではなかったので日々の生活に追われ、お寺とのお付き合いなどもありませんでした。 でも、母は自分が小さい頃に両親から聞いた仏教のお話を私たち子供にしてくれて、兄弟は皆おとぎ話か昔話のように興味深く聞いていたのを覚えています。 先祖の仏壇にお供えをし、お線香をあげ、手も合わせています。 最近仏教についていろいろ調べて、興味を持ちましたが、知ることが増えるにつれて、分からないことが出てきたため、どの宗派がいいのか決められません。 そこでいくつかお話をお聞かせいただけたら幸いです。 ①宗派に属さないと仏教徒とは言えないのでしょうか。 ②もし、宗派に属さなくても、仏教を信じる場合は、どのように手を合わせ、何と唱えればいいのでしょうか。宗派によって違うと思うのですが、共通するものや一般的なものがありましたらご教示ください。 ③仏教を信じているけど宗派に属していない場合は、お葬式、戒名、位牌などはどうすればいいのでしょうか。 ④日本でのお葬式は仏式が多いと思うのですが、仏教徒ではなくて仏式のお葬式をあげているだけの場合でも、戒名や位牌をいただくだけで出家して成仏し、極楽浄土へ行くことができるのでしょうか。 ⑤仏教を信じ、どんな困難も乗り越えて、真面目に、人を助け、一生懸命に生きた人でも、宗派に属さない、または宗派を決められないために戒名も位牌もない場合は成仏も極楽浄土へ行くこともできないのでしょうか。 調べているうちに、どこの宗派にも属さない単立の寺院や神社もあると知りました。 でも、それはそれである意味、単立という宗派のようにも思ってしまいます。無知な意見をお許しください。 お答え辛い質問かとも思いますが、ご教示いただけると助かります。 どうぞよろしくお願いいたします。
理想の人間になりたい。でもなれないので、自分を許して認めて憎むことを辞めたいです。 わたしにはとても美しいと感じる人が二人いるのですが(二人とも男性です)、そのひとみたいになりたいではなく、そのひと自身になりたいと思ってしまうので、何をしても許せなくて、自分が自分であることが憎くて仕方がないです。中学生くらいからこのようなことを考えていてきっと思春期なのだろうとは思うのですが、自分が自分を許せない状況がとても苦しく感じます。 自己肯定感の低さは家庭環境が原因であるというのをよく見かけます。確かにわたしの家庭環境は複雑でした。ですが、わたしの母はそれをハンデにしないよう、大きな愛情とわたしが望むもの(教育など)を与えてくれたと思います。なので、原因は家庭環境などではなく自分にあるんです。では何が原因なのか、ということも知りたいです。 余談を挟んでしまいましたが、 自分の見た目が女であることが悔しいです。自分の体と顔が憎いです。自分の、美しいひとを美しいと感じてしまう心が汚いと思います。純真無垢を純真無垢だと感じる自分はよこしまだと思います。自分の思ううつくしい人間になれない自分がとても嫌いで仕方ないです。 考えることしか能がない自分が、憧れの人とは真逆で鬱陶しいです。けど考えることをしない自分を想像すると、それは平凡に感じて嫌です。今まで自分がもやっとしたことすべてに対して自分の答えを見出してきました。そこを買ってくれる友達も少なからずいて、それがあるから愛されてる部分もあるのだとわかっているので考えることをやめる、美しいものを美しい、きたないものをきたないと感じなくなる自分になることも怖いです。 自分を許せないので無理をしてしまい最終的に大きな迷惑をかけてしまう自分が憎いです。休ませてあげられない自分が情けないです。素直な心が少しもない汚い自分が消えてほしいです。もう許してほしいです。 わたしだけがわたしを許してくれないんです。 どうすれば、自分のことをきちんと認め、憎まず、許すことができますか? 稚拙な文章ですがお答えいただけると幸いです。
死んだら、自分の行いによって、六道のどれかの道を 選ぶことになるのでしょうか。 その中の選択肢に地獄もありますが、自殺した罪で強制的に 送られることはないけど行いによってはそこに行くことに なる場合もあるのですよね? どういうことをしたらその地獄へ行くのですか? 地獄にこだわるつもりはありません。しつこく感じられたら 申し訳ありません。今はそんなこと忘れて 生きなさい、と言われるよりこの疑問点を知りたいです。
あの世や霊魂の存在を考えないという姿勢は本当に正しいのでしょうか? 中学時代の世界史の教師が言っていたことですが 昔のインドはコーサラ国とマガダ国いう強国が存在し お釈迦様はコーサラ国に支配される属国の王子った 若い頃のお釈迦様は 文武両道で抜きんでた才能があり 父親の王も頼もしく思っていたが お釈迦様は心に悩みを抱えて引きこもるようになり、やがて城も妻子も捨てて修行の道を進むようになった やがて、お釈迦様の一族や家来の中に次々と同じ道に進むものが現れたため父親は非常に悲しんだ と話していました ウィキペディアの記述によると 【釈迦族は釈迦の晩年の時期、隣国コーサラ国の毘瑠璃王の大軍に攻められ皆殺しにされたという】 とあります。 お釈迦様の存命時に一族が戦乱で滅んだということですよね? お釈迦様は大国に従属する小領主の家に生まれ 日本の毛利元就や徳川家康のように名将とし躍進する才能・可能性があったにもかかわらず、その道を捨ててしまっために一族が滅んでしまった といったところでしょうか (毛利家は大内・尼子 徳川家は・今川・織田という強い勢力に囲まれていた) お釈迦様自体は死後の世界については「無記」として語らないという立場だったようですが、 私がお釈迦様の立場なら 死後の世界を考えることはそれ自体が 生き地獄で気が狂いそう(苦しんで自殺するかもしれない)になると思います。 死後の世界が存在したら自分の祖父母 両親などが 自分の一族が皆殺しになったことをあの世で悲しんでいることが明らかで 自分もその責任を感じるはずですから・・・ 歴史上では心残りな思いで亡くなるケースは多く 平清盛 武田信玄 豊臣秀吉などは 子供の将来を心配して亡くなったことも そしてその一族(弟や子供など)の末路が悲惨だったのも知られており 死後の世界があれば、彼らはあの世でも苦しみ続けているはず 話をお釈迦様の話に戻しますが お釈迦様の死後の世界についての「無記」という姿勢は自分の身の上に起こったことが原因でバイアスがかかっている可能性はないのでしょうか? 私にはお釈迦様は日本の建礼門院、信松尼、天秀尼などと同じ立場に思えるのですが 人間は生きていくうえで本当に「無記」と言う姿勢でよいと思いますか?
はじめまして。お忙しいところ申し訳ありませんが、宜しくお願いします。 私は今まで生き急ぐ(死に急ぐ?)生き方をしてきました。 元々「生きたい」と思わず、 「人生は思い通りにならないのが普通だ」とか、「みんな同じ、みんな大変」という言葉を耳にしてから、尚更生きたくなくなりました。 もしも人生というものが、細々とした幸せと大半の苦労でできているのならば、もうこれ以上、僅かな幸せの為だけに生きていたくありません。 何十年生きて、心からの幸せを感じたことがないことも拍車をかけています。 「幸せは自分の心の中にある」と心の持ちようを変えても見ますが、幸せを感じる為に毎日あれこれ考えて、少し気力が出てきた頃に就寝時間がやってきて、朝起きると…また気持ちが沈んでいます。 無理やり作った幸せは、心が納得していないようです。 頑張っても報われない。あと何十年もこれを繰り返さないといけないのかと思うと途方に暮れます。 「その人の為に生きたい」と思えるような人もいません。 やりたいことは、暇つぶし程度ならありますが、その為に生きたいとは思えません。 心理学の言葉をお借りすると、私の状態は「アダルト・チルドレン」の症状が最も近い気がします。 今回お聞きしたいのは、 このような人間が心から「生きたい」と思えるようになるには、 無理ではなく、心からの幸せを感じるにはどうしたらよいか ということです。 どうかご教授頂けないでしょうか。 長文になり申し訳ありません。
初めまして、クラウディアと申します。 私の悩みは、果たして神という存在はいるのかどうかと言うことです。 実は別の宗教にも勉学的関心があるのですが、仏教とも共通することはやはり神の存在です。 私は信じたいのです。しかし同時に信じることができないのです。 目に見えるものしか信じられないという非常に残念な性格が影響しているのかもしれませんが、とにかく神の存在を疑ってしまうのです。 例えば仏壇にお線香をあげる際、それは亡き人に向かってです。亡き人というのはもうこの世にはいません。灰になってしまったのですから。魂はあると言われていますが、どうも私には信じられません、 そうだとすると、お線香をあげる意味はあるのでしょうか? そこで、神はいるのか、またいるのだとしたら何を根拠にいると仰るのかをお尋ねさせていただきたいと思いました。
(編集部より。利用規約により一部修正しています。) 私には個人で救済活動をしているチベット密教を継いだお坊さんに色々電話や、お会いして教えをいただいています。それらは今の腐った金銭目的の仏教界とは異なりお金のない人にもどんな人も救済をしたいという心から出家された方で、私にはヨーガの修行とともに財施を月に2-3度行うよう言われています。 私はこの方と知り合ったのは2ちゃんねるで、個人で活動している祈祷師さんといった形でした。恋愛で悩んでいて助けを求めたところ、得意ですとのことでしたが、何も進展しませんでした。祈祷師というより、仏教の教えを広め、魂の底上げがしたいということでした。話がとてもためになりました。忍辱が私の悪業を滅するとのことでキャバクラでもバイトをしています。 導師、グルという立場で色々な話をしてきたのですが、最近預貯金のこと収入のこと、布施についての話が多く、気が滅入ります。布施は相談をはじめた当初からしていましたが、最近額や頻度についても言及があり辛いです。 基本的には祈祷や法施のために料金はとらず、遠方から来ていただくにも交通費しか受け取りません。とても貧しい暮らしをしている方です。 また、グルの相談者はワーキングプアの方が多く交通費すら自腹のときもあるとのこと。 私は普通かそれ以上の収入があるのですが、何世代分かの功徳を使うほどの幸福を得ている、お金に執着がある、他の人から見て幸せな状況なのにそれ以上の幸せを求めるなら財施をすることで功徳を生じさせるしかないといいます。また、部屋を導師のために借りることで大きな功徳になるといいます。 だんだん辛くなってしまいました。 このことを伝えると、じゃあ布施をしないでください、半年しなければ変わることがわかるはずといいます。体感しないとわからないこと。布施は導師にするのが最も功徳を生むのだから、と。 また、この布施のことで苦しみ、他の方は布施をほとんど払っていないので、そのことを掲示板にかいたことがありましたが、それも悪業で、今後もいろんな人が見るたびに影響を及ぼす、悪業がさらに募ると言われました。 状況を理解していただきたくたくさん書いたけどまだ書ききれないし私の理解の足らないところもあります。 けれど私はただ恋愛成就がしたかった。できないばかりか気持ちは辛くなる。
高校生です。 辛いことが続き、どうしても悲観的になってしまいます。 悲観的になる自分が嫌です。 中学生の時にいじめが原因で自殺未遂をして、そのときの先生に被害妄想で周りに迷惑ばかりかけるのはやめろ、と言われそれから辛いということを口にするのが怖くなりました。 自分の内に秘めていたいという気持ちが、どうしても誰かに気づいて欲しいという気持ちと鬩ぎ合って、頭をよぎるのは自分で命を絶つということばかりです。 親からもらった命が、大切なのはわかっています。 「高校生の悩みごときで、自殺を考えるなんて。」と、たくさん言われました。 わかっています。 でも、笑って、平気なふりをしていると誰も気づかないので、それを続けてしまうのですが、独りになると死にたくてたまらなくなります。 生きている意味がわかりません。 死にたくて死にたくて、どうしようもないです。 忘れようと、楽しいことがない訳ではないですが、色々気を紛らわせようとはしていても、辛い気持ちが何をしていてもぼんやりと浮かび、また悲観的になります。 生きているのがつらいです。 生きなければいけない理由を教えてください。
私自身ではどうしようもできない家族の問題が何ヶ月も続き、私の負担が非常に大きかったため、私自身が落ち込み、鬱になってしまいました。 よい精神科の先生と巡り会うことができ、健康上の問題はゆっくりではありますが、回復の傾向にあります。 ただ、そんな辛いことがあるからか、友達や周りの人の幸せなことやよかったことを聞くと「よかったね」よりも「どうして私はそんな幸せになれないんだろう」と最近は思ってしまうことが辛いです。 もちろん、口に出すことはありませんが、こんなこと思ってしまう自分にショックです。 今まではそんな思いを抱いたこともなく、他の人の幸せは素直によかったね、と一緒に言えていたのにと思うと、更に辛くなります。 どうしたら他の人のよかったことを素直によかったと思えるようになるでしょうか。 家族の問題や鬱が治ってからでないと無理なのだとしたら辛いなぁと思います。
自分の理想が高すぎるのか、自分の力を過信しすぎているのか、とにかく妥協が下手です。 私は趣味で同人誌を書いています。 しかし、話を作る段階ででいつも1か月以上躓いてしまいます。拙作を読んでくださった方々からご感想をいただくことはそれなりにあるので、発想が貧困というわけではないと思います。 ただ私が、「私ならもっと良い話が思いつくはず」と、延々修正を繰り返してしまうためです。 正直、私の絵は人並み程度で、話が上手いと言われても絵が上手いと言われることはあまりありません。私自身、実際本になった自分の作品を読むと、頭の中で考えていたときは面白かった話が、稚拙な絵のせいで微妙に思えてしまいます。 なので、どれだけ自分が頑張って時間をかけて良い話を考えても、どうせ本になったときこの程度のレベルまで落ちるのだから、キリのよいところで妥協しなければと考えました。でなければ、私の今の作業ペースではとても締め切りに間に合いません。 絵に関しては、何度書き直したって下手なのはわかっているのだから、時間を優先して適当にキリをつけようという諦めが出来てきました。しかし「話」に関してはその諦めが付けられない状態です。 私ならもっと良い話が思いつくはず、私ならもっと書ける、という過信が邪魔をします。 交通費や同人誌頒布会の参加費を既に支払っていることからも、時間をかけて作品を練って今回は見送るということはしたくないです。 自己評価に実力が追いついていない私に、どうか妥協の仕方を教えてください。
悪魔に取り憑かれました、どうしたらいいですか、私の魂はもう取り返しがつかないみたいです、悪いことをした覚えはないのに
いつもこちらではお世話になっています。 定年退職まであと少しのアラ還おじさんです。 最近急に老いを感じるようになりました。生老病死の老に苦しんでいます。ここに来てもうこんなに年をとった、と後悔ではありませんが愕然とします。 体力、気力の低下だけではなく、アラ還と言う焦燥感、職場での若手の活躍と焦り劣等感、世の中の動きについていけない、等書き切れません。 実際に定年退職したあとは再雇用制度を選択する予定ですが更に疎外感が強まりそうです。 今のところ家族ともお陰さまで健康面で大きな問題はなく、経済的にも問題ありません。 自灯明法灯明を模索し何を目標にすれば良いのか、生き甲斐にすれば良いのか、まさに迷走中です。 アドバイスをいただけると深甚に存じます。
大切な人を昔亡くしました。そのあと私は死に対して経験しています。幸せとはなにか?わからずに生きてきました。 結婚することか?子供を産むことか?生きていることか? 私自身が人生を終わりにしたいと思っているため、結婚しませんでした。自分が子供を産むことも望むことも許されません。許せません。寂しいと思いながらいつでも終われるように家族を作らずにいます。 人を大切にすることで生きる価値を見いだしていたのだと思います。今でもそうです。 大切にしたいと思いながら結局は、人は裏切り裏切られ、傷つけ傷つけられる人生なのでしょう。それでも一緒になりたいという人と一緒になるべきか、独りで生きていくか? 恵まれた環境のなか、自分の価値がわかりません。一緒に居たいと思う人はもういない。 でもずっと独りで生きていけるか? 誰でもいいのか? このような考えで生きている私にどうかアドバイスを下さい。
今朝、目覚めてすぐに、 「私は今まで何をして生きてきたのだろう」 と頭を過り焦燥感に襲われました。 こちらに最初に相談させて頂いた時に、今年心折れる事が続きどうすればいいのかとネット内を彷徨う内に、斉藤一人さんや小林正観さん、ホ・オポノポノ等々を知り、そこから派生して、心理カウンセリングやスピリチュアル系の記事を読むようになった事をお伝えしました。 それらに何度も頼りたくなったのですが、完全には信用出来ず、入り込まずに無料メルマガを読むに留まっています。 それらは総じて、「潜在意識が自分の世界を創っている」というもので、その潜在意識を書き換えれば、自分の望む人生を創っていくことが出来るというのです。 ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」という著書が一番の大元なのでしょうか、分かりませんが… 今の自分について言うと、家があり主人が居てお互いに仕事を持ちお金も多少はあり、生きていくには充分に足りている生活をしています。 ただ子供が居ないことについては、長い間、寂しさを消す事が出来ませんでしたが、やっとここ数年で諦めが付いた処です。 子供が居ない分、両親に対して時間やお金を使って喜んでもらえる事が自分の喜びでした。 特に、仲の良かった父とは一緒に居られるだけで楽しく幸せでした。 その父は他界し、母だけとなった今、それまでと同様、母に喜んでもらえる事を考えたり行動したりすることに幸せを感じています。 しかし、そのような幸せとは別に、物質的環境的には事足りているのに、何故か心が満たされません。 特に、スピリチュアル系ジプシーになってからは強く感じるようになってしまい、本末転倒です。 2回ほど、こちらで相談させて頂いた事により、苦悩からは解放されつつあります。 お蔭様で、姑の件は心を落ち着かせることが出来、感謝に堪えません。 以前から薄々感じてはいたのですが、人生を振り返ったとき、自分自身何を残してきたのか何をしてきたのか、という事が見えず愕然となります。 仏教では、「相対の幸福」に対する「絶対の幸福」が「真の幸福」である、というのだそうですが、「絶対の幸福」とは何か、またそれをを得るにはどうすればいいのかご指南頂けますでしょうか。 心の持ちようであり、自分は感謝と幸福に包まれている、というのは頭では理解出来るのですが、正体のない何かが拭えず困惑しています。
おはようございます。今あるお経は 昔誰かが作ったものですか? 今お経って作ることは可能でしょうか 今の仏教って 昔の方がきづきあげたもので間違えてないですか? 今現在の方は 本当に頭がよく 暮らしにしても より良く暮らせる 時代になってます そんな 素晴らしい方が沢山いる 現代なら 昔より 素晴らしいお経が出来上がるのではと 思うからです。 後、霊が存在するかと同じくらい 気になる事があるんですが 今は、少し落ち着いてますが 目眩や 難聴で 苦しんでいて 病院に行こうが薬を飲もうが 改善かされなくて そこで 気功って 霊と同じくらい 不思議で 目に見えるものではありませんが認められているんですよね? 効くかもしれないと思って、、、行ってみようか 悩んでるんですが 気功は信じてみていいと思いますか
私は若白髪がたくさん生えているのですが、彼が気になって仕方が無いのか、全部抜く!と言って聞きません。 ついこの間も髪を染めてみたのですが、白髪の部分だけ金髪になってしまい、それを抜くと言ってブチブチと抜かれてしまいました。 とても痛いのです。 どうしたら、彼は私の白髪を抜かなくなるでしょうか?
過去の罪は消えません。 自分で蒔いた種は、自分で刈らなければいけないことも分かっています。 毎日お経を唱えると共に、過去の罪を懺悔しています。 今、自分にできる事を一生懸命することで、良い種を蒔く事で、運命を変える事ができるというのは本当でしょうか。 最近よく読んでいる、仏教に関した本のいくつかに、そう書いてありました。 また努力をしている姿を、仏さまは見ていて下さいますか。 そして、自分が救われたいと思いながら努力する事は、いけない事でしょうか。 まとまりの無い質問ですみません。 どうぞよろしくお願いいたします。
はじめまして。猫かぐらと申します。 さっそくご質問させていただきます。 お釈迦様は輪廻転生から解脱されたとのことですが、前世を覚えている子供たちが世界中にいて、実際に前世としてその個人が存在していたという確証までとれるケースがあると聞きます。 仏教の概念では、生まれ変わりという意味での輪廻転生はあるという姿勢なのでしょうか。 もしあるのだという姿勢なのであれば、輪廻転生から解脱されたというのはどのような意味があるのでしょうか。 また、生まれ変わりとは、未熟な者が成長するために人生を一からやりなおすということなのでしょうか。 そうだとすると、この世は学校や道場のようなものなのでしょうか。