私は3歳と1歳の子持ちの女医(外科医)です。夫は単身赴任で、ワンオペ育児中なので私は子供のために仕事をセーブせざる負えません。 育児をするだけで日々が過ぎ去り、仕事をバリバリ出来ないことがとても辛いです。 最近身近な人を亡くしたことをきっかけに仏教を勉強し始めました。日本の各宗派の成り立ちや教え、仏教の伝来と他国の仏教の教えを勉強し、今は主に初期経典のダンマパダやスッタニパータ、アビダルマなどを読んでいます。 お釈迦様の教えで自分の苦悩が楽にならないかずっと考えています。 お釈迦様は人間は五蘊で構成され、どこにも自我は無いとおっしゃいました。 私は他の男性医師や独身女医のように仕事に邁進してキャリアを積みたいと思うのですが、自分が!自分が!という自我に執着した欲にまみれた状態なのかもしれません。 過剰な欲は持つべきではないとお釈迦様は言ってます。 私は仕事のキャリアアップを諦め、子供のために仕事をセーブし続けるのが人間として正しい行動なのでしょうか。 フルタイムで働けば私の方が夫より収入が多く、修めた学歴も私の方が10年長く、男というだけで思う存分働ける夫に嫉妬しそうになります。しかし嫉妬の心は人間としての成長を妨げる、持つべきではない不善心所らしいので、頑張って嫉妬の心を持たないように心がけています。それに仏教的には金銭や学歴に価値はないということも理解は出来ます。 仏教を勉強し、人が幸せになるためには、自我をなくし、慈悲の心を持ち、自分以外の存在のために生きるしかないのだと理解しました。 しかしそうなると私が医師としてのキャリアアップを諦め、育児に専念するしかないのでしょうか。 育児は手がかかります。どうあっても誰かが仕事をセーブしなければ育てることは出来ません。 一生懸命医師として努力してきましたが、女性は子供を産んだら医師の仕事に全力で邁進するのを諦めるのが人間的に正しい行動なのでしょうか? お釈迦様は男女は平等だと説いています。育児も医療と同じように尊い行いだということも理解できます。 しかし子供を産んだというだけで、第一線を離れ続けるのがとても苦しいです。 そんな私に何か心が軽くなるアドバイス、解決法を教えてください。
86歳父親が肺がんになり食事するたびに胸がいたいらしいです 痩せてゆく父親に癌の告知するべきか悩んでます ボケてはいませんが、母がこのまま告知しないで死なせてといいましたが、私は癌とゆうことを父親に告知して何かしたい時間を過ごさしたいと思ってます。いろいろな考えがありますが よろしくお願いします。入院まだしてません
お坊さんたちに4つ質問がございます。 どんなに難しい回答となってしまっても構いませんので(仏教を勉強して頑張って理解します)、何卒よろしくお願いします。 ① 人はなぜ、自分自身によって「よいもの・正しいもの」と判断したものを否定されると、自分という存在が否定されたのだと思ってしまうのでしょうか。 ② 人はなぜ、自分という存在が否定されたと思うと、反射的に絶望した感覚へと陥ってしまうのでしょうか。 ③ 人はなぜ、この「絶望した感覚」によって自ずと苦しんでしまうのでしょうか。 ④ 「諸法無我」という教えが仏教にはありますが、上記の一連の流れをリアルタイムで実際に感じている「その“感覚”」及び「主体」も「諸法無我」なのでしょうか。もしそうであるならば、どうすれば「その“感覚”及び主体は諸法無我である」と実感できるのでしょうか。
自分を大切にしなさいと言われました。 自分を大切にするとは具体的にどうしたらいいでしょうか? 自分の立場が悪くなるようなことはしない方がいいと、割りきることも大切だと、上司の言うことを聞いて仕事をしていれば、 「自分のために働いている」と責められ、 自分の思ったことを言えば、なんでそんなにこだわるのか、と責められる。 疲れているから休め、と言われるが、休んでいる余裕はない。 諦めれば楽になる、でも、諦めたくない 自分の体を大切にしろ、と言われるが、大切にする方法はどこにも書いてありません。 誰も教えてくれません。 自分の立場を守れと言われるが、お前は自分の立場を守っていると責められる。 心構えがないのは詐欺師だと。 人を信用するな、でも、信頼関係が大事だそうです。 自分の好き勝手やっている人は許されるが、 私が自分の考えを持てばそれは違うと否定される。 いろんな人から矛盾することを強要され もう壊れそうです。 もう誰にも迷惑をかけたくない。 両親にも申し訳ない。 諦めたくない、でも私はいったいどうしたらいいのかもわかりません。 考えがまとまりません。 自分を大切にするとはどのようなことですか。
年末年始の風物詩とも言える「除夜の鐘」の騒音苦情の対応に中止されるお寺が増えている事について 苦情を申し出る理由はそれぞれであろうかと思います。 「明日は仕事だから寝れない」 「赤ん坊が寝起きで泣く」 「宗教上の理由で鐘の音を聞くのが嫌だ」 などなど‥‥ ただ個人的な思いですが、年に1度厳かに新年を迎える行事を楽しみにしている方が大多数かと思います。年に1度だけでも苦情の方は少しあいだ忍んで頂けないものなのかな~‥と思います。 正直、除夜の鐘までにクレームが出る世の中に「どうした日本」って感じで衝撃と悲しい感じです。 苦情を受けたお寺さんにもご苦労をお察し申し上げる次第です。 そこでお坊様方々に二つお尋ねします。 一つ、もしこの様な苦情を受けた場合にどの様な対応をされますか? 二つ、楽しみしている多数派より少数派(マイノリティー)を優先しなければならない現状をどう考えますか? お答え頂ければ幸いです <(_ _)>
この度3人目を妊娠しました。 まだ一昨日わかったばかりで、正直、驚きました。避妊をした上で妊娠したので、避妊がうまくできていなかったのです。 ひどい人間で申し訳ないのですが、実際妊娠してみて喜びよりも不安が大きく、今なぜか、とても落ち込んでいて、落ち込んでいる自分にも苛立って、せっかくきてくれた命に申し訳ないです。2人の妊娠、出産を経て妊婦生活、そして産後がどれだけしんどいか知っているので、余計に不安です。 そして、我が家は現在とても裕福なわけでもありません。 ネットで3人目の妊娠について調べていたら、「裕福でないのに3人も4人も産む家庭は子供がかわいそう」「3人目の妊娠が不安ならなぜ性行為をしたの?気持ち悪い」「3人出産した女性が一番不幸というデータがある」「そもそも子供自体贅沢品で、裕福な人しか授かるべきではないのに3人なんて論外」という意見を沢山目にしました。読んでいて涙が止まらず、胸が痛くなり、でもそうなるのは自分もそう思っている部分があるからで、それなのに3人目も妊娠してしまって、自分がみっともなく思って仕方ありません。 今回、私も妊娠がわかった瞬間喜べず、毎日このように絶望しているので、産めないと思い、中絶を考える時もあります。主人には何度も産めないと言いましたが、せっかく授かった命だから頑張ろうと言ってくれています。 今いる2人の子供がニコニコと笑って楽しそうな姿を見て、もしかしたらこの子達にも色んな我慢をさせてしまわなければならないのかもと思うと涙が止まらず、私が妊娠したことは間違いだと思ってしまうのと同時に、お腹にいる子に本当に可哀想な考えで情けないです。 自分が情けなく実家、義実家の家族にまだ妊娠の報告はしていません。 話がまとまらず申し訳ないのですが、3人目の妊娠、出産に対してどう思われるか、もしコメントをいただけましたら幸いです。 書き終えて読み直して、改めて、自分が愚かなことは重々承知です。
障害者支援の仕事をしております。人格障害の女性ですが 気持ちが不安定になるとすぐ「死なせてください」「今から死にます」とメールしてこられます。最初のうちは なんとかしなければ と思い必死で向き合っていましたが ほぼ毎日送られてくる「死にます」メールにだんだん憤りを覚えるようになっています。なんでそんなに簡単に「死にます」発言ができるのだろう?本人のしんどさを理解したうえで対応しなければ と思うのですが…軽々しく「死ぬ」発言をする彼女を叱責したい気持ちになってしまいます。気持ちの在りようをご教示くださいませ。よろしくお願い申し上げます。
現在婚活をしております。 私は一般家庭(父サラリーマン、母サービス業、私銀行員、弟研究職)です。 寺の跡継ぎである方に出会い、とっても楽しく、真剣交際を申し込んでいただきました。彼の前職が今の私の職業と一緒で、話もとても楽しく、いい人だなぁ。楽しいなぁ。といつも思っております。 ただ、告白してもらった時に、私は仕事を続けたい、ご家族と同居は厳しいと言うと、「仕事続けていいよ」「家も私の職場の近くに借りたらいいよ、でも最終的にはお寺に住むよ」と伝えられました。 私はちょっと楽天的なところもあり、「なら、いっか〜、でも彼のご家族はどう思ってるんかなぁ」と思いつつも、母にお寺の後継の方に告白をされた話をすると「着付けができないと」「お花ができないと...etc」と言われて「あ、無理かも」と思い始めました。 彼にも聞けばよかったのですが、彼のお母様が1泊2日で【お寺の奥様会】に行って〜と話を聞いて、「仕事を続けてても私も参加するのかな?」「お盆は私も銀行の仕事休まらないけど、忙しいって手伝いできないけど...」とか、最後には自分で決めないととは思っているのですが、彼から「もう会うのやめようか」と言われ、自分自身のことがよくわからなくなり、相談させていただきました。 ※父の勤めていた会社が1度倒産しているため、会社勤めでもどうなるのかわからないしなぁと思って、特に職業は気にしていませんでした。
お久振りです。いつもお世話になっております。ユーリです。 今回は、個性を磨くということについて質問いたします。 教育現場では、良く「個性を磨く」といった文言が使われ、「生きる力」と共に、二大教育用語になりつつあると、私は考えております。 さて、個性というと、広義にはその人の特性・性質ですが、それを磨くというと、どういった意味なのでしょうか? 私個人の見解を述べますと、やはり、短所のない人間はいないわけで、また、自分と同じ人間もまたいないわけであります。 自分を追及し(今頑張っています。)、自分をより深めることで、自分にしか出せない味を出す。それによって、噛めば噛むほど味が出てくる。噛めば噛む程、噛んだ傍から味が出るような。そんな人間を目指すのが、「個性を伸ばす」だと感じてならないわけであります。 私は、部活の野球はベンチ外。勉強は、論外の外。顔は、圏外の外。 喋らせたら、うるさいとよく言われ…。そんな人間です。 ですが、人に誇れるものというととくにありませんが、この喋りというのは、自分の中で好きな部分ではあります。 アホなこと言って、「自分ってあほやなー」と、振り替えってにやにやしてしまう。そんな自分が大好きです。 元々、芸人になりたい私ですから、そう感じるのかもしれません。 「よく喋る・デブ・ちび・くそメガネ・頭悪い・送りバントが得意」これが私の個性です。 ですが、「よくしゃべるなー・・・」と周りに言われるということから、それを不快に思う人もいるかもしれないわけです。 自分は誇らしく思っても、そんな一面を磨いてどうするのかと思うわけです。 「個性」には、対個人、対社会にプラスのもの、マイナスなものがあるわけで。 マイナスなものだとしても、それを伸ばせ、ってことなんでしょうか?
質問が2つあります ①仏教では輪廻転生と言う考え方で生まれ変わると言われていますが 人口の増減についてはどう考えているのでしょうか? 今の日本の人口は1億人を超えていますが 奈良時代 大宝律令ができたころは310万人~320万人ほどだったようです。 日本史の教科書では 昭和初期の満州事変が始まった頃のことを 日本は中国人4億5千万人を敵に回すことになった と書かれていますが 今は中国の人口は軽く10億人を超えています 同じ国籍だけに輪廻転生するとは限らない 世界規模で考えるべきとしても 現在世界の人口は70億人程度いるようですが 1世紀に前に比べても数倍になっています もっと言うなら 数万年前の ~~原人 とかいたころはどうなのか? とか いろいろ説明がつかないことばかりです。 昔の 江原啓之さんが出てくるような心霊番組はテレビでやらなくなりましたが (便乗した霊感商法 悪徳商法がはびこるようになるとか、輪廻転生を信じた人が人生をやり直すために自殺するケースが出たなどの理由で弁護士などがテレビ局に抗議したそうですが) 当時の番組では江原さんは輪廻転生を言っていて 「あなたの前世は~」と言う話になると 全て人間であり、他の動物だったケースは見たことがありません。 しかし 全ての人間が また人間に輪廻転生をするとすると 個体数の関係で辻褄が合わないことになります。 これは仏教ではどう考えているのでしょうか? ②私は亡くなったら全て「無」に帰す 霊魂も輪廻転生もないインチキだ と言う考え方は好きではありません。 それは 大切な肉親を亡くし時点で「永遠の絶縁」を意味するからです。 死ぬことは怖いとは思いませんが、肉親と未来永劫絶縁になると想像するほうが怖いです。 霊魂や輪廻転生を完全否定する宗教家の方もいるようですが、肉親を亡くしたら情なんて捨てろ と考えているのでしょうか?
こんにちは。 さっそくですが、本題です。 わたしは自分に自信がありません。 自信がないからこそ常に周りの人間と自分を比べて、 Aさんには〇〇で私のほうが秀でている Bさんには△△で私のほうが勝っている と無意識のうちに考えてしまっています。 自分が優っている点が無い相手に対しては 近づきたくない、と思ってしまいます。 (本当に何においても優ってないかどうかではなく、自らが自分の方が優っている点を認められるかどうかが問題です。) 自分に自信が無いことで気持ちが沈んでしまったり、 交友関係が狭まってしまっていると感じたり、ということに悩んでいます。 常に自信があるフリ、堂々としていて怖いものなど何もないフリをするのに疲れてしまう時があります。 自分にも弱さがあると認めること、それを他人にさらけ出すことが恐いのです。 「強いわたし」という仮面が剥がれたらみんなが離れていってしまうような、 離れていった何人かは自分の「敵」にさえなってしまうのではないか、 というような強迫観念、自信の無さから 自分は強い、自分は他人より優っている、と強く思わないとやっていけません。 (この辺は小学生の頃にイジメにあい、4~6年生の間に転入先の小学校でクラス替えがない学級の中、たった独りで耐えなければならなかったことの影響かと思います) もっと肩の力を抜いて人を信用し、 自分を認め、本当の意味での自信をつけるにはどうしたらよいのでしょうか?
宗教は自分の考えで選ぶ事が出来るのでしょうか? ある人から創価学会への入信を勧められています。 私の実家は禅宗です。違う宗派の家に嫁ぎましたが離婚しました。 この場合、実家の宗派に戻るのか?新しく自分で選ぶのか?判りません。その家に伝わる宗教は先祖と自分を繋ぐ絆のような気がするので新たに自分の代から変えるのは不安です。 自分で抱えきれないような悩みがある時,人はどうして乗り越えていくのでしょうか?
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。