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検索結果: 438件

人の絵を見て嫉妬してみたい

 人の絵に嫉妬してみたいです 他人が書いた絵を見て嫉妬したことがありません  日常生活で嫉妬してるかといえば、さほどそうではありません。  人生渡されたもので勝負するしかないです。  学生の時から、努力をした人間はそれが失敗しても成功して泣いたり、悔しがったりしてました。  自分はそういうのあんまりなく、よくわからないところでだっだっこのように感情コントロールができてなかったです。 話がそれましたが、人の絵を見て嫉妬したことがありません。 それがどれほど、うまい人でも、それがどれほど若い人でもです。  歴史上の人物の例えばアルフォンス・ミュシャさんなどうまいな。すごいなとも思いますし、ケルト文様を勉強して絵にいかすなど努力もされています  名前を忘れてしまったのですが、天井にガラスを張ってモデルの人を見ながら天女図を描いたという方も知っています。  でも、すごいなで思って終わってしまうのです。  御朱印めぐりをして、お寺を見たり、博物館見てもすごいな。で、終わってしまいます。  絵を見て、すごい人を見ると嫉妬している人は本当に怨念のように思われている方もおられます。私は同じ絵を見てもすごいな、うまいな、努力してるんだな、っとか思って終わってしまいます。  これは私の感性が何か間違っているのか知れません。    今の私が当時の人と比べれば恵まれています。資料も探せばあります。昔に比べれば印刷技術など、すぐれているところなど数え切れずにあります。努力が足りないというか、努力しても手の届かない世界があるのを理解しています。  私の努力が足りなかったり、感性が足りないから嫉妬ができないのでしょうか。

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〝感謝〟

「仏教的・釈尊の法として、〝感謝〟〝御恩〟の 概念 とは、どのようなものでしょうか?」 昨年は、大変、お世話になりました。 件の問題は、そのまま遺恨となったままですが、私自身は回復傾向にあり。 家族間 以外に関しては、至って順調… だと思います。 父母や家族に対しては、新しい境地です^^; 日々、試行錯誤のリハビリ中で、周囲の皆さんの 理解と協力 に、感謝しきりの毎日です。 先日、ふと、(宗教全般に関してではありますが、まずは仏教的に釈尊へ)疑問が浮かびました。 シッダルッダは、かつて、妻子を捨て国を捨てて、悟りへの修行の道を進んだと記憶しています。 息子や国の民は、その後を追い続け。 妻や女性たちは、追うことも許されなかった(ただ後を付いていったけれど受け入れてはもらえなかった)…? 宗教的には、神や仏へ対しての敬意や信仰については説かれていると思うのですが。 では、その他の存在への〝感謝〟〝御恩〟とは、どのように話されているのでしょうか? “生きる”ということは、決して 独り では行えないのだと思います。 だからこそ、他に 救い を求める。 生きとし生けるものすべて。 救い 救われ。 支えられ支えて。 そういうことについての、仏教の概念を。 そういえば、私は知りませんでした。 寺院や僧職でいえば、在家の方からの支えがあってこそ、成り立っている職だと思います。 宗教全般に限定したものでもありませんが… 個が尊重されるのは、大変に良いことだと思うのですが、個人主義に偏向し過ぎてしまっているように感じてしまう昨今。 仏教という立場では、どのように解釈されているのかが気になりました。 浅学を恥じるばかりです。

有り難し有り難し 7
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諦觀の後の人生

現代の資本主義社会というものが一部の生まれつき恵まれた人にだけ利潤を還元されるシステムという事がある経済学者の本で話題になりましたね。 それは生まれつき決まる物だから変えようがありません。 つまりいくら何をしようが社会は私から搾取をします。 それで自分の夢だとか、働いて得た金だとかやりたい事なんてものも生まれつきの初期ステータス(知能等、親が金持ち等)で叶うor叶わないは決まります。 生まれつき障がいがあるとかで残酷にも夢が叶わない人はいます。 それで同じように生まれつき良い物を得れる人、生まれつき総理の息子とか孫とかビルゲイツの息子とかいるわけです。 そんな人達が努力なしで獲れるものを私は数十年頑張って努力して得れないかもしれない。 つまり社会は搾取してきてくるし、夢も叶わないし、欲しい物は得れないわけです。 ※私は大学教授に「君は一倍努力してるのに運が悪すぎる。社会は理不尽だ!を体現してる」と言われました。 んで、社会の為とか社会貢献とかの為に働いて。。。。でも社会は何もしてくれるわけでもないし、他人は搾取や攻撃してくるわけです。 仮に自分の為に働いてるのだとしても国は生活保護やソーシャルサポートを設けていて生きていけます。社会の為にも自分の為にも労働をする意味がわからなくなります。 穀潰しが生きちゃダメなら、日本人の半数は生産年齢人口じゃなくて働いていないわけで、憲法にも反しています。 生産性が大事ならそこらのどうでも良い人を雇うより今後AIを活用する方が良いでしょう。AIに仕事を奪われた人達も穀潰しになるんですかね笑 んで社会は自分に何もしてくれないので、社会や他人が喜んでる姿も全く嬉しくありませんし他人が敵にしか思えません。 また人類を発展させるために子供を産む人はいないでしょう大半が性欲や自分のエゴで産んでるよね、でも独身に対しては人類発展の為に産んだ!みたいな事言ってきますよね。でも滅びて良いんじゃないかと思っていますので子孫繁栄にも興味ありません。もちろん人類が絶滅するのは科学的に根拠があります。 今後私には寿命がうんとありますが、勤労意欲もなく、社会貢献にも価値を感じません。人生ハズレなので今後の成長も少なく、何をして良いのかわからないです。 仏教の理想状態ですが、明日から何を行動目的にして何をすれば良いのですか?

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「寛容」とは何なのでしょうか

私は短気な性格をしています。他人の欠点や失敗がすぐに目につき、それに対して一々苛立ちを覚えてしまいます。 また一方で他人の目を気にしており、自分が嫌味を言われるといつまでも引きずってしまいます。 嫌味は相手を不愉快にさせるというのは分かりきったことなので、自分が苛々してもそれを口に出さず、また嫌味を言われても必要以上に重く捉えないようにし、 「何をしようとその人の自由、不利益を被らない限り私が口出しすることではない、多様な考えの人がいて当たり前」 と、寛容な思考・行動ができるよう努めてきました。 しかしこれは「寛容」というよりはただ「無関心」なだけなのではないか、と思っています。周囲の「この人寛容だなあ」という人を見ていると、そもそも他者に苛立ちを覚えない、他者の全てが面白くて仕方ない、という人であるように感じます。容量が寛いから寛容なのであって、苛ついている時点で私はすでに容量が狭い。 かのマザー・テレサ曰く「愛の反対は無関心」だそうで、やはり集団生活を営むヒトという種族である以上、「他人に無関心である」というのはあまりよろしくないことではないかと思います。 正しい「寛容」とは何であり、またどのように身につければよいのでしょうか。 それとも私はこのまま「寛容」もどきの「無関心」を続けていてよいものなのでしょうか。

有り難し有り難し 58
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人の悲しみへの寄り添い方

自分の周りの人を大切にして優しくあるために、人の悲しみや苦しみに寄り添うためには想像力がとても大事だと思います。 例えば「Aちゃんの発言本人は悪気ないけど、Bちゃん側からしたらきっと傷ついたろうなぁ」なり、「C君前に◯◯のトラウマの話してたから、今表面上は笑ってるけど辛いんじゃないだろうか、でも私が今声をかけても余計無理させるだけかなぁ。。。」という風に自分なりに相手のことを想像して思いやることは必要だと思っています。 他方で、仏教的には、自分の心の在り方として目の前に起こったことをただ起こったことそのものとしてだけ受け止めるべし、自分の頭でそこから先を勝手に意味づけしてストーリーをしたてあげるのではなく、手放すのですとhasunohaで何度かアドバイスを受けました。 本当にそのアドバイスのとおりだと思うのですが、他方で他人との関わり方といった面では、どうこころえたら良いのでしょうか。。私の周りには、最初に書いたような普通に空気を読めるような人なら考えそうな想像力が無い人が何人かいますか、そういう人たちは精神性が高いというよりも視野が狭くて自分のことしか考えていない精神年齢が低い人に感じます。そして他人へエゴを押し付けないと言えば聞こえは良いですが、冷たい。 ただでさえでも、思いやりたいと考えるような近しい恋人や友人と対峙する時は、下手をすると執着や嫉妬につながりやすいという面もあり、距離感や自立がどんなに近しい相手でも大事ということや、気遣いや想像は大前提として自分のエゴだということはわかります。 でも他人への想像力を失った社会なんて灰色でとても生きづらいと思います。 他人との関わり方、想像力の持ち方と手放すということについてなにかアドバイスいただけると嬉しいです。

有り難し有り難し 16
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長い歴史で人が生きる意味とは

こんにちは。初めて相談させていただきます。 カテゴリの上の方にも来ているので皆さん同じことを考えていると思うのですが、 タイトルの通り、生きる意味をずっとずっと考え続けています。 良い家族にも恵まれ、友人にも恵まれ、職場の同僚も良い人ばかりで今までの人生、 対人関係で悩んだこともほとんどなく、酒は飲みますが、ギャンブルもタバコもやらず 貯金もしてお金に困ることなく生きています。 しかし、高校生あたりから人生を諦めたような気分が続いています。 理由はおそらく無駄なことを考えすぎているのだと思います。 「何故人間は生きているのだろう?何故私は生きているのだろう? どうせ約70年もしたら汗水流して築いた財産もなんの役にもたたず死ぬのに。 後世に何かを残す?この広い宇宙の小さな地球の、人間が人間として生きている短い歴史の、 小さな日本という国に私の数十年の働きで何を残すと言うんだろう? 歴史に於いては私の生きていた一瞬なんて蝶の羽ばたきくらいの短さなのに。」 と言った感じです。 こう考えているせいで労働をして貯金をしても虚しく、 仕事で必要な資格も「たかだか小さな国の日本の狭い業界でしか認められない資格を取得したところで何の意味もない。 そもそも歴史によって考え方や制度が変わるのにこの資格に普遍的な価値があるのか。」と考えてしまいまい、全くやる気が起きません。 当然、将来の目標や夢というものも持つだけ無駄と思ってしまいます。 余計なことを考えすぎると気分が悪くなるため、最近は休日にこのようなことを考えないように 変な酒の飲み方をして逃避をするようにもなってきました。 専門的ではないですが、哲学者の考えを学んでみたりもしました。 しかし、余計に無駄な事を考えるようになってきてしまい、 周りの人間からも少し変人扱いされることもあります。 (陰口などではなく、面白いことを考えている人くらいの感じですので害はありません) 長々と書いてしまいました。 全てが無駄と考えてしまっている私ですが、前向きに目標を立て それに向かって頑張るという行為を行えるようにはなりたいと思っております。 私は如何にして生きるべきでしょうか。よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 24
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死後みんな仏さまになって同じ世界に生きるのでしょうか

私の父は僧侶をしていました。 真宗の小さなお寺で、職業とは別で兼業していました。 でも、父は酔うと人に暴言を吐いたり、よそで女の人つくったり、言えないくらい、家族に迷惑ばかりかけていました。 私は母と家を出て、今は嫁いで家庭を持っています。 そんな父が急に亡くなりました。 僧をしていたので、父は「仕事」としてお経はあげていました。 悪人正機というのは、悪人であることを自分で認めた凡夫だからこそ救われると聞きました。 悪人であることを最後まで認めなかった父も、救われて仏さまになっているのでしょうか。 でも『地獄と極楽』という絵本を小さい頃読みました。 あの絵本では、生前ひどい人は地獄で苦しんでいました。 もう一つ、仏さまになったとして、その後どのように生活?するのでしょうか。 よく、私たちを見守って導いてくださる、と言いますが、この世でのつながりが深かった人のところに行き導くのでしょうか。 もし私が往生したら、父と同じ世界に行き、また娘としてくらすことになるのでしょうか。 とりとめなくすみません。 父の死も、生前の行いも、もう昔のこととして受け入れていますが、仏教の教えでは、このあとどのように生きているのか気になりました。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 61
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俗に言う、不良の優しさについて

今回もお坊さんの意見を聴きたく、再度質問させて頂きます。 悪人だった人が更生したり、他人に優しさを見せたとしても、元々普通に生きていた人や優しい人がいるから、更生や他人に優しくする事自体が普通であり、褒められることではないという意見がSNSやインターネットでよく見られます。 ただ、私はこの意見に少し疑問があります。 確かに、元々優しい人がいるのは事実であり、その人は褒められ、賞賛されるべきであると思いますが、それが悪人であったとしても同様であると自分は思うのです。そもそも、その人が悪人になってしまったのは相応の理由があるかもしれませんし、周囲の環境が悪く、他人のことを考える暇がなかった可能性があると思います。また、これは自分の考えになりますが、周囲に優しさを見せる事によって、褒められる、賞賛される事実を見せて、他人に優しくする事へのメリットを見せた方が、その人にとっても、周囲の人にとってもそちらの方が平和であると思っています(見返りが返ってくる前提の優しさはどうかと自分でも思ってしまいますが) ただ、自分と同じような意見が少なく、これは自分が間違ってしまっている可能性があると考え、また再度、お坊さんの意見を聴きたいと考えました。 お坊さんは悪人の優しさについて、どのように考えますか?ぜひお聞かせ願いたいです。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 48
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幸せになれない

勉強しようとすると抑えられない破壊衝動と怒りが込み上げて、家の中にあるものを片っ端から壊したくなります。これだけ勉強が嫌なくせに、大学は良いところに行きたい、幸せになりたいから尊敬できる人が多い場へ身を置きたいと、夢(もはや妄想)が膨らんでいきます。 勉強ができない自分、他人に必要とされることは無いのに自分は他人を求めて依存しないと心が潰れてしまう自分、自分が好きだった事も嫌になった自分、恋人に依存して見放されそうになった途端自殺をほのめかして困らせてしまう自分、他人のために生きられない自分、どうせ自分には出来ないと全て諦めた自分、自分の内面が全て嫌いで、今生きるのが本当に辛くて苦しくてたまらないです。今の現状、自分の事も自分の周りの事も、全てが嫌です。 今後生涯、幸せに生きている自分が思い描けません。近い将来、ふと思い立って自殺する自分が鮮明に思い描けます。 自分がどうなりたくてどうしたいのかがわかりません。 こんな苦しくて辛い人生を送り続けるなんて耐えられません。だったら死んだ方がマシです。 この辛い気持ちをどうすれば変えることができますか。全てを諦めて希望のない心をどうすれば回復させることができるのでしょうか。

有り難し有り難し 9
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