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hasunoha 問答検索結果 : 「母親 できない 怒り」
検索結果: 849件

また長男のことで。

3度目のご相談です。 前回前々回と温かい御意見をいただきなんとかまえを向いて過ごしていました。 しかし、一難去ってまた一難です。 息子は、前回の相談以降やる気を出し、予備校にも通い始めました。 が、この日曜日に約3年ほど交際していた彼女にふられ、別れたらしく、最初の1日、2日は、男友達と賑やかに過ごし、なんとか乗り越えるのかと様子を見ていました。 が、昨日から食事もとらず、風呂も入らず、部屋に引きこもってもちろん予備校も無断欠席です。 失恋なんて良くあること私にも経験がありますし、それこそ自分で乗り越えないと周りの人間がどうすることも出来ないしと、何も言わず様子を見ています。 その彼女とは、将来の事も考えていた様子で見ている限り息子はそれに向けて大学受験も頑張るつもりだったのだと思います。 あまりにもタイミングが悪すぎ、もともとわたしがあまり気に入っていなかったのも手伝って、彼女に腹が立つやら、このまま息子はどうなるのかと、せっかく浪人に立ち向かいスタートし始めていたのに気持ちが落ち込み、私自身の資格試験の勉強も手につかない状態です。 黙って見守るつもりでいますが、先行きが不安でたまりません。 どうすれば宜しいでしょうか?

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父を思い遣ることができなくなりました。

以前夫のことで投稿させていただきました。今回は私の実父のことです。父は現在75歳で一人暮らしをしています。父は真面目に長年働いて元々優しくて礼儀に厳しい人でした。それが今から10年くらい前から様子が変わり、誰か知り合いの女性にお金を「貸す」という名目で渡し続けるようになりました。私と弟が気づいたときには貯金の残高もほとんどなくなっており、毎月の年金も支給されるとすぐに「頼まれた」といって貸しています。周りの者から見ると明らかに騙されてるのにも関わらず、「気の毒な人だから」「騙す人じゃない」「ちょっとずつでも返してくれてる」といって相手の人がどこの誰かも絶対に言おうとしません。貯金もなくなり年金もすぐに渡していては父自身の生活ができません。「今日食べるものもない」といって毎月のように私にお金を送ってほしいと言ってきていました。でも相手の人のことも言わないし、お金のことになると顔つきが変わり目の前にあれば私の財布も持っていこうとする父に腹が立ち、もう一切お金を援助することをやめました。 年金を全部持つと全額すぐに渡してしまうので、今は弟が管理していて少しずつ父へ送金していますが送金したらすぐに「また貸したから」と言って追加を依頼しています。弟は、父はその人にマインドコントロールされてるみたい、と言います。 子供のころの思い出など同時に思い返しますが、優しい父だったことを差し引いても今の父がイヤでたまりません。 親戚の叔父に弟のところに同居したら、と勧められたとき、「死んだほうがまし」と父は言いました。弟の嫁がその場にいなくて良かったと思い涙が出ました。 以前は母の法事もきちんとしていたのに、もうここ数年はお金がかかるから、と言って何もしなくなりました。先日も大変お世話になった親戚の人が亡くなったのに、一番に言ったことは「香典いるなぁ」でした。年金の管理を弟がしてることも、「取られた」と言います。 私も弟も父をもう信頼していませんし、戸籍上親だから、というだけで仕方なく関わっていますがこのような父にも親を思いやる気持ちを持たないといけないのでしょうか。

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葬式をあげてほしくない

死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 411
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