13歳の時に祖母を亡くし火葬しました。 その時の祖母が火葬されたときの場景が今だ20年以上たった今でも私の心の中ではトラウマになっています。 人を焼くなんて、骨になった祖母を見て本当に残酷だなと思いました。 また私自身も亡くなって火葬されるのだと思うと怖くてしかたがありません。 このような恐怖やトラウマをどう克服すれな良いのでしょうか? お教え下さい。
夫が自死して2か月が経ちました。過労により精神を病んでいたのだと理解しています。 夫の死後、仏教を学び、これまでの苦しさは煩悩であり、夫は自らの煩悩に飲み込まれるように亡くなったのだと思うようになりました。生きることは苦しいことだらけ。執着を無くすことが悟りへの道。 「生きたい」という欲望は、「生かされている」と感謝する気持ちで付き合うことが大切なのかなと思うようになりました。 苦しんでも良い、この身を引き裂かれる苦しみすらもいつか何かを悟る学びになると思っています。ですが、お腹を痛めて産んだ息子、血を分けた兄弟を失った悲しみを抱えた義実家の方々の苦しみの前ではそんな事を申し上げることもできません。冷静な自分が、自分だけ苦しみから逃げているような非情な感覚がします。 なぜ1歳の娘を、大切にしていたお父さん、お母さん、お姉さんをおいていってしまったのかという怒りが昇華できない自分もいます。これはどうしようもない感情なのだと半ば諦めかけてもいますが・・・できれば故人のことは温かい気持ちだけで思い出してあげたいものです。 人を幸せにしたい、自分も幸せでいたい。それ自体も煩悩でしょうか。よりよい未来を望むことに罪悪感を感じます。どのような心がけで生きていけば良いのでしょうか。「悟る」ことと「諦める」ことの境界に悩んでいます。ご教授頂けたら幸いです。
先日、クラスメイトがオタクを差別するような発言をしていたのでこの質問をしました。 自分でオタクで、アニメやマンガ、二次元のキャラクターが大好きです。 学校でも友達とアニメの話をしたりします。 問題はその学校の昼休みに起きました。 校内放送でアニメソングが流れていたのですが、前にいたクラスメイトが 「なんでこんな曲流すの?本当に嫌。オタクとか気持ち悪いんだけど」 とオタクを差別するような発言したのです。 自分は知らんぷりしていましたが、心の中では怒りと悲しい思いでいました。 最近はオタク文化も世間に広がりつつあって周りの人達もあまり差別するような発言は言っていませんが、SNSなどではオタクを差別する文が多くあります。 確かにオタクは二次元が大好きでイレギュラーな存在かもしれませんが、それでも普通の人と同じように働いたり勉強したりしています。 オタクはこれからも差別され続けるのでしょうか。オタクが差別されるのは仕方の無い事なのでしょうか。 ご意見をお聞かせ下さい。
僕は日々陰鬱に生きていて、変わらなければならい節目を迎えた時、生きる意味について考えるキッカケを授かりました。生きる意味というか、今、生きているということに納得する理由がほしくて。僕はその理由をなんとなく自分の中に見出しました。 それは「人は善を為そうとし、真に為し得ない。優しくあろうとし、真に優しくあれない。愛そうとし、真に愛せない。」その善を為そうと、優しくあろうと、愛そうと努力することこそが生きる悦びだと、僕はそう納得していました。そしてその「生きる意味」を職業(カウンセラー、精神科医、臨床心理士、お坊さんなど)にしようと、大学を入り直すことさえ考えました。 しかし、その友達は、僕の生きる理由を「現実を決済する」こと、僕が信じる「美しいものを美しいものだと感じる心そのもの」を妄想と否定し、浄土、成仏の存在を真っ向から否定しました。 僕は、その友達の考えを否定することはできませんでした。かといって僕の本来持っていた考えを否定する気を起こそうとも思いませんでした。 またある人は「誰かがあなたに、本音や弱音を告白しているときに絶対に言ってはいけないことがある。正論です。」と言いました。 浄土、仏性、成仏は、そして仏教は、自己満足させるためだけの嘘なのでしょうか?美しいものを美しいものだと感じる僕のこの心は妄想でしかないのでしょうか? それは僕が在る、と考えれば在る、のだと信じておりますが、僕はこの途方もないやるせない気持ちをどうにかしたいのです。 僕は恐らくこの(実存哲学?という)正論を信じると一生不幸だと思い、しかも僕はそれに対してどうしようとすることもできないのです。 僕は、仏様から授かった自分の寿命を全うするために死ぬまで生きようと思っておりましたが、その考えが不安定にならざるを得ないのです。 僕はこの儚い気持ちにどう向き合えば良いのでしょうか?お智慧をお貸しください。 長く稚拙な文章となってしまい申し訳ありません。また仏教思想を自分勝手な解釈で捉えております。それは違うというところ、誤解があれば、感謝と敬意をもってお説教を受け賜わります。 便宜的に、思想的に、僕はその人を友達だと書きましたが、本当はツイッター内において、フォローフォロワーの関係にすらなっていない、赤の他人です。 (´・ω・`)...
人間とは偽善と悪の塊だとは思いませんか?
半僧半俗な生活をしている日本の僧侶。 本山が本社で末寺はフランチャイズ店のような仕組みも 理解できません。 日本の仏教って名ばかりだな。と思うことが多々あります。 お寺の息子や娘に生まれ落ちて各宗派の大学を出て ちょっと修行して資格を持ち、家を継ぐ。そしてそれだけで人々から拝まれ、敬われるのって・・・ 何か違う気がします。 たいして苦労もしていないお坊ちゃま僧侶に偉そうな事を言われても何も説得力もありません。 お坊さん自信はこういった日本の僧侶の状況を どう思っているのでしょうか?
こんにちは。 近所にあるお寺や神社には、ほとんどホームページがありません。 もしかしたらほとんどのお寺にも無いんでしょうか。 これだけネットしている人が多いのに、どうしてなんでしょう? 単に、必要ないからなんですか。忙しいんでしょうか。 いろいろ調べたいときに情報が少ないです。 わかる範囲でご回答いただけませんでしょうか。 よろしくお願いいたします。 ホームページを持っていない方に質問です。 1. なぜ持っていないのでしょうか? 2. 今後予定はありますか? いつからですか? 3. 今後必要な方は、なぜ必要なのですか? 4. 今後も必要でない方は、なぜ必要でないのですか? ホームページを持っている方に質問です。 5. いつ作りましたか? 6. どのように活用(どんな情報を発信)していらっしゃるのでしょうか? 7. 更新は誰がしていますか? 8. 更新はどのくらいの頻度でされるのでしょうか? お忙しいとは思いますが、よろしくお願いいたします。
現在29歳、難聴が発覚してから15年。健聴と、難聴、人生半分ずつ生きてきました。 年々難聴が進行し、昔に比べれば周りに隠すことなく打ち明ける事は抵抗なく出来るようになってきたものの、コミュニケーションはどんどん取りづらくなってきており、目に見えない障害が故に、なかなか理解して貰いにくい状態が辛いと感じる事が多々あります。とくに、飲み会など楽しい場で会話の輪の中に入りづらいと感じた時。本当はみんなと楽しみたいし、こういう場こそ人間関係を深める絶好の場だと思うのに、話の腰を折るのが嫌で、何度も聞き返しにくい、皆も楽しみに来てるのに通訳も頼みづらい。なので、無理して参加しても、雰囲気を乱さないように話の内容が分からなくてもニコニコ笑って相槌うって。終わった後は楽しかった事より疲労の方が大きくて。飲み会に誘われた時も正直躊躇してしまいます。どうすれば、楽しめるようになるのでしょう。
0歳の子育て中です。 ご飯を食べてくれなかったり夜泣きがひどかったりで最近余裕がありません。 今日もご飯を泣いたり遊んだりで食べてくれず、下げたらまた大泣きされて怒鳴ってしまいました。 母性がないのだと思います。 こんな母で申し訳ないという気持ちでいっぱいです。
サークル活動としてボランティアでゴミ拾いをしております、サークル仲間とも打ち解けゴミ拾いの際も楽しさを見出せておりました。 しかし、仲間内からこのような事を言われました ゴミ拾いやボランティアは慈善事業であり 困ってる人や環境を救うのが目的であり それに 楽しさ を思ってしまうのは 困ってる人へ対して困ってる事を自身が楽しむ為に見ている と指摘されました。彼の話では 救命士や消防士も現場で人を助ける際に楽しみを持ってやってるとは思わないそれと一緒だ。 と言われてから 善行を楽しみと捉える事は 悪意なのか? と考えこの度ご質問させて頂きましたら
人生嫌なことがありすぎて、少しの幸福も不幸で塗り潰されてしまいます。 嫌なことがありすぎて、少しでも嫌な気分にならないように、最近はめっきり感情が薄くなってしまいました。 ほとんどのことに何も感じず、あるのは悲しみとか怒りくらいです。 人生、何で嫌なことばかり起こるのでしょうか? 神様からの試練?こんなに心が死にかけながら乗り越えるものってなんですか? なんだか、ベランダから飛び降りたくなってきました。
書類の期限が守れない、人との約束を守れない、自分の計画通りに一日が過ごせない。 といった失敗をしてしまったとします。 普通なら、なぜその失敗をしたか考えて、改めていくと思います。 しかし、その、なぜ失敗したかと考えることも、めんどくさいし、したくありません。 改めないから、また失敗して、自分が苦しくなるだけなのに。 どうしたらよいでしょうか。
父が亡くなり、納骨するにあたり、先祖代々の菩提寺様より入檀請求書なるものへの記入、捺印を要請されました。 内容を確認したところ、会費、火災保険料、離檀料など、お金に関わることは全て「別途規定する」とだけで、具体的な金額が示されていませんでした。(別の書類にも記載はありません) 我が家は弟である長男が継ぐことになりますが、子どもはおりませんので、先々墓じまいをすることになると思いますが、その際、この契約書を元に法外な金額を請求されるのではないかと不安です。 このような誓約書はお寺様において一般的なものなのでしょうか。 先祖代々のお墓なのに?と疑問もあり、正直、不信感しかないので、誓約書は出さず、離檀して納骨は樹木葬等にした方が良いのではないかと思えてきました。 お寺様によるのかもしれませんが、あまり耳にしたことがないものなので、もしご存知の方がいらっしゃいましたら、御教授いただければ幸いでございます。
死とは苦しみからの旅たちなのですよね? 死んだら無になるのですか? 残された人は苦しみが増しますよね。 それは亡くなる人にとっても苦しみなのではないのですか? ということはやはり死ぬことは苦しいことなのではないですか?
仏教は日本人の死生観に深く根を下ろして文化として素晴らしいものがあると思います。 しかし、こんな歳になるまで不勉強で恥ずかしいのですが、大乗非仏説を初めて知りました。 そして原始仏教と日本の仏教はかなり異なる事、律蔵があまり重視されなかったので、日本の僧侶は在家と変わらない事を知りました。 よく、キリスト教徒が進化論や地動説を信じないのを不思議に思ってきましたが、日本の仏教は実は(全てではないでしょうが)偽経だったと分かってどのように折り合いをつけているんでしょうか? 釈尊は口伝でしか伝えなかったから、全ての経蔵は直説でないとか、全て仏の御心から方便として出た物だとか、あまりに苦しい言い訳に見えます。また鰯の頭も信心からと言いますが、信心とは受け容れる事から始まるから信心はそこを問題にしないと言うのもそこに身を捧げる者としては辛い選択ではないでしょうか。 大乗非仏説は新しい概念ではないですが、時代を経るに従って消えることもないでしょう。今後、このまま伝統を重んじて変わらない事を良しとしていくのか、それとも時代と共に新しい研究成果を反映して変化していくのか、どのように考えられてますか?
何故、葬式でお坊さんがお経を誰もわからない言葉で長々と読むのでしょうか?なぜそこにいる人々にわかるような言葉で読まないのでしょうか?あれじゃただの雑音です。 せっかくですし自分はお経の内容を知りたいと思っているのに、あれじゃ時間の無駄です。 ただでさえ悲しいのにあんなに長々と意味のわからない音を聞かせられるとか、お坊さんが人々にさらに苦しみをあたえています。 ああいう喋り方じゃなきゃ死者があの世に行けないということはないでしょう。 木で木を叩いて音を出し、声帯から決まった音を出さないと死者があの世に行けない理由もないでしょう。 ありがたいことを読んで悲しんでいる人の心を楽にさせてあげているわけではないでしょう。誰も理解できていませんから。 ああいうやり方にしないと死者への敬意を表せないわけではないでしょう。葬式で大事なのは心から悲しむことで、心から悲しみさえすれば決まった一つのやり方でやる必要はないからです。 自分が推し量るに、ああいうやり方じゃないとありがたみがなくなり誰にでも葬式ができるようになって、お坊さんが金儲けの手段を失うからだと思っています。 悟りを目指し、人々を救うことを目指しているお坊さんが、そのような誤魔化しをして金儲けをしている理由を教えてください。 攻撃的に感じるかもしれませんが、これは子供の頃から気になっていたことなので。どうか誤魔化さずに本当のことを教えて下さい。
前回質問した時 生きがいは後から見つけるものと教えてもらったのですが結局見つかりませんでした まだ若いからそんなに早く見つかるわけないと思うかもしれませんが、今生きている理由が欲しいです というのも自分は周りにお道化て接していて 知らないうちに本当の自分ではない 所謂もう1人の自分のようなものが生まれました 前までは特に気にならなかったのですが 高校に入り、彼女ができ、 一年過ごし、今、彼女と別れそうになっていて お互い精神が不安定で、相手はいいですが 僕はもう生きている理由が見つからず どんな趣味より死んだ方がずっと楽だと思います 死ぬことが芸術のように美しいとおもいます 人の血を見ると性的に興奮するほどです 自分の人格が壊れていく事が怖いです 周りの目が怖いです 完全なる第三者以外信用できないです 親にも本当の自分をみせられないです 自分でも本当の自分がどっちなのかわからなくなってきました。 もはや生きていないといけないとか、生きてさえいればどうにかなるとか、全然響きません。 でも心の何処かにまだ生きていたいと思うのかもしれません。こうやって質問する事で少しでも生きてみようとしてるのかもしれません。 もう生きるのに疲れました。 このまま苦しい人生を送るなら 死んだ方がましです 最近は自傷をしそうになり、 結局やめました しかし、自傷したい衝動が抑えられません。 ただ死にたいという感情だけが頭の中にあります。 寝ても覚めても死ぬことを考えています。 頑張れとか期待されると苦しくなります。 優しくされると死にたくなくなります でも優しくしてくれるのは かりそめの自分に対してで本当の自分ではありません。 そうしてかりそめの自分に触れた時死にたいとおもいます。そうすれば僕に関係した人の中にはかりそめの自分だけが残り、本当の自分になるからです そうして本当の自分を消してしまいたくなります。 無意識に嘘をついてしまって 直せません。 何度も直そうとしても そのたびに嘘を重ね、自分の首を締めています。 生きている事がそんなに偉い事なのでしょうか 死ぬのは本当に悲しいことなのでしょうか じぶんには死ぬことは名誉だと思えてなりません この悩みについてお坊さんの意見が聞きたいです。 めんどくさい人間ですいません。 こんな質問困りますよね…