はじめまして。 年末に旦那の浮気が発覚しました。 既婚女性とのお互い好きだなと思うメールがあったり。仕事で帰れないと言った日に会っていたり。 ただ問い詰めると一度だけ酔っていて覚えてないが身体の関係が、あったかもしれないと言われました。 その後はなんどか飲みに行ってるが、本当に何もない。との事です。 旦那は浮気をした時もしてない時も普段と変わらず私を大切にしてくれます。 優しいですし、愛情表現もしてくれます。だからこそ 旦那が浮気なんて考えもしてなくてショックで 今だに信じられません。嘘をついてまで会ってて 彼女にも私にも好きと言っている旦那が信じられません。 今は彼女とも会ってなく 私と子供を愛してるからもう一度やり直して一緒に居たいと言っています。後悔はあるようです。 ただ旦那への愛情はほとんどなく、優しくできない時やイライラしてしまう事が多々あります。愛情も尊敬も信頼もなくなった人と一緒に居るのは精神的につらいです。 今はこの事をストレートに言うべきか 迷っています。どうしたら穏やかな日々と気持ちが落ちたりしない日々をとりもどせますか? どうかアドレスよろしくお願いします。
どうしても過去に執着。忘れられない。 煩悩を断ち切るには?
いつもハスノハに心を支えてもらっています。 ありがとうございます。 お手数おかけしますが 何とぞお答えいただければと思います。 最近、一度きりの不倫に対して 因果の報いを受けて心から反省し 更生するために生活を見直し、 前に進む毎日を過ごしています。 そんな中、 浮気相手との関係を終わらせるやり取りの際 心無い言葉をかけられました。 私は、 もう二度と連絡を取ることはないため 荒波を立てたくなかったので 甘んじてその言葉を受け入れ終話しました。 ですが、その心無い言葉を受けた後 何故このような人と関わってしまったのだろう、と悔しい気持ちになりました。 後悔は煩悩となる、とハスノハで知りました。 煩悩に打ち勝つためには、 今回の出来事をどのように受け止めて 今後生きるバネとすれば良いでしょうか。
こんばんは。僕は仏教を学んでいる者(迷走中)です。 僕は真宗を中心としていままで学んできましたが、最近では曹洞宗や黄檗宗、臨済宗など禅宗にも興味を持っています。 そこで大きな疑問が湧きました。悟り(真宗では覚り)についてです。 悟りは超訳すると、「煩悩が消えて物事をあるがまま観ることができる境地(無分別智)」ですよね。 曹洞宗の道元禅師は、正法眼蔵に「唯仏与仏」という言葉を残していますが、意味は「悟りの境地は仏にしか分からず、人間には分からないものだ」と理解しています。 僕が間違っていなければですが、道元禅師は悟り(一体どんな意味の悟りなのか定かではありませんが)の境地に至った人だと理解しています。黄檗宗の隠元も悟ったと理解しています。 真宗では「煩悩具足」と言われ、「人間は煩悩そのもの。煩悩は消えない」という前提で説かれています。ですが、真宗でも「覚り」という表現をする。 人間には悟りを開けない。これは、結構理屈で考えても分かりますよね。煩悩は消えないし、誰でも人間の本性(自己中心性)は無くならない。 歴史上では、仏陀(ゴータマ)が悟りに到達したみたいですが、仏陀に関してはそもそも人間ではなく仏なので悟ることができたのではないかと思います。 ところが、人間である道元や隠元、良寛など悟りに到達した人物が存在するみたいです。 これはどういうことでしょうか?いわゆる「生死即涅槃」や「煩悩即菩提」に到達したということですか? しかし、基本的には煩悩が消えた状態の悟りを目指すべきですよね。だからこそ、浄土系の仏教では死後の成仏に救いを求めるはずです。 仏教の目的とも言える「悟り」に到達できないという問題は、仏教の存在意義も問われる問題だと思います。 仏陀の悟りと禅宗や真宗などの悟り(覚り)とは、どう違うのか分かりやすく回答していただけると有難いです。
初めて質問をさせていただきます。 ある方と飲み会で話した時のこと。 「売れたい、有名になりたい」という言葉を幾度となくその方は声を大にして話していました。 実際にその方は自分の分野で成功しており、それはその功名心と向上心によって為されたことは間違いなさそうです。 しかしその言葉を向けられた私は彼に対して強い侮蔑を覚えました。汚らわしい、と感じました。 その「汚らしい」感情で実際に成功していることに妬みも覚えてしまいました。 しかし功名心は誰しも持つものなのはわかっております。であれば「功名心を安易にひらけかすこと」を汚らわしいと感じているのでは、という考えに至っております。 長い間その方への強い妬みに囚われ、必死にその原因を自分の心の内に求めて、ようやく上記の考えに至りました。 その上でこの先、自分自身が納得し、相手を受け入れるために皆様の解釈を頂きたく、質問をさせていただきます。 他人の功名心に対して汚らわしいと感じるのは歪んでいる心の有り様なのでしょうか。 自身が「見たくない、汚らわしい」と判断しているような言動を受け入れるための、何か方策や教唆はありませんでしょうか。 よろしくお願い申し上げます。
性欲・物欲が強くて困っています。性欲の強さはAVは大量にありますし、それでも満足しないで、風俗に行ってしまうので、更にお金がかさみます。 物欲も強くてついつい買い物をしてしまいます。特にインターネットでAmazonやヤフオクが大好きです。部屋はゴミ屋敷のようになるし、とにかく物が多いんです。かといって大事にしているかというとそうでもなく、気分の上がり下がりで上がった時に買って下がった時に売っての繰り返しです。之もお金がかかります。結果ある程度の膨大な借金を抱えてしまいました。これは仏教でいう渇愛ですかね。小欲知足はわかっているのですが、実行できない自分がいます。念仏は高声ではありませんが、時々思い出したように唱えているのですが、この煩悩はおさまりません。私の煩悩を静めるためにはどうしたらよいのでしょうか?
職場に新しく入ってきた人物が傲慢な態度で困惑しています。 新人といっても40代で業界の経験があるせいもあり態度が大きく困っています。 付き合い方はどうすれば良いのでしょうか? 自分が正しいと思い込んでいてこちらの言うことを聞きません。
私は過去、自分がとても酷いことをしましたが、いつも人のせいにして自分は悪くないと思っていました。 でも今は実は最低な人間だと気づき、後悔が頭から消えません。 高校の時、彼氏にフラれそうになって辛い時、受験前の親友に相談して時間を奪ってしまい(1回だけ電話で相談した)友人は受験に失敗してたぶん恨まれ疎遠になったこと 大学の時、親友とうまくいかない時に別の友人に悪口のようなことを話したら、その友人から親友に告げ口されてしまい縁を切られそうになったこと(謝りましたが前の関係には戻れません) 新卒で就職した仕事が辛くて続かなかったことを会社の人間関係のせいにしていること(実際に人間関係で私より前に同期が早期辞職しましたが、私の努力も足りなかったと思います) 会社を辞めて次の仕事までの間、お手伝いで学生時代のバイト先の恩人が開いた店で働きましたがその人とトラブルがあり、(仕事でミスをし酷い言葉を言われた)前の会社をやめて精神的に弱っていたこともあり自分から縁を切ってしまったこと 思い出せば数えきれないくらいの後悔、どれもこれも自分のことしか考えていない自分勝手で最低な行いだと思います。でもその時は相手に対して一生懸命のつもりでした。でも自分がちょっと辛くなると逃げたくなって人を傷つけるという自分の性質に最近気づきました。 今は結婚もして子供もいますが、主人に対してまた不満が募り、同じ過ちを繰り返してまた大切な人を失うかもしれないと怯えています。その反面、自分が過去にそう言う酷いことをしてきた報いだとも思うし、そんな人を傷つけてきた自分だけが幸せになっていいのかと思って前に進めません。 自分の過ちから学んで子供にも教えていこうとおもいますが、なにより自分が気づいてないだけで周りからは最低だと思われていただろうと思うとショックで、立ち直れません。そしてこんな時でも自分のことばかり考えているなと思います。 これからどのような心構えで前に進めばよいでしょうか。
昔から気になっていた顔にあるほくろが除去直前に顕著に大きくなってきたので、これ以上大きくなっては審美的に困ると思い、除去しました。 しかし今更になって迷いが出てきました。化粧をすれば跡は殆ど分かりませんが、もちろん自分は分かるし、光の加減によっては目立つ気もします。 しかもほくろ占いでは良い位置であることを知りました。見た目だけを気にして顔に傷を付けてしまったことに罪悪感もあります。 ほくろを取ってしまって良かったのか、どうなのか、日々自問自答しています。 自分の決断を信じる、迷いを断ち切るにはどうしたらいいのでしょうか。
過去の悪行…親の介護…仕事上の悩みなどありますが少し落ち着き食欲も出てきて元気になれたかなと思っています…しかし良くない事に性欲まで出て来て風俗に行きたいと思う様になりました…勿論良くない事だとはわかっています…この煩悩どの様にすれば良いですかね…?
これまでの人生で、自分というものを無自覚に蔑ろにしてきたのではないかと思っており、今更ながら自分は何者で、何が好きで何が得意なのか、といったことをあらためて見つめなおす必要があると考えています。 というのも、特に仕事において、他人に自分の努力を認めてもらいたい、という強い欲求が自分のなかにあり、自分への評価を他人に委ねてしまっていることに気づいたからです。 自分の軸とも言うべきものがもっとしっかりしていれば、自分への評価を他人に委ねることもなく、そのことによって生じる煩悩も小さくなるのではないか、と思っています。 しかし一方で、仏教の教えに「無常」「縁起」「無我」というものがあり、「あらゆるものは常に移り変わっていき」、また「あらゆるものは関係性のなかで成り立っており」、それゆえに「永遠不変な自分というものも存在しない」と理解しています。ゆえに、自分という、常に移り変わっていくものに執着しすぎると、それは煩悩に変わり、人生が苦しくなってくる、というのも実感としてあります。 自分のことをもっとよく知りたい、必要以上に他人に依存しすぎない自分になりたい、という執着は、仏教の教えに反するものではないでしょうか。もしそうした思いが煩悩になるとしたら、そうならないための知恵をいただけると助かります。
夫が自死して2か月が経ちました。過労により精神を病んでいたのだと理解しています。 夫の死後、仏教を学び、これまでの苦しさは煩悩であり、夫は自らの煩悩に飲み込まれるように亡くなったのだと思うようになりました。生きることは苦しいことだらけ。執着を無くすことが悟りへの道。 「生きたい」という欲望は、「生かされている」と感謝する気持ちで付き合うことが大切なのかなと思うようになりました。 苦しんでも良い、この身を引き裂かれる苦しみすらもいつか何かを悟る学びになると思っています。ですが、お腹を痛めて産んだ息子、血を分けた兄弟を失った悲しみを抱えた義実家の方々の苦しみの前ではそんな事を申し上げることもできません。冷静な自分が、自分だけ苦しみから逃げているような非情な感覚がします。 なぜ1歳の娘を、大切にしていたお父さん、お母さん、お姉さんをおいていってしまったのかという怒りが昇華できない自分もいます。これはどうしようもない感情なのだと半ば諦めかけてもいますが・・・できれば故人のことは温かい気持ちだけで思い出してあげたいものです。 人を幸せにしたい、自分も幸せでいたい。それ自体も煩悩でしょうか。よりよい未来を望むことに罪悪感を感じます。どのような心がけで生きていけば良いのでしょうか。「悟る」ことと「諦める」ことの境界に悩んでいます。ご教授頂けたら幸いです。
初めてご相談をさせて頂いております。 そしてお忙しい中、目を止めて頂いてありがとうございます。 まずは必要そうな問答全てに目を通す前にこうして質問する甘えをお許しください。申し訳ありません。 ありがちな悩みです。 私は、私以外の全ての人 全てのものが素晴らしく見えます。 そして私はその最たる底にいて、出来損ないで無価値なものに思えます。 冷静に考えれば、人様に小さくとも褒めて頂く事があるのだからそんな事はなく、ましてや全ての中で自分だけがゴミなんてある意味特別になってしまうし、ただただ自分が思い込んでいるだけとわかってはいます。 それなのに何度も何度もそうやって自分を苦しめます。 それがさらに自分への呆れや、苦しむべき人間だから苦しめているのでは?という感覚にも繋がっています。 止めたいです。 きちんとした良い存在になりたいのに。 自分の駄目な所も受け止めた上で人にも自分にも強く優しく、そんな風になりたいんです。 どうしたら自分を無意味に苦しめようとせず、しっかり自分も愛せるようになりますか。 そして、合っているかわからないのですが、苦しめてしまうような時の自分の心は飢えのような感覚に思えますが、飢えだとしたら私は何に飢えているのでしょうか。 支離滅裂になっていたらすみません。 お忙しい中こんな文章をここまで読んでお時間割いて頂いたこと、本当にありがとうございました。
はじめまして、半次郎といいます。 会社の昇進の事について相談いたします。 中途入社し、人間関係が上手くいかず2年目にパワハラで体調を崩しました。私は人付き合いが下手て周りの状況の把握ができず上手く付き合えなかった事にも原因があると考えています。 復帰後、精神状態がおかしく溜まった心のモヤモヤを周りに愚痴(悪口になっていたこともあった)をこぼし、時間がたって正常になった時ひどく落ち込みました。 会社で働けないと思ったりしていた中、復帰の際には周りの人に助けられとても感謝しました。本当にありがたかった。 その後、移動もありました。移動先でも期限の迫った大変な仕事の丸投げがありました。 同期や周りが昇進する中、会社で一人資格試験に合格しても昇進がありません。今までは、みんな試験に受かって昇進しています。今年も前年度と同じく会社で一人試験に合格しました。しかし、社長の年始の話を聞くと昇進はないと感じています。また他にもそんな予兆を感じます。 社長に酷く嫌われていると感じています。その心当たりもあります。今後、昇進がないことが予想されるため仕事のモチベーションがあがりません。昇進しないことはいらない人材と示していると感じます。 またリストラがあるような会社ではないと感じていますが人事を見ていると自分のモチベーションを下げるための人事ではないかと思う点もあります。そう考えているとリストラの事も考えて暗くなります。 人付き合いが苦手のため今の環境以外でうまくいくとも思えず死んでしまいたいと思ってしまいます。体調を崩してから、些細な事で死にたくなります。 しかしながら会社に対して助け頂いたと感じていることもあり大変ありがたいと思う気持ちもあります。頭では、家族のため、お金のためと割り切っていこうと思っています。しかし、張り合いを感じられず落ち込みます。 自分の至らなさダメさを痛感し死んでしまいたくなります。 嫁にはいろいろ助けられ大変ありがたく頭が上がりません。 現実を見て自分の中で仕事を続けることで答えは出ていると感じていますが、仕事をすることと、生きていくうえで楽しみが見いだせない。 また些細な事で死にたくなります。今後の生き方、仕事の仕方についてアドバイス頂ければありがたいです。 よろしくお願いいたします。
おはようございます。 前回に引き続き浄土真宗の教えについて質問させて下さい。 吉武文法様の御回答より引用 〉「覚りの世界に触れさせていただく」の具体的な相が「南無阿弥陀仏」のお念仏です。御念仏を申すところに阿弥陀仏の願いを聞き、智慧がはたらくことを感得する。 〉それは私自身が「まこと」になるのでなく「念仏のみぞまこと(歎異抄)」であるという感得により「まことならざる私」が明らかになるという形での覚りとの接触です。 かなり乱暴ですが、例えるならウサインボルト(阿弥陀様)の存在を知る事によっていかに自分は足が遅いか、まだまだダメな存在(煩悩にまみれた存在)かという事に気づけば、具体的な距離として自分のダメさに気づく事ができる。 そのダメさに気づく事ができれば、もっと練習(修行やお念仏)をしよう。と具体的に問題が解決に向かう知恵が出る。 という様な事なのでしょうか? どうも私の理解力が不足している様で、前回の御回答を通して「凡夫の君には煩悩をなくす事はできないのだから、生きている間は煩悩まみれの苦しいままでいるしかないじゃないか。」と言われている気がきました。 それとも、死後は極楽に往生するという教えを苦しんでいる「今」の私がお念仏を通して触れさせて頂いたとして 「死ねば確実に苦しみから免れる事は約束されているのだから、今苦しくてもいつか終わるじゃないか!苦しみながらでいい、気楽にいこう!それをいつも忘れない様に南無阿弥陀と唱え、覚りに触れ続けましょう!」と仰っているのでしょうか? もしトンチンカンな事を言っているようならば、ハッキリと仰って頂いてかまいませんし、回答者様の個人の味わいで問題ありませんので、お手数ですが御回答下されば幸いです。
仏教における幸せとはなんでしょうか? 修行を積んで悟りを得ること? 煩悩を滅し苦しみから解放されること? 私にはよく分かりません。
自分が通ってた高校がおかしいのか、それともおかしくないかを質問させていただきす。 前に質問させて頂いたことで精神面ですごく悪くなった時に友達に嫌われるような行動をしてしまったことがあると書いたのですが、その時に自分は周囲に迷惑をかけてしまいました。 そのことがきっかけで自分は先生、勉強や悩みを聞く人や生徒がいっせいに自分のことを陰でいじめるようになりました。 例えば悪いうわさを流したり、住所をばらすとか盗聴してるとかを言われたり、先生には卒業証明書に「お前のこと悪く描いといたから仕事に就けないかもな」とも言われました。自分は病気だったと言ってもまったく理解されずお金や土下座を要求されます。 生徒にも先生にも言われたり、生徒を支援する人に関しては生徒と楽しく陰で自分の悪口を言っていました。 精神面で良くなったのは自分たちのおかげだと言って悪いことをした人は何故か皆から慕われていました。正直精神面で悪い時にものすごく悪化したのはこの人たちのせいだというのに...自分から見て気味が悪い光景でした。 自分は子供のころから不登校でまともに学校というものがどういう感じなのかがわかっていないため、こういうことをやる高校は正しいのでしょうか? 自分が住んでいる家の二階に引っ越すとか自分がいま付き合っている彼女に悪いことするとか言ってきたりもしてたので、さすがにやりすぎなのではないかと思っています。 相手が悪いことをしたからと言っても許される行為なのでしょうか? 確かに悪いことしたら人から叩かれたりよくないことが起きるのは分かるのですが、でもさすがに自分から見てやりすぎなのではないかと思いました。 お返事をお待ちしております。
お世話になっております。 何度かこちらに投稿させていただいたり、ネットや本で仏教のことを知るたびに、仏教の教えが自分に必要なこと、訓練しなければならないことということを知りました。 今は、お坊さんのように上手にはできないけれど、できるだけ煩悩に流されずに生きたいと思っています。 ですが、やっぱり中々うまく出来ずに「自分はダメだ」と落ちこんでしまいます。 こういうとき、僧侶の方はどのように自己否定感と向き合っているのでしょうか。 特に、自分が手放したいけど手放せない煩悩は「怒り」です。母と姉への強い怒りがあり、それを隠そうと思っても、顔を見た瞬間に怒りと憎しみの気持ちがムクムク溢れてきて、止まらなくなります。 母と姉を「許す」ための取り組みも試みましたが、未熟な私にはまだ無理のようです。 煩悩(強い怒り)に勝ち平穏に生きるために、僧侶の方がされていること、また仏教的にしたらよい取り組みがあればご教示いただきたく、よろしくお願いいたします。 (ちなみに先程イライラして、ストレス発散のためにまたコンビニで無駄買いしてしまいました。自由と安寧にはほど遠いです…。)
初めまして。精神障害2級の女性です。 障害者手帳を所持しています。 家族に「他人の納めた年金で暮らしている」と揶揄されています。 私は高卒なのですが学生の頃は「社会保障を受けるのは国民の権利」と教わったまま生きてきたので、そのような発言を不条理に感じてしまいます。 仕事に就けなかったら社会人ではないと一般的な価値観なのは分かります。 ただ、法的な意味と社会通念上のマナーとの心の落としどころが分かりません。 弱者はどのように生き抜いていけばいいでしょうか? お返事をお待ちしております。
今まで「こうしないと」と思い意気込んで無理に行動してしまったり、後先考えずなんとなくで行動してしまったり、辛いけどどうしたらいいのか分からずそのまま頑張ってしまったりしてしまいました。 今思えば、どれも自分の本当にやりたい事ではなかったと気づき後悔が止まりません。 自分自身の精神をいつも無意識に痛めつけてしまう行動しかできず、自分はもう何もしない方がいいと毎日悲観的な気持ちになってしまいます。 なるべく自分のやりたいことをやって忘れようと考えてはいますが、どうしてもこの後悔が頭から離れません。 私は今後どういう気持ちで行動していけばいいのでしょうか。