我が家ではお寺との関わりがまだないため、こちらで相談させていただきます. ̫.)" 私の家はシングルマザーの家庭でして、 母方の先祖が真宗大谷派とわかりました。 真宗大谷派には先祖供養というものはないと見ましたが、 仏壇を設置した方が良いかなぁと思っていました。 お盆の時期で、お供え物をどこに置こうとなり、 カラーボックスの上を綺麗にして、白いタオルをひいて、その上を仏壇代わりとしました。 正直お金に余裕はなく、 仏壇は買えないので、カラーボックスの上で落ち着いておくれ……と願うばかりなのですが、 流石に、御本尊がないのはどうなのかと思い、 今御本尊をAmazonなどで買うか予定しています。 本山から取り寄せるのが良いと聞きますが、、Amazonなどで、買うのは良いのでしょうか。。 三具足は必需品だと言いますが、そんな余裕もなく…… おりんと、念珠程しか準備出来ませんでしたが、大丈夫でしょうか。 お経も何も知らず(般若心経くらいで)南無阿弥陀仏くらいしか唱えられませんが… こんな揃えられないなら、御本尊様を祀らない方がよいでしょうか。 お願いします。
いつもお世話になっています。地獄は本当にあり、悪人は必ずそこで裁かれますか?前回質問させていただいた事と絡んでいますが、仮に義父としますが、かなり鬼畜な男で死ぬまで反省、謝罪、改心しませんでした。病気で死にましたがあまり苦しまずに死にました。また、健在な時も現世の裁きもすり抜け、バチもあたる事もありませんでした。事故に3回ほどあいましたが、なんとケガ無しでした。悪魔の強運というか、悪魔が味方についているのか?母も不思議がってました。しかし、あれだけ迷惑、悪行をして、反省しなかったのだから地獄に落ちて裁かれなくてはいけません。悪人は地獄で必ず裁かれますよね?お答えお願いいたします。なお、冥福を祈ってあげなさい というお答えは絶対しないでください。文章上、義父としましたが義父ではありません。血もつながっていないし、戸籍でも全く関係ありません。赤の他人です。この辺の経緯は話すとかなり長くなるので仮に義父としました。だから遺骨も墓もどうなっているのかわかりません。ちなみにこの男、親類、縁者他全て絶縁されてます。悪行をするからです。くどいようですが冥福、供養は絶対する気がないので言わないでください。お答えお願いいたします。追伸、どんな男か詳しく知りたい方は前回の私の質問を見てください。
今もう全てがぐちゃぐちゃです。元々精神が弱くカウンセリングにずっと通っていたのですが、自分が不安症だと言う事に気づかず自信がついてきた時だったのに、自分の根本を見つめる、自分の不安定は家庭にある、私は不安症、慣れない彼の地元で本当にやってけるのか?と言う事をカウンセリングしてしまい、そこからもっとバランスを崩しました。全てを彼に話しそんなのおかしいとなり、そのカウンセリングは辞めました。カウンセラーではなく俺を頼ってほしいと言われ、まずはこっちに住んでみようとしたのですが、全く嫁ぎ先に慣れず、そんな矢先彼が職場でパワハラにあい、退職。入籍は先延ばしに、今しかできないからと、前からやってみたかった起業を始める為今はバイト生活。実母には心配させたくないと言えず、そんな矢先、私に今度は左膝に腫瘍が見つかり手術、1年は装具をつけての生活。もう散々です。周りは普通に結婚出産をして元気に働いてるのに、なんで私ばっかり?としか思えず、周りの全てが羨ましく思い、周りとも疎遠になっていってます。病気の事はさすがに実母に話し、帰省してますが、元々気が強く性格が合わない母で、籍はいつ?出産も考えたら?と言ってくる事が今の私には辛く。彼が今は仕事が安定してないので籍を入れられないのを知らないのもありますが、プレッシャーにしかならないんだよ!と怒ってしまいました。普段怒らない私に、母も悲しそうにしてしまいその姿に、更に悲しくなってしまう私。なんでこんなになってしまったんだろう。誰も悪くないのに、神様はなんでこんなに私達を苦しめるのだろうと朝起きてからネガティブな事ばかり考え、頭もカチカチに凝り固まって訳がわからなくなってしまっています。ちなみに私は去年本厄で、去年は人生でこんなに辛い事があるかと言うくらいの年でした。将来に絶望しかありません。彼は私が不安症だと言う事、病気の事も受けいれてくれていて、話し合って家庭を築いていける人、人として尊敬できて、何より協力し会える相手です。しかし、彼の地元に慣れない、彼の親がうつ病など私もこんな感じなので、不安だし、不幸が続き、本心ではないなに離れた方が良いのかなとか思ってしまいます。こんな毎日をどう過ごしていけばよいのでしょうか。
尊敬していた方が亡くなり、お通夜に行ってきました。 地域にとっても貢献したお爺ちゃん医師で亡くなるまで現役でやってた方でした。 お通夜の際、下世話な話になってしまいしますが、とっても大きな葬儀で、お坊さんも3人で拝んでました。 一般的に一人のお坊さんが拝むのと、3人のお坊さんがお坊さんが拝むのは、どぅ違うのでしょうか。 例えば、3人のお坊さんが拝んだ方が、故人が成仏しやすいとか、三途の川を楽に渡れるとか、、、
こちらで戒名を載せていいものか悩みましたが、どなたかアドバイス頂けますでしょうか。 先日、最愛の実母が亡くなりました。長い長い闘病生活、長くはない命と分かっていながらも素直になれず困らせたり、もっと何かをしてあげればよかった、の後悔ばかりの日々を送っています。 私達(姉がいます)に父親はいません。母の葬儀が人生初の葬儀(幼少期に祖母がなくなりましたが記憶に薄いです)となり、姉が喪主となり2人で右も左も分からないまま、ただ母の旅立ちをしっかりととの思いで通夜告別式を執り行いました。 準備段階での事です。母に戒名を頂くために、母の両親を連れ、ご先祖様のお墓のあるお寺の住職さんに戒名のお願いしました。しかし、住職さんはお年を召してるのか全くこちらの話を聞いて下さらず、ただただ同じ事を繰り返し言うのみ。遠方だったので、一度戒名をつけて頂きたいと電話で伝えた際に姉がうまく伝わっていないと思う、と言うので心配になりいざ出向いてみるとすでに戒名が決まっていました。電話で伝えたのは名前と歳のみです。 私達はお恥ずかしながらあまり知識がなくネットなどで調べるのが精一杯です。戒名とは、俗名から一字、人柄から一字、というのは間違った情報でしょうか? 母の戒名は、瑞雲蓮花妙○○大姉霊位、です。○○の部分には母の俗名がそのまま入っています。意味を伺っても、読み方しか教えてくれず、母の両親に訴えても、もう決まったみたいだから、と。 もちろん、頂いた戒名に不満があるわけではありません。ただ、人柄なくして戒名がつくのか、どういった意味合いなのかが知りたくて投稿させて頂きました。 よろしくお願いします。
「人事を尽くして天命を待つ」の意味を教えてください 私は今、行方不明の愛猫を探しています。 モットーに「人事を尽くして天命を待つ」と掲げ、折れそうな心を励まして探して来ました。 しかし、素人なりにかなりいろいろな捜索活動をしたのですが、ちっとも情報が来ません。 「天命」を待つ間、眠れず食べられずイライラキリキリして張り裂けそうになっている時、hasunohaに出会いました。私の質問に答えていただき、また過去似たような状況で苦しんでいる人の問答を読んで、現代社会のドライな価値観とは違う広大なものの捉え方にとても慰められました。 気づいたのですが、私は「天命」を「よい知らせ」とだけ捉えていたようです。しかし、ハスノハで問答を読むうちに、「天命」とは、よい知らせという意味ではなく、いいことも悪いことも、命のありよう全てを含んだもっと大きなものなのではないかと気づきました(上手く言えなくてすみません)。 「なぜ必死で手を尽くしているのによい知らせが来ないのか、努力が足りないのか、大切なあの子に、辛く苦しい残酷な死に方をさせてしまったのではないか」と焼け焦げそうにイライラして泣いてばかりいましたが、猫という命と人の命、その別々の命が出会ったことにもっと感謝して、自分のこれまでの生き方など全てを大きく受け止めることが「天命を待つ」の本当の意味なのではないかと、気づきました(分かりにくい文章ですよね?すみません) よい知らせばかりを待ち望んでいた私にとって、この意味に気づいたのは衝撃でした。「天命を待つ」とは、いい結果も悪い結果もそのまま大らかに受け止めることではないかと思ったとき、全く違う世界が広がったのです。 私は、愛する猫を危険な目に遭わせるどうしようもない飼い主です。人によっては、動物と関わる資格がないと言うでしょう。けれど、少しずつ自分を許していかないと、今後呼吸すらできなくなり猫の捜索に向かうパワーがなくなってしまうと感じています。 ごめんなさい、ほとんど独り言の懺悔になってしまいました。 まとめると、お坊様に聞きたかったことは、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉についての、仏教的解釈です。もとは儒教の言葉だと聞きかじりましたが、「人事を尽くして天命を待つ」とはどういうことなのか、教えていただきたいです。
大変浅はかな知識で申し訳ないのですが、好奇心もあり皆様方にお聞きしたいことがあります。 仏さま、神様について、神仏習合や仏教流派の経緯があると思います。 由来を辿ると、七福神の中にも、日本古来の神は少ないようです。 また、仏様においても、流派によりますが大日如来は、インド神族やペルシャ宗教との繋がりもあると聞いています。 もちろん仏の教えの意味する所は、それとは別に明確にあるものと思っております。 異なった文化や歴史、土地ごとでも何らかの神仏の繋がりがあることについて、皆様方がどう考えていらっしゃるものか、差し支えなければ是非お教え下さい。 もし失礼に当たるものでしたら私の質問は御放念くださるようお願いいたします。
初めて悩みを書きます。 わたくしは、中学生の時から死恐怖症(タナトフォビア)に悩まされています。 簡単に説明しますと、自分の意志とは無関係に「自分が無になる」という恐怖が脳に入ってきます。医療用語で強迫性障害に分類されます。 一年くらいしっかり働けても、季節や体調の変化でタナトフォビアが重症化し、奇声をあげる、怖くて動機がする、それを落ち着かせるために自傷行為をして生きてる事を確かめる事が続き、それに合併して鬱になり、外に出る事も誰かと話すこともできない日々が続きます。 この繰り返しを何年もしてきたため、会社に就くこともできず、終いには今、無職です。 ただ、死が怖い=生きてればいつか死ぬという恐怖も同時に兼ね揃えています。 つまり、生きてることも怖いんです。 そして今、私は薬で症状を抑えています。 薬で抑えることが出来ると、死ぬことが、酷い時よりは怖くなくなります。 そこで、私は「今なら死ねる」と思ってしまうんです。 生きてる意味も分かりませんし、 死ぬ意味も分かりません、 この世は修行だとか、死んだあとは天国だとか、そんな人間が作り出したエゴや、綺麗事は私には意味がないんです。 「死んだら生まれる前に戻る」という考えがどうしても抜けません。 私は約一ヶ月後、死のうと考えてます でも本当は生きていたいんです 生きてる素晴らしさや奇跡は痛いほど知ってます。 心の矛盾に日々悩まされてます。 どうか助けてください。
こんにちは。いいえ、こんばんは。 昨日、恋愛相談をさせていただいて、返信があり、感謝しております。 そこで、かっこいい男とはどういう男か? お坊さんたちは、どうお考えなのか? お伺いしたいです。 私の中で、30程、かっこいい男の鉄則があります。 私の考えるかっこいい男というのは、 ・己に徹し人のために生きる。自分を殺し、他人を生かす。縁の下で目立たない様、輝きを放つ人。 ・自分にもっと厳しく、人にもっと優しく出来る人。 ・当たり前のことを、馬鹿みたいにちゃんとできる人。 ・ブレない。己を貫ける人。 ・腹を痛めて生んでくれたお母さん、養ってくれたお父さんに「有難う」が言える人だと思います。 かっこいいとは、こういうことだ。 紅の豚ではありませんが、お坊さんたちの、「強い人、かっこいいと思える人」とは、どういう人間像かを、t抽象的ではありますが、ご教授ください。 お手数をおかけしますが、宜しくお願いします。
いつもお世話になっております。 また少し疑問に感じたことがありますので質問をさせていただきます。よろしくお願いいたします。 浄土真宗では、人はお浄土からこの世に生まれてきて、そして命が終わったらまたお浄土に帰っていく、そしてまたいつの日か、人びとを救う為にこの世に生まれてくる と説かれているかと思うのですが、 それでは人はもう、六道輪廻、輪廻転生を繰り返すことは今後はないということなのでしょうか? 人の死後の転生や、お浄土とこの世との関係について、皆様のご回答を頂けたら幸いです。 よろしくお願いいたします。
日本には多くの宗派がありますよね。いままで私はお坊さんに対して、「おしょうさん」と呼んでいたのですが、全宗派の全部のお坊さん・・には使えないことを最近になり知りました。 和尚-Wikipediaによりますと・・・ 1.和上(わじょう) 律宗・浄土真宗(儀式指導者に対してのみ) 2.和尚(わじょう) 法相宗・真言宗など 3.和尚(かしょう) 華厳宗・天台宗など 4.和尚(おしょう) 禅宗・浄土宗・天台宗など 5.和闍(わじゃ) さらにさらに、 6.上人 7.聖人 8.そのた 調べれば調べるほどゴチャゴチャしてきました。 みなさんの宗派では、上記1~8のどれをお使いになりますか?祖師にだけ、宗祖にだけ、始祖にだけ、ふつうの僧侶に対して・・などお教えねがえればと思います。
私は人は魂を磨くためにこの世に生まれ、生きているのだと思っています。 ただふと、 ・なぜ、なんのために魂を磨くのだろう と思ってしまい、 考えていると、魂を磨くために生きているということがいつの間にか出来上がった空論のようにも思え、 なんのために日々生きているのかわからなくなってきました。 考えるきっかけになった出来事があるため、あわせて書かせていただきます。 私には付き合って3ヶ月になる彼氏がいるのですが、 ここ2,3週間ほど話す度に口うるさく話し方(論理的でないなど)や性格の面など色々と注意され、 私のために言ってくれていることだからと思い、うるさいなどとは言わず直そうと心がけてきたのですが、 最近、会話していたらまた何か言われるのではと怖くなり、彼氏と話すことからも、注意されたことからもただただ逃げたく、向き合えずにいます。 なんのために、人は成長していかなくてはいけないのでしょう。 ご意見を伺いたいです。 よろしくお願いします。
初めまして。 初回から非常に重苦しい質問をしてしまい、申し訳ございません。 私は、現在就職活動をしています。 その中でどのような職に就こうかと考えた際、これからやりたいことや、 生きる意味について考えてしまい、やりたい事も目的もないのに、 これからも生きるということに嫌気がさしてしまいました。 生きる上で苦しいことや、嫌なこともあるのは分かります。 それに耐えねばならないことも理解しています。しかし、 それに耐えてまで何故生きるのかということが、今は本気でわかりません。 大きな話では地震や災害、就職難、高齢化、経済危機など、 小さな話では人間関係や恋愛、就職、介護など、 不安なことやつらそうなことが多すぎて、将来生きてゆくことが不安です。 「生きる意味なんてない」あるいは、 「その内生きる意味がきっと見つかる」 と自分を励ましてきましたが、 そのごまかしにもそろそろ限界がきています。 生きていて良かったと思える為には、どうすれば良いのでしょうか。 途方もない質問でありますが、お答えを賜われれば幸いです。
こんにちわ。 以前個人的な質問をさせていただき、2度目の質問になります。 以前は大変貴重な回答を頂き非常に感謝しています。 さて、表題の質問になりますが、 小学生の頃「死」について考えたことがあり、その時は・・・ 死んだら考えることすらできなくなってしまう。 死んだらこうやって「死」について考えることもできない。 自分という存在はどこへ行くのか。 と、怖くなって夜寝られなくなってしまった思い出があります。 葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉の意味を調べたり、 100歳を越えてもなお現役の医師を続けていらっしゃる日野原重明さんのコラムなどを読んでから、私は「死」という概念は、 抗うものではなく受け入れるもの。 そしていずれ来る死をどのように受け入れるか。 が大事なのではと思うようになりました。 私は仏教には詳しくありませんが、仏教にも輪廻転生や極楽浄土など死後の魂の行方や考えがあると思います。 よろしければ、仏教的観点でも宗派的観点でもご回答くださる方の個人的な観点でもよいので、「死」についての考えをお聞かせ願えないでしょうか。 宜しくお願いいたします。
どうしても意味・ユーモア感覚が分からないので、ここでお坊さんに直接質問をさせて頂きます。 いま私は、とある掛け軸について研究をしています。ですが、私は仏教の世界を深く知るようになったのは、つい最近になってからであり、そのせいで仏教世界のユーモアが分かりません。 研究している掛け軸には、掛け軸の下の方に、『十六羅漢のうち十人が水が足首らへんまでしか来ていない海(若しくは川)の浅瀬を渡って、上の方を見上げている』描写があり、左上の方に、『龍頭観音と思われる龍が一匹と、龍の口らへんに、モワモワした煙と共に、お花のような(?)ものを手に持っている着物を着た女性が一人立っている』描写があります。更に、この空の方へ登っている龍には、十六羅漢のうち六人が乗っており、そのうちの一人が釣り糸みたいなもので蛸を海から釣っています。 十六羅漢が川ではなく、海を渡っているのは、蛸が海にしか生息していないからという理由で、海だと推測しました。 この絵には漢詩が付いているのですが、以下のようなものです: 是秋釈子袿第響 無転十六蛸入道 為老先生博祭無事居楽 遊印には→星洲晩漁 と書いてあるはずなのですが(あまりきちんと読めませんでした)、漢詩の意味は全て分かりませんが、ここには蛸入道としっかり書いてあります。 以上のことから、私は、蛸とお坊さんの頭を掛け合わせて、笑いを取るような絵だと見受けました。 が、私の感性では、釈迦の弟子たちで笑いを取るという感覚が全く分からないのですが、ひと昔の日本では(明治・大正あたり)、このようなことはよく起こり得たのでしょうか?またこのような、ブラックユーモア的な掛け軸は、よくあったのですか? ちなみに、私の推測はあっていますでしょうか?(蛸とお坊さんの頭を掛け合わせることで、笑いをとるという感覚) 若しくは、他に何か意味があるのでしょうか? 漢詩の意味も分かりませんが、このセンスが本当に意味が分からなくて、大変困っております。どなたか詳しく説明して頂けますと幸いです。 掛け軸の絵を写真で添付できないので、絵そのもののイメージがし辛いと思いますが、どうぞ宜しくお願い申し上げます。 ちなみに、この掛け軸は、近代に描かれました。
私は、「がんばって」と言われるとうれいし、がんばろうと思います。 しかし、人によってはそう言われる時点ですごくがんばっていて、そう言われるとよけいに負担に感じてしまう人もいるのではないかと思います。 相手の人を応援したい気持ちがあっても、「がんばって」以外のことばが見つからず、何も言えないことがあります。 そういう時、どんなことばをかけたらよいのでしょうか?
3度目の相談になります。よろしくお願いします。 前回と同じで旦那の事です。 旦那が嘘つきで信用できなくなり、体調悪いのは旦那なのかと。 今回もまた旦那に嘘をつかれました。 最近は知らない会社から融資の手紙が旦那宛てにきます。本人は知らない、それしか言いません。 結婚した時から旦那はおこづかいはいらない、お弁当、水筒を持っててるのでお金を使う必要がない。それなので、そのぶんは貯金に回しています。 ですが日曜日出勤の時は日払いで貰っている事を知りました。私に内緒で口座も作っていました。 旦那はお金を貯めるためだ。としか言いません。ですが、現実はサラ金らしいとこから手紙がきてるから振り込み先にするため?に作ったのかと疑っています。 旦那はもう嘘つかない、なんでも話すから許してほしいと。 私はもうこりごり。毎日毎日、旦那を疑ってみる自分がイヤになります。 ケンカになり家を追い出して3日になります。 子供と2人でゆっくりできます。 このままの生活を送りたいと思っている自分と、もしかしたら旦那は変わってくれるかもしれない。 どうしたらいいでしょうか? 男の人は嘘つく生き物なのですか?
欲や期待を振り回された生活を続けることが嫌になりました。 いっそ捨ててしまって、何も欲しない、何にも期待しない人間になりたいです。 しかし、欲は勝手に湧いてきますし、期待も意図的にしないということもできません。 どうすれば、欲と期待を捨てた人間になれるでしょうか。
悩みが多かった時、お釈迦さまは静かに座り自分の心の隅々まで不安を追い掛けて徹底的に潰していったと聞きました。 具体的には、どのようなことをしたのでしょうか。 同じようなことをしようとは思ってはいませんが、知識として気になったので、投稿しました。
最近、ネットが普及し、自死者に関することで色々と閲覧することができる。こちらのサイトのお坊さんは、自死遺族の気持ちを察して頂き自死者も必ず成仏するとご回答を頂きます。 しかし、他のサイトで真言宗の修行僧と称する者が、自死者は永遠に苦しむと書き込んでいます。同じ仏教徒でこんなに違うのでしょうか?本当に可笑しく思います。あるスピリチュアルでは、自死者は反省の部屋に入り、自分で納得すればガイドに従って成仏できると言っています。テレビで出ていた江原は違いますが 私は、なんとなくこのスピチュアルが主張する自死者の死後のあり様が自然に受け入れることができます。 要は、誰もが死んだ経験がありません。死後の世界なんかわかる訳がないと思います。昔は自死者は、地獄で永遠に苦しむと言われていましたが、ここ最近は自死遺族の苦悩を和らげるためか、成仏できるとお答えを頂きます。僧侶によっては、地縛霊のことは教えられていないと言っている者もいます。 キリスト教なんかは最悪です。よくもここまで豹変できるのかと思います。 こちらの僧侶の方は、本当に心の優しい方だと思います。カルトの様な馬鹿な話は信じません。しかし、本当のところはどうなのでしょうか?自死した者の霊は、安らかに成仏できるのか? 本当は、人間世界で何十年、何百年と苦しむのか?噓を言われて心を和ませたくありません。本当は、自死者が、一人で永遠に苦しむのであれば私が自死をして、妻を救いに行きます。私の魂は、あくまでも妻を救出のため。自身の我儘で自死するのとは違います。 イスラム教で言えば聖戦です。自死者の魂の行先は、僧侶や所謂霊能者と言われる人によっては行き先が二分されていると思います。地獄か極楽浄土へ行くか・・・ 言われていることがおかしいです?お釈迦様は、自死について良いとも悪いとも言っていないと今は言われているというか無理にその様に解釈をしているのでしょうが、本当はどうなんですか? 慰めで極楽浄土へ行くと言われると心が少し和みますが、自死遺族のために止むを得ず真実と違うことを言われるのは、返って罪なことだと思います。実際に真言宗の僧侶が永遠の地獄に行くとネットに平然と書いている。本当のことが私は知りたいのです。永遠の地獄に行くというのであれば私は、自死(救出のため)して地獄から妻を救い出す覚悟です。お答えをお願い致します。