hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
hasunoha 問答検索結果 : 「 悟り 」
検索結果: 2103件

死後世界はありますか

少し前までは天国や極楽浄土があるのが死後だと思ってましたが身内の死以降そう思えなくなりました。死ねば骨になり土に帰りそれでおわり。 天国や極楽浄土の世界はどの宗教にも共通してあり古代エジプトでは来世で甦るための肉体が必要だからミイラにし復活をするという概念がありました。でもそれはすべて現世の人が作ったもので実際みたわけではありません、臨死体験などの話もありますが夢なのか区別がつきづらく天国や極楽浄土が垣間見れていい死後世界だったという話はきいたことがありません。 霊柩車内部にも極楽浄土の絵が描かれ死者が三途の川を渡れるように六文銭をもたせたりする風習があります。ただそれもすべて現世の人が作ったもので実際そうかは誰もわかりません。 身内がなくなり何年もたち、やはり死んだらこの世から存在がきえ手元に骨が残され、墓という形あるものに集約され彼岸に墓参りするという残された現世の人のためで、墓も遺骨をいれる場所としか思えなくなりました。 位牌は魂いれをしますが私にはただの板にしか思えず遺骨だけか故人そのものでその先の死後世界は今まではあるように思えたけどそれは無いのだなとしか思えません。身内を亡くすと死がどういうものかよくわかります、人がいなくなるというのがどいうことかが。なので現世にいる時がすべてて誰もみたことない死後世界は存在するとはもう思えません。 広い世の中、少なからずにたような考えもった人はいるでしょうが誰にでもできる話じゃないので周りに同じ考えの人がいるかきける時があればきいてみたいです。

有り難し有り難し 74
回答数回答 4

還りたいです

元来たところへ還りたいです。 20代後半くらいからふと あまり生きることには 執着がないと感じます。 ある意味もうある程度生きてきて 幸せも感じ人生に満足してしまったのかもしれません。 自分はなんのために生きているのか ただ生かされているだけだ思うのです。 諸行無常で現状がずっと続くわけではないと頭では分かっていますが生きることも考えることも悲しい辛いと感じることにも疲れ果ててしまいました。 感情を捨てられたら良いのですが 人間そんな簡単に感情を 捨てられるわけもなく どうして神様はこんなに感情を与えたのか 人生は修行だと思っていますが もう辞めたいのです。 死にたいとゆうより 生きることを止めたい。 ただ、ただ元来たところへ還りたい とゆう気持ちが強いです。 もし生かされるなら人間以外の物でありたい。 無機質な物でありたい。 自分には人間に生まれてくるのが早かったのではないかと思います。 自分には自分であることが 人間でいることが辛くしんどいです。 早く人間を辞めたい還りたいと思います。 痛いことが嫌だと思うだけで 死ぬことも恐ろしくないのです。 自分の中で死ぬことは解放だと思っています。 こういった思考からなのか 自分の価値も見出せません。 自分を幸せに出来ない人間が周りを幸せにできるわけがないと思います。 還りたいと思うことは おかしいのでしょうか? 人生とゆう修行から逃げることは いけないのことなのでしょうか? 修行に疲れ果ても 耐え忍ぶしかないのでしょうか? ただ流れに任せて生きていくことすら苦痛です。 支離滅裂な内容かも知れませんが お答え頂けると幸いです。

有り難し有り難し 46
回答数回答 3

『とらわれない心』について教えてください。

3年位前に、お坊様がTVで『とらわれない心が大事』と話されてるのを観てから、ずっと気になっていることがあります。 『とらわれない心』というのは、自分の欲や我を手放して、人と争わずおだやかに生きること、ではないかと私なりに受け止めました。 でもそれで、『私はこうしたい、こうなりたい』という目標があって、人と意見がちがったら、『私はこうしたい』と言うのは『とらわれている』のでしょうか? 意見がちがうときは自分か相手が譲るか、全く別の案を見つけるかだと思うのですが、いつも自分が譲るスタンスなら私はその人のいいなりになってしまいそうです。 自分の欲というのは望みであり、自分のあかしでもあると思います。 その欲=望みがなるべく汚いものではなく、きれいなものであるように願っていますが、他人から見たら『我』でしかないのでしょうか? とらわれない=思い通りになるようコントロールしない、ということだとしたら、将来に期待はしないでただのぬけがらになってしまわないか疑問です。 私も未熟ながら、人にやさしくありたいと願っています。相手にとって安らげる存在になりたいです。自分と相手をともに大切にして、なおかつ『とらわれない』境地って私にはまだわかりません。 どうか、私に道を説いてくださいますよう、お願い申し上げます。

有り難し有り難し 111
回答数回答 3

お坊さんを蛸と掛け合わせて、笑いを取るような掛け軸について

どうしても意味・ユーモア感覚が分からないので、ここでお坊さんに直接質問をさせて頂きます。 いま私は、とある掛け軸について研究をしています。ですが、私は仏教の世界を深く知るようになったのは、つい最近になってからであり、そのせいで仏教世界のユーモアが分かりません。 研究している掛け軸には、掛け軸の下の方に、『十六羅漢のうち十人が水が足首らへんまでしか来ていない海(若しくは川)の浅瀬を渡って、上の方を見上げている』描写があり、左上の方に、『龍頭観音と思われる龍が一匹と、龍の口らへんに、モワモワした煙と共に、お花のような(?)ものを手に持っている着物を着た女性が一人立っている』描写があります。更に、この空の方へ登っている龍には、十六羅漢のうち六人が乗っており、そのうちの一人が釣り糸みたいなもので蛸を海から釣っています。 十六羅漢が川ではなく、海を渡っているのは、蛸が海にしか生息していないからという理由で、海だと推測しました。 この絵には漢詩が付いているのですが、以下のようなものです: 是秋釈子袿第響 無転十六蛸入道 為老先生博祭無事居楽 遊印には→星洲晩漁 と書いてあるはずなのですが(あまりきちんと読めませんでした)、漢詩の意味は全て分かりませんが、ここには蛸入道としっかり書いてあります。 以上のことから、私は、蛸とお坊さんの頭を掛け合わせて、笑いを取るような絵だと見受けました。 が、私の感性では、釈迦の弟子たちで笑いを取るという感覚が全く分からないのですが、ひと昔の日本では(明治・大正あたり)、このようなことはよく起こり得たのでしょうか?またこのような、ブラックユーモア的な掛け軸は、よくあったのですか? ちなみに、私の推測はあっていますでしょうか?(蛸とお坊さんの頭を掛け合わせることで、笑いをとるという感覚) 若しくは、他に何か意味があるのでしょうか? 漢詩の意味も分かりませんが、このセンスが本当に意味が分からなくて、大変困っております。どなたか詳しく説明して頂けますと幸いです。 掛け軸の絵を写真で添付できないので、絵そのもののイメージがし辛いと思いますが、どうぞ宜しくお願い申し上げます。 ちなみに、この掛け軸は、近代に描かれました。

有り難し有り難し 38
回答数回答 3

もう一度、彼氏が夢枕に出てきてくれることはあるのでしょうか…

はじめまして、ちぃすけと申します。 私は、2ヶ月前に彼氏を自殺で亡くしました。 ご両親には勿論、友人や私にさえ相談せず、仕事で数ヶ月悩んでいたようでした。 亡くなった翌日(私が彼氏が亡くなったのを知った日です)、すぐに彼氏と生前、一番仲良かった友人に報告しに行きました。 すると、その日の夜に友人の夢に彼氏が夢で謝りに来たようです。 そして、亡くなって翌々日、お通夜の日に斎場で彼の遺体と同じ部屋で眠っていた時に、ふと目が覚めると、私の隣りで彼氏が寝ていました。 お葬式の日は、彼氏のご実家に泊まらせていただいたのですが、夢を見ることはなく、そのまま翌日、ご両親と彼氏のマンションの遺品整理に出掛けました。 遺品整理が一段落し、ご両親と別れて、一人で歩いていたところ、背後に気配を感じたので話しかけてみましたら、全身に鳥肌が立ち、彼氏が私の後ろにいる!と感じました。 そして、その夜、夢に彼氏が出てきました。 特に何か話してくれることもなかったのですが、、 私が疑問に思っているのは、彼氏はご両親の夢には一切出てきていないようなのですが、 ご両親も仏壇に「一回話しにおりてこい!」と話しかけたり、私も「ご両親には今回のことでいっぱい迷惑かけたんやからちゃんと謝りに行きなさい!」と遺影に話しかけてはいるのですが、、 四十九日を過ぎても全く私の夢にさえも出てこなくなりました。。 こちらが夢枕におりてきてくれるのを望んでいましても、 あちら側がこちらに未練が無ければ、出てきてはくれないものなのでしょうか?? 私も彼氏に一言言いたいことはあるのですが…… 彼氏が自殺する直前に私に 「こんな情けない奴のことは早く忘れて幸せになってくれることを祈っています。」 とメッセージを送ってきているので、 私のことはもう彼氏の中では終わったのでしょうか。。 何だか納得のいかない別れ方で忘れるに忘れられなくて、最後に一言ぐらい言いに来てほしいです。。 どんなお答えでも結構ですので、どなたかアドバイスを下さると嬉しいです。 よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 48
回答数回答 3

どうして苦しむのですか?

旦那との関係性もあまりよくありません。 不妊治療もうまくいきません。 昔は幸せな恋をしていたし、幸せな人生を歩んでいたと思います。 年をとるにつれて将来が不安になるばかりで希望が持てません。 若い頃は不安なことやうまくいかないこともあったけど、いいなと思うこともたくさんありました。 今はいいこともあるけれど不安がたくさんです。 人間は不幸と幸福のバランスがあるのですか? 不幸なところがあるから片方がうまくいくのでしょうか? 逆に、うまく行ってる部分があるとそれ以外は不幸になるのでしょうか? 自殺をしたらその後も苦しむのでしょうか? もし不幸と幸運のバランスがあるのだとしたら、うまくいく部分があるのは嬉しいけど不幸な部分はそのまま。 不幸な部分がうまく行ったら今ある幸福な部分はなくなる。 そんな人生なんてひどいと思います。 希望が持てなくて、不安ばかりで、人が羨ましくて、自分がどんどん嫌いになりそうで、人生失敗したのかとおもいます。 これから先に希望が持てないのに、生きていくのは辛いです。 自殺したらその後も苦しむのだとしたら、殺されたり病気になるのは別なのでしょうか? その気はないのに死ぬという状況にならないと、だめなのでしょうか? どうして、こんなに苦しむのでしょうか。 前世で悪いことをたくさんしたのでしょうか。 それとも、若いとき幸せな時期があったツケなのでしょうか。 生まれて生きていくのは、本当に幸せなことなのでしょうか。

有り難し有り難し 64
回答数回答 3

死後みんな仏さまになって同じ世界に生きるのでしょうか

私の父は僧侶をしていました。 真宗の小さなお寺で、職業とは別で兼業していました。 でも、父は酔うと人に暴言を吐いたり、よそで女の人つくったり、言えないくらい、家族に迷惑ばかりかけていました。 私は母と家を出て、今は嫁いで家庭を持っています。 そんな父が急に亡くなりました。 僧をしていたので、父は「仕事」としてお経はあげていました。 悪人正機というのは、悪人であることを自分で認めた凡夫だからこそ救われると聞きました。 悪人であることを最後まで認めなかった父も、救われて仏さまになっているのでしょうか。 でも『地獄と極楽』という絵本を小さい頃読みました。 あの絵本では、生前ひどい人は地獄で苦しんでいました。 もう一つ、仏さまになったとして、その後どのように生活?するのでしょうか。 よく、私たちを見守って導いてくださる、と言いますが、この世でのつながりが深かった人のところに行き導くのでしょうか。 もし私が往生したら、父と同じ世界に行き、また娘としてくらすことになるのでしょうか。 とりとめなくすみません。 父の死も、生前の行いも、もう昔のこととして受け入れていますが、仏教の教えでは、このあとどのように生きているのか気になりました。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 61
回答数回答 3

修行と信仰と座禅や念仏

先日私の具体性に欠ける、奥歯にものが詰まったような愚痴のような質問に応えて下さり、ずっと回答を考察してました。 その時々の私の見たてがどうであれ、自分目線で世界を見ていては、環境にフラつきいつまでたっても頼りにならない自分の世界で苦しむ ことになりますよと、言われたように思います。 自分を苦しめているのはあらゆる煩悩で「自我」(自己中)だとココhasunohaでも僧侶の方が口酸っぱく何度も言っておられ、私も何度も自我を手放す手立てを見聞きしてます。 しかし無我や手放すと言うと、主体性を放棄しているように思えてならなかったのですが、自分と言うのは条件次第で左右され頼りにならないから例えば「縁起」や「空」、この世界は常に変化し、お互いに影響を与え合う相互関係にある。 みんな繋がってるから、自分もみんなも尊い存在、軽んじちゃダメ!ピラミッドの頂点に人が(自分が)立ってるんじゃなくて網の目の一つで、人知を超えた自然の働きも誰かに想われてることも誰かに想われてることに気づけなくても繋がってる。 と言ったことついて言葉の上では理解しても、自分が騒がしいのは、禅の方(ザックリですみません)が座禅をして余計(自我)なものを手放すと言う事と、歎異抄の中で親鸞聖人が「何が善で何が悪なのかそのどちらも私はまったく知らない…」と言っておられるのは自分から見たら許せない又は自分が裁きたいと言う想いを手放して、「…この世はむなしくいつわりで真実と言えるものは何一つない、ただ念仏だけが真実(確かなもの)である」とおっしゃり、自己のはからいを捨て念仏し阿弥陀様にお任せすると言う事と同じで、だから座禅する、だから念仏すると言うことでしょうか? だから思考が暴れても身体(振舞い)を整えることができる修行(座禅や念仏)や信仰が必要と言うことでしょうか? いつも長くてすみません。

有り難し有り難し 42
回答数回答 3

「天命」の意味とは

「人事を尽くして天命を待つ」の意味を教えてください 私は今、行方不明の愛猫を探しています。 モットーに「人事を尽くして天命を待つ」と掲げ、折れそうな心を励まして探して来ました。 しかし、素人なりにかなりいろいろな捜索活動をしたのですが、ちっとも情報が来ません。 「天命」を待つ間、眠れず食べられずイライラキリキリして張り裂けそうになっている時、hasunohaに出会いました。私の質問に答えていただき、また過去似たような状況で苦しんでいる人の問答を読んで、現代社会のドライな価値観とは違う広大なものの捉え方にとても慰められました。 気づいたのですが、私は「天命」を「よい知らせ」とだけ捉えていたようです。しかし、ハスノハで問答を読むうちに、「天命」とは、よい知らせという意味ではなく、いいことも悪いことも、命のありよう全てを含んだもっと大きなものなのではないかと気づきました(上手く言えなくてすみません)。 「なぜ必死で手を尽くしているのによい知らせが来ないのか、努力が足りないのか、大切なあの子に、辛く苦しい残酷な死に方をさせてしまったのではないか」と焼け焦げそうにイライラして泣いてばかりいましたが、猫という命と人の命、その別々の命が出会ったことにもっと感謝して、自分のこれまでの生き方など全てを大きく受け止めることが「天命を待つ」の本当の意味なのではないかと、気づきました(分かりにくい文章ですよね?すみません) よい知らせばかりを待ち望んでいた私にとって、この意味に気づいたのは衝撃でした。「天命を待つ」とは、いい結果も悪い結果もそのまま大らかに受け止めることではないかと思ったとき、全く違う世界が広がったのです。 私は、愛する猫を危険な目に遭わせるどうしようもない飼い主です。人によっては、動物と関わる資格がないと言うでしょう。けれど、少しずつ自分を許していかないと、今後呼吸すらできなくなり猫の捜索に向かうパワーがなくなってしまうと感じています。 ごめんなさい、ほとんど独り言の懺悔になってしまいました。 まとめると、お坊様に聞きたかったことは、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉についての、仏教的解釈です。もとは儒教の言葉だと聞きかじりましたが、「人事を尽くして天命を待つ」とはどういうことなのか、教えていただきたいです。

有り難し有り難し 30
回答数回答 4