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hasunoha 問答検索結果 : 「親 人生 心配」
検索結果: 1445件

周りの友人が羨ましくてたまりません。

私には婚約者がいて、もうすぐ結婚する予定です。 本来なら幸せなはずなのに、不安です。 それは、婚約者の仕事が上手くいっていないようで、結婚式がおわった後、辞めるかもしれないということ。 そして、彼は近い将来、彼の実家で同居しようと考えていること。 仕事に関しては、結婚式前には辞めると世間体が良くないと思ってのことか、今は我慢して働いているようで、結婚式がおわったら辞めるかもしれないと言われました。 彼の両親との同居に関しては、付き合ってる頃からなんとなく、同居を希望しているのは、彼の言動からして感じていましたが、この前、家探しについて話している時に、将来の同居について言われました。 同居はイヤだということと、できれば将来は同居じゃなくてせめて彼の実家の近くでアパートを借りて住むのはどうか?と言ったのですが いずれも却下され、将来同居することを納得してほしいと言われました。 彼の両親はあまり体がよいほうではないし、一人っ子なので、実家で両親の側で暮らしたいそうです。 彼には、「君は自分のことしか考えていない。」と言われました。 周りの友達を見ると、新築を建てた友人、又は家を建てるために夫婦でお金を貯めている友人、旦那様が公務員、旦那様の給料がいい、豪華な結婚式場で豪華な結婚式や二次会をする友人、自分の実家で旦那さんが同居をしてくれてる友人、、、言い出すときりがないですが、とにかく周りの友人と比べるて羨ましく感じてしまいます。 私の彼の給料は良くないどころか仕事を辞めてしまうだろうし、その上、彼の両親と同居するということが近い将来に待っています。 私はこうしてこれから先も、周りの友達と自分を比べて羨ましがって、、、こんな気持ちで一生生きて行くのかと思うと辛いです。 そしてこんなにも人と比べてしまい、人の幸せが素直に喜べない自分がとても嫌です。 最近ではfacebookすら見るのが嫌です。 こんな自分がとても嫌です。 周りと比べてしまい、自分が幸せに感じません。 私は、将来のパートナーを、中身ではなく、どれだけハイスペックかで判断するような人間なのかもしれません。 結婚式の準備や家探しなどいろいろやることがあるのに、最近は気分が憂鬱でなかなかはかどりません。

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死ぬと地獄行き

すいません。後から気づいたのですが2回同じ質問してしまってました。 こっちが本当です。 私の学校は仏教の学校です。 学校でのお坊さんの教えでは生きてるうちに良い行いをすれば極楽浄土へ行けるといったものでした。 私はそれを信じて今までちょっとした発言や行いで人を傷つけてしまったことを悔いてそのことを今一度悔いて謝ろうとも思っていましたし、少しでも人のためになるような良い行いをしていこうと心がけどのようにすれば良い人間になれるのだろうや一度罪を犯してしまうとその人は救われないのかなどいろいろ調べていると、たまたま見た記事に日本人はみな地獄行きというのがあり怖くなりついつい見てしまったのです。 するとそこには虫などを殺すと地獄行き、お酒を飲めばもっと怖い地獄行きなど他にも地獄レベルが書いてあるのがありました。 それはお坊さんが知ってることなどが書かれていたのです 私は、最近では虫を殺すのは悪いことだと思い今では蚊すら殺してなかったのですが今までは殺してしまったりしてました。 私達は、今までは罪を悔いて良い行いをしていれば人に好かれる人間にもなれるし極楽浄土へ行けると信じてきましたし地獄は殺人や人を傷つけても平然と後悔することなく生きている人間が反省するための場所と思っていました。 なのにそんな事実をつきつけられ私は、どうすればよいのでしょう。 1日1日を良いことをしても、どうあがいても逃れられない地獄へ行く恐怖をもちながら生きていかねばならないのでしょうか? 今まで学校で教わった教えはなんだったのでしょうか? すぐ泣いてしまう私なのにショックと信じられないという思いですぎて涙もでません

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南無阿弥陀仏をおとなえする意味について

私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。

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