hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
hasunoha 問答検索結果 : 「自分 地獄 地獄」
検索結果: 1780件

頻繁にこの世から消えたくなります

5歳と2歳9ヶ月の姉妹の母です。専業主婦です。 次女が一歳半の時に自閉症スペクトラムと診断され、そこから週に4回療育通いをしています。 療育に行くことで少しずつですが成長しているとは思いますが、他の同じ年頃の子と、比べるとまだまだ赤ちゃんのようです。長女と比べると色々と神経質でやはり育てにくいです。 次女は姉に興味がなく、姉も最初は一緒に遊ぼうと色々奮闘していましたが、次女が嫌がったり無視をするので、今は毎日のように「次女ちゃんは嫌い」と私に言ってきてそれも辛いです。 公園で同じ年頃の兄弟が楽しそうに遊んでるのを見ると悲しくなります。 私は障害のある次女にとって1番良い選択をしているつもりです。(療育に通う等)しかしその一方で障害のことをまだ受けとめきれていない自分がいて苦しいです。 月に一度心療内科に通いながらなんとか家事育児をこなしていますが、ほぼ毎日この世から消えて無くなりたいと思ってしまいます。 でもそうなると母のいない子供達になってしまう。子供達が不幸になってしまうし、夫は生涯私のことで苦しめてしまうと思うとそんな無責任なことはできません。 毎日消えたくなるくらい辛いです。 一体どういう心づもりでいたらもう少し楽に生きられるのでしょうか。

有り難し有り難し 23
回答数回答 2

今日が命日

今日、卒業のことで、私と母と担任と学年主任と副校長で面談がありました。 怒りでいろいろと忘れてしまいましたが、「卒業する気はあるか」と副校長に聞かれ「半々です」と正直にこたえました。卒業したい気持ちもあるけど、行きたくないという気持ちもありどうしたらいいかわからない状態でした。 そしたら、副校長にさんざん貶されて責められました。 「そんな甘いこと言ってられない」 「今やめて親に迷惑かけるのか」 「もう人間関係がどうのこうのって言って、おまえが泣いても誰もおまえに同情なんかしないからな」 「学年主任も担任もおまえが頑張るというから、会議でおまえのことを庇ってやってるのにおまえはまったく行動を起こさない」 「社会に出たらそんなこと通用しないからな」 などと言われ、大泣きして過呼吸起こして逃亡しました。 そんなこと自分で十分わかってるし、私に同情してくれた人なんて一人もいなかった。 だいたい私が不登校になったのは、無気力症候群のように全てにおいて嫌になったからです。 その原因になったのがそもそも担任と母と副校長です。 人のせいにするな、と副校長は言いましたが人のせいじゃなきゃこんなふうになるわけないじゃない。 もう全てが嫌になりました。 「死ぬ」か「学校へ行く」の二つの選択肢しかテーブルの上にないように感じました。 死にたくなって、公園のベンチに座り、死ぬことへの償いに念仏やお経を唱えていました。 寒さが身にしみて、手が凍えていくたびに死が近づいていくことを嬉しく思いました。 そしたら学校の先生にみつかり、祖父や叔母が迎えにきて今家にいます。 明日から全ての教科出なければ留年になると言われました。 家族は「卒業頑張るぞ」と意気込んでいますが、私はもうそんな気持ちまったくありません。 学校へ行きたくない。 行くくらいなら死にたい。 今夜、山へ行って死のうと考えています。 もう何もしたくなくなってしまいました。 涙が止まりません。 どうか許してください。 もう頑張りたくないんです。

有り難し有り難し 53
回答数回答 3

10年以上前に他殺された母親に会いたい。

 もうかなり前のことになりますが、身内の一家心中未遂により母親を亡くしました。  事件直後からしばらくは、心から尊敬していた、加害者となってしまった身内の変わり果てた姿と、思春期特有の衝突を乗り越えてようやく人間同士として関わり始めていた最愛の母との突然の別れに頭の中がぐしゃぐしゃになりました。  それでも、両親が応援してくれていた夢に向かい立ち止まるわけには行かない一心で、また、共に強いトラウマを受けた弟の頼れる兄であり親代わりになるべく、ガムシャラにここまで走り続け、仕事の面では今ではそれなりに少年時代に思い描いていた立場になりました。  しかし仕事の性質上、どうしても日常の中で考えてしまうのです。  最愛の両親を守れなかった自分が、他人様のために昼夜問わず身を粉にしている虚しさを。その場では必死にやりながらも、どこかその姿を冷めた目で俯瞰で見ている自分がいるのです。「お母さんを死なせたくせに。この道に進まなければきっとお母さんも今は生きていたのに。結局ここまでの道のりは全て単なる自己満足でしかないじゃないか。」と。  このような日々が続いて今更、30過ぎにもなって情けなくもお母さんに会いたくて仕方がないのです。自分の頑張りを親に認めてもらいたいという幼稚で卑しい願望から来ている気持ちである事は理解しているのですが。  自らも親となったことではじめて親の愛情の深さを知り、尚更今の自分の姿、孫の姿をどうしても見てもらいたくて寂しくて切なくてたまらないです。  どれだけ人様から見て成功して見えようとも、この後悔と自責の念を抱えてあと数十年生き続ける事が辛くて恐くてならないのです。  子供たちが誇りに思える父として、この先も前向きに走り続けるために、どのようにこの深い悲しみと向き合えば良いのでしょうか。

有り難し有り難し 39
回答数回答 2

恨みと嫉妬

以前こちらで相談させて頂きました。 回答頂きありがとうございます。 今回は違う件で相談させて頂きます。 私は幸せな人が羨ましいです。 私は昔から色々と大変な思いをしてきました。 学生時代はいじめにあったり、人から利用されたり、ストーカーにあってお金を騙し取られたりしました。 会社ではパワハラにあったり会社をクビになったりしました。 ナンパされて連れて行かれそうになったこともあります。他にも色々な辛い思いをしました。 何で私ばっかりと思うことがあります。 私の従姉妹は人間関係に恵まれ、頭も良く、お嬢様大学に行けて、大手の会社にも入社出来き何も揉め事もなく、安定した生活を送れているのです。 羨ましいです。 人と比べるなとか、その人達も知らないところで大変なこともあるかもしれないとか言う人もいますが生きていれば少なくとも嫌なことはありますし、いいことばかりではないと思います。 ただ、明らかに差があると思うんです。 今までは今苦労した分、いつか恵まれると思い信じてきましたがそうとは限らないみたいですね。 何も信じられません。 親も嫌だしもっと優しい親に生まれていれば人生変わっていたかもしれません。 親は一回スイッチが入ると感情的になるのでいきなり怒られたりします。 で、急に絡んできたり。 もうもっとまともな人生になりたかったです。 あまりにも嫌で空想してもっとあーだったらなとかこーだったらなとか昔から考えていました。 でも現実は違いますね。 学校卒業して出会った人とかで出会わなければよかったと思う人もいます。 既婚者の人からは性的なことで色々言ってくるしもう恨みや嫉妬でいっぱいなのです。 私は数年前から強迫観念にとらわれ、頭の中で悪く思ってないことが浮かんできてその事柄を消す為に打ち消し行為をしています。 気にしないようにしようとか考えないようにしても浮かんできたりします。 後、数字に関してもこだわったりします。 頭の中で浮かんできても考えない方がいいのでしょうか?私からすれば他人は呑気に気楽に生きてるように見え、どうしたらあんなに罪悪感もなく、気楽に生きていられんだろうと羨ましいです。 とにかく私は怖くてたまらないんです。 私はこれからどうしたらいいのでしょうか? 私は自分の人生を受け入れるしかないんですかね?

有り難し有り難し 31
回答数回答 2

生の強制を信奉できない

以前自殺願望について何度も相談させて頂いたものです。何度もお手数をお掛けして申し訳ありませんが、またご相談の程宜しくお願いいたします。 私は、皆さんとの対話の末に何とか生きる目的を導き、少しずつ自らの存在と自身が存在する世界を祝福できるようになりました。ですが、自身の中で解決していない問題があります。 生の強制と自殺についてです。 私が知る限りでは、仏教は生と死という対立概念について中立の立場を取っています。生きようが死のうが問題ないような心構えを説かれているように思えるのです。私はこの考え方に大いに賛同しているのですが、その立場故に生存を無条件に強制する人たちに対して今でも強い忌避感を覚えてしまうことに悩んでいます。 私は、ハスノハ以外でも両親や友人、教授に自殺願望の悩みを打ち明けたのですが、その誰もに私に対して「死ぬな」という事を前提に説得されました。 私が、生活に不満はないがやることがなくなり、これ以上生命に執着したくないという事を打ち明けたとしても、その発想自体を幻想と一蹴され頑なに生を強制されました。 説得者の言葉からは、現実の私ではなく、説得者のイメージとしての私や、先程述べた死生観を見ているような見当違いを感じ、それ以来人を信頼できなくなっています。 断っておきますが、この方々が悪い人間とは思っていません。むしろ、自己の想像の範疇で私を助けようとしてくれる善人だと思います。しかし、それ故に彼らが生きるという事を無自覚に狂信している事実に深い断絶を感じます。この世のどんな渓谷よりも深い絶望的な断絶の向こう側に、ひとりぼっちで取り残されたような感じです。 私は、彼らのように生を肯定すること自体は問題ないと思っているのですが、生に取り憑かれ、挙句他者にそれを強制する傲慢さを拒絶せずにはいられません。 生きたいと決心した人が快く生き、死にたいと決心した人が悔いなく死ねる。そんな世のあり方を私は望んでいますが、この考え方に取り憑かれた私もまた傲慢なのでしょうか。 そもそも、仏教の教えを信じる時点で私は傲慢だったのでしょうか。

有り難し有り難し 22
回答数回答 2

亡くなった祖父に会いたい

過去にも同じような質問はたくさんあるかと思いますが、ご質問させて下さい。 今年の7月に90歳祖父を亡くしました。 僕にとって初めての身近な人の死でした。 祖母を早くに亡くし、一人暮らしを20年以上続けていた祖父でした。 祖父と僕の家も近く、幼稚園時代は僕の通う幼稚園のバスの運転手、高校時代は祖父の家の近所の高校に通っていたということもあり、通学前と帰宅前で家に寄って顔を合わせ、大学時代、就職してからも休みで予定がない日は会いに行っていました。 僕にとって祖父と会うことは普通であり、当たり前の事でした。 そんな祖父が3月に体調を崩し、7月に亡くなりました。 祖父は過去3度も大病を患ったものの元気になっていたので、今回もきっと大丈夫と勝手に信じていました。というよりも亡くなるということを受け入れたくなかったんだと思います。 しかし、結果として祖父は亡くなってしまいました。 今僕はその死を受け入れようとしています。しかし、今でも祖父の家に行ったり、今までのことを思い出したりすると信じられなくて涙が出てきます。 また会いたい、どういった手段でもいいから会いたいと思ってしまいます。霊としてでも、夢の中でもどんな形でもいいので会いたいと思ってしまいます。 そこで、教えていただきたいと思い質問させていただきました。 亡くなった方は本当にどこかで見ていて下さるのでしょうか?どこかで会いに来てくれたりはしないのでしょうか? このような非現実的なご質問申し訳ありません。少しでも何か心の支えになるお言葉をいただけたらと思い質問させていただきました。

有り難し有り難し 134
回答数回答 2