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検索結果: 2037件

仕事が続かない

初めて質問させて頂きます。 私は子供の頃から親以外に怒られたり注意されたことがない性もあってか会社で上司に冷たい言い方をされるといつまでも引きずってしまって上手く気持ちの切り替えができません。 周りの人なんて気にしないようにしようと頭では分かっていても、こそこそ話していると私の事を噂してるのではと思って仕事中気が散ってしまいます。 結果、ストレスが溜まり原因不明の高熱が続き仕事を辞めるの繰り返しです。 休養すると何であんなこと気にしていたんだろうか、もっとこうすれば続けられていたのになぁと思えるのですが在職中は一刻も早くこんな環境逃げ出したいという気持ちが勝ってしまい辞めてしまう自分が本当に情けないです。 やりたい仕事がある訳でもないし、趣味と言っても仕事につながりそうもないことばかりで… アルバイトから始めてみようと思っても20代半ばではきっと年下ばかりで居心地悪そうだし、また事務員に挑戦しようと思ったら父に私の年齢ではどこも雇ってくれないと言われこれからどうやって生きていけばいいのかわからなくなりました。 こんな甘ったれな自分が嫌で嫌で変えたいです。どうやったら普通の人みたいに働いて生きていけるでしょうか? こんな情けない私にアドバイスをお願いします。

有り難し有り難し 78
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20代後半特有の焦燥をコントロールするには

お坊さん こんばんは。またお聞きしたいことがいくつか浮かんできてしまったので、こちらに分けて書き込みます。 先日、自分がした質問(25歳、これからの生き方について等)とお坊さんからいただいた回答に改めて向き合い、状況を少し客観的に見られるようになりました。20代後半という状態に突入し、どうしようもない焦燥感を持っています。職場にうまく馴染めなかった、大学院が思っていたような場所ではなかった、趣味も人付き合いも嫌気が差してすぐに放り出してしまう。何事も身にならない自分に対して、同世代である友人は毎日働いて社会経験を積み、結婚して家庭を築き、学会に出て研究業績をあげています。 自分だけ時間が止まっているようです。止まっている場合ではない、早く自分の道を選ばなければいけないと思って、資格や他の教育機関の受験、意経験分野の仕事の面接などに挑戦しましたが、ことごとく結果につながりませんでした。おそらく、行動の原点が「今の大学院へ行かないための理由づくり」という消極的な姿勢も関係してしまっていると思います。 この歳になると、今までと同じ道を進むなら、それなりのアウトプットが求められることを覚悟しなければいけない、と感じます。また、違う道へ運良く進めても、また同じ道へ戻りたいと思ったり、さらに違う道へ進もうというのは、もう許されないとも感じます。息苦しいです。どんどん選択肢が狭まっていくことに耐えられず、選ぶことが怖くなっています。他の20代後半のみなさんは、気がおかしくなってしまいそうな焦燥を、どのようにコントロールしているのでしょうか。お坊さんは、仏様を信じることで、このような状態から離れているのでしょうか。

有り難し有り難し 27
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反省について

はじめまして。唯と申します。 私はクリスチャンの両親に育てられ、 形ばかりですが、洗礼も受けました。 今は、教会に行くことも殆どありませんが、 子供の頃は、 クリスチャンとしての躾を受けました。 何か悪い事をすれば、お説教され、 どんなに悪い子だったかお祈りをさせられて、 それからお仕置きを受けました。 好きな物を食べる事を禁じられたり、 外出禁止や、時にはとても痛い思いもしました。 事の善悪を教えて頂いた事には感謝しています。 年齢的に、自分で自分を律する立場になった時、 気が付いた事がありました。 それは、 自分が犯した罪を告白し赦しを乞う事はしても、 十分な『反省』が出来ない、しない、と言う事です。 お仕置きされて、お仕置き嫌さに悪い事をしていなかっただけだと、気付きました。 牧師様に尋ねても『祈りなさい』と言われただけでした。 機会があり、ほんの少しですが仏教の教えに触れる事がありました。 『慚愧』について聞いた時、 益々、反省の出来ない自分に落胆し、それから、 どうしたら反省の出来る自分に変われるかを、 考え続けています。 仏教における『罪』の意味や、『反省』するための考え方など、教えて頂けないでしょうか? 宜しくお願い致します。

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お坊さんとは何ですか?

私の知る情報のみでの考えです。 ご気分を害されてしまうかもしれませんので、先にお詫び申し上げます。 私はお寺さんでよく参禅しております。 時々お話を聞いていますと、色々と疑問が出てまいりました。 お寺では精進料理と思っておりましたが、時には肉も魚も食されるそうです。 外食にも出掛けられ、肉魚お酒など好きに召し上がられます。 お接待で出された場合は、残して捨てられてしまうくらいなら 犠牲になった命ももったいないので頂くのは分かりますが、 自分から望んで食べるのは何故なのでしょうか。 私も普通に食べてきておりましたが、海外の電気も水道もない村に行ったことがあり、 牛やヤギの首をナイフで切って殺して解体して刻んで…と全て見てしまい、 それから食べたくなくなりました。魚も、網がかけられれば必死に逃げます。 人間は自分や他の人の肉を削いで食べようとはほぼ絶対にしませんが、 その他の生き物に対しては美味しいと言って頬張ります。 その時点で人間(自分)より下に見ているのではないでしょうか? : お寺のご子息の多くの人は、人前では真面目にはされておりますが、 嫌々なりました、仕方なくなりましたと言われます。 お坊さんになりたくてなった方にお寺を継いでもらおうとしないのでしょうか? : お坊さんと言えど男性ですので性欲があるのはもちろんですが 参禅者にセクハラをしてくる住職には正直減滅いたします。 お金があるのなら、お店に行けばいいと思うのです。 またお金をお持ちの方は、金があるから…と余裕を見せますが、 そんなにあるなら困っている所に寄付でもすればいいのではないでしょうか? : 真面目に誠実に仏教を学び、実践しているお坊様はどこかにいらしゃいますでしょうか? そういった方がいらっしゃればそちらに参ってみたいです。

有り難し有り難し 54
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感情と感性の違いとは?

先日、知人と議論になりました。 私は、「好き・嫌い・やりたい・やりたくないとかは、関係なく、やるべきことをきっちりとやりたい」って感じなので、どちらかと言えば、「感情排除・感情不要」だと思っています。 知人は、「何ごとも気分良くやりたいから、感情は大切だし、排除できるはずが無い」と言います。 そんな話をした帰り道、「わぁ、この置物、良いね~」「あ、梅が咲いてる」と周囲のいろんなものに反応しているのは私の方でした。 その時に、知人から「そんなにワーキャー言うのが、感情じゃないの?」って言われました。 そこで、質問です。 私のイメージする「感情と感性の違い」は・・・・。 好き嫌いなどの感情で気分が上下していると、落ち込んでいる時は風景を楽しむ余裕も無いだろうし、ウキウキしすぎて周囲が見えないのでは無いのかと思います。 気分が上下するような感情を排除することで、いつでも、同じように冷静に周囲を見渡して、いろんなものを感じることが出来る「感性」があるのではないかと思っています。 感情の波に翻弄されて、大嵐の海のように上下に揺れ動いていては何も見えないように。 穏やかな湖の上であれば、空も鳥も風ものんびりと感じることが出来るように。 感情を排除することで、より豊かな感性を磨くことが出来る。 感情を重視すると、感情だけに囚われてしまい感性を磨く余裕が無くなる。 感情に囚われない方が、いろんなことを楽しめると思うのですが、知人は「感情が大事。嫌なことは言わないで、伝えないで、見せないで、アドバイスなんて余計なお世話」と拒絶されてしまいます・・・。 感情と感性。この違いは何なのでしょうか? 私の考え方は、どうなのでしょうか? よろしくお願いします。

有り難し有り難し 18
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過去の過ちを後悔しています

過去を振り返ると過ちや失敗ばかり思い返されます。 あの時ああすれば良かった、あの時こう言えば良かった、あの時の判断は間違えていた‥等、最近とても苦しみます。 いかに自分が未熟で無知でバカな判断しかできなかった事を悔いてしまいます。 昔の自分は流動的で人やその場の状況に感情的に流されてしまう所が多く、振り返ると勢いで様々な失敗を自ら選択してしまったと自覚してます。 過去のことはお釈迦様も悔やんだりし過ぎてはダメだと説法されたと本などで拝見し、私も頭ではそのように理解してるつもりですが、気づくと自分を責めすぎてしまいます。 そんな時は頭の中で自問自答を繰り返してばかりで、気づくと後悔の念にとらわれて、食欲も減ったりしてしまいます。 大きな過ちから小さな失敗まで数えたらキリがありません。 友人等と比べても私の過去の過ちは愚かな事が多いです。 私は家庭環境が複雑だったのでどこかでいつも孤独感を抱えていた事や人に裏切られた事などで、自暴自棄になりやすかったと思います。 しかし今になればどのような環境であれ、自分を守ったり大切にできなかった事や間違った選択ばかりだった事が悔やまれます。 何度、反省し懺悔してもまだ過去の過ちや失敗にとらわれてしまいます。 どのようにしたらこの苦しみから楽になれるでしょうか? 僧侶の方のアドレスを頂きたいです。

有り難し有り難し 803
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お坊さまの言葉

先日は母の四十九日法要でした。 私は檀家等のつながりが無く某密林サイトにてお坊さまを依頼させていただきました。 来られたお坊さまはきちんと経をよんでくださり法要としてはとても満足のいくものでした。 ただ、経が終わり帰り支度をしながら「次は100日の法要を必ず実施してください。でないと故人はお釈迦さまの元へはいけなくて追い返される」みたいなことを言われました。 今後の法要の予定として言われたのだろうとは思いますがその話だけをしてサッと帰られました。 私はこのお坊さまのおっしゃられた事に間違いはないとは思いますが、もし私がお坊さまの立場なら、お金の余裕が無く簡素なお供えではあるけども、故人を思い一生懸命な遺族に対して今日の四十九日法要を無事に実施できたことに対しての労いと、これで故人も安心して旅立てます、だから残されたあなた達は安心してしっかりと生きていきなさいよくらいのことは言ってあげると思います。 死んだ人だけでなく残った遺族に対しての救いになるような言葉かけて道を照らしてあげるのもお坊さまの使命ではないでしょうか。 単に法要の管理だけならCDで流すお経とあまり変わりはないのかな?なんて思いました。

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死にたい原因

私は動物看護師をしていました。 小さい頃から動物はなんでも大好きで、彼らのためなら何でもしてあげたいと思ってこの職を目指しました。 でも実際勤めたら、人手が足りずにいつも多くの業務に追われ、先輩達はとても怖くていつも行動を見られている気がしてだんだんと心に余裕が無くなってきました。 そしてついに入院してる子達に対して「なんでこんなに苦労ばっかりかけるんだ」という気持ちまで湧いてきてしまいました。 そういう仕事だとは分かっていたのにです。一番苦しんでいるのはその子達とそのご家族なのに、自分が一番みじめで苦しい思いをしていると勘違いしてこんな酷い事を思うほど自分が非情で身勝手な人間だと知って絶望しました。 そんな中で四匹の子が亡くなりました。 一匹は熱中症の小鳥で、私はそうと知らずにセオリー通りに小鳥の籠に蒸しタオルをかけてしまい、それが原因で小鳥は一瞬で息を引き取りました。私が殺しました。 もう一匹は私が手術の麻酔管理についた小鳥で、術後は元気そうだったのに飼い主さんのお迎えを待たずいつの間にか亡くなっていました。なぜもっときちんと見てあげなかったのかと後悔しました。 もう一匹はウズラで、来院する前に電話をかけてきて私が電話応対したのですが情報の引き継ぎがうまくできていなかったようでした。後で先輩に私が必要な事を先生に伝えておかなかったからこうなったんだと言われました。 もう一匹は犬で、点滴チューブが首に絡まって亡くなってしまいました。昼休みから最初に上がった人が入院の子の世話と掃除などの雑務をすることになっていましたが、私は全員をきちんと診ていたら雑務も時間内に終わらない、先輩に怒られると思い軽く様子を見ただけで流してしまいました。きっと私が様子をみた頃にはすでに点滴チューブは首に絡まっていたと思います。私の保身と怠慢のためにこの子は死にました。 私は非情で自分勝手な人間です。動物を助けたいと思ったのに、最終的に彼らを憎みそして死なせてしまいました。これだけは弁解しますが殺意も悪意も全くなく、故意でもありませんでした。それでも彼らの死に関わったという事実は変わりません。 これからずっと似たような過ちを犯し続けるでしょう。これ以上誰かを不幸にする前に今死んでしまいたいのです。最期に我儘を言うなら、罪を清めて極楽に往生したいと思います。仏様は救ってくださるでしょうか。

有り難し有り難し 39
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死の恐怖から未来に希望が持てません

はじめまして。 初めてご相談させていただきます。 現在高校3年生の女子です。 私は最近死の恐怖に囚われています。 死んだ先に何があるのか、死んだら無になってしまうのか、私はいつ死ぬのか、いつか死んでしまうのに何で一生懸命に生きるのか、死んで大好きな家族とお別れしなくないなど考え出したら止まりません。普通の高校生というとこれからの明るい未来に想いを馳せ、夢を抱くような時期だと思うのですが、自分の最終的な未来が死だと思うと怖くて怖くてたまらないのです。自分の最終的な未来が死だと思うと何だか未来に希望が持てません。 私はなんのために生きるのでしょう? 実は半年前にも死がたまらなく怖かった時期があるのですが、何とかあまり考えないようにしてこの瞬間を生きることに一生懸命になることで忘れることが出来ていましたが、また考えるようになってしまいました。初めて死ぬ恐怖について考えたのは高校2年生なのですが、死ぬ恐怖のことなんて一切考えてなかった幼少期の無邪気な自分に戻りたいとも思います。そのほうが幸せなのかなと思います。でも一度考え始めると本当に自分でもどうしょうもないくらい止まらなくて、苦しいです。授業中とか友達とくだらない話で笑ってる時も考えてしまいます。周りの人たちは日々を楽しんでいるように見えるのにこんな自分が嫌になります。 今の私の気持ちが楽になる方法はあるのでしょうか? たいへん長く読みにくい文章になってしまい、申し訳ありません。私にとって人生の先輩であるお坊さんに何かしらのアドバイスやお言葉を頂けたらと思い、相談させていただいました。

有り難し有り難し 33
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世界は美しい 人生は甘美である

皆様ご多忙の中とは思いますが、目に留まりましたら、お話を聞かせていただけたら幸いです。 タイトルの言葉を、仏陀の最期の言葉として知ったのは、数年前に納棺師日記という本を読んだ時です。びっくりして一瞬時間が止まりました。最近ふとその言葉を思い出しまして、いい言葉だよなあ、と感動しています。 御釈迦様の時代にもきっと今以上にたくさんな悲惨な事や恐ろしい事があったと思うのですが、最期にそういう言葉を言われた、というのが、 この世の中、どんなに嫌で悲しい事があったり、様々な人間がいて争いごとが尽きず酷い現実があっても、「世界は美しく、人生は甘美である」という事は、 世の中に悪なんて存在しないんじゃないかな、性善説みたいなことだろかと受け止めてしまうのは、飛躍しすぎでしょうか。 あいにく私はこの言葉の背景や前後の言葉を知りませんが、その道のプロの方々が、どのように受け止めたり、とらえられているのかお話を伺ってみたいと思いまして、質問させていただきました。 沢山の方が質問されている中で、緊急性の低い内容でお手間とらせてしまって申し訳無いのですが、、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 30
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2022/09/05

自己肯定感がなく、追い込んでしまいます

大学四年生、女です。美術大学に通っています。 ここ数年、将来の就職のことや人生のことを考えて気が重くなり、ネガティブな自分の性格も相まってとても辛い日々が続いています。 いくつか例をあげさせていただきます。 ☆他人に対して感じる気持ち ・例えば今日は大学で制作の進捗発表会があったのですが、みんなそれぞれイキイキと制作を進めていて、それに比べて自分はなんてダメなんだろう、、、と落ち込んでしまいました。 ・一年ほど前から、自分から興味を持ち映像の勉強を始めました。 でも大学で話を聞くと、その映像に関してすらも自分よりもっとできる人、自分にはできないことをできる人がいて、私は突出して優れているものがない、と思ってしまいました。 ☆自分に対して ・やることリストを作ったり、毎日日記で自分を振り返ったり、割と向上心を持って生活している方だとは思います。 しかし、頑張っても「今日はこれしかできなかったな」「これがダメだった」と思ってしまい、憂鬱な気持ちで一日が終わってしまいます。 勿論頑張れない日、うまくいかない日の方が多く、そんな日はさらにネガティブに落ち込みます。 口では「ポジティブに生きよう!」と言っていますし、やることリストにもポジティブな言葉を書いています。なのに、どうしてもダメです。 自己肯定感が低いのに、「自分はこんなものじゃない」と高いプライドを抱えているから、こんなに苦しいんだと自分では思っています。 元々楽しくてやってたはずのイラスト制作や映像制作も、 「上手に描かなきゃ価値がない」 「作品作って見せなきゃいけない」 と、自分を過度に追い込んでしまっているのか現状あまり楽しくありません。 それ故になかなか手も進まず、それでさらに「何もできなかった」と自己嫌悪の毎日です。 クリエイティブ職が希望なのに、なかなか手が進まない自分に対して、本当にモノづくりが好きなのかとさえ疑ったりしています。 もっと楽に、深呼吸して生きたいです。 私は自分に期待をしすぎなのでしょうか。 自分が何もできない人間だなんて思いたくないです。望む自分になりたいです。 でも多分、こんな気持ちが自分を一番苦しめているんだろうなと感じています。 長い人生、何が正解とかはないのかもしれないけど、後悔ないようには生きたいです。 なにかアドバイスいただけたら幸いです。

有り難し有り難し 20
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