長女は25年間頭蓋咽頭腫という脳腫瘍と向き合ってきました。過去12回、脳内で成長する腫瘍が各種の障害を起こさないための手術を受けました。ところが結果として、手術自体が、失明、癲癇、半身不随を引き起こす原因になってきたというのが現実です。また腫瘍摘出に伴い脳下垂体を切除しましたので、ホルモン分泌を補うためにホルモン剤を飲み続けています。右眼失明は13歳時の手術の失敗、癲癇と半身麻痺は度重なる手術による脳へのダメージによるものなのです。また、最近は腫瘍再発のスピードが速くなり、この1年間に2度開頭手術を受けました。ますます脳が疲弊していくのは明らかです。 実はここ1ヶ月の間に、左眼が重度の弱視となり、全盲となる瀬戸際となっております。そのため近々に13回目の手術が予定されています。また、今回の手術では腫瘍摘出の邪魔になる右前頭葉を取り去ることになると医師から説明がありました。右利きの人間は左前頭葉を主に使うので右前頭葉は除去しても影響はあまり出ないと言います。しかし、前頭葉摘出は人格を変えるかもしれません。今の医学にはまだ解明されていない領域が沢山あります。脳の機能はその最たるものでしょう。腫瘍を切除するために、人格を変えてしまうかもしれないことを承知で脳を切除する。日本随一の大学病院でのこの判断が、私にはどうしても腑に落ちません。しかし、放置するとさらに深刻な障害を招く恐れがあるのも事実です。端的に言えば、もはや腫瘍摘出自体が目的になり、障害を出さないためという発病当初の手術の目的は置き忘れてきたように見えます。癲癇、半身不随、失明はすべて手術の結果生じてきたのです。親としてこの事態をどう受け止めるべきか、私には分かりません。観音経を唱えて奇跡を起こせるなら、何万回でも唱えようと妻と話しています。 どうか私どもに心のよりどころをお与えください。 もう一つ教えてください。毎朝毎夕妻と延命十句観音経を唱えています。願いは長女の失明回避ですが、観音経を唱える前後の願意の唱え方がわかりません。ご教示くださいませ。
私は数ヶ月前まで専修学院尼僧部に通っていました。 修行は自分の心を軽くしてくれ、余計なことを考えずにひたすら読経の練習や仏器磨きに勤しんでいました。 私は加行をしていて、辛すぎる! と思ったことはありませんでしたが、 知らない人と行動を共に、私語は慎む、家族とは連絡が取れないという不安と心労、そしてご飯の量が多かったのも加え毎日トイレで吐いていました。 吐く事が辛いし親に会いたい家に帰りたいと、泣きながら修行に取り組んでいました。 見かねた幹事先生が親に電話して、停学といった形で家に帰らしてくれました。 専修学院の皆様や家族、檀家さんにはすごく感謝と申し訳なさが残っています。 家に帰ると親の仕事をついて回り、朝のお勤め、梵字の練習などをしていました。 加行を中断して帰ってきたのにも関わらず、親は変わらず優しくしてくれました。 父は癌を患っていて、何年にもわたって再発し続けています。 そのことをわかっていながら、私は家を飛び出してしまいました。 私は婚約者がいることを父に打ち明け、家を出て行くことを告げたのですが… 同じ日に再発がわかったことを父から告げられ、そこから婚約者を紹介し辛くなり、そのまま家を出てきてしまいました… 1ヶ月に1度程度は連絡が来ますが、返信すると父からの返信はきません。 私は父への申し訳なさ、とんでもない事をしてしまったという気持ちでストレスがつのり、ストレスが原因の病気を発症しました。 夢にも毎晩父が出てきます。 夢自体は様々で、前みたいに色んな場所をドライブしたり、朝のお勤めをしていたり、また怒っていたり… 父と喧嘩をしているわけではないのですが、仲直りと言いますか… 前みたいな仲に戻りたいです。 また一緒に読経をしたいです。 でも勇気がでないんです。 どうしたらいいですか? 私は、自分の精神状態よりも、修行を終えることを優先した方がよかったのでしょうか… 拙く長い文章となってしまい、申し訳ございません。
日蓮宗の信徒です。 幼少期より、朝夕の父の仏壇のお勤めを見て、方便品第二や寿量品第十六など自然と覚えておりました。 一昨年父が他界し、今は私が仏壇へのお勤めをしております。 その後、二十一、二十六、二十五、十二と徐々に読めるようになり、更に今まで知らなかった内容(意味)についてもYoutubeなどを見始めております。 二十八品全ての道のりは長いですが、敢えて順番を付けるとすると、次やその次とどのように勉強していけば良いのか、ご意見を頂けますと幸いです。 また、具体的に、次の時にはどの品を読まれているのかもご教授頂けますと幸いです。 今後、菩提寺様や久遠寺など、行事に参加する機会を増やしていきたく、その際にお上人様とご一緒に唱えられるものを増やしていければと思っています。 ・*周忌法要 ・御施餓鬼 ・立教開宗会 ・祥月命日 ・お葬式 ・その他、重要な行事 よろしくお願い申し上げます。
はじめまして。 リスキーな話題ですが、マジメな質問ですのでご容赦ください。 仏教関係者から聞いた話なのですが、お経を読む際にこっそり「◯ンコ」などの単語をバレないギリギリの範囲で混ぜたり、わざと紛らわしい発音をするといった悪戯?や遊びが仏教界には存在すると聞きました。本当でしょうか? ネットでざっと調べた範囲では見当たらなかったのですが、個人的にはありえる話だなと感じています。 内容も単語も聞き手は理解してないケースがほとんどでしょうから、「一切興味もないくせに、雰囲気でありがたがりやがって…」といった背景から、ちょっと イタズラしてやろうとする坊さんが出てきても全く不思議ではありません。というか、私がその立場ならたぶんやります。 あるいは、本当に卑猥に聞こえてしまう単語が混ざってる場合には、表現に苦心するケースがあるのかもしれません。 念のため申し上げますが、もし事実だったとしてもお坊さんを非難したいワケではありません。むしろ問題があるのは檀家やらの聞き手の方ですので。 それに、アニメではない方の一休さんが仏像を枕にして「俺の商売道具に何をする(笑)」と言われたエピソードなども伝わっています。 「◯ンコ」の件が本当だとしても、宗派ごとの厳格さやお坊さんの感覚は十人十色です。弔い文化や宗教観の奥深さを示す、笑えるエピソードになるはずです。 ひょっとしたら、仏教界にとっては隠したい裏話なのかもしれませんが、知恵をお借りできれば嬉しいです。 よろしくお願い致します。
理趣経の教えですが、私は「人間の欲望は本来清らかだが、使い方を誤れば汚れたものになる」と理解しています。このような理解で問題ないでしょうか。
たかが夢の話ですが、現実に影響があり困っています。アドバイスをいただければ幸いです。 近頃、自殺した息子さんを持つお父様の夢を見ました。全く知らない人です。 私は仏間らしき部屋で対座していました。 壁には息子さんの写真が大写しで掛けてありました。 彼の後悔、懺悔、苦悩の重さは凄まじく、起きた後も覚えているくらいでした。 数週間後、家族でDVD鑑賞をした日に、出演されていた脇役の俳優さんが自殺する夢を見てしまいました。 父母に尋ねると、たしかに自殺した俳優かもと言われ、少し怖くなりました。 その後、毎日のように彼の自殺場面を夢に見るようになり、早朝に覚醒するようになりました。 ましな日でも、ガラス張りの部屋に無言で立っている…という感じです。 真夜中に電話が掛かってきて、知らない番号だったので無視すると、次の日残っているはずの履歴がスマホから消えているということもありました。 さらに誰が入れたのか、私的なPCに彼の写真が保存されており… 仮に彼をAさんとします。Aさんは40~50年前に活躍されていたらしいので、(鑑賞したドラマも51年前のものでした)ドラマを見るまで名前も顔も存じ上げませんでした。 思いきって調べてみると、夢で見知った内容とAさんの人生の大枠が一致しているのを知りました。 お父様の写真も出回っており、夢に出てきたそのままで、名前も同じでした。 ファンの方ならともかく、無縁な私の夢になぜ繰り返し現れるのか。 霊媒などは殆ど信じていないのですが、偶然の多さに打開策が欲しい思うようになりました。 お墓参りは怖くてできませんが、読経すれば少しはお気持ちを鎮めてくださるでしょうか。 お経はご先祖以外にも届くか不安です。また、お経ではない供養の方法などあればお教えいただきたいです。
仏教について、学生時代に少し学びました、 お釈迦様は、「諸法無我(自分という実態は無い)」と 解かれたと教わりました。 しかし、「仏説阿弥陀経」の中で、四カ所「我」という漢字が出てきます。 「我見是利」「如我今者」 「亦称説我」 「當知我於」とあります。 この上記の4つの「我」と、「諸法無我」の「我」は何が違うのでしょうか? お教えいただければ幸いです。 よろしくお願いします。
緊張したり、イライラしたり、人に怒ったり、自分でもどうしようもない感情に振り回されるのが自分でとても嫌なのです。 心が落ち着く、優しい気持ちになるお経を教えて頂けないでしょうか。 勝手ですみません。 母方は浄土宗で法事はきちんとやっていますが教義はあまり分かりません。 「南無阿弥陀仏」では短すぎて心が込められない気がして、もう少し、長いお経の方が心が落ち着くような気がします。 (般若心境は、知恵の話なので、特に気持ちが落ち着くわけじゃないような気もするので) パニックになりそうなときに、無意識に頭の中で唱えられるような、落ち着いて感謝の気持ちまで生まれるような、そんなお経を身に着けたいと思います。 「なんて勝手な言い分」と言われそうですが、教えて頂いたお経を毎日唱えて暗記して、自分の感情のコントロールできるようになりたいのです。よろしくお願いいたします。
12年前にお寺でお経を私に唱えられました。現在私は勝手に自分で思ってもいないことを話し顔が痛くなったり頭が痛くなったりします。治りません。どうすればよいでしょうか。病名は統合失調症ですが病気ではないので症状が違っています。薬ばかり飲まされています。どうすれば治るのでしょうか。教えてください。
先日の質問へのご回答、ありがとうございました。 以降、毎日祖母に手を合わせ、そのときの気持ちを声に出して伝えたり、 南無大師遍照金剛と唱えたりしております。 ただ、ひとつ疑問に感じたのですが、 手を合わせる場所、お経を唱える場所は、祭壇(後飾り)の前でなくてもよいのでしょうか。 祖母の自宅に祭壇(後飾り)が設けられていて、 私の自宅からはやや距離があり、仕事と子育てがある中、毎日お参りするのは難しいです。 (そうやって理由をつけて 生前の祖母にあまり会いに行かなかったんだろうと 自分を責めてしまいます) いまは、自宅で家事の合間に台所で、仕事が終わった後に車の中で、寝る前に布団に入って、などのタイミングで 手を合わせて話しかけたり、お経を唱えたりしていますが、 こんなやり方で祖母に伝わっているでしょうか。 四十九日までは近くにいてくれると言いますが、 四十九日よりあとも、今のようなお祈りの仕方でよいでしょうか。 大好きだということ、祖母にあちらでも幸せになってもらいたいと思っていること、 祖母に必ず伝わってほしいのです。 ーー 追伸 先日の質問へ回答いただきまして本当にありがとうございました。 その後、非常に少しずつではありますが、落ち着いてきております。 初七日の後、祖母が夢に出てきて、にこにこと橋を渡っていました。 そのときはまだ悲しかったのですが、 ここ数日は、無事あちらに向かっているのだと、少し安心した気持ちです。 こちらでいただいたお言葉を胸に、僅かずつではありますが、 祖母を送り出す、供養する気持ちが芽生えてきており、感謝しております。 ありがとうございます。
こんにちは。 少し、気にしすぎかなぁ、とは、思うのですが…。 寺社仏閣に行くと、落ち着くので、心乱れたら、行ってみたりするのですが、折角だから、御朱印(納経)を、頂きたいと思い、御朱印帳を、ネット通販で、買いました。 可愛い絵柄、色だったので、注文したのですが、お店で直接買うのと違い、実物を、見て買えないから、仕方ない、とは、思ったのですが…。 届いた、御朱印帳は、表紙の布地が(目地)、斜めに歪んだものでした。 裏地は、少しだけ斜めになってますが、ぱっと見、まっすぐです。 なんだか、お前は心が、斜めになってるから、御朱印帳も、斜めにしたよ、と言われてるような気分になりました。 気にしすぎでしょうか? 蓮の花と、水玉の、可愛いデザインの、御朱印帳です。色、柄は、気に入ってます。 販売元に、交換して頂けるか、問い合わせしてみたら、手作りなので、まっすぐになる方が少ない、とのことで、不良品ではないので、交換は、できない、とのことでした。 表紙が、少し、斜めになってますが、神様仏様は、おきになさらないでしょうか? 私の気にしすぎでしょうか? 人の作ったものだから、少し位斜めでも、許して、使わせて頂いた方が、良いでしょうか? 神経質な性格なので、気になってしまって…。 よろしくお願いいたします。
お経は漢字ばかりで見ても聞いても難しくて何のことかわかりません。 たぶんすごくいいことが詰まっているのでずっと読まれていると思うので、何を言ってるのか現代の言葉でわかりやすく口語訳して欲しいです。長ければ一部でもいいです。
私はとあることがきっかけで、ずっと不動信仰をしております。 それがさらにきっかけとなり、真言宗にも興味を持っています。 毎日、お青不動様の写真に般若心経、光明真言、仏説聖不動経などを お唱えしております。よく高野山に行くのですが、理趣経が売ってたので 購入しました。お経の中の漢字を見ていると、まるで曼荼羅を見ているように思い 気に入ったのですが、インターネットで調べてみると、 「むやみに読むと功徳を授かろうと未成仏霊が寄ってくる」 「これは真言密教の秘経であり、一般人は読んではならない」 「僧侶や行者、信頼できる師から教えを受けなければ読んではならない」 とあり、非常に残念に思っています。自分にとって、本当に文字の集まりが 曼荼羅のように思えてしまうほど素晴らしいと思っていたので、その理趣経を 自由に読めないのはショックでした。 本当に、インターネットのように、自由に理趣経は読んではダメなのでしょうか? お教えいただけたら幸いです。
観音経に出てくる無尽意という方に方について以前よりどういう方か気になっています。 それで、真言宗のお坊様に質問したら80種類位の法門を説く方だと教えて貰いました。 そして、禅宗のお坊さんなら詳しく分かるかもしれないともお聞きしました。 観音経の本や訳を読んでももさっぱり分かりませんでした。
いつもお世話になっております。 インターネット等で仏教に関する情報を収集していると、 「理趣経は民間人が読んじゃダメ」 「絶対的門外不出」 「理趣経加行を受けてから」 といった趣旨の記述が目立ちます。 「17清浄句が極めて誤解を生じやすい表現であるため」 とのことでした。 * ですが、私の祈願寺では護摩修行の際に読誦、 また護摩用に貸し出し、販売されている経典に、 勧請部、序章、初段、百字偈、17段(金剛手若有聞此〜)、 流通部の順に載っています。 そして信徒に向け、一緒に他の経典と並び修行中に読むことを 奨励しています。 * 私これを含めお経を読むにあたって漢文をかじり、 ほんの少しですが読み下すことができます。 たしかに、非常に「強烈」な意味でした。 これは誤解して魔境に陥る人も出るわけだと思いました。 ですが、あのお釈迦様や大日如来様がそのような軽率な 発言をするはずがありません。 * 長年の引っ掛かりです。ご意見お待ちしております。
お忙しい中、私達の悩みに真剣に答えてくださり、ありがとうございます。 今回は私の仲良しの友達の事でききたいことがあります。 友達のお父さんが去年亡くなって、葬儀の際、里のお寺は離れてるため近くのお寺の和尚様で宗派は違うけれど、お経をあげてくださる方に頼んだそうです。 今年の初盆は、和尚様を呼ぶこともなく お経もあげなかった。そうです。 友達は 気にしてましたが、お母さんが全くの無信心だそうです。 亡くなった方にお経をあげる事はどのような意味があるのでしょうか? また、全くの無信心でも何の障りもなく、幸せに暮らし、とても前向きなお母さんです。 私の育てられた環境からだと、仏様を大事にしないと何か悪い事がある!みたいな感じなので… 僧侶の方の考えを伺いたく質問させて頂きました。
浄土真宗本願寺派の門徒ですが、まだ両親は健在で年に数回、お坊さんに月命日のお参りに来てもらっていますが、両親がお寺に参ることはしません。当然、永代経法要にも参ったことがなく御懇志も奉納したことがありません。 そんな状況で、息子である私が永代経法要にご聴聞しに参ってもいいのでしょうか? 又、その際私が御懇志を奉納しなければならないのでしょうか?
お坊様に質問がございます。 自宅の庭に置いてあるネズミ取りの罠に小鳥(瀕死)がかかっておりました。 助けたいと思ったのですが、虫の息でしたので、人の勝手で命を奪ってしまって、申し訳ないと彼(彼女?)に対して観音経・般若心経・普回向・舎利礼文読みました。 その小鳥は、仏様の所へ無事行けるのでしょうか?
母から、何かあった時はこれを唱えなさいと教わりました。 母はどうしようもなく辛い時や、所謂神頼み、家族の手術成功や震災で安否を願う際などに唱え、救われてきたと言います。 南無真如一如大般涅槃経 この言葉の意味など理解せずに、普段何も信仰していない私が、自らの困った時だけ唱えて良いものなのでしょうか? どのようなものなのか、教えていただけますと幸いです。
延命十句観音経について とても丁寧なご解説をありがとうございました。よくわかりました。自然界の道理を小さな人間の念仏ごときで動かすなど不遜と言うほかないと気づかせていただきました。今後、観音経を唱えるときは、観音様に「奇跡を起こしてください」ではなく、「今度の手術がどうなろうともこれが娘に良いことになりますよう」と念じることにいたします。 実はこのたび観音経を始めましたのは、「景清」という落語に感化されたからです。 昔、平家に仕える悪七兵衛景清という武士が、源頼朝の命をつけ狙い、捕えられたときに、源氏の世を見るのは忍びないと自分の両目をくり抜き清水寺に奉納したことから、ある全盲の男が眼病によく効くと聞きつけ、十句観音経を100日唱え満願の日に観音さまが現れて、景清の目を貸し与え目が見えるようになる、というお話しです。 昔からこのような観音信仰があるのですね。わたしは藁をもつかむ心境から始めたことですが、今後は娘が全盲になったとしても前向きに生きていけるよう祈り、智慧を出してやろうと思います。 それから、観音経を唱える前後の願意の唱え方がわかりません。定型の唱和文などあればご教示くださいませ。