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検索結果: 2786件

「それがあなたの仕事?」と思うほどガッカリイライラした時は?

問い合わせ先、カスタマーセンターなどに電話し、質問することが多いのですが、当初の疑問が解決しないまま諦めざるを得なかったり、解決法を得るまでに膨大な時間がかかったりすることがあり、どのように気持ちを落ち着かせればいいのかを聞いてみたいと思い、投稿しています。 例えば、「Aという操作はできますか?」と質問すると、「Bならできますが」などのような回答があり、私が疑問に思う「Aができるのかできないのか」がわからないことがあります。 しかし、「Aができるのかできないのか」がわからないままでは電話を切るわけにもいかないと、「どう言えばわかってもらえるのか」をあれこれ考えて話していると、どうしても「だから!Aは!?」のように、だんだん大声で叫び、疲れてしまうことになります。 また、ようやく「ああ、Aですか。できますよ」などと、それまでの私の「どう説明、質問すれば回答してもらえるのか」の苦労の時間がなかったかのように、あっさりした返答を聞くこともあり、「この人は、『いままでわからなくてすみません』とか、『いろいろ説明してくれてありがとう』とかは思わないのだろうか、少しは思ってくれてもいいのではないか」と感じることも残念で、それを伝えないことにはやはり電話が切れないと、また大声で「少しは悪かったと思わない!?」などと訴えてしまいます。 質問を解決できないことも、解決できてもそれまでにいらない苦労・時間をかけなければならないことも、ガッカリし、イライラする原因で、困ってしまいます。 このような状況になった時は、どう気持ちを落ち着かせればいいのか、それとも、どう怒らずに会話すればいいのか、どう思われますか。

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死ぬのが怖くて仕方がない

怖いこと 自分の命が有限なんだと 毎日ふとした時に感じられて 今在る私がいつかバラバラになるのだと思ったら 怖くて怖くて仕方がない。 目の前の現実世界が 崩壊していく様な気がして そうなるとそれ以上耐えられなくて 思考も動作も停止して、 背中が冷たくなるようです。 動物のひた向きに生きる姿は、 尊敬に値するものだと思ってます。 一生懸命生きている、 素晴らしい存在です。 しかし最近、 某福祉施設内で個人的に可愛がっていた老犬が 恐らく病気で死んだことや、 道の途中で事故にあったらしい猫の死体を見たことで、 死というものは誰にも容赦なく 愛しい存在でさえ突然命を奪っていくのだ、という 現実に向き合わされました。 それが翻って、 私にもいつかその番が、と思ったら 怖くなりました。 この世界から、 ある日消えて無くなるという現実が 急に見えたのです。 私は既にいい大人ですが、 昔から体が弱く気も小さく 器量が悪くて会話も下手で、 他人から嫌われて暴言暴力に遭うことも多いので、 明日がくることは恐怖でしかなく、 自殺を考えることも多いのですが。 現実の「死」はあまりに残酷で心で 受け止めることができない。 犬は病気で苦しかったのでは? 猫の遺体は酷い怪我をしていたので、 想像つかないほどの痛みの中で、 亡くなったのかと思うと、 本当に本当にかわいそうで、 そのような「死」が重過ぎるのに、 死の世界は実は日常と隣り合わせであり、 怖いという感情に襲われます。 仏教ではこういう問題には どのように考えますか? いつか必ず死ぬ運命を どのように受け止めたらよいですか? 動物に執着し過ぎるのは 良くないという意見は 人間の都合しか考えてないと思いますので、 ご遠慮頂けますか? 地球上で今もたくさんの家畜が 人間の為に犠牲になっていると思うと 暗澹たる気持ちになります。

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仏教の教えについて

 こんにちは。再びこちらで質問させていただきます。  以前読んだ呉智英著「つぎはぎ仏教入門」という書物の中では、私の従来のイメージとはかけ離れた仏教観が述べられており衝撃を受けました。お釈迦様の物語では、お釈迦様は家族を捨てて出家しており、出家者に対しても①家族を捨てること・②生涯独身でいること・③労働をしないことを要求しています。また梵天勧請のお話では、お釈迦様が悟った後に「私が悟った法は、その内容はあまりにも高度なものであるから、一般の人に説いてもわかるまい。」とそのまま涅槃に入られようとしていたようです。  これらの物語を読むと、仏教とは決してヒューマニズムのような耳障りの良い教えではなく、むしろ社会の常識を揺るがす危険な思想なのではないかと思いました。また、仏教の一番の目標は、やはり「悟りを開くこと」ですが、「悟り」とは私が今まで考えていた「あるがままの世界を観じる」というような単純なものではなく、もっと峻烈で幽玄なものではないかと思いました。  これらを踏まえると、日本の仏教ではお坊さんは妻帯をして、労働されている方もいらっしゃるのが普通の光景です。社会に歩み寄るという点では、ある程度の妥協も必要であるとは思いますが、釈尊の本来の教えから見ると、修行や悟りを軽視している面があるのではないでしょうか? また、その教義が初期仏教とは異なる宗派もいくつかありますが、ある教えが仏教であると言える条件は何なのでしょうか? 日本で悟りを開かれているお坊さんはどれくらいいらっしゃるのでしょうか?  その辺りを、お坊さんはどのように考えられているのか伺いたく、質問させていただきました。どうぞよろしくお願いします。

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無宗教の場合の仏壇について

主人の実家は学会です。 主人は長男ですが非学会員で特に信仰している宗教はありません。 . 半年前に絶縁状態だった義母が 亡くなりました。 入院したことや亡くなったこと 義姉は親族の誰にも言わず全て学会で終わらせてしまいました。 そのことはもう諦めています。 ただ、入院する1ヶ月前まで 娘が間に立ち主人と義母の雪解けを 探っていました。義母の頑なな心も 少しずつ変わってきていて、主人にも 和解するよう説得していたのに 突然連絡が取れなくなってしまいました。 心配で義姉にも連絡しましたが 着信拒否の音信不通になってしまいました。 この時点でもっと強く行動して どれだけ遠方でも乗り込むぐらいのことを すればよかったと後悔しきれません。 . 和解のチャンスを握り潰してしまった 義姉に対しての憤りが消えるまでは かなりの時間を要しそうです。 . 自宅で仏壇を用意して ご本尊と先祖代々の位牌を 用意して御供養するのがいいと 聞きましたが無宗派の場合は どのように用意すればよろしいでしょうか? . 私個人は般若心経の教えに 共感することが多いのですが 宗教の知識は無いに等しいので どう選べばいいかわかりません。 仏壇を用意したあとのことを お教えください。 . 何卒よろしくお願いいたします。

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仏教における女性蔑視?はいつから?

毎度お世話になっております。 お坊さんと匿名でお話ができるというのがなかなかに楽しくてつい頻繁に利用してしまいます。 私は僧侶ではありませんが、仏教のことを、ちょこっとずつですが勉強するのが趣味なんです。この趣味がなかなか共感されないんですよ。 今回はちょっと学問的な質問を。 タイトル通りですが、仏教の教義では女性を蔑視、と言えるかどうかは分かりませんが、宗教的素質の低い存在であると見なしているということが、現在どうかはともかく、歴史上にあったことは間違いないと思います。 そのような考え方がいつから、どこから出てきたのかな?という質問です。 いわゆる初期仏教で既に宗教的素質に男女差はあったのでしょうか。 大乗仏教に入ってからなのでしょうか? 大乗からだとするとインドから? 中国から? そのあたりのことがちょっと知りたいです。 よく女性蔑視として挙げられる例として、たとえば五障とか変成男子とかいう言葉は、ウィキペディアを見る限りではお釈迦様の思想ではない、となっていますが、初期経典などに同じような考え方は全く見られないのでしょうか? 一応強調しておきますが、現在の仏教が女性差別に加担しているかどうかという話ではなく、また戒律の数や教団の違いといった現実的な差異ではなく、あくまで悟れるか悟れないのか、という宗教的な素質に関わるところの差が、どこからあったのかな? ということです。 詳しい方がいれば、ちょっとした参考でも教えてほしいです。

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2021/09/09

ワンオペ育児女医〜仕事セーブするのが辛い

私は3歳と1歳の子持ちの女医(外科医)です。夫は単身赴任で、ワンオペ育児中なので私は子供のために仕事をセーブせざる負えません。 育児をするだけで日々が過ぎ去り、仕事をバリバリ出来ないことがとても辛いです。 最近身近な人を亡くしたことをきっかけに仏教を勉強し始めました。日本の各宗派の成り立ちや教え、仏教の伝来と他国の仏教の教えを勉強し、今は主に初期経典のダンマパダやスッタニパータ、アビダルマなどを読んでいます。 お釈迦様の教えで自分の苦悩が楽にならないかずっと考えています。 お釈迦様は人間は五蘊で構成され、どこにも自我は無いとおっしゃいました。 私は他の男性医師や独身女医のように仕事に邁進してキャリアを積みたいと思うのですが、自分が!自分が!という自我に執着した欲にまみれた状態なのかもしれません。 過剰な欲は持つべきではないとお釈迦様は言ってます。 私は仕事のキャリアアップを諦め、子供のために仕事をセーブし続けるのが人間として正しい行動なのでしょうか。 フルタイムで働けば私の方が夫より収入が多く、修めた学歴も私の方が10年長く、男というだけで思う存分働ける夫に嫉妬しそうになります。しかし嫉妬の心は人間としての成長を妨げる、持つべきではない不善心所らしいので、頑張って嫉妬の心を持たないように心がけています。それに仏教的には金銭や学歴に価値はないということも理解は出来ます。 仏教を勉強し、人が幸せになるためには、自我をなくし、慈悲の心を持ち、自分以外の存在のために生きるしかないのだと理解しました。 しかしそうなると私が医師としてのキャリアアップを諦め、育児に専念するしかないのでしょうか。 育児は手がかかります。どうあっても誰かが仕事をセーブしなければ育てることは出来ません。 一生懸命医師として努力してきましたが、女性は子供を産んだら医師の仕事に全力で邁進するのを諦めるのが人間的に正しい行動なのでしょうか? お釈迦様は男女は平等だと説いています。育児も医療と同じように尊い行いだということも理解できます。 しかし子供を産んだというだけで、第一線を離れ続けるのがとても苦しいです。 そんな私に何か心が軽くなるアドバイス、解決法を教えてください。

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中絶

幼稚園年少組〜高校生3年生迄父からDV被害。 3度と地方の市内シェルターへ盥回し。 後に精神病院へ3年間の強制入院後強制退院。 拒否権無く2020年7月末に区役所に簡易宿泊施設に強制収容させらる。男女共用便所にて強姦寸前が幾度と有り彼氏の家に2020年9月に避難。 避妊を求めたが願い虚しく2020年の翌月10月26日に妊娠発覚。 パートナーの主張▽ ○世間体の順序を守りたし ○現在財政難 ○コロナ禍である 以上により中絶を私に要求。 2年後に結婚したら子供を授かりたいとの事で昨年末12月22日13時30分に中絶をしたが中絶後に情緒不安定。外で妊婦を見ると妊娠が嬉しかった感情や母子手帳を一人で貰ったり誰にも相談できず区役所で泣く日々、私の親族に責められる上に彼氏は私の存在を彼氏の両親にすら話していなく子供の事も伏せている状態。その後の手術台を思い出したりで喪失感に苛まれ号泣してパートナーを責めてしまい自己嫌悪に陥る繰り返しで躁鬱の様な状態が日々続き、精神面で降参気味。 現在は苦しい過去が詰まった都道府県を出てパートナーの住む新天地で同棲中。 新天地の区役所の人が心療内科の受診を提案するが強制入院をさせられお薬の名目を疑問視するだけで監禁された事を思い出しお薬に抵抗有り偏見を持つ始末。 パートナーは将来の妊娠の為に年数掛けて蓄積された精神のお薬を抜いてほしいとの事。私は精神薬を飲んだ方が安定の可能性を感じられるが彼の考えも知り心療内科に行けずな優柔不断状態。 やってみないと分かりませんが私はお薬を飲まずにカウンセリングや認知行動療法で立ち直れるでしょうか?認知行動療法の本で自分の脳癖と感情や言動の傾向はある程度理解しましたが、子供の供養以前に私の状態を改善しなければ何もできない状態です。 第三者の意見や前を向きながら供養する為にこの文書の中で今の私に必要、適切と思われるお釈迦様の言葉を授けて欲しいです。 過ちは黄泉の国で償うので現世での軽率な所業を根性を叩き直していきたいので背中を押す救いの言葉をどなたかに求めます。

有り難し有り難し 21
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肉食について

お釈迦様の時代は托鉢やお布施により頂いたものをなんでも食べていましたが、 現代日本において、托鉢でもお布施でもないのにお坊さんが肉食をするのは何故でしょうか。 仏教とは慈悲の心が根底にあり、生命に対し、苦しみを与えないようにするのは当然のことです。 お釈迦様の時代、今のような方法にて動物が囲われ、無理な出産を繰り返し強要され、体の一部を切除され、まだ寿命に程遠い若齢の家畜を殺していたとは思えませんし、 お釈迦様が肉を食べていたのを理由に、肉を食べてもいいんだよ〜というのは間違っています。 残り物を頂くのと、スーパーにて肉を買い調理するのは違います。 漁師のように職業にしている人もいるし仕方ないという話も見ましたが屠殺業に嫌気がさして仕事を変えた人もいます。 出された肉をありがたく食べれば生き物も報われるというなら、人間が死んでも葬式などせず、ありがたく調理して食卓にのせて頂くべきだということになります。 植物も生き物ですが、植物に意識はないですし、もし痛みや意識があるならば、家畜の餌にされている大量の植物を減らすべきです。 穀物や水、家畜を育てるのには大変膨大な資源が使われる一方、穀物さえ食べられずに飢餓で苦しむ人々が沢山います。 日本仏教が妻帯肉食をはじめたのは、その時代において必要な選択だったのかもしれませんが、現代日本にてまだ呑気にそれに甘えているのはどうでしょう。 肉食が許されるのは、病気で肉が必要であったり、高山地帯や極寒地帯において作物が育たない地域の人々であり、 豊かな国では肉を食べたいという煩悩をできるだけなくして、もっと全体の生命に対して心を配る必要があるのではないですか。 仏教は拘りをなくし、解脱をえるのが最大の目的ですが、戒律を手放してよいのは聖人に達したもののみて(仏は存在が慈悲ですから) 煩悩だらけの人間がなんでも手放したら、欲に溺れてしまうだけで、仏教の意味がありません。 また念仏を唱えたなら救われるというのは、一時的な救済で、本当にその人を救うことにはなりません。念仏を唱えようが、殺生をしたならば、やはり因果の報いは受けます。 肉食の許容は、屠殺業を放任し結果的にその人たちをも破滅させます。 私は直接屠殺していないし、肉を食らっても極楽浄土に行けるから、それでオッケーというのは仏教では無いと思います。

有り難し有り難し 45
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