こんにちは。昨日は私の質問にご回答頂きまして、誠にありがとうございました。非常に勉強になり、今後の参考にしたいと思いました。 立て続けで申し訳ありませんが、輪廻転生について、あと一点だけ質問したいことがございます。この質問で最後にしますので、ご回答頂ければ幸いです。 日本の仏教関係者の中には、和辻哲郎博士など輪廻転生を否定する説を述べられる方もおられます。その一方で、魚川裕司氏は著書「仏教思想のゼロポイント」で和辻哲郎博士の説を批判し「無我輪廻説」こそがお釈迦様の説かれた教えだ、と主張しております。先の質問で、お坊さまがおっしゃっておられた輪廻の本意はこのことなのかな、と思っております。 そこで、さらに疑問が湧いてしまったのですが、チベットやブータンでは、「輪廻転生による生まれ変わり制度」が存続しています。上記の解釈ですと、生まれ変わりを認めることは難しいように感じるのですが、この制度は民衆を導くための方便ということになるのでしょうか。 このような知識欲自体が煩悩なのかもしれませんが、どうしても知りたいと思ったので質問させていただきました。お暇なときで結構ですので、ご回答頂けるお坊さまがいらっしゃれば幸いです。よろしくお願いします。
人は死んだら無になるのでしょうか。仏様になって私たちを見てくれてはいないのでしょうか。 幼い頃から大好きで大切だった祖母が最近、亡くなりました。私の家には仏壇が無いため(親戚の家にあります)、祖母の写真を置き、その前にお供え物をしています。祖母は亡くなるまでの半年間は食べ物や水を一切口にすることができませんでした(病院から飲食を禁じられており、栄養はカテーテルで摂っていました)。しかし本人はずっと「食べたい」「水が飲みたい」と言っていたのにそれが叶うことなく亡くなってしまったため、あまりにも哀れで、せめて天国ではたくさん食べてほしいと思い、お供え物をたくさんしています。けれど、ふと思うんです。こんなことをして、祖母は食べてくれているのだろうかと。人は死んだら仏だのあの世だの霊だのそんなものはなく、完全に無になるだけなのではないかと。だとすれば、毎日あれこれと飲み物や食べ物をお供えしているのは、単なる私の自己満足に過ぎません。それを考えると、虚しくなります。仏もあの世もなく無になっているのなら、お供え物もお墓参りも完全に意味の無い行為と言えます。ネットで色々と検索してみたら、霊感のある人は「ちゃんと食べてくれている」という意見を述べていたのですが、私には霊感がないので何も感じ取ることができません。 それに、祖母は20年以上前に亡くなった祖父のお墓参りをずっとほぼ毎日やってきましたが、祖父が見てくれていたようにも思えないのです。なぜなら、祖母は長年、体の不調に苦しみ続けていましたし、長文になるので割愛しますが最期の時もあまりにも惨めなものでした。よく「故人を思ってお墓などを大切にすると幸せになれる」ということを聞きますが、祖母は最後まで哀れでした。このことを考えると、やっぱり人は死んだら無になるだけで、それ以上は存在しない、つまり私たちを見てくれてはいないのかなと思えてしまいます。 難しい質問かとは思いますが、回答、宜しくお願い致します。
悩みは妻が葬儀の時に、霊前で焼香の時安らかにお眠り下さいと願ったあと、地獄に落ちろと思ったようです。とてもお父さんが好きだったようでなんでそんなの事思ったのか、ずっと反省と後悔をして不眠症で病院に通っているのですが良くなる気配がないです。本人は生き地獄の末、死んでからも地獄に落ちると仏教の教えにあると、言っています。どうすれば抜け出せるでしょうか?一度、お坊さんと話をしようと連れて行ったのですが、怖くて行かないと言うので。回答をお願いします
両親が30年前に購入したお墓なのですが、 まだ誰のお骨も入っておらず、開眼供養もしておりません。ただずっと管理料だけ払い続けて参りましたが、この度、そのお墓を撤去をする事に決めました。お寺は真言宗豊山派です。 その場合、供養は必要なのでしょうか? 墓石と土台だけ撤去して更地にする費用だけで宜しいでしょうか?
いつもたくさんの相談と回答を読ませていただき、学ぶことや気づくが多くありがく感じています。 今回2度目の相談です。 前回娘が亡くなったあとの心の持ち方についてご教示いただき、それまで苦しみで澱みきっていた心が浄化されました。ありがとうございました。 あれからも娘のことを思わない日はなく、 でもあちらの世で仏様のお導きのもと、生前抱えていた深い苦しみや悲しみがない在り方(過ごすや暮らすという表現は違うと思いこのように表しました)をしているものと考え、娘の肉体はなくなったけれど存在は私にとって永遠のものになったと感じられるようになりました。 いろいろ考える中で思ったのが、人はこちらの世界で様々な煩悩や苦しみを抱えながら生きていますが、それは学びであって、亡くなった後あちらの世界で仏様になり、生きている人たちの心のよりどころ(?)救いとなるための修行のようなものなのではないかということです。つまり、生きることは決して楽ではないけれど、その経験が輪廻転生の中のどこかで人を救う力になるのではないか…そんなことを考えました。 仏教のことは深く学んだことはなく詳しくわかりません。感じたままのことですが、お坊様方のお考えや仏教の正しい教えをお聞かせいたたければ嬉しいです。
結婚25周年目にして夫が15年以上も浮気していた事実が発覚してどう心を落ち着かせて再構築していけば良いのか悩んでいます。 浮気と言っても男性で俗に言いう『女遊び』なのですが、長年パートナーを騙し続け売春行為(パパ活)をしていた事とそれがバレた時の主人の対応に不信感と拒絶感が生じてしまい今までのように敬う心が消滅してしまいました。 夫は家族思いで優しい人で経済的にも不自由する事なく生活ができ、周りからも仲が良い夫婦と言われるくらい行動を共にする事が多かったです。 でも仕事柄夜勤が多く、活動拠点の事務所を持っていて週3回程はそちらに寝泊まりするのがここ10年くらいの生活環境でした。 多数の女の子とのLINEトーク履歴と動画を偶然見てしまったことで浮気事実が発覚しました。その内容の生々しい会話から手当たり次第何人も囲っていた事実が判明したのです。 しかも長女はその事を数年前から偶然知ってしまい口止め料としてお小遣いを与えていたのでした。 本人も始めは申し訳なさそうにこれからの生活を改めると今までの清算をしてくれたのですが、何かの時に私がその話題に触れると『謝って誠意を見せたのに過去の事を言うな』と罵倒するのです。 そして浮気は男の甲斐性、仕事上のストレスを家に持ち込まない為に必要だったと開き直るのです。 塞ぎ込んでる私にある方のアドバイスで誓約書を交わす事になり、私が作成した文面を見せた途端『俺はEDで不貞行為はしていないからこの誓約書にはサインできない』と嘘をつき逆ギレしたのです。 再構築する為に誓約書を交わしたい私ともう済んだ事なのにする必要がないと言い張る主人とで何日も話し合いが続きました。結果主人が作った誓約書にサインする事になりました。その内容は不貞行為があったことは認め今後は性交をしない。そしてその代わりに主人の行動をいっさい詮索しないと言うものでした。そして性交に至らないの不貞行為は仕事上の付き合いもあるから約束できないと言い放ったのです。 一歩も引かない主人を見てそもそも貞操観念の価値観の違いがある事に気づき、夫への愛情が消えた瞬間でした。 家族としては尊敬できる部分もあるので離婚までは考えていませんが、家の雰囲気が最悪です。このままでは次女にも悪い影響だと思います。どうしたら咎めず穏やかに夫に接する事ができるでしょうか?
先日もここで相談させて頂いたんですが、母親が亡くなり1週間程です。 来月の中旬に会社で私ともう一人入ってきた方の歓迎会を開いてもらいます。 49日までは、飲み会等を控えといたた方がいいと聞いた事もあります。 欠席はさすがにできないのですが、曜日の変更→10月に入ってからにしてほしいと幹事に言うか迷ってます。 時間が遅くなるので日程は皆さんの空いている金曜日に決定してました。 プライベートの飲み会なら勿論断りますが、会社の関係で私の事で日程変更少し言いづらいのもあります。 でも常識的に49日までは控えるべきと言われたら変更してもらう予定です。 肉とかも控えるときいた事がありましたが、大好物なので、家族父親も兄も普通に今食べています。 私が楽しく過ごしている事が供養とも思いますが、仏様になるまではやはりやめといた方がいいのでしょうか? ちなみに私はアルコール全く飲めないので烏龍茶で飲み会参加します。
真実を知る!ということと、幸せになれる!は必ずしも一致しないと思います。 何故なら幸せとは不幸せと裏表のような関係であり、どちらか一方のみでは成り立たないからです。毎日が幸せだとしたら、それは幸せではなく当たり前に。^_^ 真実とはなにか、と言ったときに、それはあまりにも平凡で何も高尚なことはない、そのままの剥き出しのままのこと。。幸せとか不幸とかの判断もそこには介入しません。介入したとしても、それもまたよしですが。 真実を知ること=幸せになることだったら素晴らしいとは思いますが、イコールではないと私は思います。 これを綺麗すぎる言葉であたかもイコールしているかのように言ってしまうとスピリチュアルな探求へ陥ります。 (真実を知ることが愛であり究極の幸せだ、、みたいな) そして別に衆生はそれ(真理)を求めていないと思います。 もっと、単純に、幸せになりたい。ただこれ一点かと。 そこのところ皆様はどのような視点をお持ちですか? 楽になりたいのなら沢山の手段があります。セラピーでもカウンセリングでもヒーリングでも。 思い込みを外すワークや、思考を客観視するワークなどなど。。 仏教はそういったアプローチも含んでいるように感じているのですが違いますか? 癒しと真理探求は逆のベクトルを指しているように感じたので疑問が湧きました。 どうぞよろしくお願いいたします(*^_^*)
先日主人の母方の法事があり結婚後初めて出席しました。 主人からみて ひいお爺様のお父様、ひいお爺様、ひいお婆様の法事でした。 お経を読んでくださったお坊様は私の子どもたちに走り回ってても良いととても優しくしてくださいました。しかし、袈裟を着ず、お経を読み始めると中盤は、なむなむだ、なむなむだ、なむなむなむなむなむだと聞こえるような(発音はお経の読み方のように一字一句伸びのあるような)お経が続きました。お経が書かれた本のようなものを決まった間隔でめくっていたのですがペラペラと2ページめくることもありました。 親戚のおばあちゃん達はこんなお経聞いたことない、人を馬鹿にしてるのかと言ってる人もいました。 いろいろな宗派があり、お経もそれぞれだとは思いますが、上記のようなお経はきちんとした読み方なのでしょうか?それとも適当に読まれたのでしょうか?
飼っていた猫が死んでしまいました。 今までありがとう、という気持ちを伝えたくて、そして愛情を伝えたくて、供養をしたいのですが、お経など、何か私や子供にできることはありますでしょうか。 私は輪廻転生を信じていますし、身体は死んでしまったけれど、魂はまだ近くにいてくれている感じがします。 たくさんの愛情を届けるためにはどうしたらいいのでしょうか。 教えてください。 よろしくお願いいたします。
生まれる前に決められた”生きる時間”があるとして、その途中で生きるのを自らやめてしまった人はどうなると思いますか。 病死や老死などの、人生を真っ当に生きた人と、自ら命を絶ってしまった人では魂の行先は違うと思ってます。 自殺したら楽になるとよく言ってる人を見ますが、本当に楽になれると思いますか…?。 私達は私達の世界しかしらないだけで、その後の世界のことを知りません。 ”その後”に何かがあるのかもわかりません。 だからこそ”楽になる”と、なにもわからないのに言います。 自殺をしたら、どのくらい苦しいことが待ち受けていると思いますか…?。
以前にも毎日のお勤めという事でお世話になりました。その節はありがとうございました。 あれから、毎日の生活ペースは父が亡くなる前に戻りつつあります。母の悲しみの表し方も私の受容範囲です。 でも・・・何故か私の心が 日を追うごとに不安定になるのです。 母の前や、妹、私の子どもには決して涙も感情も見せないようにしています。 でも・・・1人の時や、例えば仕事中に父の亡くなる前の日付の書類を見るだけで、涙が溢れてきます。 父とは複雑な関係だったので、余計にあれこれ考えてしまいます。 もっと話がしたかった・・・・・とか、私に言いたいことはない?とか 今どこにいるの? あちらの世界って本当にあるの?とか 誰にも言えないんです。私が頑張らなきゃいけないとついつい思ってしまうから。 泣き言・・・・・言えないんです。 私はどう気持ちを整えていけばいいでしょうか?
仏教以外の様々な思想が存在するこの世界で、お坊さん方々は何故、仏教を選んだのですか?「実家がたまたまお寺だったから」とか、「娑婆を捨てるつもりで仏門へ」などのきっかけがあったと推測しますが、今現在もお坊さんであり続け、仏教を信じ続ける理由って何でしょう(「坊さん=ただの職業」論の僧侶は除きます)。 例えば、哲学の普遍的テーマは「幸せとは何か」ですが、継がなければならない寺などない自由の身であれば、これが人生のテーマだという人は仏教じゃなくて哲学でもいいですよね。でも、仏教一本に決めちゃう人もいる。すると、個人としては哲学を学ぶことは出来るけれど、僧侶という立場上、仏教の教えに反することは表立って言えなくなったり、思考を限定されたりすることもあると思うのですが・・・実際はどうなんでしょう。
幸せとはなんでしょうか? 食べる物もなく、生活もギリギリになると幸せとは何かを考えてしまいます たとえ愛する人が側にいたとして、その人を幸せにすることができるのでしょうか? お金があり、仕事もあり、家族がある人でも死を選ぶ人もいます このまま同じ生活がいつまで続くのかと考えると恐怖しか感じません 幸せとは、人生においての希望とはなんでしょうか? 信頼、愛、信仰心があったとしてお金が無いと生活はできません 逆にお金があっても人との繋がりが無い人も多くいます。
今日は初めまして。 私は三十代の男ですが、三年前から病院からうつ病と診断されて通院していますがいっこうに治る気配がありません。 仕事は会社員ですが上司とも馬が合わず日々、ストレスが溜まるばかりです。うつ病になってからは希望が持てず夜も眠れない状態が続き、薬を飲んでいますが頭がぼーっとするようでかえってうつ病が悪化しているのではないかと思っています。 何卒よろしくお願い致します
最近、考えています。 なぜ、何のために、人は生まれ、生きるのか。 教えてください。
まずは簡単な自己紹介です。私は、30代半ばで都内の小さな会社に勤めるサラリーマンです。高校卒業後、実家のある広島を離れ上京し、大学へ通ったのち、今の会社に就職して10年ちょっとになります。 質問の内容は、これから先このまま会社に勤め続けるべきか、両親のいる広島の実家に戻って再就職すべきか悩んでいます。 私の両親は同い年で、60代半ばになります。まだまだ元気ではあるのですが、先日父に初期ガンが見つかったり、電話で話をしたり帰省したりした時に両親の老いを感じたりするようになりました。そろそろ広島に帰って、万が一の時に備えるべきではないかと思っています。 しかし、会社の社長たちにも恩があるのです。社長たちは私の両親とほぼ同い年です。私は就職して2年ほどした頃、突然体調を崩してしまいました。仕事に遅刻したり欠勤をしたりすることが増え、1年間休職したこともあります。そのような状態でも社長たちは私をクビにすることなく雇い続けてくださり、その上あれこれと気を配ってくださったおかげで今も何とか働き続けられています。まだ私の病気は完治しておらず、迷惑をかけ続けているので、何か恩返しがしたいと思っています。 今、こうして文章にしてみると、私の悩みはとても贅沢なものだという気がしてきました。恩返しをしたいと思える会社に勤められて、帰りたいと思える両親がいるなんて、恵まれたことですよね。しかし、だからこそどうしたらいいのか分からなくなってしまいます。
こんにちは。 動画で仏教の勉強をしている時に、難しい話ばかりで 長時間勉強が非常に集中が続かなく、飽きてしまうのですが お坊さん達はどうやって、 仏教の勉強をしましたか? 実践ないことには身につかないことは承知なのですが、 実践の仕方、歴史を学ぶためにその動画を見ています。
はじめまして 最近、正信掲、歎異抄、大無量寿経、スッタニパータを読んでいます。 読んでいて、不勉強ゆえ以下の疑問が湧いています。 子供を作ることは、愛すべき我が子を、厭うべきこの世に呼び出す行為とも思われ、子を思えばこそ作るべきではないように思えます。以下、詳述しますのでどうかご指導ください。 ブッダは、欲望の支配からの自由、ひいては輪廻転生からの解脱を説かれます。 その前提として、人(を含む生き物は)煩悩具足の凡夫であって、他の生物を殺生し食べねば生きられず、醜い体をもつ哀れな存在だと捉えられていて、「再び母胎に入ることのないように」と仰います。 つまり、私達が子供を作ると、上記の哀れな存在を生むことにはならないでしょうか。子供を作らねば、輪廻転生の苦もなくなるのではないか、と思えているのです。 しかも、子を遺して自分が世を去る時後ろ髪を引かれ、絶つべきこの世への執着が、子供の存在によって強まるようにも思えます。 確かに、「人身受け難し 今既に受く」「大海に浮かぶ板の節穴から盲た亀が顔を出すより難しい」とも言われます。しかし、これは、どうせ生まれるなら、他ではなく、仏法を聞ける人身に生まれることの有難さを説かれたものであって、生まれること自体の素晴らしいとのお考えでないようにも思えます。 また、生まれることの幸不幸は本人の捉え方次第とも思われます。しかし、もし子が生まれ、「生まれたくなかった。なぜ厭うべき仮の世に産んだのか」と言われたら、答えに窮してしまいそうです。 この問に答え得るブッダのお考えをご指導ください。できれば、それが書かれている文献の名前と場所(第何章のどの辺りか)もお教えくだされば幸甚です。 どうか、宜しくお願い申し上げます。 (以下、ご参考です) 一五二 さまざまな欲望の対象への、深層の欲望から超脱するようにせよ。そうすれば、もはやふたたび母胎へ入って輪廻転生することはなくなるであろう。(スッタニパータ 荒牧典俊著) 二三五「過去の業は絶えた。未来の業もあり得ない」と、賢者は、来世に執着せず、種子を絶やし、自己存在の芽を未来にまで伸ばしたいとの願いを捨て、油の切れた灯のようにふっと消えてしまう。 三三九 二度と輪廻の世に舞いもどってはならぬ。 三四〇 たえず身体に注意を向けて、その醜さを思い知れ。厭い離れる心に満ちてあれ。
こんにちは。 何か心の拠り所が欲しいと思い、仏教の勉強を始めました。般若心経を読む宗派・読まない宗派あると思いますが、皆様の解釈を教えてください。 私が読んだ本に依ると、 ブッダは五蘊や十八界、十二因縁は存在するが、その「持ち主としての私」という確固とした存在は錯覚だ、「空」だ、と説いた。大乗仏教ではそれすら錯覚で、「空」という法則のようなものがあると説いている。 ブッダは「世の中はこのように構成されていて、だから生きることは苦しいのだ。ひたすら瞑想をして煩悩と戦いなさい」、 大乗仏教は「今見ている世界は全てが錯覚だから、思い悩むことはない。ひたすらお経を唱えれば、必ず救われる」という教えだ、と解説されていました。大乗仏教が「宗教」であるのに対し、ブッダの教えは「思想」であるとも書いてありました。 科学が進歩しておらず世界が何も解明されていなくて、生まれた環境を受け入れるしかなかったような時代、貧しい庶民の心を救ってきたのは大乗仏教に他ならないと思います。今でもそうです。私はお経にある呪術的な力も信じています。 でも、大乗仏教の僧侶の皆さんには大変失礼なことを申し上げるようで、申し訳ないのですが、般若心経を読むと全てが幻だと言われているようで、納得できません。現代社会においては、ブッダの考え方の方が合理的で理にかなっているような気がするのです。 それに般若心経は、ブッダが瞑想している間に、そのすぐ隣で観音様が舎利子に対してブッダの説を全否定して新しい呪文を教えて、それにブッダ自身にその通りだと言わせる、という舞台設定ですよね。それは、大乗仏教が原始仏教を越えようとしてできたものだからだと学びました。「日本人として般若心経を心の支えにしたい」という気持ちと、「ブッダの説の方が自分は納得できる」という気持ちが自分の中で葛藤してしまっています。 先日も、近所のお寺の座禅会に参加し、全員で般若心経を唱和しました。ブッダが推奨していた座禅の前に彼の教えを否定する内容のお経を読んで、裏切っているような罪悪感にかられてしまいました。 (私が読ませていただいた本は、仏教系の大学で教えていらっしゃる権威ある先生の本です。以上の解釈は私独自のものではなく、その方の受け売りです。) 私のこのような理解はものすごく偏っているのでしょうか? 皆様は般若心経をどのようにお考えですか?