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問答一覧
検索結果: 2066件

セミリタイアしようと思ってるのですが、踏みきれずにいます。

 はじめまして。今まで正社員として仕事をしてきたのですが、自分はもともとあまりお金をつかう人間ではなく、加えて祖父母の遺産の一部を相続した事で、今後切り詰めれば30年程は仕事をしなくても生活できる貯蓄ができました。  30年も好きに生きれれば十分かなと考える一方、現金収入が完全に途絶えるのは不安なのと自身の引きこもり防止を兼ねてバイトを探し、実家でセミリタイア生活をしようと思っています。こんなことを言い出すくらいですから妻子はもちろんいません。  両親も自分の面倒をみるだけの蓄えはあり、私の上記の希望(+ある程度の金を毎月家に入れること)を伝えたところ、了承を得ています。  ……とここまでは良いのですが、それから結局一年以上、退職に踏みきれず、会社で仕事を続けています。    踏み切れない理由はおそらく二つあると思っています。一つはやはり何か大量の出費があった時の事が怖いこと。  もちろんそれは正社員という立場でも起こり得るし、その立場も今の御時世、決して安心できないのは承知しているつもりですが、比較的不安定な身分になることにやはり不安を感じています。  もう一つは職場に大きな不満が無いことです。全く不満がないと言えば嘘になりますが、いわゆるブラック企業的な心身に障害が出るようなレベルではないし、どの道、苦労の全くない職場など無いでしょう。むしろ報道や周囲の人間の話を聞く限り、私の職場は恵まれている部類だと思います。  一度は「次にちょっとでも嫌な事が起こったら辞めよう!」と決意もしたのですが、いざ実際に起こってみると「こんな些細な事で辞めちゃうのはさすがにちょっと……」と結局退職に踏み切れないでいます。  ……と状況としてはこの様な具合で、贅沢な悩みだといわれるかもしれませんが、なんとか勇気を出して踏み切る方法などあれば教えて頂きたいと思っています。

有り難し有り難し 27
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勉強すればするほど、阿弥陀仏に疑いを持ってしまう

こんばんは 最近浄土真宗の勉強を始めたのですが、前掲の質問で 「救いから漏れようと願文を読むのでなく、誰をも救おうとするものとして読みましょう。」とご回答されたにも関わらず 「自分は〇〇だから救われない」という読み方ばかりしてしまいます 例を挙げると 1第41願に「他方国土の菩薩は諸根闕陋しない」と書いてある。親鸞聖人は著作のいくつかでは信心決定した人を菩薩と仰っている 「本願を信受するは前念命終なり。すなわち正定聚の数に入る。 即得往生は後念即生なり。即時に必定に入る。また必定の菩薩と名くるなり」と愚禿抄に書いてある 教行信証にも、現代語訳の問題かもしれないが、正定聚を「大乗の菩薩」と訳しているものがあった 浄土真宗の本にも「正定聚の菩薩」という表現がたまに出てくる 信心決定したものは菩薩である。だから信心決定した人は五体満足であるはずだ。自分は将来目が見えなくなるかもしれない だから救われないかもしれない 2正法を謗るものは救われないと18願に書いてある 自分は浄土門は嫌いだと公言していたことがあるし これからももしかしたらするかもしれない だから救われないかもしれない 観無量寿経には五逆や十悪をするものは救われるが、正法を謗るもの については書かれてない気がする下品下生とは正法を謗るものも入るのか  3こんな風に、自分は救われないかもしれないとばかり思ってしまいます 自分は自閉症スペクトラム障害で、言葉を文字通りに受け取ってしまう癖があるので、そのせいかもしれないです 比喩的な解釈を聞いても、”でも”こう書いてるじゃないか。。。となってしまう 勉強すればするほど、疑いが強くなってしまう自分がいます…。けれどもっと浄土真宗のことを勉強したいという思いもあります 法然上人が仰っていたように何も考えずに「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏」していたほうがいいのでしょうか 〇〇だから自分は救われないかもしれない、というのは 間違いなのでしょうか?信心一つで必ず救われるのでしょうか? 矛盾するようでワガママなお願いですが、1と2の誤解(だと思います)を理論的に論破(?)していただいて、3の悩みにも答えていただきたいです

有り難し有り難し 36
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『なぜ私だけが苦しむのか』

これは私自身が生きる中で抱いた怒りや悲しみではなく、hasunohaで数々の質問を目にする中で生じた仏教への一般的な関心に基づくことを最初にお断りしておきます。 H.S.クシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(齋藤武訳)を既にご存知かもしれません。この本は、私の理解する限りでは最後の章で次のような普遍的な問いを扱っています。 「なぜ、善良な人が(あるいは私が)不幸にみまわれたのか」 「私の苦しみが単なる不運であるなら、私が苦しんでいることになんの意味があるのか」 「正しい人も悪い人も同じように苦しむのだとしたら、だれが宗教なんか必要とするだろうか」 諸行無常、諸法無我、一切皆苦。「それはわかっているけれど……」「死んだあとのことを今いわれても……」というのが、これまた雑な理解に基づく感想で申し訳ありませんが、仏教徒にとってもまた正直な反応ではないかと感じています。一例として、ターミナルケアの現場において、死後の世界に関する教義が死への恐怖を有意に和らげているとはいえなかったという話をどこかで耳にしたことがあります。 これらの問いに対して、皆さんは時に誰かの、時にご自身の問題としてどのようにお考えになるでしょうか。あるいは宗旨の違いにより、そもそも仏教ではこうした問い自体が前提から不適切かもしれません。そうであれば、仮に目の前の方がこのような疑問や怒り(たとえば病気について)を投げかけてきた時、その方に対してどのようなお話をされるでしょうか?

有り難し有り難し 34
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自分を信じること

病気で産んであげられなかった我が子について、こちらで悩みを聞いて頂き、数年が経ちました。 当時は大分考えが偏り、自分を責め、とてつもなく苦しく辛い日々を送っていました。しかし、こちらのお坊様方に親身に何度も話を聞いて頂き、「いい加減に前を向かなければ。我が子に誇れる自分にならなければ」と、段々と片寄った考え(結果自分が死んだとしても、産むべきだった。私は生きている価値がない。など)が修正されてきました。 私はこれまでずっと、自分自身に自信がありませんでした。中絶を自分一人で決めたのではなく、主人やお互いの家族を交えて、回りからの意見を話し合った上で、夫婦で背負っていこうと決断しました。それでも自分を責める気持ちは変わらず、死にたいとずっと思ってきました。 しかし、こちらでお坊様と仏教から、沢山の生きる糧と知恵を授けて頂きました。それらは私の中で確かに生きています。 もうハスノハで、何度も同じ悩みをお聞きする事は、終わりにする時が来たと思っております。 と、言いながらも最後にお坊様に背中を押して頂きたいのですが…。死にたいと願うのではなく、前を向いて我が子を決して忘れるでなく、世の為人の為に尽くし、我が子が笑顔で見つめてくれる人生を歩みたいと思っております。 もう私はこれ以上誰かに許しを請うたり、誰かに助言を延々と求めるのではなく、私の中に蓄積された様々な生きる糧を自分で消化し、他の誰でもない、自分自身の声を信じて生きていきたいと思っています。 もうあまりにも下向きな考えは、お坊様と仏教で改善して頂きましたから…。これからは惑わされる事なく、生まれ変わった自分を信じたいです。 そうやって生きる事への、どうか背中を押して頂けると幸いです。 今まで本当にありがとうございました。

有り難し有り難し 29
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2023/11/23

罪を犯した過去の自分への嫌悪

過去の罪が頭から離れず苦しいです。 今現在わたしは、愛と思いやりに溢れた大切な人と結婚をし、お腹に初めての子も妊娠しています。 毎日幸せなのですが、その幸せを実感するたび、過去の罪を思い出し、こんな私が幸せになっていいはずがない、と思ってしまい苦しいです。 今までやってきたことといえば、 ・お店でグラスを割ってしまったのに弁償もせずお店に申し出ずそのままにしてしまった ・服屋で試着をしている際に服に汚れをつけてしまったにも関わらずそのまま戻してしまった ・万引きと、無銭飲食をしようとする友人を止められなかった ・お給料を頂いているにも関わらずアルバイトを不真面目に行った ・私の悪い噂を流した友達を避けていたらその子が不登校になった ・知り合いが性的マイノリティであることを家族に話してしまった ・あまり関わりのない異性から告白され、共通の知り合いに相談すると、知り合いがそのことを周囲に広めてしまい、私に告白した異性が揶揄われるようになってしまった など、キリがありません。大人になった今なら絶対しないであろうことですが、まだ未熟だったとはいえ犯した罪の多さが恐ろしいです。 私のせいで傷ついた人がいる、責任を負った人がいる、そのことを考えると、こんな私が幸せになってはいけない、自分が恥ずかしい、根っこはこんなに意地汚く思いやりのない人間なんだ、と思ってしまいます。 夫は私にはもったいないくらいの素敵な人なので、夫といると幸せを感じると同時に、夫に対して申し訳なさも感じます。 恥ずかしながら、過去の罪を忘れ暮らしていた時期もあったのですが、最近は毎晩過去の自分への嫌悪感や後悔で眠れません。 どのような心持ちで過去に向き合い、生きていけばいいのでしょうか。

有り難し有り難し 11
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人間とは?この世で生きるための心構えとは?

お久しぶりです。 この1ヶ月、身体面では不調なことはありますが、精神面では安定しています。講演会などに参加し、いろいろな方の話を聞いて学んでいます。 仕事で人間を相手にしていますので、どうしても「人間とは?」と考えてしまいます。 以前、hasunohaへの問答で、性善説の立場であると述べさせていただきました。しかし、人間は「悪」の要素が強く、性悪説の立場になりました。 他の生き物は、個体維持や種族維持以外には、他を侵害したり、欲を持ったりしません。生存が約束されている限り、他の動物も人間と同じように優しい心を持っています。 人間が、他の生き物と違うのは「欲」を持っていることです。 「人民を支配したい」、「美味しいものをたくさん食べたい」、「快適なところに住みたい」、「大きなところに住みたい」。「~たい」ばかりだと気づきました。その点において、他の生物とは違うのだと思います。 性悪説の立場に立ってから、自分に対しても、他人に対しても期待をしなくなりました。それで、精神的に安定しているのかなと思います。 交渉をすることもありますが、ダメもとで構えているので、拒否されても「そうだよね」って心構えでいられますし、いい結果になれば感謝の気持ちが生まれます。 いろいろな事件や情勢を見ても、あらゆる可能性を想定することができるので、あまり怒りの感情を持たなくなりました。 差別が生じるのは、「自分達の生存や生活が脅かされる可能性があるから」だと思います。精神障害者などの差別も、突き詰めれば患者の心理状況が理解できなかったり、自分の生活に悪影響があると思っていたりするからでしょう。私だって、訳のわからないものはまず距離を取って様子を見ます。そういうことを考えると、差別が生まれるのも仕方ないと思います。 「悪を憎む心」と「寛容な心」は両立しないのではないかと思うようになりました。 行いは罰しなければなりません。しかし、その先の原因を解消しなければ、罰しても意味がないのではと思います。 人間について考えると難しく、その人間を教育するのは難しいなと思います。自分はそんなに人を導く立場にないと思います。 まとまりがなく申し訳ありません。 人間とは何なのでしょうか?

有り難し有り難し 55
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仕事が続かない

初めて質問させて頂きます。 私は子供の頃から親以外に怒られたり注意されたことがない性もあってか会社で上司に冷たい言い方をされるといつまでも引きずってしまって上手く気持ちの切り替えができません。 周りの人なんて気にしないようにしようと頭では分かっていても、こそこそ話していると私の事を噂してるのではと思って仕事中気が散ってしまいます。 結果、ストレスが溜まり原因不明の高熱が続き仕事を辞めるの繰り返しです。 休養すると何であんなこと気にしていたんだろうか、もっとこうすれば続けられていたのになぁと思えるのですが在職中は一刻も早くこんな環境逃げ出したいという気持ちが勝ってしまい辞めてしまう自分が本当に情けないです。 やりたい仕事がある訳でもないし、趣味と言っても仕事につながりそうもないことばかりで… アルバイトから始めてみようと思っても20代半ばではきっと年下ばかりで居心地悪そうだし、また事務員に挑戦しようと思ったら父に私の年齢ではどこも雇ってくれないと言われこれからどうやって生きていけばいいのかわからなくなりました。 こんな甘ったれな自分が嫌で嫌で変えたいです。どうやったら普通の人みたいに働いて生きていけるでしょうか? こんな情けない私にアドバイスをお願いします。

有り難し有り難し 78
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