いつもお世話になっています 婚活、人生についてご相談します 私は若干機能不全な家庭で育ち、 兄弟も皆独身で、弟は社会に出られず無職で実家にいる状態です。 私は幼い頃から 問題を起こすことが多い兄弟を見て、 「両親にこれ以上心労をかけないよう、私だけはしっかりしなくては」 と良い子で頑張ってきた結果、 人に対して本音が見せられず 良い子を演じてしまう、アダルトチルドレン傾向となりました。 また、自分だけは道を外れることはできない、という強迫観念からか、パニック障害にもなりました。 自分の本当の姿を見せるのが苦手なため 親友や恋人もできず、 孤独や生きづらさを感じながら生きてきました そんな自分を変えたくて、 心理学を学んだり、カウンセリングにもたくさん通いました 30歳を超え、今のままではずっと1人だと感じ、勇気を出して婚活を始めてみました けれど、なかなか上手くいかず、 時間ばかりが過ぎて、 うまくいかないことにもがき続ける人生に だんだん疲れてきてしまいました 他の人と比べてはいけない、 戦争がなく、家があり、ご飯が食べられるだけでも十分恵まれていると思わなくてはいけないと 頭ではわかっていますが、 問題のない家庭に生まれ、 何も学ばなくても普通に親友や恋人ができて結婚し、 子育ても上手にできる そんな周りの人を見ていると、どうしても「なぜ私はこんなに努力しなくてはいけないのか」 と惨めな気持ちになってしまいます 羨ましかった 安心できて温かい家庭が欲しくて、 自分の心理的な課題にも向き合って、 パニック障害を改善するのに良いと聞けばどんなことでも実践して、 婚活も必死で頑張ってきましたが、 このまま うまくいかなかった時、 果たして私は何のために生きていけばいいのかわかりません。 実家にいても居心地が悪いし、 自分の家に帰れば1人、 欲しかったものは手に入らない この人生をこれからも生き続けていく意味が見つけられず、 無気力になってきてしまいました。 何か考え方などありましたら、教えて欲しいです。
スピリチュアルや占い、自己啓発にハマってしまった結果、貴重な20代を棒に振りました。 今現在、ものすごい後悔で押しつぶされそうです。 きっかけは当時付き合っていた元彼にフラれた事でした。 言い訳が許されるのであれば、当時は鬱を患っており、更に学生から社会人になりたての上、勤め先がブラック企業で心身ともに限界値を超えていました。家族や友人を頼る事ができなかった私は、物事を正常に判断する状態ではないのにも関わらず、それでも何としてでもその時の苦しい状況から抜け出したいと考えたのがスピリチュアルにハマったきっかけです。 いろいろな物事が積み重なって完全に自信を無くしていた私は、自分で物事を判断するのを積極的に放棄しました。自分の考えほど信頼できないものはない、と…。 おかげで今は空っぽです。良かれと思ってやってきましたが…間違っていました。本当に無駄でした。 『引き寄せの法則』だとか『予祝』だとか『お金はエネルギー』だとか…ここに書き出すのは恥ずかしいくらい。馬鹿なことをしました。 本当は心の問題なんかに囚われず目一杯オシャレしたかった。友達と沢山遊びたかった。なのに私は自分の荒ぶる心と向き合うのに精一杯で。 何も得なかった訳ではありません。暖かい家庭を知らないからこそ、素敵な人と結婚して幸せになりたい。 ならば自分もそんな人に見合うような人間にならなければと必死でした。 誰にも頼らずに状況を良くしたい、そう考えた結果がスピリチュアルに頼ることでした。 昔と比べて随分と穏やかになったり、無理に明るく振る舞うこともなくなりました。けれど、代償に今までの友人や、何よりもお金を失いました。 肝心の恋愛も上手くいかず気付けば30代。3ヶ月前に本命の彼女がいる同僚に手を出された上に逃げられてから、もう何もかもが空っぽです。何となく自分の歩んでる道が正しくないのではないかとは思ってた。けれど、自分で選んだ道だから、自分で正しくするしかないと必死だった。だけど結果はこの通り。 何もかもが自業自得です。 こんな私でも、生きる資格はあるのでしょうか。自責の念に押しつぶされそうです。
こんばんは。夜分遅くに失礼します。 当方 21歳 大学生です。 言葉足らずで読みにくい文章になるかもしれませんが最後まで読んでいただき回答してくださるとありがたいです。 今日の午後、私は両親の車(新車)を運転しており、助手席に親が乗り近くの施設まで運転していました。 ですが、パーキングのチケットを受け取り右折しようとした時に曲がりきれず、近くの柵に接触してしまいました。 その後、施設の方に連絡し柵自体は擦り傷程度であり「ペンキで色を塗る程度で大丈夫」と言われました。また不幸中の幸いで人や他の車にはあたっておらず警察にも相談し物損事故として扱っていただいてます。 もちろん事故を起こしたのは私の責任で施設側にも申し訳ないのですが、何より父が大切にしていた新車の破損が激しく「私のせいで傷つけてしまった」とそちらの方が精神的に追い詰めてしまっています。 父は「対人じゃないだけよかった。怪我もないし大丈夫」と言ってくれたのですがやはり責任を感じます。 大学生なので車の修理費を負担することもできませんし、「大学生だからそんなことはしなくてもいい」と優しい対応をしてくれています。 そんな私は今後どのように考え生きていけばいいですか? 私はこの事故をきっかけに何か自分の嫌な部分などを変えていければと考えています。
私の身内にはいつも説教をしてくる方が居るのですが その方との接し方に困っています。 その方とはお正月等の行事や身内と集まった時等、 頻繁にお会いする事が多い方の為に余計に疲れてしまいます。 またお酒もかなり飲む方で、 酔ってくると説教の回数も一層と増えてくるので このような場合には どう対処したらいいのかと思い相談させて頂きました。 御助言頂きたいと存じます。 いつもアドバイスをしてくださる皆様には本当に感謝しています。 有り難うございます。
自殺はダメですか? それはなぜですか? 辛いのは僕なのに外野になんやかんや言われないかんのですか?
いつだったか、SF小説を読んで人間という生き物はとてもちっぽけでくだらない生き物だと感じたことがあります。 その思いは今でも私の根底にあり、私は人間が命を繋いでいく意味、私という人間が今を生きていかなければならない意味が分かりません。 ただ、弱くて不器用で、これから何も成し得ないだろう自分に対するあてつけや逃げの発想だろうとも思います。 いっそのことなにか精神的な病気にでもなってしまえればと何度も考えましたが、身体だけは健康体な私はメンタルにおいても中途半端なところで行ったり来たりを繰り返すだけで、結局何者にもなれないんだと惨めな気持ちになります。 彼氏にも、出来ることなら早めに死んでしまいたい、と言ったことはありますがどうしてそんなこと言うの、と窘められましが私にはそうやってたしなめる彼の気持ちが分かりません。 痛いことは想像するだけで心が苦しくなるので、自殺はすることはないと思います。 痛みもなく死ねるよ、と言われたら喜んで飛びついてしまうかもしれませんが。そんな状況はきっと妄想か漫画の世界だけでしょう。 私には気分の波があり、沈んでいるときは上記のようなことを永遠と繰り返し答えの出ないことで生きる理由を見失い虚無感に涙をながしています。 浮いている時も一時悩みもなくなり浮ついた心になりますが、沈んでいるときの落差からほんとうに今の自分は正しいのか、またすぐ沈んでしまうのではないか、そして改めて自分には何もない、自分は何者でもない、何者にもなれないことを認識してしまい自分は何をやっているのだろうなと物悲しくなります。 どう意識を切り替えていけば、少しは生きることに対して光を見出せるでしょうか。 どう方向を定めていけば、自分に対して前向きに向き合っていけるでしょうか。 長々と申し訳ありません。どうかご回答の程宜しくお願い致します。
私は、正直可愛い方です。それをありがたいと思っています。 でも、自分より可愛い子や同じように可愛い子はたくさんいて、それが嫌で納得がいきません。 十歳以上も年下の子に妬いてしまいます。 また、可愛くなくても愛されるのでしょうか。 どうしたらそういう嫉妬心はなくなるでしょうか?
昨年、主人の両親と同居を始めました。 義父母は震災で家を失くしてしまいました、 震災直前あたりに、私達夫婦は自分達の家を買おうと漠然と考えていたところに、震災がありました。震災3週間後に、彼らの自宅跡に立ったとき、それまでは「同居なんてありえない。」と言い放っていた私が、義理母に「家を建てる計画があるけれど、遠方でも構わないなら一緒に住む?」と言いました。 彼らの要望通りに、彼らの部屋を2部屋作り、他は共有しております。その部屋代は彼らが資金を出しています。 とてもいい人達なので、何ら疑いなく同居を開始したのですが、主人は両親が側にからか頼りなくなり、また、同居にあたり生活習慣が違う彼らとの間の細々としたストレスがたまり、ここ一年ずっと不満を抱えております。主人は仕事で週の半分は家を不在にすることから、時々、義父母と息子と食卓を囲むときに「私はなぜ、主人ではなくこの人達と食卓をともにしているのか…」と 疑問に感じるときがあります。共働きをしているので、息子の夕食の準備をしてくださったり感謝もしているゆえに、不満があってもなかなか 本人達に言えなく自分の中にどんどんストレスが溜まっていきます。主人に愚痴れば、彼はもちろん嫌な顔をします。仕事でストレス、自宅で同居のストレスで精神が休まることは、彼らが不在な時のみです。 これから10-20年もこの生活が続くと思うと、「私はずっと心休まらない人生を送らなくてはいけないんだろうか。」と思い辛くなり、主人には2度目の同居解消を打診しました。ところが、彼は若い時に迷惑をかけた恩返しがしたいようで聞く耳がなく、むしろ、被災者を一度呼び寄せておいて、同居が向かなかったからやっぱり別居で。と提案する私を人間として最低な人だといい、離婚まで切り出されました。私は親想いな主人も好きです。しかし、今の環境が私にはとても精神的につらく、 仕事が終わってから、息子に会いたいのに、家に帰りたくない自分がいる時もある程です。やはり同居を解消したい私は人間として 最低なのでしょうか。ただの我儘なのでしょうか。
初めまして。 私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。 私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。 ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。 仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。 私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。 先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。 もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。 人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。 こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。
知識のない一般人としての質問で大変申し訳無いのですが・・・ ブッダがいた時代は、大乗仏教や宗派ができる前ですが、ブッダが一番言いたかった、伝えたかったこと(メッセージ)というのは、大乗仏教の中にどう生きていると思われますか(大乗仏教の様々な宗派の中でどの部分に一番それが象徴されていますか)? 大乗仏教において、ブッダの教えとその宗教としての儀式などがどこか矛盾していると感じてしまうことがありますがそれはどう捉えればよいでしょうか。(ブッダのいう悟りから得たもの(教え)と大乗仏教の在り方が矛盾してみえることがある) 菩薩という存在は、大乗仏教のなかでどう捉えたら良いのでしょうか。
私はあるお寺の長男で、跡を継ぐ立場にありますが、ここ最近進路について真剣に考えていると、どうしても自分が跡を継いでいいのかという疑問を抱いています。それはタイトルにもあります通り、私に信心というものがほとんど無いからです。 家柄上、仏教・宗教とどう向き合うかということをよく考えるのですが、そのとき仏教はこれこれこういうものであると認識することはできても、それを信じることはできません。読経や修行も必要ないのではと考えてしまいます。そのような者が僧侶となってお寺を継ぐということは適当でしょうか。私は適当で無いと考えます。 私自身はお寺を継いでも構いません。職が決まっているというのも有り難いことだと考えています。しかし原理を大事に考えてしまうので、真面目に活動している僧侶の皆様を見ると、咎める心があるのです。 私はお寺を継ぐべきなのでしょうか。そして、もし継ぐにしても、信心が無いのは問題でしょうか。周りにこのことを相談できる人がおりませんのでこの場で質問させていただきます。
主人が亡くなり2年が過ぎました。 それまでお寺とはご縁が無かった上、いきなりの事で選択する余裕など無かった為、紹介されたお寺の檀家となりました。 葬儀を引き受けていただく際に檀家になる事が条件で、断れない状況でした。 今まで親戚や知人の葬儀に参列した事が何度もあり、通や・葬儀・初七日法要・初盆など、必ずお経の後、ひと言ふた事有難いお話をしてくださり、心が和んだものでした。 しかしながら、主人の通やから、三回忌法要まで、一度も法話らしきものがなく、お経が終わるとサッサと帰られます。 私ひとりの時は構わないのですが、沢山参列してもらった時には、違和感を感じております。 40代のご住職なので、お若いわけではありませんし、お布施も少し大目にしているつもりです。 臨済宗ですが、全く法話をしない宗派があるのでしょうか。 また先日の三回忌に、数珠なしでお経を唱えておられる事に気付きました。 大事な法要ですのに、ショックです。 聞くのは遠慮しましたが、きちんと供養になったのか心配です。 今までの立ち振る舞いや葬儀社からの印象など、仏に仕えている立派なイメージがなく、尊敬できません。 主人にも申し訳なく、檀家をやめたいくらいですが、簡単にいかないでしょうし悩んでおります。
私は先日妻の希望に極力合わせた戸建てをローンで購入し、フルリノベーションをしております。 リノベーションにおいても間取り、デザインに関して、最大限妻の好みや意見を取り入れました。 ローンに関しても、私が単独で組みました。 生活費や食費も全て私がサポートしています。家事も6割は私が担っています。 他にも家族のために投資用不動産を持ったりと妻、家族のために動いてきました。 しかし、家の購入をしても妻からは一度も「ありがとう」と感謝の言葉すら伝えてきません。 むしろ、「借金〇〇円すごいねー」と他人事のことのようにしか言ってきません。 一言くらい感謝の言葉が欲しかったのですが、 それっぽい言葉が何も無いので、とてもモヤモヤしてしまっています。 だんだんイライラしてきてしまいました。 こんな感謝の言葉が言えない事は普通なのでょうか?
私は就職活動を終えた大学院生なんですが 就職活動中、「社会人に必要なものはコニュニケーション能力。 だから、コニュニケーション能力を上げろ」と何度も言われたんですが、そもそも、日本語には存在しないコニュニケーション能力とやらを上げろというのは無理なことを言っているように感じてしまい。 コニュニケーション能力という言葉を聞くたびにいつも違和感を覚え、気分が悪くなってしまいます。 コニュニケーション能力って一体なんなんでしょうか?
先日、大学の授業で教授が「福祉の考え方は西洋から日本に入ってきた。ヨーロッパやアメリカはキリスト教の隣人愛の精神にのっとって助け合う心が人々にあるから福祉が充実しているけれど日本ではキリスト教がメジャーではないからなかなか助け合いや福祉の精神が広まっていない。」と話していました。私は宗教についてあまり詳しい方ではありませんが隣人愛という言葉は知っていますし、確かにキリスト教を信仰する人が多い国で福祉の心が根付いているというのは何となく納得が出来ます。 でも、日本人にも助け合うという考えはあるはずだと思います。熊本の地震があった際も、火事場泥棒などひどいことをする人もいるようですが現地にボランティアに行ったり募金などの支援をしたり、困っている人を助ける動きがあるという話もたくさん聞きました。なので、教授の「キリスト教が浸透していない国では福祉の考えも浸透しない」といった話を聞いて何だかもやもやしてしまいました。 そこでお聞きしたいのですが、仏教においてもキリスト教でいう隣人愛のような、誰かと助け合う、支え合うという教えはあるのでしょうか。無宗教だという人も多いので何も宗教の考えだけが人の助け合いのベースではないと思いますが、日本は仏教が身近という人も多いと思うので、仏教にもそういった教え、精神があればぜひ教えてください。
ハスノハ初心者です。 殆どのお坊様方の下さるご意見は温かく時に厳しいものもあり、大変親身になってお答え下さっているのだと感じます。 しかし先ほど私の質問に対してではないのですが、ショッキングな回答を見かけてしまいました。 あるお坊様が「結婚は女性向き」「結婚制度は女を守る為のもの」等と回答に書かれておられたのです。 要約すると、女は自分に見返りを求めたがる傾向が強いからこそ結婚すべきだし、女は結婚により守られる存在だ、といった感じです。 このお坊様以外にも「子供を作らないのは身勝手」だとか 「男女には向き不向きがあるからこうした方がよい」等と仰るお坊様方もおられました。 男女は対等な存在であり、結婚は支えあい愛する為にするもの。 女だからといって弱くて至らない存在として守ろうとするのは対等ではなく見下しているのと同じ。 子供は授かりもので、その選択も夫婦の自由意思によるもの。 男女に性差はあるがあくまで傾向でしかなく、腕力等ハッキリ違いがあるものを除いて「向いている向いてない」と決めつけるものではない。 私はこう考えています。 そして当たり前のことではないでしょうか。 とても前時代的なお坊様がおられること、そしてこんな書き方はしたくありませんでしたが差別的な発言をされる方が少なからずおられることにショックを受けております。 こんな風に思う私はおかしいのですか? ハスノハの印象が変わってしまいました。
真宗大谷派の門徒です。 仏教に興味があります 法蔵菩薩は、48の誓願をかがえて阿弥陀如来になったと言われてますが、最後に誰を救って如来になったのでしょうか? 人や菩薩は次々と生まれ、南無阿弥陀仏と唱えていくので、終わる事のない営みの中で、「これでよし如来になれた‼」と言うタイミングは何時、誰を救った時なんでしょうか? それと すでに阿弥陀如来に救われているとよく法話で説かれてますが、「救われている」自覚ないのは信心がないのではと思います。 救われていると言う感覚(自覚)はどのように感じるのでしょうか?
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。