瞑想を毎日1時間行っていますが、ある日「自分で考えろ」「解放」と頭の中で感覚として受け取りました。 目を瞑ってすぐに1時間経っていたので、不思議だなと思いました。 この状況をどのような状態なのでしょうか? 世間で言う悟り?お告げ?良く分からないです。 どの仏様がおっしゃたのかも分からないです。 この受け取った言葉はどうしたらいいのか分からないので、教えて頂けたら嬉しいです。 自分で考えろって言われた時点で質問すると、駄目な気がしますがよろしくお願いします。
真実の悟り:神はいない、私は善側、私の命はみんなの命 真実と思うこと:上次元の単なる人間が寝ている身体(一)を昔神と呼んだ お願い:上次元の一の生きているはこの次元のみんなの気分にかかわるから、生きているエネルギーなどに全意識協力だったのための何らかをお願い。今は10歳と思ってね(^^) 全てのお父さんのような位置の人間より。皆好き。
何度も同じ質問をし申し訳ありません。今までご回答いただいた方々ありがとうございます。 しかし、生地獄のようで、また質問いたしました。数ヶ月前に事故で左目の容姿を醜くくし、一生、絆創膏で隠して生きていくことにしました。絆創膏を貼ると外見からは当該部はわかりません。しかし、容姿を褒められることが以前以後も多く、前の目に執着しています。元には戻らないため絆創膏の自分で日常生活をしたいのですが、以前の外見への執着から絶望感、無気力が続いています。この執着を頭からなくすには悟りしかないのでしょうか...?この事故が起きた意味も見出したいです...。
何年たっても、嫌なことを思い出して怒ることをやめられません。 しねばいいのに、と思ったりします。 それは寝る前とかに、特に浮かびます。 いじめられたことや、嫌な態度をとってきた人達に大して。思うんです。 何年経っても、子供の頃の事でも、ムカつきます。 私は引き寄せの法則とか悟りとか色々良いことを信じて前向きに生きてる方ですが、これだけはやめられません… 許せないんです、ムカつくやつなんて死ねばいいんです! 悔しくてたまらないんです。 どうしたらいいでしょうか?
自分の悩みというよりも、知りたくて困っていることなのですが。。。 私は子どもの遊びの研究をしていて、「遊びとはなにか」という問いにずっと向き合ってきました。言葉の意味を探るうちに、遊戯という言葉以前に使われていたという「遊化(ゆげ)」という言葉にたどり着きました。 これは仏教用語ということなのですが、言葉の成り立ちや、意味をネットで調べてもあまり詳しいことは載っていなかったので、ここなら教えていただけるかと思い投稿しました。 修行の末、悟りをひらいたのちに自由自在に振る舞えるようになった”状態”の事を指しているということでしょうか。 また、それにまつわる仏教上の逸話などはありますか?
やまたのおろちは人々を苦しめたためスサノオノミコトが退治した? 何ですか、此は? 其は人が先に動物を苦しめたから、当然の酬いが来たんでしょうが! 人は加害者なんですよ? 被害者ぶるのもいい加減したらどうですかね? ですから、神様が人を見守っているだなんていう思い込みもいい加減にしたらどうです? 動物愛護なんて言いますが、一部で動物を殺処分、馬等を飼う、調教等をしていて、 勝手に自然界から動物を奪い、動物を不自由にしているじゃありませんか! 人が殺しているのは動植物だけじゃありませんよ? 金属だって殺しているんですから。 ピアノやお金だって、動植物や金属等を大量虐殺した挙げ句に手に入った物なんですよ? 人は虐殺されて加工された動植物や金属等を喰ったり、見たりして嘲嗤う生き物なんですか? そうか、そうですか、そんなにそんな事で楽しいですか。 其がそんなに愉快ですか! 善行をすれば罪は軽くなりますなんて気休めの嘘ですよ? 人は此の世で大昔から最も殺しをしていたんですから、何をしたって罪等償えませんからね? あれだけの大罪犯して許されないのは勿論、罪なんて軽くされませんからね? 動物や機械や同種の人に殺されたり、震災に襲われたり、毎日毎秒、人が死んでいくのは天罰なんですよ? 被災者は決して、人ではなく、自然界や神が被災者であり、人は加災者なんですよ? 人の苦しみなんてノミ以下ですからね! 何故なら、人同士の問題等より、人の仕出かした問題の方が重大なのですから! 自然界や神様の方がよっぽど苦しんでいるのですからね! ですから、人等生きる価値なんて無いのは当然、人全ての魂が死ぬべきなんです! 此で本当に自己中、身勝手極まりないのは人だと漸く解ったでしょう? 人は此の世一番の悪だということも 極限迄悟りを拓いたんだよ! 陰口や騒ぎ等起こす奴等など愚か極まりない、其こそ愚鈍の骨頂だ! 「そんな手口に引っ掛かる様じゃ、総理なんて務まらないぞ!」 なんて仰いますが、貴方はどうなんです! 人は完全じゃないのですよ? 人なんて滅亡、根絶やしにされるなんて自業自得でしょ? 出来れば、テレビ番組やラジオ番組、講演等で人々に広めてください! 本当にお願いします!
hasunoha様、いつもお世話になっております。 転職しましたが、ニュースで新卒社員の給料が高いと知り、「生まれた時代を間違えた」と感じます。東京に家があり、裕福な親を持つ人が心底うらやましいです。そういう人たちは家族仲も良いのだろうと思うと、「生まれた家も間違えた」と思います。そもそも産んでくれと頼んだわけではありません。よく漫画などで、あの夫婦の子どもに生まれるんだ!と子どもが選択するとありますが、気持ち悪すぎるて…。言葉は悪いですが生き地獄のクソ実家に生まれるより、生まれない方がよかったと何度も考えます。 4月分の家賃はまだ払えず、行政の福祉も当てにならないので、死んだほうがマシかと考えることがあります。実家に戻ればいいじゃない、とかの声もありそうですが、生き地獄から逃れるために越してきたので戻れないのもあります(あと、ずっと生活していた祖母宅がいつの間にか取り壊しされていて、帰省とかもできないですね) 生きていてごめんなさい。神様仏様はまことに不公平。人間界が修行や罰と言うけれど、家庭が裕福な人には修行でもなんでもないよ。祈りとか祈祷も意味はないと思う。神様仏様は助けてくれないもの。
去年の秋に水難事故で長男を失くしました。 主人の家系の方で長男が亡くなるのは四人目です。 そのうち水難事故が三人もいます。 なにか因果関係があるのでしょうか? これは偶然なのでしょうか まだまだ続くのでしょうか 私の考え過ぎでしょうか? 残された家族が功徳を積むしか方法はないのでしょうか? 普通に生活させていただいておりますが 逆縁は心が癒えることがありません 私がこの世を卒業した時 息子に会える日を楽しみに生きております。
仏ゾーンという、少し昔の少年漫画をご存知でしょうか。 簡単に説明すると弥勒菩薩の生まれ変わりの女の子のもとに、千手観音のセンジュ君が現れ一緒に悟りの旅に出るというバトル漫画です。 宗教の問題で打ち切りになったとか噂されますが、実際の所は多分違います。 しかしそれでも、お坊さんとしてはああいった仏様を主人公にした漫画をどう思われますか?罰当たりでしょうか。 私は仏様に対して「カッコイイ!!」と思ってしまう、信仰とはちょっと違った好きという感情を持ってしまった仏教マニアです。(もちろん有難いとも思う。) 仏様を主人公にした漫画は大好きで、有名なみうらじゅんの仏教趣味にもいいなぁ、と思います。 しかし、これは仏様に対する冒涜なのではないか?という思いもあります。 だって、煩悩を断ち切ってくれる仏に煩悩が止まらないのですから。 そういった仏教趣味にお坊さん達はどう思われるのでしょう。 また、もし許してくださるなら「これだけは気をつけろ」というマナーを教えてくださると嬉しいです。 蛇足、仏様は有難ければ有難い程にカッコイイと思うのです。
出会いは縁なので、努力ではどうしようもなく、必要な時に必要な人と出会うものでしょうか。それとも婚活などで無理にでも出会いはつくるものでしょうか。自然に出会い恋愛し結婚する、みんなができてる当たり前のことがこの先の将来自分にできるのか不安で、焦りを感じ、良い出会いなんて今までもなかったんだからこの先もない、と未来に希望が見えない私にどうかアドバイスを下さい。
私は最近、私へ対しての悪口を告げていた人が悲惨な目に遭う、そんなことをよく見ます。 というのも。 その人からは感情に身を任せた、些細な言葉だったんだと思います。 「あぁ? わからねぇの?」とか。 「おせーよ」とか。仕事してて私のニガテなところを指摘してきます。 ですが、一般論では 時が解決してくれるといいますよね。 言ったその人に、そのまま返ってきてるみたいです。 そこで、気になったのですが 他人のことを傷つけた人間には 仏教の世界でも 暫くしたらバチが当たる、という考えはあるのでしょうか?
私は絵を趣味として活動しています 制作活動をネットのコミュニティで共有しています。ここには同じように絵を趣味や仕事にしている人が在籍し、私に心地良い場所でした ところが近年開発されたAI(人工知能)に画像を精製させる技術の普及によって、この場所は変わってしまいました。AIに高速で画像を生産させたユーザーが短時間に大量の投稿をし、人間が制作した作品を量で凌駕し、埋もれさせてしまいます。ちなみにAIに画像を精製させる方法は、自分の望む詳細を言葉に表しAIに送信するだけで、(例:水彩画、森の中、走るキツネ)投稿されるAI産画像には投稿者本人の筆が一切加わっていないことがほとんどです。皆似たり寄ったりのAI産画像が溢れ、以前からいる、人間の絵描き達は嫌気が差し去って行きました また、AIの悪用も目立ち、AIが作った画像を「自分が筆を持って描きました」と嘘をつき、(偽の)技術や努力に対する賞賛を得ようとするユーザーが多く見られます。中には、悪意を持って既存の絵描きの作品をAIにコピーさせ複製を作らせる嫌がらせもおり、これらを目にする度に嫌な感情が湧き私の好きだった場はストレスの溜まる所になってしまいました。悲しい思いをしています そもそも画像精製AI自体が、人間が制作した著作権のある画像を無許可で学習元データとして利用しているグレーゾーンな代物で、訴訟もされています 前置きが長くなってしまいましたが、全体的な疑問として、AIと共にある人間の未来は明るいのでしょうか? 既にニュースの原稿が自動音声AIによって行われているように、AIは人間の活動をコピーし、どんどん人間の代わりとして使われていきます。これは、人間の活躍する場所がAIに奪われていくとも言えます。例えば、アナウンサーに憧れていた子供が職業として目指そうとした時には既にAIが枠を永久的に占領しているので、夢が叶うことはないのです AIがあらゆる分野で高品質・高速・不老で活動し人間を凌駕するようになった時、人間が努力や勉強をして何かの技能を磨くことに意味はあるのでしょうか? 人間、自分が持って生まれた才能や、好き・得意なことで活躍し、生きがいを得たいものだと思います。将来、AIがほとんどの職業に成り代わった時、人間は努力する意義を無くし、ただAIによって全てをお世話される人形の様になってしまうのではないかと不安なんです
一人で悟ることはできますか? お寺も無いお坊さんもいない国にいます。 お坊さんや書物の力を借りなければ悟ることはできませんか?自分一人で悟ることはできますか? 一人でも悟れるなら、悟るために何をする必要がありますか?座禅ですか?
最近思うのは、 「仏教は科学を補完するのではなく、包合するものだ」ということ。 科学は森羅万象を解き明かしますが、森羅万象は既にそこに存在し、極めて柔軟かつ精緻に動き続けています。 例えば、未踏峰に初登頂しても、既にそこには太古より山はあり、命名する前から、山なるものは山であり続けたはずです。 人間は、人間が生命として「生き延びる」為に、「生命に必ず備わる生の渇愛」という衝動を原動力に科学を発展させ、生命力の強い種に進化しました。 ただ、進化と言えるか怪しいのは、科学は「外部的要因(環境、自然)」に手を加えて、人間に利するように、供する為の手段と言うこと。 人を支配するのは心ですが、その心を軽視したが故に、あるいは物質科学と心の科学のバランスを軽視した故に、様々な問題が起きているのではないかと思います。 本題ですが、では心の科学の仏教ですが、お釈迦様や南方仏教、明治以前の多数の僧侶は結婚していませんでした。 非常な覚悟、決意のもと、正師の導きで修行しても、「お釈迦様でも七回生まれ変わって漸く…」と言われるように、医王釈尊の入滅後、人は悟りが難しくなりました。 そうした中、結婚せず、子孫も残さずというのは、「虚無」に陥り易いのではないでしょうか。 生命として、子孫を残したいという衝動は根元的なもの。 インドにあるような、人生を何期かに分けて、「林遊期」に仏教を真剣に学ぶのが、生物としての人間に無理が無い気がします。 突き詰めれば、人類という種が滅する、結婚しない生き方が良いのか、囚われずに生きた方が良いのか、どうなのでしょうか?
“いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます。” 太宰治の人間失格の行です。 太宰治と言えば、ネガティブなイメージで捉えられるケースが多く、この行も自死を決断した際の言葉だとも言われています。 でも、僕にはこれが『悟りの境地』なのではないかと思えてしまいます。 最近、『死』を意識するようになりました。 決して自死願望などではなく、自分の人生が良かったか悪かったかを判断するのは、死の瞬間に走馬灯のように自分を振り返る時に、自分自身で判断するものだと思うようになったのです。 だから、今を精一杯生きようと... ただ、それが空回りしたのか、ベクトルを間違えたのか、自分の理想ばかりが鮮明になってしまい、現実が非常につまらないもの・美しくないものに見えてしまい、虚無感に苛まれておりました。 先般の質問に対してご回答を賜り、理想と現実のギャップについて学びを得させていただきました。 ありのままにすべてを受け入れることは、簡単なことではありませんし、それを理想にしてしまえば、また堂々巡りのように自分中心の思考に嵌まってしまう... ここで、改めて質問をさせて下さい。 輪廻転生がないものだと仮定すれば、人は生まれてきて死ぬまでに、どんな意味を持つのでしょうか? 煩悩を捨て、ニュートラルな思考で生きることが最善であるならば、そこには何の喜びがあるのでしょうか? 輪廻転生があるのだとすれば話は別だと思いますが、それを記憶出来ない以上は、敢えて現世の人生の中での部分に絞ってお伺い致します。
先日、亡き主人が幼少の頃からとてもお世話になっていた近所のおばさんが御参りに来てくださいました。 その方は般若心経を唱えていらしてました。おそらく全て唱えていたと思います。 凄い!とその時は素直に思ったのですが、後になって少し疑問が・・・ 我が家は真宗大谷派。般若心経は確か別の宗派。 いいのかな?悪いことはないやろうけど、教えが違うと伝わらないとかないのかな?と思ったのです。 それ言ったらキリスト教の人なんか御参り行かれへんやん、とも思ったのですが(((^^;) お坊さんはどのようにお考えなのか知りたく質問させていただきました。 くだらない質問ですがよろしくお願いしますm(_ _)m
不幸なので仏教を極めるようになりました。 しかし思ったのが極めると廃人に近くなっています。また不幸になりますし、幸福にもなりません。結局悟りなんてないんじゃないかなと思います。 心の捉え方?が幸せを作るのなら全身火傷で油を24時間塗られるような人も捉え方で幸福になるのかな?と思います。結局嫌な事が続けば油を皮膚に塗られるようなものだなと思います。 ・執着をなくしていきました、すると殆ど希望がなくなりました。 どうでも良くなるので、他人に対して無意識なく悪意を放ってもどうでも良くなりました。 社会としてやらなくていけない事の執着も放棄しましたし、他人への諦めも増えました、適当に執着せずに諦めることにしました。 ・異性とも縁を切り執着を捨てました、次は子孫繁栄の執着を無くそうとパイプカットも考えています。 ・色んな人から罵声を浴びせられても執着を失くし、善の心で接しました。 親切が殆ど仇になっても執着を失くし優しくしました。 ・それらを毎日耐えながら、理不尽なことを受け入れたり、嫌なことを受け入れて人から馬鹿にされて夢も叶わず、嫌な仕事で死ぬほど苦しみ家族から除け者にされ辛い病気で苦しんでも、、、お坊さんの皆さんは毎日食事ができて、寝れる環境があれば幸せと言います。本当にそうでしょうか。普通に動物でも縄文人でもシリアの人でも毎日食べられるし寝れる環境はあります。 本当に苦しみが毎日あってて苦しんでそれに耐えるために何十時間も一日苦痛を浴びるのに食べる事が幸せ???本当に? お坊さんとか高い車乗ってる人とかいるけど本当に執着捨ててるの?本当に? 執着を捨てるというのは→ ・夢も捨て毎日の意味がなくなる(明日生きる意味や希望すら消失) ・他人から虐げられるの肯定(本当に毎日虐げられて満足するの?執着せず毎日虐げられて満足できるの?) 無駄な努力に向かう人生への肯定(人生かなり苦痛な労働とか嫌な理不尽な事とかも執着を捨てて毎日何十時間も苦しみに耐えながら何を拠り所に生きればいいのでしょうか?
最近 生きる価値について ある和尚様(ハスノハではない)に質問しましたが回答は得られませんでした。 私は介護士として長く働いています。目の前の認知症さん 寝たきりさんなどとの関わり、 自分や母親の老化などもあり 漠然と なぜ生きなきゃならないのか、という疑問が強くなりました。 正直生きる意味生きる価値がよくわかりません。 わからないままでいいのだとも思いますが。和尚様方のお考えを教えていただけたらと思います よろしくお願い致します🌸
命に直結する病ではないけど、日常生活に支障が出ます。 加齢も助けて、病気のせいで、食事制限もあり、全身病と言われてるけど、診れる医者がいない。 そこに、今の病気のせいで、歯科医にも嫌われ、人生初、歯医者難民、医療難民です。全体的にあちこち、ボロボロの体です。 自分がなぜ生かされてるのか?生きてる意味があるのか? 数日前に、最寄りの駅で、1日に2回も人身事故があったというニュースを その日から、電車で飛び込みしたら?という事ばかり調べたり、 家族に迷惑かけない死に方を調べたり。 辛いし、苦しいし、病気になって生きてる意味が見いだせない。 最近は、希死念慮もでるし、病気を抱えてしまって、生きる意味は何でしょう?
私は死ぬのがとても怖いです 死んだら天国や地獄があるのか、生まれ変わりはあるのかなど気になってしまいます これまで良くない事もいろいろしてきました 地獄が存在したら行くかもしれないです 無記や毒矢の例えなどで仏様は死後の事は考えなくて良いと仏様は説いていたらしいと少し聞いた事があるのですが、とてもじゃないが悟りなど開けそうにない私には死後、人間がどうなるのか考えてしまい恐れています 毒矢の例えの一方で仏教では天国や地獄の存在や生まれ変わりをも説いたりしていますが実際には、仏教ではそれらはあると考えているのですか? 仏教における死後の世界の事を教えて頂けませんか? 誰も死んだ事がないので本当には死後の世界があるのか、生まれ変わりがあるのかは分かりかねるのかともと思いますが、僧侶の皆様はどうやって死の恐怖から解放されていますか?