以前、自分が男なのか女なのかと質問をしました。 男とか女とか、関係なく、自分らしくあればいい。 そう言い聞かせ、それからも生きてきました。 でも、社会に出れば男女で別けられることが多く、その度に悲しくなります。 公的な書類も、ちょっとしたアンケートも性別を書かなければなりません。 避けて通れるものなら、避けて通ります。 しかし、避けたくても避けれないものでこの世は溢れています。 自分は自分。 そう思っていても、世間はそう思わせてくれない。 女じゃないんです。男でもないんです。 性的な様々な病気もありますが、 知っている限りでは自分に当てはまるものもありません。 何かいい方向に考えられるようにアドバイスをお願いします。
仏教で言う慈悲とはなんでしょうか?愛のことでしょうか?
質問の回答を見ますと、日常的にTVゲームを遊んでいるお坊さんもいらっしゃるように見受けられます。 そこで質問なのですが、ゲームの世界の中で殺人を犯したり、嘘をついたり、その他悪行を行うことは、仏教的には許されることなのでしょうか? 私の考えでは、ゲームの世界の中でそういった悪行を行うことが可であるならば、頭の中で色々と悪い妄想をすることも可であるということになるかと思います。 ですので、仏教徒やお坊さんは、たとえばFPSのような殺人ゲームは遊んではいけないと思うのですが、どうでしょうか?
前回「主人が義母から跡継ぎとは思ってないと言われて……」で相談させていただいたものです。 あれから主人(長男)と私、次男夫婦、三男、義母、義妹と第三者(義父の方の親戚)一人を交えて話し合いました。 前回、主人は親と縁を切る、親戚とも縁を切ると言ったことをみんなから責められ、縁を切ると言ったことは撤回し私も謝りました。 主人と私は家を出ます。この家は三男が継ぐことになりました。主人には家族と会いたければ私に気を使わず会ってねと伝えています。でも、現段階では主人は正月お盆も顔を出さない、疎遠にはなる言っています。 私自身ですが、義母義妹とはこれから先ずっと関わりたくないと思っています。特に義妹とは。義妹がこの世からいなくなったら義母とは普通に接したいという思いはあります。義妹がいなければ義母は普通に良い人なのです。 義妹には、たいした事ではないですが何度か嫌がらせを受け、私の方が義妹を受け付けなくなりました。あちらも私を嫌っています。口が達者で立ちまわりがうまいです。 義父の法事が今度は4年後の7回忌、13回忌とあり、主人だけ出席してもらって私は行かない(義妹に会いたくないがために)……と考えていますが義父にはお世話になったし……など、これから先の事をどうしたら良いのか悩んでいます。 義母の方の親戚には、義妹が嫌で家を出たと言われ私は悪者呼ばわりされるのだろうなぁとか、義父の方の親戚には第三者が入ってくれたのでちゃんとした出ていく理由が伝わってくれたら良いのだけど、やっぱり嫁の私が悪者呼ばわりされるのかなぁなど考えてしまい精神的に参っています。 義妹は2年前に離婚しており、秋田で3人の子供と生活していますが、来年地元仙台に引っ越してくるのだそうです。 話し合いの場では「実家には入らない」と言っていましたがほんの3ヶ月位前に市の手当てが秋田より少ないので仙台では生活できないと言っていたのに……もしかしたら実家に入るのではないかと、もう出ていく身なので入ったとしても気にする必要はないとわかっているのですが考えてしまいます。 せめて私だけ義母義妹と一生関わらないで周りから悪者呼ばわりされずに過ごす方法はあるのでしょうか。 支離滅裂で申し訳ありません。よろしくお願い致します。
いつもご回答ありがとうございます。 スッタニパータの中の理解できない箇所の一つに 以下の箇所があります。 お坊さんの御教示お願いいたします。 873で「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。」とあります。 次の874で「①ありのままに想う者でもなく、②誤って想う者でもなく、③想いなき者でもなく、④想いを消滅した者でもない。──⑤このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」 註では、①を凡人②を狂人③を滅尽定④を四無色定とありますが、873で修行した者について問うているのに①、②は修行者の範疇ではないようです。また、③が四無色定で④が滅尽定のように思われます。 勝手な考察ではありますが、 ①ありのままに想う者は、 ・概念で構築された言葉と一体となっている形態(個々の対象)をそのままに想う者 ・名称と形態は、妄想の元であると理解に至っていない修行者 ②誤って想う者 ・形態によって迷うのではないと想っている者 ・諸行無常を理解していない者 ③想いなき者 ・形態に対して想いをめぐらさない者。 ・想わないようにしている者 想わないようにしただけでは形態は消滅しない。形態には実体が無く、妄想(=苦)の元凶であると理解していない者。 ④想いを消滅した者 ・形態に対しての想いを想いで消滅させている者 ・想いを想いで取り扱っているかぎり想いはなくならない。 ⑤理解した者の形態は消滅する。 ・消滅させる(人為的)ではなく消滅する(自動的に消滅されている) ・想いなく形態が消滅する者でなくてはならない。 名称と形態が分離されたものと理解しなくてはならないのではないでしょうか。 名称は社会生活のために便宜的に付けられたものでしかありません。 例:お金(お金という名称)の本質は印刷されたただの紙。為替交換のできない国に持ち込んでも交換価値はありません。使用価値としては火をつけるときに使える程度のただの紙でしかない。 「私」というのも「私」という概念に付けられた名前だけであって、想いが続くことによって「私」が存在していると勘違いしているのではないでしょうか。 よろしくお願いいたします。
結婚したいですが、なかなかお相手に巡り合えません。 「この人かも」と思っても、長く生活することを考えると相手の欠点が気になり別れることを繰り返してしまっています。 どうすれば良いのでしょうか。
仏の教えを感じさせる日本の歌(JPopでも童謡でも演歌でも構いません)ってありますでしょうか? 歌のタイトル、アーティスト名、できればその歌を象徴する仏語を教えていただけますと聴く際の参考になります。
私は恐がりの癖に暇な時間怪談話などの朗読動画をよく聞いていました。 ある日聴いた内容が目が見えない霊なのでその霊知ってる人間だけを探し殺しにくると言った内容でした。 その朗読を載せた人は次は自分のばんだと思い少しでも生存率をあげるためにのせたと言っていていつその霊が私の前に来るのかと思うと怖くて怖くてたまらないのです。 成人までに髪伸ばしたら?と親に言われたのですが、その霊は後ろ髪をのばしてると掴まれるといったことで女なので剃ることはできないのでショートカットです。 聴かなければよかったと後悔しても遅いしどうすればよいのでしょうか。 本当に、霊が殺しにくるなどのことはあるのでしょうか? ここ毎日そのことが怖くて怖くてずっと考えてしまいます。
死後というのは無ですか? もう、無ということすら理解できないくらい無ですか?
戒名・法名は、人が亡くなり仏になった事の名前だと良く聞くのですが、以前戒名等を調べた時に、生前に付けてもらっても良いと書かれていて、ミドルネームと一緒みたいなものだとも書かれていました。 何時から法名・戒名が、亡くなった時に付ける名前と言う認識に変わったのでしょうか? それと、今は戒名・法名も付けない人が多いと 最近TVで見ました。 主人も付けなく良いと言っていますが、どうなんだろう?と、考えています。 実父が亡くなった時に遺言で、葬式するな・お骨拾うな・法名付けるなと言われましたが、結局法名をつけました。 生まれた時に付けてもらった名前が有るから良いと言う考え方も確かに出来ますが、どちらが良いのか分からないので、アドバイスをもらえないでしょうか?
こんにちは 私はずっと両親に厳しく育てられてきました。 幼いころはただ言うことを聞く、いいこであることに専念していました。 しかし、最近では両親の言っていることが正しくないと感じることが多くあり、「それは間違っている」と伝えようとしても、結局最後は私が折れて黙ってしまいます。 もともと仲がいい家族ではありませんが、このこともあり最近はさらによくありません。 「お前の顔なんか見たくない」など、存在を否定されることもあります。 私は何のために生まれたのでしょうか。 私の存在意義はなんなんでしょうか。 そして、家族との関係はどうしたらいいのでしょうか。
外国育ちでよく理解できていないのですが(変な質問ですみません)、祖父母はすでにおらず宗派などもわからず(お墓も不明)、両親も檀家などではないのでお世話になっているお寺もないのですが(あえていえば考え方としてこころにとめている宗派はあるのですが直接信者などというわけではない)、こういう場合、お葬式などでは宗派など聞かれた場合どうしたらよいのでしょうか。キリスト教のように洗礼を受けたりというのもないようですし、たとえば、天台宗の思想がとても自分の考えにちかいからそこでお願いしたい、などそういうことをしてもよいものなのでしょうか。またある宗派の信者になるということは仏教ではどういうことなのでしょうか?(海外の宗教とは違うのでよくわからず、くだらない質問で本当にすみません)
仕事柄ご遺族の方とお話しする機会が多くなってきたのですが、その際に故人の宗派が分からなくて話しの内容を誤ってしまうことがとても心配です。 たくさんの宗派があるとは思いますが、たとえば仏壇にこの仏具あったらこの宗派、故人がこの念仏を唱えていたらこの宗派 など 各宗派を簡単に見分けるポイントなどがあれば教えてください。 宜しくお願いします
2度目の質問を書きます。 お盆には彼の実家の手伝いをし、彼の四七日がありました。檀家さんへの挨拶では私との付き合いを再び話されました。葬儀でもそうでしたがすでに有名人です。家族のように存在するが家族ではない、彼の実家は孫が生まれて明るい光が差し込んでいるのを感じますが、それがまた私だけ とりのこされたようです。昨日から自宅に戻りましたが以前よりも孤独の苦しみを感じます。気持ちが落ち着いたと思っていたのに、冷たい顔、痛々しい跡。留守電に残った「電話に出てください、誤解なんだお願いします」と言う言葉を何度も聞いて、自ら死を選ぶ道しかみえません。ただ、急にいってしまう事はまわりに後悔する人を増やしてしまう、迷惑をかけたくないと思いますので、仕事を休みまわりにも楽になるために自分で選んだ道、誰に何を言われようと生きてはいけない。と言うことを伝えて死にたい。悲しませることは分かりますが早く楽になりたい気持ちしかありません。10月には百か日が終わりますので、それまでに片付けなどを済ませていきたいと思います。これからは辛い、苦しい悩みは他人には言わないようします。こういう道もあるのだと思いますが、仏教の教えでもよしとはされないのでしようか? 何か一言でも言葉がいただければ今日1日のちからとなれる気がします。 よろしくお願いします
サークル活動としてボランティアでゴミ拾いをしております、サークル仲間とも打ち解けゴミ拾いの際も楽しさを見出せておりました。 しかし、仲間内からこのような事を言われました ゴミ拾いやボランティアは慈善事業であり 困ってる人や環境を救うのが目的であり それに 楽しさ を思ってしまうのは 困ってる人へ対して困ってる事を自身が楽しむ為に見ている と指摘されました。彼の話では 救命士や消防士も現場で人を助ける際に楽しみを持ってやってるとは思わないそれと一緒だ。 と言われてから 善行を楽しみと捉える事は 悪意なのか? と考えこの度ご質問させて頂きましたら
宗教は自分の考えで選ぶ事が出来るのでしょうか? ある人から創価学会への入信を勧められています。 私の実家は禅宗です。違う宗派の家に嫁ぎましたが離婚しました。 この場合、実家の宗派に戻るのか?新しく自分で選ぶのか?判りません。その家に伝わる宗教は先祖と自分を繋ぐ絆のような気がするので新たに自分の代から変えるのは不安です。 自分で抱えきれないような悩みがある時,人はどうして乗り越えていくのでしょうか?
こんにちは! 素朴な疑問なのですが、いつもお坊さんはずっとお寺にいるイメージなのですが、お坊さん同士の交流や横のつながりはあるのでしょうか? 集会とかあるんですか?
如来のモデルは釈迦である。と、授業で習ったのですが釈迦はこの世界でたった1人の存在であるのに如来には複数種あるのでしょうか。中には釈迦如来もあり頭が混乱してます。教えていただけますか?
報いきれるほどの恩ではない。この世でどのようなことをしても、お坊さんの大恩に及ばないのです。私の参じたお方に報いきれないのです。 大概の僧侶志望の方は、僧侶という型枠に収まり、呆けた顔をしたいだけでしょう。(違う人も当然、いるでしょうけど) このhasunohaに南伝仏教の本を勧めるお坊さんがいました。 なぜ浄土宗門徒ならば一心に念仏を唱えよ。と言われないのか? そうでないなら、この宗派は貴方の要求に応対できないと、 宣伝して回っているようなものである。師の恥だ。 煩悩を滅するのが道であるなら、すぐに南伝へ飛び出して出家すべきでしょう。 命はいつ果てるとも知れず、呑気に書き込む時間などないはずである。 一宗派の門徒ならば、師から伝えられた安心を絞り出し、絞り出して、 与えるべきである。南伝なんぞの教えは不要でしょう。 青白い顔をして訪ねてきた人に、この本を読んでみろと言うのか? 崖に捕まって、落ちそうな人間にこの本を読めと言うのか? 本を勧めるのが悪いのではなくて、相手の心に真に向き合うべきでしょう。 頑張る気力が湧かないと嘆いて苦しんでいる人間に、 「努力にこそ価値がある」と答えを返した僧侶はいないだろうか? 砂漠のど真ん中にいて、飢えて苦しんでいる人間に、 雑巾を絞って、絞って、ひねり出した一滴を捧げるが如く、 求むる者に注ぐべきである。 真に苦しむものは雑巾の水でも礼拝して飲む。 例え地球に宇宙人が攻め込んで、インデペンデンスデイの如く、 飛行機で宇宙船に突っ込み、地球の危機を救っても、 お坊様の恩に報いきれるものではない。 未来永劫に輪廻して善行善業を積み続けても、報いきれるものではない。 hasunohaで答える程に頑張っているお坊様がこの程度(すみません、ごめんなさい)なので、現状の日本仏教界の内実を察するに十分ですよ…すいません。 意識の低いものが跋扈し、仏を貶めるだろう。 正法は、ロウソクの火のように弱ってこのまま絶えるのではないかと、 心配するばかりです。 門徒の恥は師僧の恥であり、師僧の恥は宗祖の恥だと思います。 碌な返答も出来ず惑わすようであるならば、黙していた方がマシです。 偉そうに説教みたくなってごめんなさい。 ただ反省はいくらしても、一円も掛からないので損はしないと思うのです。 私も道の途中ですので、頑張ります!合掌
私は、最近よく読書をするようになり、そのなかで「禅」に興味を持ち、「100歳の禅語」や「道元『禅』の言葉」などを読んでもっと学びたい、もっといろいろな事を知りたいと思うようになりました。 本屋の宗教や自己啓発のコーナーなどで「これだ」と思う本を探していますがなかなか良いものに巡り会えません。 何かお坊さんオススメの本のはありますか? 「禅」や「仏教」以外の分野でも「これはためになる」「この本はぜひ読んでほしい」「これはおもしろい」というような本があればぜひ教えて下さい。