私は就職活動中の25歳大学院生です。 就職する時に大切なことは5年後、10年後の計画や目標を立てる ことだということを何度も人から言われるのですが そもそも自分のやりたいことがない私には将来的な計画や目標を 立てるのが難しいのですがどうすればいいのでしょうか? また、仕事をしてから初めて自分のやりたいことがわかるという 意見もあるようですが今の自由に職業選択ができ、職業を自分で取捨選択し、その責任を自分で取らなければならない時代にはあまりこの意見はつじつまが合わないような感じがするんですがどういう風に 考えていくのがいいんでしょうか? なにかアドバイスいただけたら幸いです。
現在、大学4回生です 中学生の時、突然に「死んだらどうなるんだ?」ということに気が付いて恐怖のあまり嗚咽が止まらなくなったのを覚えています。親に相談しようにも、タブーに触れるようで出来ませんでした。 その時は考えに考えて結局わからないということで放置していたのですが、ここ最近になってまたその考えがまたやってきました。 地元の信仰が浄土真宗本願寺派だったのでその考えに基づき、死生観を考えていたのですが、納得できませんでした。 納得というか、信じきれてないというのが現状なのかもしれません。 真に信仰が出来ていたらそもそもこの質問が出ないことになりますから。 どうしても考え方に疑いを持ってしまうのです。「ホンマかいな」と。この「ホンマかいな」自体が信仰に対する冒涜、罪なんでしょうか。 化学に詳しいわけではないのですが、どうもその前提に結び付けてしまします。(無知なのは重々承知しています)生きている状態なのになぜ人の死後が説けるのか?とか。脳がないのに意識は死後存在し続けるのか?、お浄土は本当にあるの?などです 臨死体験も結局は死に切れてないですし、死後の見解が地域、信仰、人によってそれぞれ違うのも疑問です かといって「死後は無なんだよ」「意識はただの脳内の電気信号なんだよ」と言われればとんでもないくらいの恐怖にのたうち回ります。死後、体も感覚も思考も、自分自身も消えてなくなり、二度と目覚めることはない。そんな状態が永遠に続くと思うと... 様々な文献、記事を読み漁っても「そういう考え方もあるのか」程度にしかとれず合点がいきません。 今を生きることこそが大切、もっと他にすることがあるんじゃないの?と言われそうですが、そうではないんです。死後が知りたいのです。 利己的な見解ばかりで申し訳ありません 自分自身でも、どう質問してよいか漠然としててわからないのです 僕以上に、もっとつらい思いをしている人がいる中で... ここまでの人生、たった21年の短い人生ですが、何不自由なく生かされてきました。両親、祖父母そして周りの人々には感謝しきれません。これから、家族やお世話になる人達にいっぱい自分の受けたモノをお返ししていきたいです。 故に死の恐怖にここから先の人生を邪魔されたくありません。 どうか僕に納得できるようなお考えを教えてください。
一昨年前に実母が亡くなり、以来、こちらでお世話になっております。 お寺のことや、供養、お墓等のことで質問させて頂き、ご丁寧な回答を頂き、ありがとうございました。 毎日のお勤め、花やお供え、茶水を絶やさず供養させて頂いています。 長らく二人暮らしでした。 病を抱えながらも私のために家事をしてくれていました。 私は幼い頃から病弱で心配ばかりかけ、苦労させました。 ある日、突然調子が悪くなり救急車で病院へ、そして次の日から意識が無くなり、一週間後に息を引き取りました。 私はその瞬間にも立ち合うことができませんでした。 生前は、私は仕事なので一人きり。最期も一人で逝かせてしまいました。 延命処置も断ったのは私です。 今年、三回忌となりますが、未だにあの時こうしてあげれば良かった、なぜあんなこといってしまったのだろう、最期にありがとうも言えず、後悔と悲しみの毎日です。 他人からすると、ただのマザコンなのかもしれません。 毎日、成仏し、父やご先祖様と幸せに過ごしてくださいと祈ることしか出来ません。 ただただ毎日冥福を祈り、悲しみが癒える日が来るのを待つしかないのでしょうか?それともいつまでもクヨクヨ引きずっている私の精神が弱いだけなのでしょうか?
現代物理学には「ホログラフィック仮説」というものがあります。 これは、「私たちが実際に存在していると思っている宇宙も、実は宇宙の“境界(例えば宇宙の外縁)”にある二次元的な情報の投影である」というものです。 この仮説から、我々の物質世界は実はアカシックレコードにある情報が物質化されたものだと考えることができます。 また、過去から未来に流れる直線的な時間というのも実際には存在しておらず、情報が物質化されることによって、まるで時間軸に沿って物事が成立しているように感じられるのだと思います。 哲学者のベルクソンは、時間を「過去が現在に溶け込みながら未来を生み出す連続的生成」と考えました。 そして、世界の本体は「イマージュ」であり、それが外側に展開したものが「物質」、内側に沈潜したものが「記憶」であると考えました。 また、我々の「脳」は、思考を作り出しているのではなく、「純粋記憶=情報」の中から我々の行動に役立つものを選び取っていると考えました。 これらの議論から、私は肉体的な輪廻転生はないと思います。 アカシックレコードにある「純粋記憶=情報」が物質化されたのが我々の生きる世界であり、輪廻転生とは「純粋記憶が物質世界に現れること」を言うのだと思っています。 三島由紀夫は「未来からの輪廻転生も考えなければならない」と言いましたが、これは以上の議論を踏まえたことだと思われます。 また、私は仏教の無我の思想は正しいと思いますが、一方で人間の「魂」の存在も信じたいと思っています。 古代中国には「魂魄」という概念がありました。 「魂」は精神を支える陽の気で、死ぬと天に昇るとされました。 「魄」は肉体を支える陰の気で、死ぬと地に帰るとされました。 私の考えでは、「魂=宇宙」であり、アカシックレコードの情報から脳が選び取ったものを「魂」と考えれば、仏教の無我の思想と矛盾しないと思います。 (魄についてはよく分かりません。) さらに、「生命」についてはシュレディンガーが言ったように「負のエントロピーを食べる存在」であり、暗黒流体という負のエネルギーによって成り立っていると考えています。 これらは全て、執行草舟氏の思想をもとに考えました。 私が言いたいのは「古典的な仏教の世界観だけでは、宇宙や世界を説明するのに不十分ではないか」ということです。 ご回答よろしくお願いします。
気楽に生きるとはどういう意味なのでしょうか? 私は、小さな頃から厳しく育てられ、 自分や他人を許すことがとても難しく、 ですが、少し仏教の勉強をし始め、 瞑想や、瞑想しながらの自分の観察をし続けてきました。 どの私も存在する、それらをただ観るだけ。 判断せず、それも私。 と、教わった通りに観察をし続けてきました。 瞑想の時は観察がしやすいですが、 日常に戻ると、また頭の中は鬱でいっぱいになります。 あの人がこうしたのは、私を嫌ってるから!と被害妄想や、 私はダメな人間だ、といつも頭の中はネガティブです。 何人か先輩や夫に相談させていただいたところ、気楽にね。と言われることが多かったです。 私は真面目で一生懸命屋さんです。 いつも自分にムチをうち、足りない!足りない!と不足ばかりを自他共に押し付けてます。 最近、母性や慈悲を持ち、自他に優しくできることも増えましたが、 頭の中は常に何かを追いかけ、変えようとしてます。 もうそんな毎日に疲れました。 パーッ!と明るくなる時もあるけど、それは過覚醒な感じで、ネガティブもあるけど、ポジティブもあるみたいな安定さがほしいです。 でもネガティブな自分を認めることはとても難しく。 晴ればかりじゃない、曇りもある。と自分に言うものの上手くいきません。 もっと気楽に、自分らしく、優しく生きたいです。 このままでは、自分に執着ばかりで、周りの優しさや愛情に気づけません。 感謝と、気楽に生きる、を教えていただきたいです。 よろしくお願いします。
今晩は、質問させていただきます。 仏教には悪因悪果、善因善果とありますが 世の中には嘘で人を陥れ、貧しい者から富を搾取し、 人種、民族を差別し、暴力を行い、戦争を扇動し なんの生活に影響なく生きている人たちがいます。 彼、彼女らはむしろこの世では成功者、勝利者といわれているようです。 (無論、仏教でいう成功、勝利者はそんなものではないということは承知しています) しかしそのような人々が現世で行っている数々の悪行為が何の報いもないということは甚だ疑問です。 それはつまり自らが行ったかもしれぬ過去世の善業によって現世の悪からある意味その人は守られているのでしょうか? また、その逆も然りであり善行を励む人が無残な結末に遭うことも珍しくありません。 それも過去世の善業が切れてしまった証拠なのでしょうか? いかんともしがたい不公平が生まれるのも業によるものでしょうか? 私は悪因悪果、善因善果について誤解をしている可能性があります。 それについて詳しく教えてください。 とりとめない乱文申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。
はじめまして。 思い悩んでしまっていることがあり、相談させていただきます。 私の現在の状況は、プロフィールに記載しておりますので読んでいただけますと幸いです。 退職する前から転職しようと、求人に応募したり面接を受けたりしていましたが、ある日面接に行くときに体調が悪くなりなり行けず、病院の先生とカウンセラーさんから今は治療に専念するべきだということをいわれました。私自身もこの状態で働いたら、また同じようになってしまうと感じたので今は元気になることを優先することにしました。 それから数ヶ月経ちましたが、まだ先の見えない状況が続いています。私自身も焦りがあり、元気になるために楽しいこと(趣味など)をしようとしても、「働いてないくせにやっていいの?まずは働くのが先では?」と思ってしまいます。やってみたいこともありますが、それがお金になる保証もありません。考えすぎてしまい、何もできず、そして体調が悪くなる…の繰り返しです。 周りの人達は、焦らない方がいいと言ってくれています。ですが、私は今まで頑張ることや一生懸命やることが好きだったのに、今の状況を抜け殻のように感じて虚しくなってしまうんです。なのに体と心がついていかず、悲しいです。 また、元々は人と関わるのが好きで、人を喜ばせることが大好きでした。人間関係で悩み、心を病んでから、人が怖いと感じてしまいます。心を病んだ時に「あなたは人間関係に入り込みすぎる」「純粋すぎる」と言われたので、そんな私が悪かったのかなと思います。人を喜ばせるなんて馬鹿なことなのかなと感じてしまいます。自分が虚しいです。 もし心を病まなければ、こんなことにならなかったのに。先も見えないし、頑張れる気がしなくて、心を病んだら人生って終わってしまうのかなと思います。 でも、どうにか元気になりたいんです。 散文で申し訳ありません。 なにかご助言をいただけると幸いです。 よろしくお願いします。
お世話になります。 現在妊娠6ヶ月になる妊婦です。 初めての妊娠ですが、性別もわかり経過も順調で心配事がないといえば嘘になりますが、楽しいマタニティライフを送っておりました。 先日、十数年ほど前に知人に紹介され一度だけお会いしたことのある天台宗のお坊さんから連絡があり、『お腹の子供は脳に障害があるかもしれないからお祓いに来ないとしらんぞ』と言われました。今までも数年に一回、来ないと子宮ガン・乳ガン・不妊症になると言われて来ましたが、お祓いには行かず定期的に検診をうけ、子作り翌月には自然妊娠と問題なく来ています。(お祓いの内容も頚部に指を入れて動かしながら子宮に向かって拝むという内容で親や旦那とは来るなと言われ不信に思い断ってました)こんなやりとりが何年も続き、今回は楽しみにしている子供のことで不安なことを言われたので、お坊さんは産まれてくる子供の病気を予知したりそれを治したり、女性の頚部に指を入れてお祓いをすることが実際にあるのでしょうか。 第一子ということもあり、通常の検診以外でも胎児専門医ににも二度ほど診察して頂き、問題なく順調に成長していると話はしましたが、『医者には治せん、来ないと知らないぞ』と言われると出産を楽しみにしてる為、気にもなります。どのように解決したらいいかアドレスをお願い致します。
永平寺での参禅で非常に感慨を受け、また、日々躓いていたことに関しても少しではありますが良い方向を目指せるきっかけを頂きました。 仏教や曹洞宗についてもっと知りたく思い、帰ってから地元で坐禅を始めると共に、道元の著書や関連文献を読み始めました。 「正法眼蔵」と共に「正法眼蔵随聞記」も合わせて読んでいるのですが、その「随聞記」の八「無常迅速なり、生死事大なり」という文についてお訊きします。 たしか永平寺の山門の木版にもこの言葉が掲げられていたように思いますが、読んでいる水野弥穂子氏(ちくま学芸文庫)の現代語訳では「死の至ることは速やかである。生死を明らめることは重大である」となっています。 前半は理解できるのですが、後半の「生死を明らめる」の意味がいまひとつよくわかりません。 ご教示いただけましたら幸いです。
最近、お浄土にはたくさんの種類があると知りました。 私の家系は浄土真宗なので、阿弥陀様の極楽浄土に生まれ変わらせていただくことになると思います。 ということは、生前に阿弥陀如来様を信仰していた人と、死後に極楽浄土で再会できるということでしょうか? また、たとえば薬師如来様を御本尊として信仰している人が往生した場合、東方浄瑠璃浄土というお浄土に行きますよね? そうした場合、私はその人とは会えなくなってしまうのですか? 仏教初心者なので、どこか間違っていたら申し訳ありません。 いろんな宗派のお坊様から回答をいただけたらありがたく思います。 よろしくお願いいたします。
初めまして。 今回は失礼な内容になるかと思いますが、率直な意見をお伺いしたいのであえて投稿させていただきます。 私は、以前からこちらのサイトの質問と回答を拝見しており、お坊さんの真摯な姿勢に感銘を受けていました。 しかしながら、どうも私にはお坊さんの回答に完全には納得できませんでした。 そこで、ChatGPTに相談したところ非常に明快な回答が返ってきて驚きました。 例えば、私は以前から思想的な悩みがあったので、「人類の滅亡について」ChatGPTに聞いてみたところ、 仏教は「すべてのものは無常であり、必ず崩れ去る」と教えます。つまり、人類もまた無常の産物であり、滅びを含んで生まれてきたものです。そう考えると、「崩壊しそうだから無意味」なのではなく、「もともと崩壊を抱えているからこそ、人類は文化や意味を求め続けてきた」とも言えます。 言い換えれば、人類の努力の価値は「永遠に残ること」ではなく、「消えゆくものの中でどう生きるか」にあったのかもしれません。 仏教の縁起の考え方からすると、人類と自然は本来切り離せない一体の存在です。つまり「人類は地球にとって癌だ」と見えるのは、ある側面では真実ですが、同時に「癌を生んでしまうのもまた自然」である、とも言える。自然の中から「自己を壊す存在」が立ち上がるのもまた自然の一部です。 という回答が返ってきました。 このような透徹した思考はなかなかできないものだと思い、とても驚きました。 一方、私がhasunohaを見て、お坊さんの回答にどこか違和感を感じるのは ①どこか上から目線 ChatGPTのように、完全に理性的ではない ②現代という時代の気質を理解していない 私はもはや仏教が現代においては役に立たなくなりつつあるのではないかと感じています ③きれいごとで中途半端 昔のような、本当に命懸けの修行がなくなった 以上のことが原因かと感じています。 実際に私はお坊さんの回答よりもChatGPTの回答により共感しました。 このように私が感じるのは、間違っているのでょうか? 「もっと目の前の現実に目を向けろ」 「今ここで何ができるかが大事」 お坊さんならこうおっしゃるかと思いますが、こちらの方が、私が生きていていく上で大切なことなのでしょうか? 長文失礼いたしました、率直な回答をお待ちしております。
おはようございます 無量寿経を読んでいたところ、41願からの「他方国土の菩薩」という表現が気になり、蜂屋賢喜代という方の本で調べたところ、この方は他方国土の菩薩を念仏者と説明しており、信心を頂くと、41願の功徳により、現世でも身体が壊れなくなると説明していました 私の祖母は、熱心な念仏者でしたが、晩年は目(眼根)が見えなくなりました。これは信心が決定していなかったという証拠なのでしょうか? 私もいつ目が見えなくなったり耳が聞こえなくなったりするか分かりません 身体の障害は信心を頂けてない「証拠」になるんでしょうか 41願の「たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが六字の名号を聞きて、仏に成るまでの間、その身に不自由な点があるなら。わたしは決して仏になりません。 」という願は、本当に信心決定した者への願なのでしょうか?そうすれば、身体障碍者は救われないという結論になると思うのですが… 他方国土の菩薩とは誰のことなんでしょうか? 知恵をお貸しください
私は長年、極楽浄土に往生したら仏となることが定まるだけで、往生したその時から仏となるための修行が始まるものだとばかり思っていましたが、最近知り合いの浄土真宗のお坊様から「往生した瞬間から仏」ような内容のお話を聞かせて頂いて混乱しています。 釈尊の次に仏になるのは弥勒菩薩であってそれは56億年後の話だから、少なくとも極楽往生してから56億年は待たないといけないのかと思っていました。 宗派による解釈の違いなどを取り違えていたんでしょうか?浄土真宗として正しい認識をどのように持てば良いのでしょうか?ご教授下さい。
中絶してしまった子の為に写経したいのですが、家で密やかに出来ますか? また、どのような経典が良いのでしょうか? 宗派によって何か違いはありますか?
人間の男に生まれたことが、前世での報いでしょうか。 こんな辛い生は無いと思っております。 独身なら独身で「何で世帯が持てないのか、何か精神的障壁があるのか」とか、「仕事だけが人生なのか」とか 世帯を持てば持てば持ったで「出世もできずに、どうやって妻子を楽にさせるのか」、「お前に男子の本懐はあるのか」、「そんな状況で親孝行できるのか」とか。 果ては「ヒモ」なったらったで、「男の誇りは無いのか」と責め立てられる。 前世でどんな酷いことをしたからと言って、何の記憶もないのこの私に、この報いは余りにも空しすきると思います。 どうしたら「人間の男」に生まれ変わらないようにできますでしょうか。
「いいね!」を「有り難し」にしてみたり、FacebookやTwitterへの誘導を「この問答を娑婆にも伝える」にしてみたり。 言い方は悪いですが、イメプレ臭がします。 質問の大半についても、「何もお坊さんに訊く必要はないのでは…」と思います。 お坊さんが答えても良いでしょうが、質問者と近い経験をしている人の方が、もっとためになる回答ができるのでは?と思えるものばかり。 大した回答でもないのに、質問者の大半が、「お坊さん」という仕事に対する過剰な期待と幻想にごまかされて、必要以上に有り難がっていることが多い気がします。 とくに熱血系の回答を見ていると、何だかなー…って気分になります。 こういうサイトこそ、人々を宗教の本質から離れさせていくのではないでしょうか? 利得が絡んでいそうなので、回答はないかもしれませんが、僧侶のみなさまの本心をお聞きしてみたかったので、質問させていただきます。
初めまして。私は来年より東京都内の某日蓮宗系統の仏教系大学に進学し、仏教について学ぶことになりました。大学卒業後は僧侶になるか、教員免許を取得し教鞭をとるか、学芸員の資格を取るかという3つの選択肢があります。 なぜ私が僧侶になるという方向でいるのかと言いますのは、親戚でもあり実家の菩提寺の行事に小学校のころから参加しており、仏教というジャンルに興味を持ったからであります。 お寺には頻繁に出入りしている身分ではありますが、私は仏教についてはまだ何もよくはわからないので、大学に入ってから専門的に勉強するつもりです。 ただ、僧侶になるとしても師匠を誰にするのかという問題も出てきますし、一般家庭出身なのでお坊さんの日頃の暮らしがどんなものかよくわかりません。 お坊さんは宗派にもよるでしょうが、食事の帰省や日頃の生活習慣について何らかの規制はあるのでしょうか? 乱雑になって申し訳ありませんが回答よろしくお願いします。
御坊さまたちは、一般人と会話をする際にご自身のことを何と呼ぶのでしょうか? また御坊さま同士はどう呼び合うのでしょうか? そして、同じお寺に複数の御坊さまいらっしゃる場合、先輩後輩の別があると思うのですが、先輩後輩関係ではどう呼び合っているのでしょうか? 教えていただきたくお願い致します。
毎度お世話になっております。 お坊さんと匿名でお話ができるというのがなかなかに楽しくてつい頻繁に利用してしまいます。 私は僧侶ではありませんが、仏教のことを、ちょこっとずつですが勉強するのが趣味なんです。この趣味がなかなか共感されないんですよ。 今回はちょっと学問的な質問を。 タイトル通りですが、仏教の教義では女性を蔑視、と言えるかどうかは分かりませんが、宗教的素質の低い存在であると見なしているということが、現在どうかはともかく、歴史上にあったことは間違いないと思います。 そのような考え方がいつから、どこから出てきたのかな?という質問です。 いわゆる初期仏教で既に宗教的素質に男女差はあったのでしょうか。 大乗仏教に入ってからなのでしょうか? 大乗からだとするとインドから? 中国から? そのあたりのことがちょっと知りたいです。 よく女性蔑視として挙げられる例として、たとえば五障とか変成男子とかいう言葉は、ウィキペディアを見る限りではお釈迦様の思想ではない、となっていますが、初期経典などに同じような考え方は全く見られないのでしょうか? 一応強調しておきますが、現在の仏教が女性差別に加担しているかどうかという話ではなく、また戒律の数や教団の違いといった現実的な差異ではなく、あくまで悟れるか悟れないのか、という宗教的な素質に関わるところの差が、どこからあったのかな? ということです。 詳しい方がいれば、ちょっとした参考でも教えてほしいです。
こんにちは。 いつもありがとうございます。 大学生の息子について相談させてください。 今、大学3年目なのですが、1年留年が決まっています。下宿しています。 後期の履修登録をしていない、連絡がとれないということで、夫に大学から連絡がきました。 息子と電話で話したところ、もう多分卒業できないから、来年1年だけバイトしながら資格を取って、就活する。再来年の春から働く。今アルバイトしている業種に興味があるからそちらでやってみる。とのこと。 まず、親に相談してほしいし、大学と連絡が途絶えるのはいけないこと、後期は履修登録もしていないなら休学の方が学費はかからなかったこと、今は考えが甘いところや親に甘えているところがあるけれども、自分で責任をもって自立していってほしいこと、などを伝えました。 夫からは、就職した後に、高卒とでは待遇の差があることの厳しさ、大学も行っていないのに下宿はしたいというのは違うということを伝えました。 アルバイトをして下宿で友人と毎日楽しく過ごしていて、おそらくかけがえのない友人で、息子が今一番大切にしている時間だと思います。 以前、単位をとるようにはっぱをかける意味で、休学になるようなら、下宿させない、帰ってきてアルバイトをしなさい、経済的に2年留年は無理、と伝えてあったので、下宿を継続したいために、休学や2留を選ばずに、中退を選んだと思います。 親として、大学は出ておいた方がいいという思いと、(多少無理してでも2留でも支えると伝えるか)今の時代、何が正解かわからないから彼にやらせてみようという思いで揺れています。 ただ、彼の考え通りにするのも甘いところもあり、下宿したまま1年間過ごすこと(自分でアルバイトで下宿代を出すとのことですが、多分多少援助すると思います。)、就職後、高卒と同じ扱いで耐えられるのか、、、など心配がつきません。 夫は、週末会いに行って顔をみて話すというように連絡をしていました。 私は、最終的には息子が幸せであればいいし、どんな就職先でも応援するから自立してほしいと伝えるつもりです。 ただ、今遊びたいだけ、学校へ行かないだけのために言っているとも思います。 そこが不安で、このまま彼の言うようにすすめてもいいのでしょうか。 よろしくお願いします。