つい最近 「hasunoha」 をみつけて登録したものです。 早速ですが、 仏教では自殺を悪いことだとは言わないのでしょうか。 自分の肉体の生命を自分の意志で終わらせることを自殺であると定義したとき、仏教では、自殺はとがめられる行為ではないのでしょうか。 私は、キリスト教徒ではありませんが、自殺はしてはいけないとする意見に賛成するものですので、たとえば意識を失うほどの肉体の苦痛が私のところにやってきたとしても、その苦痛に忍耐するつもりで生きています。 そもそも、釈迦がいうところの「空」を素直に学べば、自殺は起こらないのではないでしょうか。 ご教示お願いいたします。
父親から過去に性的嫌がらせを受け 姉には現在進行形で虐待を受け 他の家族はみんな助けてくれない 結婚前提だった恋人は暴力団に騙され借金、破局 信じていた友人に裏切られ、無職 唯一の支えである男性との関係は年の差によりいい顔をされない 精神科に何年も通院しても治らない そんなあたしに生きる意味、ありますか。 ここは、救いの場だと、思っていました。 でもあたしが思う救いとは違うようですね。 あたしにはいつも回答が一件。 お礼をしたら回答受付中のアイコンなんて無意味。誰にも相手にされない。 他のみなさんには複数件。 それは、あたしの伝え方が下手だからだけでしょうか。 あたしは違う気がします。 みんなの注目が集まる質問ばかり回答がくる。 そこで、回答すればみんながそのお坊さんのことを知るきっかけになりますもんね。 今回もどうせ回答なんて一件だよね。 たくさんのお坊さんの意見なんて聞けないんだよね。だって注目されない質問だもの。 現実もネット上もダメ。 あたし死にたいです。 説教、苦情いりません。 毎日言われているので、これ以上傷付けないでください。 まだ生きる意味、ありますか。 あたしはなんでこんなにも人生が苦しいのでしょうか。 *先ほど同じ様な質問をしたのですが、画面が真っ白になり、質問できなかったようなので、再度質問をしました。重複していましたらすみません。
中絶してしまった子の為に写経したいのですが、家で密やかに出来ますか? また、どのような経典が良いのでしょうか? 宗派によって何か違いはありますか?
いつもお世話になり誠にありがとうございます。また疑問に感じることがありまして、質問をさせていただきます。 良きアドバイスを頂けたら幸いに思います。 ニュースなどで無差別殺傷事件や大きな自然災害のニュースなどが報道されており、テレビを見るたびに暗い悲しい気持ちになる今日この頃ですが、、、。 そういった悲惨な出来事に、仏様のお慈悲は届かないものなのでしょうか? もし神様や仏様が本当にいらっしゃるならば、そういった悲しい出来事は起こらないようにも思うのですが。 良きアドバイスを頂けたら幸いに思います。よろしくお願いいたします。
もちろん悪意あるいじめや悪行はいけません、 しかし善意での行動、もしくは悪意なくとった行動が、他人に対して 肉体的、精神的に苦痛を与えることになった場合も、 己の罪となるのでしょうか 皮肉になってしまいますが、お坊さんの言葉でさえも、聞く人によっては 毒にも薬にもなりますし、その教えによって自殺する人も 生きようと思う人もいるとおもいます 善の行為によって、他人を苦しめてしまうとき、仏教の考えでは どう対処するのが良いのでしょうか
死後の世界ってあるんでしょうか?
私は家が曹洞宗の息子です。 大悲心陀羅尼というお経ですが ネットで曹洞宗青年団というサイトでは 聖観自在菩薩よ と訳されています。 しかし、他のサイトでは 千手千眼観世音菩薩という説明がほとんどで 千手観音についてのお経と思っていましたが 実際はこのお経はどの菩薩様についてのお経ですか またこの功徳は、私たちが生きる上で内を伝えているのでしょうか? よろしくお願いします。
享年29歳で私の子供が事故で亡くなりました。あるお人に聞いたところその子の運命は生まれる前から決まっていたとの事、子供は親を選べないと言いますが、そうじゃなくそれも生まれる前からどの家に生まれるかも決まっているとの事でした。私の家に生まれて不幸だったのか、子供の今までの人生を考えるといたたまれない気持ちで、まだ死を受け入れきれなくてどうしようもないです。もうすぐ四十九日です。何も手に付かず悲しい毎日を送ってます。教えて下さい。
はじめまして 最近、正信掲、歎異抄、大無量寿経、スッタニパータを読んでいます。 読んでいて、不勉強ゆえ以下の疑問が湧いています。 子供を作ることは、愛すべき我が子を、厭うべきこの世に呼び出す行為とも思われ、子を思えばこそ作るべきではないように思えます。以下、詳述しますのでどうかご指導ください。 ブッダは、欲望の支配からの自由、ひいては輪廻転生からの解脱を説かれます。 その前提として、人(を含む生き物は)煩悩具足の凡夫であって、他の生物を殺生し食べねば生きられず、醜い体をもつ哀れな存在だと捉えられていて、「再び母胎に入ることのないように」と仰います。 つまり、私達が子供を作ると、上記の哀れな存在を生むことにはならないでしょうか。子供を作らねば、輪廻転生の苦もなくなるのではないか、と思えているのです。 しかも、子を遺して自分が世を去る時後ろ髪を引かれ、絶つべきこの世への執着が、子供の存在によって強まるようにも思えます。 確かに、「人身受け難し 今既に受く」「大海に浮かぶ板の節穴から盲た亀が顔を出すより難しい」とも言われます。しかし、これは、どうせ生まれるなら、他ではなく、仏法を聞ける人身に生まれることの有難さを説かれたものであって、生まれること自体の素晴らしいとのお考えでないようにも思えます。 また、生まれることの幸不幸は本人の捉え方次第とも思われます。しかし、もし子が生まれ、「生まれたくなかった。なぜ厭うべき仮の世に産んだのか」と言われたら、答えに窮してしまいそうです。 この問に答え得るブッダのお考えをご指導ください。できれば、それが書かれている文献の名前と場所(第何章のどの辺りか)もお教えくだされば幸甚です。 どうか、宜しくお願い申し上げます。 (以下、ご参考です) 一五二 さまざまな欲望の対象への、深層の欲望から超脱するようにせよ。そうすれば、もはやふたたび母胎へ入って輪廻転生することはなくなるであろう。(スッタニパータ 荒牧典俊著) 二三五「過去の業は絶えた。未来の業もあり得ない」と、賢者は、来世に執着せず、種子を絶やし、自己存在の芽を未来にまで伸ばしたいとの願いを捨て、油の切れた灯のようにふっと消えてしまう。 三三九 二度と輪廻の世に舞いもどってはならぬ。 三四〇 たえず身体に注意を向けて、その醜さを思い知れ。厭い離れる心に満ちてあれ。
諸行無常や諸法無我はああそのとおりだなと納得するのですが一切皆苦についてはいまいち納得できません。 物事は解釈によっては良くも悪くもなるものですから全ては苦というのはなんだか理解できません。全てが苦なら生きる理由も無いと思います。 一切皆苦について詳しく説明をお願いします。
今晩は、質問させていただきます。 仏教には悪因悪果、善因善果とありますが 世の中には嘘で人を陥れ、貧しい者から富を搾取し、 人種、民族を差別し、暴力を行い、戦争を扇動し なんの生活に影響なく生きている人たちがいます。 彼、彼女らはむしろこの世では成功者、勝利者といわれているようです。 (無論、仏教でいう成功、勝利者はそんなものではないということは承知しています) しかしそのような人々が現世で行っている数々の悪行為が何の報いもないということは甚だ疑問です。 それはつまり自らが行ったかもしれぬ過去世の善業によって現世の悪からある意味その人は守られているのでしょうか? また、その逆も然りであり善行を励む人が無残な結末に遭うことも珍しくありません。 それも過去世の善業が切れてしまった証拠なのでしょうか? いかんともしがたい不公平が生まれるのも業によるものでしょうか? 私は悪因悪果、善因善果について誤解をしている可能性があります。 それについて詳しく教えてください。 とりとめない乱文申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。
私は長年、極楽浄土に往生したら仏となることが定まるだけで、往生したその時から仏となるための修行が始まるものだとばかり思っていましたが、最近知り合いの浄土真宗のお坊様から「往生した瞬間から仏」ような内容のお話を聞かせて頂いて混乱しています。 釈尊の次に仏になるのは弥勒菩薩であってそれは56億年後の話だから、少なくとも極楽往生してから56億年は待たないといけないのかと思っていました。 宗派による解釈の違いなどを取り違えていたんでしょうか?浄土真宗として正しい認識をどのように持てば良いのでしょうか?ご教授下さい。
はじめまして。 結婚して8年経ちましたが未だ子宝に恵まれず悩んでおります。 結婚当初は何度か妊娠はしたものの流産を繰り返し、最近では妊娠の兆候すらまったく見えない状況であります。 高度医療の治療も何度か挑戦したのですがよい結果は出ませんでした。 これから夫と二人で生きていくんだ!と心に決めたものの、町で見かける家族連れを見ると羨ましくて・・。 現実を受け止めなくてはと思いつつも、現実を受け入れたくない自分の気持ちが強くて、これから先どのように生きていったらよいのか分からず悩んでおります。 どうかよいアドバイスがあれがご教示下さい。
仏様には、如来、菩薩、明王、天部、その他があり、仏様に1位、2位、3位、と言うような上下関係はなく、それぞれに役割の違いがあり、コンピュータに例えれば、如来がコンピュータ本体、菩薩は基本OS、明王は応用ソフト、天部は支援ソフトとの事ですが、コンピュータ本体である如来様がなくなった場合、仏様の世界はどのようになりますか?
はじめに、全く仏教の知識がないのでとんちんかんなことを質問してしまうかもしれません… 私は猟師になりたいと思っており、今夏狩猟免許を取得する予定です。 そこで狩猟の見学をしたり猟師の方にお話を伺ったりしています。 ほとんどの場合猟師の方々は、頂いた命は大切に食べ、無駄にしないようにします。 しかし全部が全部そうではなく、農作物を荒らす動物(猿やタヌキ、カラスなど)を駆除する際は食べない動物を殺すこともあります。 スーパーに行けばたくさんのお肉が並んでいて、その全てが人に食べられるわけではなく廃棄されるお肉もありますよね。 それなのに、野生に生きるものの命を奪って食べるということはエゴなのかな…と最近悩んでいます。 猟師は本当に尊い職業だと私は思っています。 しかし命を奪うことへの罪悪感が全くないわけではありません。 仏教の観点から見るとやはりこのような殺生は罪なのでしょうか?
質問させて頂きます。 不思議な夢を見ました。最近、近親の者が亡くなり、悲しみに沈んでおりました。 しばらくしたある夜、夢の中に三叉仏と名乗る仏様がいらっしゃいましたが、何も仰せにならずにそのまま去って往かれました。仏教に詳しくないので、一体どういった仏様であろうかと、いろいろな仏教の本を読みましたが該当する仏様を探し当てることはできませんでした。 それからしばらくしますと、また、夢の中に仏様がいらっしゃいました。そして、『現在、過去、未来、すべての生命の幸福を祈りなさい、そうすれば、貴方に幸せが訪れますよ』と仰いました。1~2カ月くらい前の話です。 夢での話があってから、仕事の合間など、時間を見つけ、そういった祈りを行うようになりました。 昨日の夜も、そうやってお祈りしながら就寝致しておりますと、夢の中の空中庭園の様なところに仏様がいらっしゃいまして、『貴方の誓願は確かに聞き届けましたよ』と仰いました。 仏様に願いを聞いて貰いましたら、私の体は地面の上に立っておりました。しばらくすると、自分の体は、地面の上を飛ぶように走りだしました。地面の上には村の様な町の様な景色が広がっており、その間を、時速20km、40km、100 km、200kmと段々加速して飛んで行きました。 およそ200 kmになってもさらに加速し、音ぐらいの速さにまで加速しました。これ以上加速できないくらいになりますと空中に大きな白い光が現れまして、自分の体の中にこれまで味わったことがないような言葉では言い表せないような多幸感が全身を駆け巡りました。白い光は空半面を覆うぐらいの光になり、そこで目が覚めました。 この夢はいったい何なのでしょうか?これからどうすればいいのでしょうか?初めてこういった不思議な体験をして非常にびっくりしております。三叉仏とは一体どんな仏様なのか、実在の仏様なのか?教えて頂けませんでしょうか?宜しくお願い致します。私の家の宗派は真言宗です。
よく不安関係の質問でお世話になっております。 以前、いろいろ不安克服法について調べたのですが、よく禅や瞑想のことが取り上げられています。 心を落ち着かせる点で、効果的だと聞きました。 ただ、禅や瞑想について調べると、いろいろなやり方があり、どれが良いのかわかりません。 一番良いやり方があれば、教えてほしいと思い、投稿しました。できれば、家でも外でもできる禅や瞑想を知りたいです。
人間の男に生まれたことが、前世での報いでしょうか。 こんな辛い生は無いと思っております。 独身なら独身で「何で世帯が持てないのか、何か精神的障壁があるのか」とか、「仕事だけが人生なのか」とか 世帯を持てば持てば持ったで「出世もできずに、どうやって妻子を楽にさせるのか」、「お前に男子の本懐はあるのか」、「そんな状況で親孝行できるのか」とか。 果ては「ヒモ」なったらったで、「男の誇りは無いのか」と責め立てられる。 前世でどんな酷いことをしたからと言って、何の記憶もないのこの私に、この報いは余りにも空しすきると思います。 どうしたら「人間の男」に生まれ変わらないようにできますでしょうか。
最近、知人と議論しているのですが、結論が出ませんのでご意見お願いします。 毎朝のお勤めとして、「仏壇にご飯・お茶・お経をあげています。 それは母の代わりであり、ご先祖様への感謝とかの心を込めての行動ではなく、義務的なことです。 知人いわく、 「心が入っていない義務的な行動ならば、悪縁を結ぶことになり、やらない方が良い」と言います。 何かの法話で、 「多くの寄付もしているし、これだけ信心深い私には、どれだけのご利益があるのか?」と質問した人に対して、お坊さんは「無い」と応えた。 と聞いたことがあります。 私としては、その法話も納得だし、義務的なお勤めに何かのご利益とか功徳とかを期待もしていないし、望んでもいません。 ただ単に、「母がやりたいけど出来ずにいるストレス」を軽減するためだけです。「今日もちゃんと仏壇にお供えしたよ」って言うためだけの行動です。 しかし、利益・功徳などのプラス効果は期待していませんが、「悪縁を結ぶ」「罰が当たる」などのマイナス効果になるとまで言われると、気になります。 理想的なのは、「心を込めた行動」でしょうが、「行動しない」よりは、「心が入っていない行動」が良いと思うのは、間違いなのでしょうか?
こんばんは。 昨今様々な悩みから、自殺衝動にかられて、 掲示板や知恵袋などに相談・質問する人が後を経ちませんが、 自殺防止サイトや一般の方からの回答に、 『死ぬことは生きることより辛いですよ。』とか、 『死んだら今より辛いですよことが待ってますよ。』という回答があるんですよね。 この世が辛くてお別れしたいのに、 お別れしたあとにも、もれなく辛いことが待ってるわけですよね? まさに『生きるも地獄、死ぬも地獄』の人が、 この世にいるわけですよ。 そんな八方塞がりの状況の場合、 人はどの道に進めばいいのでしょうか? 救いの道はあるのでしょうか? 回答よろしくお願いします。