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hasunoha 問答検索結果 : 「悟り」
検索結果: 2145件

それでも生きる意味。

父親から過去に性的嫌がらせを受け 姉には現在進行形で虐待を受け 他の家族はみんな助けてくれない 結婚前提だった恋人は暴力団に騙され借金、破局 信じていた友人に裏切られ、無職 唯一の支えである男性との関係は年の差によりいい顔をされない 精神科に何年も通院しても治らない そんなあたしに生きる意味、ありますか。 ここは、救いの場だと、思っていました。 でもあたしが思う救いとは違うようですね。 あたしにはいつも回答が一件。 お礼をしたら回答受付中のアイコンなんて無意味。誰にも相手にされない。 他のみなさんには複数件。 それは、あたしの伝え方が下手だからだけでしょうか。 あたしは違う気がします。 みんなの注目が集まる質問ばかり回答がくる。 そこで、回答すればみんながそのお坊さんのことを知るきっかけになりますもんね。 今回もどうせ回答なんて一件だよね。 たくさんのお坊さんの意見なんて聞けないんだよね。だって注目されない質問だもの。 現実もネット上もダメ。 あたし死にたいです。 説教、苦情いりません。 毎日言われているので、これ以上傷付けないでください。 まだ生きる意味、ありますか。 あたしはなんでこんなにも人生が苦しいのでしょうか。 *先ほど同じ様な質問をしたのですが、画面が真っ白になり、質問できなかったようなので、再度質問をしました。重複していましたらすみません。

有り難し有り難し 67
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子供をこの世にうむことの是非

はじめまして 最近、正信掲、歎異抄、大無量寿経、スッタニパータを読んでいます。 読んでいて、不勉強ゆえ以下の疑問が湧いています。 子供を作ることは、愛すべき我が子を、厭うべきこの世に呼び出す行為とも思われ、子を思えばこそ作るべきではないように思えます。以下、詳述しますのでどうかご指導ください。 ブッダは、欲望の支配からの自由、ひいては輪廻転生からの解脱を説かれます。 その前提として、人(を含む生き物は)煩悩具足の凡夫であって、他の生物を殺生し食べねば生きられず、醜い体をもつ哀れな存在だと捉えられていて、「再び母胎に入ることのないように」と仰います。 つまり、私達が子供を作ると、上記の哀れな存在を生むことにはならないでしょうか。子供を作らねば、輪廻転生の苦もなくなるのではないか、と思えているのです。 しかも、子を遺して自分が世を去る時後ろ髪を引かれ、絶つべきこの世への執着が、子供の存在によって強まるようにも思えます。 確かに、「人身受け難し 今既に受く」「大海に浮かぶ板の節穴から盲た亀が顔を出すより難しい」とも言われます。しかし、これは、どうせ生まれるなら、他ではなく、仏法を聞ける人身に生まれることの有難さを説かれたものであって、生まれること自体の素晴らしいとのお考えでないようにも思えます。 また、生まれることの幸不幸は本人の捉え方次第とも思われます。しかし、もし子が生まれ、「生まれたくなかった。なぜ厭うべき仮の世に産んだのか」と言われたら、答えに窮してしまいそうです。 この問に答え得るブッダのお考えをご指導ください。できれば、それが書かれている文献の名前と場所(第何章のどの辺りか)もお教えくだされば幸甚です。 どうか、宜しくお願い申し上げます。 (以下、ご参考です) 一五二 さまざまな欲望の対象への、深層の欲望から超脱するようにせよ。そうすれば、もはやふたたび母胎へ入って輪廻転生することはなくなるであろう。(スッタニパータ 荒牧典俊著) 二三五「過去の業は絶えた。未来の業もあり得ない」と、賢者は、来世に執着せず、種子を絶やし、自己存在の芽を未来にまで伸ばしたいとの願いを捨て、油の切れた灯のようにふっと消えてしまう。 三三九 二度と輪廻の世に舞いもどってはならぬ。 三四〇 たえず身体に注意を向けて、その醜さを思い知れ。厭い離れる心に満ちてあれ。

有り難し有り難し 65
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不思議な夢を見ました

質問させて頂きます。  不思議な夢を見ました。最近、近親の者が亡くなり、悲しみに沈んでおりました。 しばらくしたある夜、夢の中に三叉仏と名乗る仏様がいらっしゃいましたが、何も仰せにならずにそのまま去って往かれました。仏教に詳しくないので、一体どういった仏様であろうかと、いろいろな仏教の本を読みましたが該当する仏様を探し当てることはできませんでした。 それからしばらくしますと、また、夢の中に仏様がいらっしゃいました。そして、『現在、過去、未来、すべての生命の幸福を祈りなさい、そうすれば、貴方に幸せが訪れますよ』と仰いました。1~2カ月くらい前の話です。 夢での話があってから、仕事の合間など、時間を見つけ、そういった祈りを行うようになりました。 昨日の夜も、そうやってお祈りしながら就寝致しておりますと、夢の中の空中庭園の様なところに仏様がいらっしゃいまして、『貴方の誓願は確かに聞き届けましたよ』と仰いました。 仏様に願いを聞いて貰いましたら、私の体は地面の上に立っておりました。しばらくすると、自分の体は、地面の上を飛ぶように走りだしました。地面の上には村の様な町の様な景色が広がっており、その間を、時速20km、40km、100 km、200kmと段々加速して飛んで行きました。 およそ200 kmになってもさらに加速し、音ぐらいの速さにまで加速しました。これ以上加速できないくらいになりますと空中に大きな白い光が現れまして、自分の体の中にこれまで味わったことがないような言葉では言い表せないような多幸感が全身を駆け巡りました。白い光は空半面を覆うぐらいの光になり、そこで目が覚めました。 この夢はいったい何なのでしょうか?これからどうすればいいのでしょうか?初めてこういった不思議な体験をして非常にびっくりしております。三叉仏とは一体どんな仏様なのか、実在の仏様なのか?教えて頂けませんでしょうか?宜しくお願い致します。私の家の宗派は真言宗です。

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「心を込めた行動」とは?

最近、知人と議論しているのですが、結論が出ませんのでご意見お願いします。 毎朝のお勤めとして、「仏壇にご飯・お茶・お経をあげています。 それは母の代わりであり、ご先祖様への感謝とかの心を込めての行動ではなく、義務的なことです。 知人いわく、 「心が入っていない義務的な行動ならば、悪縁を結ぶことになり、やらない方が良い」と言います。 何かの法話で、 「多くの寄付もしているし、これだけ信心深い私には、どれだけのご利益があるのか?」と質問した人に対して、お坊さんは「無い」と応えた。 と聞いたことがあります。 私としては、その法話も納得だし、義務的なお勤めに何かのご利益とか功徳とかを期待もしていないし、望んでもいません。 ただ単に、「母がやりたいけど出来ずにいるストレス」を軽減するためだけです。「今日もちゃんと仏壇にお供えしたよ」って言うためだけの行動です。 しかし、利益・功徳などのプラス効果は期待していませんが、「悪縁を結ぶ」「罰が当たる」などのマイナス効果になるとまで言われると、気になります。 理想的なのは、「心を込めた行動」でしょうが、「行動しない」よりは、「心が入っていない行動」が良いと思うのは、間違いなのでしょうか?

有り難し有り難し 31
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