こんばんは。女子高校生です。 気持ちの変化が激しく、とことん凹む日・怒りっぽい日・機嫌のいい日などがはっきり自覚できます。一日の中でさえも、ささいな一言で涙が止まらなくなったり、憂鬱になったり、かっと怒りが湧くのを感じたりします。もともとプライドが高く、自分のウィークポイントやコンプレックスを突かれるとそのようになるようです。 その性質を自覚し恥じており、「他人におおらかに・冷静に」を目指してきました。幼いころに比べたら今はずっとましですし、家の外では、優しい性格だと思われているかもしれません。友人にも恵まれました。 しかし、コンプレックスが話に出るとやはりだめなのです。 たとえば母が何気なく(しっかりしたいい人です)幼いころの私のわがままな言動について思い出話をします。 すると、笑って一緒に懐かしもうとしても、笑顔が引きつってしまうのです。その場では「その節はゴメンねー、ほんとありがと!」と言えても、あとでどこか心わだかまりを感じ、兄(気弱ですが優しい人です)と自分の性格を比較して落ち込んだりします。 また、ある日母を怒らせたとき「私の嫌いな人に似ないで」と言われました。父や父の家族のことです。 母は子供に平等な人なのでそのことを言ったのはそれきりです。母も疲れていた日だったし、そもそも私がだらしないから悪いんです。その言葉自体は本当にとるにたらず、むしろ尤もなことであり、それ以来いつもは忘れています。 しかし落ち込んだ時や失敗したと思った時、急に蘇り涙が出ます。いつにもまして「母は娘を愛してくれるけど、私という人間は嫌いだろう」と思い、鏡を見れば自分の顔が父にそっくりで消えたくなります。 これを書いている今も、意味もなく泣いています。泣き虫な甘えた自分も含め、気持ちをコントロールできるようになりたいです。 どうすればいいでしょうか?アドバイスお願いします。
30歳を過ぎだ頃から体調不良が続いています。一つの病気がようやく治ったと思ったら、また別の病気が発覚します。 どれも日常生活に支障がある病気ですが見た目には健康なので周りの人達との関わりに悩む事もあるし、どうしても、そんなに悪い事をしてきた覚えはないのに何で次々に病気になってしまうのかなぁと落ち込みます。悪気のない励ましのつもりでしょうが、病は気から等の言葉をかけていただく事にも疲れました。 心が疲れた時に気持ちを切り替えられる良い方法はないかと相談しました。
大忍貫道 様 ご回答を有難うございます。 追記を見落としまして失礼しました。 私は初期経典は全く知らず、大乗経典の一部だけの知識しかありません。 般若経に勝る初期経典とはどんな内容の経典でしょうか? 大変興味深いです。
生きるのがつらくて、阿弥陀様になんとか救って頂きたくてお縋りしています。 でも阿弥陀様が約束された救済は死後の救済、今生ではありません。なので阿弥陀様を拝んで顔を見上げる時に「死んだ後と言わずに今救われたい…」と思ってしまいます。 阿弥陀様に良くなりますようにと祈っても現世利益はないと言いますし、私はどんな気持ちで阿弥陀様と向き合えばいいのでしょうか? とても恥ずかしいし苦しいし、阿弥陀様に申し訳なくてご本尊の前にいられません。私は地獄に落ちるのでしょうか。
まず、煩悩を極力減らしていくこと、苦を滅することが仏教のお教えですか? だとすると、「人」である限り煩悩や苦しみを完全に滅することは不可能であります。 何故なら、自分と他人、自分と世界は分かれたものであるという分離感こそが個人の正体だからです。 個人=分離した存在、なので苦しみは必ず存在します。 (本当は分離していないので、見かけ上の苦しみですが) では仏教のお教えのゴールとしては「人でなくなること」なんでしょうか。。
報いきれるほどの恩ではない。この世でどのようなことをしても、お坊さんの大恩に及ばないのです。私の参じたお方に報いきれないのです。 大概の僧侶志望の方は、僧侶という型枠に収まり、呆けた顔をしたいだけでしょう。(違う人も当然、いるでしょうけど) このhasunohaに南伝仏教の本を勧めるお坊さんがいました。 なぜ浄土宗門徒ならば一心に念仏を唱えよ。と言われないのか? そうでないなら、この宗派は貴方の要求に応対できないと、 宣伝して回っているようなものである。師の恥だ。 煩悩を滅するのが道であるなら、すぐに南伝へ飛び出して出家すべきでしょう。 命はいつ果てるとも知れず、呑気に書き込む時間などないはずである。 一宗派の門徒ならば、師から伝えられた安心を絞り出し、絞り出して、 与えるべきである。南伝なんぞの教えは不要でしょう。 青白い顔をして訪ねてきた人に、この本を読んでみろと言うのか? 崖に捕まって、落ちそうな人間にこの本を読めと言うのか? 本を勧めるのが悪いのではなくて、相手の心に真に向き合うべきでしょう。 頑張る気力が湧かないと嘆いて苦しんでいる人間に、 「努力にこそ価値がある」と答えを返した僧侶はいないだろうか? 砂漠のど真ん中にいて、飢えて苦しんでいる人間に、 雑巾を絞って、絞って、ひねり出した一滴を捧げるが如く、 求むる者に注ぐべきである。 真に苦しむものは雑巾の水でも礼拝して飲む。 例え地球に宇宙人が攻め込んで、インデペンデンスデイの如く、 飛行機で宇宙船に突っ込み、地球の危機を救っても、 お坊様の恩に報いきれるものではない。 未来永劫に輪廻して善行善業を積み続けても、報いきれるものではない。 hasunohaで答える程に頑張っているお坊様がこの程度(すみません、ごめんなさい)なので、現状の日本仏教界の内実を察するに十分ですよ…すいません。 意識の低いものが跋扈し、仏を貶めるだろう。 正法は、ロウソクの火のように弱ってこのまま絶えるのではないかと、 心配するばかりです。 門徒の恥は師僧の恥であり、師僧の恥は宗祖の恥だと思います。 碌な返答も出来ず惑わすようであるならば、黙していた方がマシです。 偉そうに説教みたくなってごめんなさい。 ただ反省はいくらしても、一円も掛からないので損はしないと思うのです。 私も道の途中ですので、頑張ります!合掌
#坊さんあるある2015盆というのが流行ってますが、 http://togetter.com/li/846826 http://grapee.jp/66218 http://matome.naver.jp/odai/2143761674237463401 こちらでも聞いてみたいです。 知り合いのお坊さんの話でもいいです お願いします★
一休さんはとんちが得意なのですが、お坊さんはみんなとんちが得意なのですか? どうやって磨くのですか?とんちが得意になりたいです。
はじめまして、 高校生の息子についてのご相談です。 将来の夢は僧侶になることで 私はあまり詳しくは無いのですが お経の勉強や仏教関連のことを 詳しく調べたり、毎日自作の仏壇?に お勤めしたりしています。 そこまでは いいのですが、高校の勉強は 将来役に立たない、 今の学校(理系)には合っていない、 この学校に行く意味ない とか言い始めて困っています。 私が、 大人になってから 自分で好きにするのは自由だよ、 今は目の前にある勉学に 勤しむべきだと伝えても 教義を持ち出し 私からすると屁理屈を言い出します。 当人は屁理屈とは思っていなくて 私が間違えてるそうなのです。 私は僧侶になることに 反対しているわけではなく、 今は 仏教に関係ないことも 学んでおくことは大切だと 考えております。 入学してから理系が向いて いなかったと感じているのも そのことに 拍車をかけているように 感じます。 まだ高校生活が 始まったばかりで 3年間続けられるのか不安です。 対応のヒントを お願いしたく 質問させていただきました。 よろしくお願いします。
寝ているときは、不安や心配がありません。 すなわち、起きているときに存在する私という感覚(自我)は、不安や心配そのものであると言えるでしょう。 また、自我は問題の生じるところにしか存在せず、問題は善悪を裁く部分にのみ存在すると感じます。 言い換えれば、善悪を裁くことがなくなれば、自我による不安、心配から開放されそうです。 そこで、善悪とは何なのか、何によって生じるのか、仏教においての善悪の解釈を教えて頂けませんでしょうか? 今まで善悪についてあまり考えず、周りに流されてきた気がしています。 よろしくお願い致します。
高齢者の安楽死についてご意見をお願い致します。90歳になる身内の者が倒れ入院となった際、医師に言われました。平均寿命を超えているからもういいのではと。つまり、延命治療をせずに逝かせるということです。家族は反対し、できうる限りのことをしてほしいと願いましたが、いざ胃瘻をどうするかの際に、この医師は容態について虚偽の説明までして胃瘻を阻止しようとしました。 高齢者の医療負担が大きな問題となっていますが、この医師も口から食べられなくなったら寿命とは言うものの、だからといって家のように栄養を少しずつ減らして二三ヶ月で逝かせましょうだなどと私はどうしても疑問を拭うことが出来ません。 医師が捉える死と御坊様が捉える死とは違うとは思いますが、命を救うのが医療であって、そこに延命も何も無いのではと私は思ったりもするのです。蝋燭は燃え尽きてこそ終わりです。口から食べられない、平均寿命を超えていることから死に至らしめようと安易に考える医師に私は命に対する驕り高ぶりと恐ろしさを感じます。たとえ口から食べられずとも、今その目の前に尽きていない命があるのですから。
お久しぶりに投稿させて頂きます。 今回も深刻な悩みはありませんので、悩みごとのご相談の皆様を 優先させて下さい。 仏教を修習している過程での、素朴な疑問です。 仏教の教えは、無常・無我・苦を説いて、死後の世界のことは 扱わず、今現在の事実のみを扱うものと思っていました。 とすれば、告別式に唱えられるお経は、故人に向かって説いても 意味がないように感じられます。 告別式に唱えられるお経は誰に向かって説いているのでしょうか。 会葬者へ向かってのお経? でしょうか? とすれば納得なのですが。 もう一つの疑問です。 般若心経の「色即是空」「空即是色」ですが、これを 文字通りに見ますと、「色即是空」は、 「色(物質)、即ち、これ、空なり」は理解できますが、 「空即是色」の「空(無常)、即ち、これ、色(物質)なり」 となってしまいます。 しかし、空は物質だけではなく、全てが空ではないでしょうか。
私の宗派は浄土真宗なのですがもっと自分の考えに近い宗派があるのではないかと考えております。宗派を変えることはできるのでしょうか? また、宗派を変えるにはどうしたらいいのでしょうか?
お願い致します。 仏教では「人生は修行」と、キリスト教では「耐えられない苦難は与えない」と言います。しかし世界には過酷な悲惨な状況下に於いて命を落とす人達が多くいます。赤ん坊や幼い子供であっても容赦のない状況があります。修行でも 耐えられる苦難でも無く 生まれてきた意味さえ見つからないと思うしか無いような。 長い間の疑問です。お教えいただきたくよろしくお願い致します。
人生の中で苦しい時に勇気づけれられるようなイイ言葉をお坊さんに聞きたいです。このサイトを見ている皆さんの応援歌となるような勇気づけられるような言葉をお願いします。お坊さん自身が勇気づけられている言葉でも大変ありがたいです。
私は仕事柄お坊さんと関わることがあります。 お会いする多くの方は本当に良い人ばかりで、宗派は様々あれど皆さんそれぞれに仏教を大切にされているのが伝わってきます。 また、そういった方々から仏教の話を聞かせていただくこともとても楽しいです。 しかし、お会いするお坊さんの中には人を傷つける様な方もいらっしゃいました。 セクハラをしたり、人の噂をあることないこと言いふらして評判を下げたり、あからさまな言いがかりで人を怒鳴りつけたり、そんな現場にであったこともありました。 そういった方々に出会うと悲しくなります。 お坊さんも1人の人間で完璧な存在ではないということは理解しています。 それぞれに性格があって考え方も違うものを持っているということも分かります。 ただ、仏教に日常的に触れていながら何故人を傷つけたり、尊厳を傷つける様なことをするのだろうと疑問に思います。 私は今の仕事にやりがいを感じており、色んなお坊さんたちとお話しするのも楽しく仕事を続けたいと思っています。 ただ、前述した通り時折傷つくこともあるので仕事を変えようかと悩むことが増えました。 どのように心の折り合いをつければよいでしょうか。 アドバイスをいただけますとありがたいです。 よろしくお願いいたします。
ネット配信サービスで映画『ファンシィダンス』を観ました。 主演の本木雅弘さんは私とほぼ同世代ですが、公開当時はお寺に関心がなく、観ていませんでした。改めて今観ると、とてもコミカルで楽しい作品で、「もっと早く観ておけばよかった」と思いました。(当時のバブル時代の雰囲気も懐かしいです) この作品はお寺での厳しい修行が見どころですが、実際に修行を経験されたお坊様方のご感想や体験談、ツッコミをぜひ伺ってみたいです。 たとえば―― 「ここに共感した」 「ここは現実ではあり得ない」 「自分の時はもっとツワモノがいた」 「私はこんな失敗をやらかした」 ……などなど。 宗派や時代は問いません。皆さまのリアルなお話を楽しみにしています。
はじめまして。 うまくお話しできるか、わからないのですが… ここ最近、自分の思想がどこにあるのかわからず、お話を聞いていただきたいと思い、投稿させていただきました。 まず、私は特に、何教徒である、ですとか、特定の宗教には属しておりません。 ただ、色々と自身の考えと当てはまるものを探すなかで、最も共感できるのが仏教でしたので、こちらにおります。 私は漠然と、神様が存在していると思っています。 神が人間を作ったと思っています。 しかし、それは聖書にあるような、直接的に人間を作り出すようなものというよりは、 人が一冊の本を作り上げるようなものだと思っています。 『神』が、この世界を作り上げ、そのなかで『キリスト教』『イスラム教』『仏教』といった… 語弊を恐れずに申し上げるならば、『地球というなかの物語の設定としての宗教』を作り上げているのではないか、と思ってしまうのです。 そうした、なんでもできてしまう神のような、宇宙の外にある大きな力が、私は怖くてたまりません。 あまりに苦しいとき、そうした『神』が、私に何かバチを与えているのではないか、とさえ感じます。 しかし一方で、仏教の『因果応報』という教えを知ったとき、どこか救われるような感覚がありました。 私が苦しんだり、喜んだりするのは、宇宙の外にある神のせいではなく、自分自身の行いの結果なのだ、と。 それから、少しずつ仏教について調べ始めていますが、やはり何か神様のようなものの存在は、否定できずにいます。 そもそも、誰か一人でも信じ、信仰し、救われている人がいるならば、キリスト教の神も、イスラム教の神も、はたまた新興宗教の神であっても、存在していると思うし、それを否定したくないのです。 自分の信じるもののために、誰かが信じるものを否定したくありませんし、ないものにしたくありません。 一方で、どこか神様のようなものに怯えている自分がいますし、こんな自分が仏教の教えに惹かれることは、それこそバチが当たるのではないかと思います。 うまくお話しできたかわかりませんが、心のもちようがわからず、難しく感じております。 なにかアドバイスなどありましたら、ぜひ教えてください。
こんばんは。いつもお世話になっております。 ゆーりです。いつもいつも、質問ばかりで、お礼の返信が出来なくて申し訳ありません。時間を作り必ず、お礼申し上げます。 さて、本日は、自分磨きの方向性について質問させて頂きます。 2ヶ月半くらい前でしょうか? 私は、ここで強くなるにはどうしたらよいか?を質問させて頂きました。ぜひご一読ください。 私は、今、○○さんに思いを伝えるために自分磨きをしています。 持論ですが、自分磨き(自己啓発)というと、ネットなどによく書いてありますように、外見をお金を掛けて変える様な内容をよく目にします。 人は見た目が9割とは、よく言いますがそれでは私は○○さんには届かないのでしょうか? 私には、本当のかっこよさ、強さというものは、内面から滲み出てくる人徳ではないかと思われてなりません。 私は内面を磨きは、辛い道を選ぶ。つまり今できる努力、すべき努力を逃げずにするということだと思います。 私は、今、大学院に向けての受験勉強、教員採用試験の勉強、野球、TOEICの勉強、と四足の草鞋を履いております。 これを乗り越えれば、自分は間違いなく一皮むけると思います。 私は、大学では追試だらけ、野球は(大学から始めたということを差し引いても)下手くそです。 ですから、大学院・教採合格、野球でレギュラー奪取出来たとしたら、間違いなく一生自分を誇れると思います。 また、これらのおかげで、今の自分は、色々な勉強をし、読み物を読み、野球といった努力のおかげで色々な人や物と出会い、内面も、ものすごく成長している気がします。 しかし、これは紛れもなく自分の為でありこの気持ちは相手に届くのでしょうか? もちろん、自分の為にしている努力ですから、相手に届かないかもしれません。自分のしている自分磨きをしてから・・・○○さんに告白するという事は物凄く遠回りです。 ですが、自分に今、出来る自分磨きというものは他に見つかりません。 漫才師になった時の為に、弱い奴を笑かしてやれるようなコントのネタを磨く、これくらいでしょうか。というのは、冗談にしても・・・ 私のしている自分磨きというもの自分磨きと呼べるのでしょうか? また自分のこれからしていくべき自分磨きというものは、いかなるべきでありましょうか? お伺いしたいと思います。お手数をおかげしますが、宜しくお願いします。
まとまりがないかも知れませんが、ひらすら正直に書かせていただきますので、なにとぞ助言お願いします。 数年前から流産を繰り返し、不妊治療もがんばりましたが結局流産の回数を増やしただけに終わり、子供を授かることはできませんでした。 最初は妊娠した赤ちゃんを失ったことが悲しくて悲しくて、思い出しては泣いていました。 子供を授からないというのは将来 (像) の喪失でもあります。不妊治療に専念するため仕事もやめてしまったため、キャリアも手放してしまいました。高額な不妊治療のため貯金も減ってしまいました。母親にもなれず、仕事も中途半端で、将来の希望もなく、結局私は何にもなれなかったんだなあと思うと涙が出てきます。 その一方で奇跡が起きないかとほんの少しの希望にすがっています。でもこのほんの少しの希望のせいで、すっぱりあきらめて先に進むこともできません。 特につらいのは、家族イベントです。義兄弟が子供を連れて主人の実家に集まるときは、本当に身の置き所がありません。幸せな家族たち、祖父母に可愛がられる甥姪たち、幼稚園のお遊戯を披露、どれも平静な気持ちで見ることができません。特に私が妊娠したのと同じころに生まれてきた姪の成長を見るのは拷問です。なぜ私たちの赤ちゃんだけ生まれて来なかったのでしょう? 主人は私がいればいいと言ってはくれますが、やはりとても子供が欲しかったのを分かっているのでそれもつらいのです。 「幸せはこちらの心のもちよう」「夫婦二人の人生も幸せ」「子供がいたって不幸な人もいる」ぜーんぶ分かります。 でもそんなふうに思えません!だってつらいんです。可愛い甥や姪を見ると心が勝手に苦しがるんです。 私の人生を取り戻したい。心の平安を取り戻したい。前のように他の人の幸せも願えるようになりたい(今はみんな不幸になって欲しいとすら思います)。私はどうすればいいのでしょうか、どうか教えてください。