アラフォー男性です。今さらながら恥ずかしい質問ですがよろしくお願いします。 標記の質問です。親からは性欲は汚いもの、悪という考え方で育てられました。 何人かの女性とお付き合いし、結婚もし、子供も産んでもらいその後離婚しました。理由の一つがセックスレスだと思います。元嫁からはもっとセックスしてほしいと何度も言われましたが、そういう行為は恥ずかしいものだと思い、自分からは求めることはありませんでした。 もっと下品に相手に求めれば、結果は離婚になっても過程は違ったのではないか、と今でも思います。 煩悩を滅する、という言葉は習った記憶があります。でも、煩悩、特に性欲に関しては、本当に信頼している人としかできない最高のコミュニケーションではないかと離婚した後思いました。 仏教では性欲についてどのように考えているのでしょうか。もちろん犯罪にならないということは前提ですが。。 よろしくお願いします。
自分の死を見つめると生きる気力がなくなります。かといって、自死したいわけでもない。。 何か生きるアドバイスを頂けるとありがたいです。 情けない質問で申し訳ありません。
友達から瞑想を少し教えてもらいました。 実際瞑想って難しいですか? いろいろ調べたら師匠や正しく教えてくれる人に習った方が良いと書いてありました。 単独で瞑想を追及した方が何かに気づき今ある感情で説明できる感覚ではないので説明が困難なのですが、 概念や映像ではなく、心の奥底にある何かが外部(世界)と繋がったのです。どの位の時間その感覚を手に入れていたかは定かではありませんが、 暫くするとその感覚は失われました。と仰っています。ちなみにその方はこの時の瞑想の後遺症で 今も心療内科に通っています。
こんにちは、また相談させてください。 とにかく自分を責めることをやめられません。 もうほとんど癖になっています。 大きいことでも些細なことでも、もう何年も前のことであっても、何度も何度も蒸し返しては責めてしまいます。 時には自分を痛めつけることもしてしまいます。 心の中で謝罪ばかり繰り返しています。 なんでちゃんと考えずあんな言い方をしたのか なんで間違えた時に対処法が思いつかなかったのか なんで大丈夫と思ってしまったのか なんでおかしいとすぐ言えなかったのか 今更思い返してもやり直せないと思いながら、ぐるぐるといつまでも考えます。 それが原因で体調を崩し寝込むことも多いです。 そのことで家族に心配され、また心配させてしまった罪悪感から自分を責めてしまいます。 「そんなことで」と言われるのが怖く、相談もできません。 いつまでも同じことを繰り返しつらいです。 自分でも責め続け、周りからも責められていると感じます。 反省して同じことをしなければいい、とよく言われますが、一度の失敗をなかなか許すことができません。 罪の意識に押しつぶされそうで、最近は死について考えることが多くなりました。 そんなことばかり考えて楽しいことも心から楽しむことができず、なにもする気が起きません。 このままでは頭がどうにかなりそうです。 なにかアドバイス頂けたら嬉しいです。 よろしくお願いします。
お寺で失礼な振る舞いをしてしまい、どなたにどうお詫びしてよいか分からず投稿させていただきました。 本日、ご先祖様の供養のため回向を申し込みました。(夫婦ともに上京した身でお墓参りにめったに行けないので、両家の父方母方すべての供養を毎年お願いしております)大きなお寺で合同の法要なのですが、そこに1歳になったばかりの次女も連れていってしまったのです。 落ち着いて考えれば、歩きはじめの赤ちゃんで歩いたり声を出してしまう可能性があり、場にまったくふさわしくないのですが、長女が大人しいタイプで今まで問題がなかったため、深く考えず同席させてしまいました。 この時点で失礼なのですが、次女が歩きはじめてしまい、慌てて座らせるとイヤ!と声を出してしまいました。 気が動転してその場を離れたのですが、靴を席に置いていたためお堂から出られず、ひとまず誰もいない端に行きました。次女が畳にうつぶせになってしまいましたが、座らせたり抱っこすると声をあげそうで、そのままにしてしまい、横で手を合わせておりました。 見かねた若いお坊さんがいらして、とても丁寧な優しい口調で、お堂に寝転ばせるのは…とご注意くださりました。 おっしゃるとおりで、顔から火が出そうなほど恥ずかしく申し訳なく、ご先祖さまも供養になるどころか呆れていらっしゃるだろうと思うと情けなく、お詫びして靴だけとりに戻り、次女と外に出ました(主人と長女は最後までおりました) その間、自分の考えの至らなさ、母としての未熟さが頭をめぐり、こんなことなら来ない方がよほどご先祖さまも安心なさっただろうと後悔し、お恥ずかしいのですが涙が止まらなくなってしまいました。 人前で泣くことなど普段はもちろんありませんので、そんな自分にさらに慌ててしまい、長女と会うまでにはなんとか泣き止んだのですが、通常の参拝も心が乱れてきちんとできないまま帰ってきてしまいました。 長々と申し訳ございません。 このように、仏様やご先祖さまはもちろん、お寺の皆さまやご同席の方にもご迷惑をおかけしてしまった場合、どうすれば少しでも償えるのでしょうか。 早く切り替えて、笑顔の母親に戻ることが大事だと思うのですが、今までの人生における数々の失敗まで思い出されてどんどん気が滅入ってしまっております。 どんなお叱りでも結構ですので、どうかご助言をいただけないでしょうか。
先日父が他界しました。浄土真宗本願寺派のお寺さんをご紹介いただき繰り上げて初七日法要まで執り行いました。 父には申し訳ないですが自宅に仏壇を置く場所がないため購入する予定がありません。 ①浄土真宗は位牌を置かないとのこと過去帳と呼ばれるものと父の遺影を置くだけでも手元供養になりますでしょうか? ②今後の年忌法要の際は遺影と過去帳をお寺に持っていけば供養していただけるのでしょうか? ③四十九日法要のあと、数日してから納骨をしてもいいのでしょうか?その場合は再び墓地にお寺さんをお呼びする必要がありますか? ④やはり四十九日法要と同じ日に納骨まで執り行うのがいいいのでしょうか?
今世で解脱をしたいと決めて、仏の教えを受け入れ実践して生きてきたのですが、人生で初めて彼氏ができました 恋人やパートナーの存在は快楽であるとして良くないものとされてしまうでしょうか? 解脱から遠のきますか? また、その様な事柄について書かれている書籍などはありますか?
(編集部より。利用規約により特定宗教の是非を問う質問はできません)
最近ニュースで虐待やパワハラ、暴行などなんの罪もない人が亡くなってしまうニュースが多く、それを見てしまうと感情移入してしまい辛いです。 とある殺人事件のニュースを見た時には、トラウマになってしまった事もありました。 現実から目を背けてはいけないと思いながらも、それらを見てしまうと自分がダメになってしまい辛いです。 ご教示いただけないでしょうか。
仏教をどのように学ぶのが一般的ですか? 本は何十冊か読んだのですが言葉だけではいまいち仏教を学んだ実感がありません。 仏教を生活に取り入れたいです。 お寺に行って法話は聞いたことがあるのですがそれ以外にお坊さんとかかわる方法がわかりません。 仏教を体系的に知るためには何をしたらいいですか?
浄土教(浄土宗あるいは浄土真宗)の深い信仰に入りたいと思っています。もちろん出家ができればベストなのでしょうが、なにしろ仕事もある身ですから、在家のまま信仰が持てればと思います。勇気を出して近くの浄土真宗のお寺に見学をお願いしたこともあるのですが、門前払いの対応に落胆し、それ以後どこの寺院にも連絡できていません。昔の日本ではお寺は「駆け込み寺」であり、もっと庶民にも門戸が開かれていたそうですが、近年は本当に「葬式仏教」になったのでしょうか? ただ、そうも思いたくはなく、深い信仰をお持ちの僧侶もおられるに違いないとも思います。ご自分の体験から、在家のための信仰の入り方についてお導きください(ちなみに、仏教関係の読書はある程度は広く浅く行ってきました。もう200冊以上は読んできたかと思います)。
主人が亡くなり、両親に会えたかな…と何気なく話をしたら、Sの方に、仏教は3年経たないと会えないんだよ、Sならすぐ会えるから、入りなさいと言われましたが、本当ですか? Sに入る気もありませんし、Sの方達を否定もしておりません。それぞれ、信じる道を進んでよいと思います。ただ、本当なのかな、と思い、こちらに質問させていただきました。
お坊さんの名前は、お坊さんらしい名前が多いようですが、本名なのでしょうか?もしくは本名の他に僧侶としての名前があるのでしょうか? 誰かにつけてもらうのでしょうか?自分でつけるのでしょうか? あと、お坊さんから見てかっこいいと思うお坊さんの名前があれば教えてください
初めまして。 今回、質問する機会を与えていただき、有り難うございます。 早速ですが、本題に入らせていただきます。 それは「何もしないは善か悪か」という事です。 例えば引きこもりやニートは社会的に白い目で見られます。なぜなら生産性がなく、何かに依存するからだそうです。(全員がそうではないですが…。) ここで有名な蟻の8:2の法則を考えます。 蟻の中で働くのは全体の2割で、それ以外はサボっているというものです。 ニートや引きこもりを人間社会全体で考えると、後者の8割に含まれると考えられます。 ここで大体の人はサボりは悪だと答えます。 しかし、生物の世界では後者にも重要性があると分かっています。 なぜなら全体でフル回転していると絶滅する恐れがあるからです。全員が疲れきっている状態で天敵に敵う筈がありません。 話が大きすぎると答えが出にくいので、私個人に置き換えます。 私は上記の考えに触れた時、人間社会は異質なんだなと思いました。 よくよく考えるとサバンナの動物もゴロゴロしている映像をよく目にするなと思ったものです。 私は小・中・高と進学してきて、生産性を求めてくる社会に正直疲れていました。 ニュースにもよく、日本のGDPが下がったなど、日本人の生産性が低下など、生産性の話題ばかりです。 確かに資本主義社会ではお金がないと生きていけないのは理解できます。 そしてお金を生むには生産性が重要だとも理解できます。 しかし、理解は出来ても自分には合っていないのです。 今、私は引きこもり気味になっています。 親にはよく学校に通っている兄弟と比べられます。 やはり何もしていない人間は、人間社会では(悪く言えば)クズなのでしょうか? そして生産性を求める社会に合わない人間が生きる術はないのでしょうか? 色々と答えが出にくい話題なのは分かっています。 ですが、私としては自分だけの考えだけでなく、色々な人の考えに触れたいと思っております。 回答のほど、よろしくお願いいたします。
供養について教えて下さい 仏壇にある華瓶は木の葉を供える、故人が水が入ってるのを分かるので、飲める…という話を聞いた気がします。 今仏壇に毎日供えてます 今身内が亡くなり、その身内のためにもう1対華瓶を添えてあげようかと思ってます 懺悔の思いもあるんですけど 四十九日もまだむかえてないです 故人が2人になった場合、華瓶を増やすという事なんですけど、どうでしょうか? ちなみに浄土真宗です 分かりにくい文章ですみません よろしくお願いします
初めて悩みを書きます。 わたくしは、中学生の時から死恐怖症(タナトフォビア)に悩まされています。 簡単に説明しますと、自分の意志とは無関係に「自分が無になる」という恐怖が脳に入ってきます。医療用語で強迫性障害に分類されます。 一年くらいしっかり働けても、季節や体調の変化でタナトフォビアが重症化し、奇声をあげる、怖くて動機がする、それを落ち着かせるために自傷行為をして生きてる事を確かめる事が続き、それに合併して鬱になり、外に出る事も誰かと話すこともできない日々が続きます。 この繰り返しを何年もしてきたため、会社に就くこともできず、終いには今、無職です。 ただ、死が怖い=生きてればいつか死ぬという恐怖も同時に兼ね揃えています。 つまり、生きてることも怖いんです。 そして今、私は薬で症状を抑えています。 薬で抑えることが出来ると、死ぬことが、酷い時よりは怖くなくなります。 そこで、私は「今なら死ねる」と思ってしまうんです。 生きてる意味も分かりませんし、 死ぬ意味も分かりません、 この世は修行だとか、死んだあとは天国だとか、そんな人間が作り出したエゴや、綺麗事は私には意味がないんです。 「死んだら生まれる前に戻る」という考えがどうしても抜けません。 私は約一ヶ月後、死のうと考えてます でも本当は生きていたいんです 生きてる素晴らしさや奇跡は痛いほど知ってます。 心の矛盾に日々悩まされてます。 どうか助けてください。
大切な友だちが、1週間前に亡くなりました。生前、わたしは彼女と、毎日毎日メールやLINEで連絡をとり合ってました。電話も週に1〜4回は、話していました。 急に連絡がなくなり、わたしの夢の中に、初めて彼女が現れたりして、わたしは益々心配になっていました。音信不通になって4日後、娘さんから連絡をもらいました。彼女は亡くなっていました。 彼女は、友人たちとお酒を飲みに行き、帰宅後に家族とトラブルがあったようです。深夜に帰宅してきた娘さんが発見したようです。すでに息は無く、彼女はひとりぼっちで亡くなったようです。 その悲報を聞き、すぐに御線香と御水をお供えしていますが、今は彼女の写真や、短時間ですが好きな食べものもお供えしています。親族では無い場合、ここまでの供養はいけない事と母から注意を受けたのですが、やはりいけない事でしょうか? わたしは彼女の死が、うまく理解できず、1日に何度も泣いてしまいます。こんなに心の整理が出来ない事は、初めてです。 生前も、彼女はわたしに、「血は繋がっていないけど、きょうだいとか姉妹だよ。」って言ってくれて、わたしもそう思っていました。でも、こんな事になる事は、防げなくてすごく悔しいです。 お互い遠く離れている土地に住んでいて、わたしはまだ出産して2カ月半で、身動きできないので会いにも行けていません。本当は、彼女とまた電話したい会いたいと、そう思っています。 それでは、彼女の成仏の妨げになりますか??
嫁ぎ先は数年前まで家業を営んでいたので、自宅敷地内に神様を祀っています。 自宅で法事を営んだ際 お寺さんに神様にも唱えて頂いているのに不思議に思っていました。 お坊さんが神様を?と。 先日、神様を祀っている場所の土地を売却することになり 残す土地の方へ神様を移動しました。 神様を移動する前に上記のお寺さんに来ていただき、魂を抜いたそうです。 が、お寺のお坊さんに、神様の魂を抜いたり、入れたり出来るんでしょうか? 神道である神様に仏教のお坊さんがお経を唱えて、神様は気持ちが良いものなのでしょうか? 亡くなったご先祖様の魂の供養はお寺さんのお坊さんにお経を唱えて頂き 亡くなった方も残された者も癒されます。 が、商売繁盛をと祀った神様には、それにあった神道の方にお世話になるべきと思うのですが 私の考え方は間違っていますでしょうか?
今年の半ばに主人が亡くなり、浄土真宗東本願寺大谷派のお寺で、亡夫の法要等をお世話になっています。 そのお寺さんとは、亡き主人の父からのお付き合いで、 親子様で営んでおられ、ご親切で丁寧ないいお寺さんです。 諸処の事情があり、今後は義実家と縁戚関係を継続する事は難しいです。亡夫との間に子どもはいないので、義実家とは縁を解消して戸籍も抜き、自分のみの戸籍を取得する意向です。 現在、義実家と当方同じお寺さんで月参りをして頂いている状況ですが、今後義実家と縁戚解消をすることで、その後も同じお寺さんで当方の法要や月参りをして頂くのも気が引けます。 こういった場合、お寺さんを変えることは出来るのでしょうか? 亡夫もそのお寺さんとは懇意にしていましたので、変える必要は無いのかもしれませんが、 縁戚を切ることで私の気持ち的なものとして、義実家と同じお寺さんでお世話になることが心辛く思っています。 同じお坊様の立場として、こういった事情の場合、どう対処したほうがいいのでしょうか? よろしくアドバイス頂けると有り難く思います。 ※現在、弁護士さんに委任し、義実家と主人の遺産分割協議を行っており、諸処の手続きが済み次第の解消です。 来年半ばが1周忌です。弁護士さんと相談の上になりますがその前後で解消を考えています。 ※主人のお骨は義実家のお墓・大谷祖廟に納骨済み、私の手元と3つに分骨してあります。
こんばんは。先日は私の質問に真摯にご回答下さりまして、誠にありがとうございました。こちらで質問させていただいて、お坊さま方の回答から今後の生活のヒントになることを沢山学ぶことができました。本日は、さらに質問したいことがございますので、ご迷惑かとは存じますがご回答頂けますと幸いです。 私は、仏教について勉強していく中で、日本では仏教と神道が結びついて独自の文化を形成してきたということを学びました。それは、ヨーロッパのような激しい宗教対立ではなく、大乗仏教の柔軟な教えがあったがゆえに土着の信仰を包摂できた結果生まれたものであり、世界の中でも珍しい信仰体系であると思います。 しかし、仏教の教えと神道の教えは相容れない所があるようにも思い、そこが自分の中で考えの整理がつかない点でもあります。例えば、先祖崇拝はもともと仏教の教えには無かったと学びましたし、神道の荒魂・和魂といった概念も仏教の教えとは異なるもののように感じます。この両者の教えの違いをお坊さまはどう整理されているのでしょうか。 なぜ、このようなことを申し上げたかと言いますと、私の実家の信仰と上記の問題が関連しているためです。私の実家の宗旨は浄土真宗なのですが、仏壇の他に神棚もありますし、両親は仏壇の他にも調理場や庭石などにお供えをしています。また、お寺にも神社にもお参りに行きますし、お墓へもお参りに行きます。これまではこれらを当たり前のこととして受け取っていたのですが、仏教を勉強していくうちにこれらの習俗に対して疑問が湧いてきてしまいました。 浄土真宗を信仰する家庭では、神棚は基本的には置かないと伺っております。また、死んだら即成仏という考え方であるため、位牌も必要ないと聞いております。しかし、私の実家には神棚もありますし、黒塗りの位牌もあります。この両者の間の矛盾をどう整理すれば良いのでしょうか。菩提寺の住職様に質問はしてみたのですが、曖昧な答えで納得のいくものではありませんでした。私は、人生を生きていく上で道標となるものを得たいと思い、仏教の勉強をしてきたのですが、現実の生活に活かせるように整理しようとすると、矛盾点が多く悩みはむしろ以前に比べて増えてしまっているような気がします。 お忙しいと思いますが、お坊さま方のご意見を伺えましたら幸いです。よろしくお願いします。