八大地獄地獄とは仏教の教えですか? お坊さん達の地獄に対する解釈をお聞きしたいです
こんばんは いつまでも亡くなった人の事を考えていると、その人は成仏出来ないと言われました 本当にそうなのでしょうか? よろしくお願いいたします
現代語訳してある書を探しておりますが、偽書もあると知り、どれを選んだらよいか迷っています。 おすすめの書がありましたら、宜しくお願い致します。
何もかも上手くいかず、ストレスが溜まるばかり。 家に帰ればいつも不機嫌で、攻撃的になるばかり… 母親の存在なんて微塵もない。 子供にも悪影響でしかない。 こんな親なら居ない方がまし どこか消えて無くなりたい
結婚していた頃に自暴自棄な時期があり、不特定の方と遊んでいた期間がありました。その過去を今とても後悔しています。 結局、それを直接の原因とはせずに離婚をしました。その後とても好きになった方とお付き合いをしました。 しかし、どこからか噂でわたしの過去が耳に入り、彼はおそらく許せなかったのでしょう。理由をきちんと話してくれないまま、しかしひどく責められてお別れとなりました。 彼にも色々な過去がありましたが、わたしはそれを乗り越えようとしたつもりでした。なのに彼はなぜ、、と、お別れした当初は彼を責めてしまう気持ちがありました。 しかし今になって改めて思うと。結婚していながら色んな人と関係を持った自分。しかもその人たちの中には彼が知っている人もいて。 そんなこと許せるわけがないよなと、自己嫌悪の気持ちがとても強くなりました。尻軽、汚い女と思われても仕方がない。自分ではどんなに後悔している、もうしないと心に誓っていても、それを信じてもらいたいなんて都合がよすぎると感じました。 そして、これからもこんな自分を信じてくれる人なんてきっといないのだ、という気持ちになってしまいました。 もしわたしを好きになってくれる人が現れたとしても、過去を隠してまるで相手を騙すように付き合っていくのか、はたまた過去を洗いざらい話して相手を苦しめるかしかできないのです。万が一受け止めてくれる人が現れたとしても、きっとその方は深く苦しむのだと思うのです。 そんなことには耐えられません。 かといって一人で生きていく覚悟もできません。 彼が受け入れられなかった気持ちを思うと、本当に心が苦しくなります。過去にわたしを愛してくれた人を裏切ってしまったことは、決して許されることではないと感じています。彼の気持ちがわかるのです。こんな自分は愛される価値などないと感じます。 自分が悪いことはよくよくわかっているのに、その罪を受け止めきるだけの覚悟はできないのです。弱い自分が本当に嫌になります。 どう心を落ち着けていけばいいのでしょうか。 このままでは生きていられない気持ちです。
厚かましく、非宗教説を続けます。 釈尊の言行については、立川武蔵先生の「ブッダをたずねて」の受け売りですから、皆様先刻ご承知と思いますが、信仰について言及したいと思います。 先ず釈尊は、偶像崇拝を禁止したとのことですが、釈尊の死後、舎利を分配して、早速信仰の対象にしました。 仏像も信仰の対象として作成され、祇園精舎での説教で済むところを、巨大な寺院を建築し、仏像を納めて 荘厳さを競いました。 これは中国の仏教を模倣したのでしょう。 釈尊の言行からはまったく不要なものであるはずです。 次に釈尊の死が近づいたときに、近隣の村人たちが釈尊の葬儀の支度を始めているのを見て、弟子にあそこに参加してはならないと戒めたそうです。 元々葬儀には無関係だったようです。 確か応仁の乱で加茂川に死体が放置されていたのを、僧侶が荼毘に付したのが始まりだったようです。 釈尊の言行に従って、これらの行事を無くせば、仏教はただ説教と修行に励むことだけが残ることにはなりませんか? 仏教は信仰とは無縁だと思います。これが非宗教説です。 蛇足ですが、通常寺院の参道に仁王門がありますが、これが参道の入り口ではなく中ほどに建てられいます。 これは参道が、輪廻転生を示したと考えられます。 参道の入り口は娑婆です。参詣者は参道を通って本堂に向かいます。 本堂は娑婆から切り離された死の世界です。 本堂に居続ければ平穏ですが、娑婆に還るときは仁王門で苦しめられます。 「チベットの死者の書」によれば、丁度3週目に怒りの神々に遭遇します。 仁王門が中途にあるのはそれを模したものと考えられます。 従って輪廻転生は仏教にとってそれ程重要なものです。 現在仁王門の像は参道を向いていて外敵を防ぐと言われていますが、参道の中途にあるのも不自然だしその必然性が考えられません。 像は本堂を向くべきだと思います。 さびれたお寺の仁王門がその向きになっているとの記事も見かけました。
以前こちらで質問する機会を頂き、とても気持ちが軽くなったこともあって今回また、性懲りも無く投稿することをお許しください。 私は現在、正社員として働いています。 自分なりに日々なんとか働いてはいますが、最近限界を感じています。 ・就いている職種が、自分の中で最も苦手としている事柄であること。 ・仕事の拘束時間が周りよりも多いのに給料はとても安いこと。 ・上司(いわゆるお局様)との関係に、プレッシャーや恐怖を感じすぎて疲れていること。 ・時間とお金がかかる趣味を嗜んでいますが、仕事と趣味の両立がとれないこと。 以上のことから、仕事を辞めて、パートで働きたいと考えるようになりました。 しかし、それを周りに相談しても「3年は働け」と言われるばかり。 周りがそう言う気持ちは、私にも分かるのです。なにせ私は、社会で生きるのに向いていない。責任感はないし、働くより休みたいし、人とはなるべく関わりたくはないし、マイナス思考で、取り柄もない。実家暮らしで周りに頼りっぱなし。我儘で、人よりも理解力がなければ、学力もない。今の職場で正社員として働いていることは、まさに奇跡に近いのでは?と思うのです。 パートに転職したい、と情報を探ってみても、「正社員のほうが将来安泰」、「パートはやめた方が良い」という意見が多いです。 でも、自分の人生に期待もできず、将来も変わらず底辺なのだろうなと思うと、人生80年というのはあまりにも長い。 それなら、誰か他の人に私が生きる分生きて欲しいですし、私も楽です。 ならば、30歳を目処に死にたいと思うようになりました。 そう思っても、「死にたくない」し、「将来への不安」は捨てきれず、自分でもなにが正解か分からないのです。 自分がなにを思ってるのかすら、分からないのです。 人に相談するのもどうしてか苦手で、難しいのです。 「仕事を辞めたい」し、「30歳で死にたい」 でも、「将来への不安」「死への恐怖」は拭いきれず、結局毎日、地球の酸素を無駄遣いしています。 我儘で、矛盾ばかりの甘えた自分がこれから何を信じて頼りにしていけばいいのか、どなたかお手すきの際にご教授頂けると幸いです。 長々と申し訳ありませんでした。
父親は胃がんを発症し、病院でも匙を投げられ緩和ケアの段階に来ています。 言葉を発する事もなくなり、食事も殆ど摂らず寝ている事が一日の大半になりました。 息子として何かしてやりたいのですが父親としてはそれを望んでいないようです。 母親も椎間板ヘルニアを患い、介護自体も辛そうです。 自分は今、孤独と焦燥感がない交ぜになったような日々を過ごしています。 いずれ父親の死を看取る事になるでしょう。 その時の心構えが頭ではわかっていてもやっぱり割り切れないのです。 父とは折り合いが悪く「くたばっちまえ!」と何百回と思いましたが、いざその時が近づくと居ても立っても居られない自分の気持ちがわからないです。 これからどう日々を生きてゆけば良いのか無明の世界に居るようなものです。 どうか助言をいただけませんでしょうか?
前回転職のついて質問させていただきました。その節はありがとうございました。転職はせず、今の職場でよりよく働く為にはと考えながら過ごしています。 今回質問させていただいたのは、借金を返す為にと父が決断し父方の生家を手放すことになりました。 私自身今現在も住んでおり父がどんな思いを込めて家を立て直したか知り、亡くなった大切な祖母との思い出が詰まっている分そう簡単に心の整理がつかず、それでも部屋を片付けながら一緒に心の整理もつけようと過ごしています。 が、父が決断したとはいえ1番弱っているのは父本人。どうにも割り切れない、将来が不安だと毎日塞ぎ込んでいます。励ましたり、叱ったり自分の気持ちを話したりしてみましたがどうにも効果なく、段々と私にも気持ちが伝染してきているのがわかります。 引っ越した後も鬱々とするのではと心配でもあります。私が父に出来ることはあるのでしょうか?また私自身、きちんと生まれた家とお別れしたいのですがどう気持ちを持っていけば良いでしょうか? 読みにくい文章で申し訳ありませんが、お知恵を拝借出来ればと思います。よろしくお願い致します。
先生方、先日は親身になって相談に乗って下さり、本当にありがとうございました。 中でも特にお世話になった先生もいらして(噛んで含めるようにお話し下さって、本当にありがとうございます。心が楽になりました)、まずそちらに先にお礼を申し上げてからが礼儀だろうと思いましたが、一人の先生にあまりに頼りすぎてしまうのもご負担が掛かりすぎてしまいますし、別の質問事項ですので、あらためて投稿させていただけましたら幸いに存じます。 先日、他の方のご質問で「枕経」のお話がありました。 ここに、どうしても死ななければいけない人がいたとして、あるいは間もなく殺される運命にある人がいるとして、そしてとても救われたいと願っているとして、その人に何とお声を掛けて下さいますか? そのような人の、死に際しての心構えを教えていただけましたら本当に有難く思っております。 先生方にはお忙しいところ誠に恐れ入りますが、もしよろしかったら、「枕経のようなつもりで」お教えいただけましたら有難く存じます。 どうぞよろしくお願い申し上げます。
初めて、お便りさせて頂きます。 最近、仏教の教えを知り教えを学ぼうと考えています。 現状の仏教の理解や考え方の方向性が正しいのか確認をさせて 下さい。 現在、深刻な悩みはなく本件のご相談は、急ぎではありません ので悩みごとのご相談の皆様を優先させて下さい。 ■現状の理解内容(超要約して記載します) 1)仏教の目的:涅槃(解脱)に至ること。幸せを説くこと。 2)涅槃(解脱)への到達の方法として「四聖諦」があり、日々の 実践として「八正道」がある。 3)最初に苦諦の理解の為に、無常・無我、因縁を理解することが必要 以下は、私の解釈した定義です。 無常:この世の全ては移り変わるもの 無我:全ては繋がりの中で変化している現象である 因縁:原因+条件(環境等)があって結果がある 4)今後の方向性(考え方や実践内容)について ・目的: 日々の生活や仕事で、怒りなく、平穏で周りの役立つ人生を送る ・行動や思考の指針 日常生活では、八正道、慈悲喜捨、五戒などを意識し、正しい判断 基準で行動する。 ・貪瞋痴に支配されない為の手段として、ヴィパッサナー冥想があり 今の瞬間に気付けるようにする。これにより、無常・無我、因縁が 頭でなく、身体で理解(体験・体感)できるようになる。 常に、今の瞬間の自分に気付くようにし、正見・正念・正定の向上 を図ることにより、煩悩が湧いてこないようにする。 以上の認識や方向性で、大きな誤りや重大な認識漏れがないか、 ご指導を頂けましたら幸いです。
昨日、結願のお礼参りのため高野山に行ってきました。 高野山の空気に触れ、とれも清々しい気持ちで帰路についた次第であります。 ところが帰宅をし荷物を整理した際に、念珠がなくなっていることに気が付きました。朝の勤行の時に持っていたのは覚えているのですが、その後どこに置いたのかまったく思い出せない状況です。 5年近く一緒にいてくれた(区切りうちで四国を巡っていたため、恥ずかしながらこんなにも結願までに時間を要してしまいました)念珠をなくしてしまうなんて、何と罰当たりなことをしてしまったのかと気落ちをしています。 物に執着することは良くないことだとは思うのですが、「物」というよりも5年近く側にいた友人のような感覚があったため諦めきれない気持ちが強いです。一緒に四国を巡ってくれた念珠に対して、供養することもせずなくしてしまうなんて、どのようにしてその念珠に対して報いてあげればよいのかと悩んでいます。 また、見つからなかった場合に新しい念珠を購入することになるとは思うのですが、それさえも今まで一緒にいてくれた念珠に対する裏切りではないかと思ってしまいます。今後、私はどのようにすれば良いのでしょうか?
ハタヨガとクンダリーニヨガを生活に取り入れています。 初心者なので、ガヤトリーマントラとサタナマ瞑想を毎日しています。 きちんと勉強できる場所へ通ったほうがいいのはわかっているのですが、色々とあり、今は自己流でしている状況です。 先日の猫の一件以来、更に熱心にマントラを唱えるようになりました。そして、十三仏真言も三回ずつ唱えることにしました。 そして、最近になって気になり始めたのですが・・・ガヤトリーマントラやキルタンクリヤはヒンズー教で、十三仏真言は仏教ですよね。同時に唱えて問題ないのでしょうか? 気になり始めてから、マントラを唱えるたびに背徳感があるので、はっきりさせたいと思っているのですが、教えていただけませんでしょうか。 また、今日のことですが、サタナマ瞑想をした後、ベッドに横たわっていたら、突然尾てい骨のあたりがグルグル回り始めました。 これがチャクラなのだろうか?と思い、意識を向けたのですが、その回り方は身体に直角に交わる感じで時計回りに回っていました。 私はこのまま、瞑想やマントラを続けていて良いのでしょうか?
初めて投稿させて頂きます。 常日頃、疑問に思っていることがあります。 毎日遅刻をしたり、仕事をしていなかったり、1年の半分以上会社に 居ないような人がお給料も高いし、誰からも何も言われません。 会社の体制が良くないのはわかっています。 社長が女の人には何も言えないからです。 それをふまえても、真面目に働いている人に特別何か良い事が あるわけでもなく、結局はきちんとしている人が損をしているのだなと、 毎日思っていて少し気持ちがきつくなります。 私はどちらかというと人に頼られてしまう傾向にあります。 学生の時から今までずっとです。人から頼まれた事は断れません。 会社の社長から絶対の信頼を得ているのも感じていて「出来ません」と 言ったことはありません。どんな仕事でも確実にこなします。 人の考えている事がわかってしまい過ぎて、何か言われる前にやってしまいます。今になって何だかモヤモヤするのです。これからもずっと このように生きていかなければならないのでしょうか?このように生かされて いるのでしょうか? とても苦しくなります。 どのように考えていけばいいのか教えて下さい。宜しくお願いします。
日本のお坊さんがお葬式をするのは、もともとは儒教の影響なんでしょうか。 昔、読んだ中国史関係の本に、孔子は尼山の巫儒(祭祀を執り行う人)の一族の生まれで、巫儒は亡くなった人の魂(鬼神)を沈めるためにお葬式を執り行っていたとありました。孔子の意志とは無関係かもしれませんが、そんな流れで儒教には先祖や目上の人を尊重する思想が組み込まれていったのかも…? 日本は、神道がありながら仏教と儒教を取り入れたことによって文化のごった煮体質になったみたいなことをよく聞きますが、実は神道や仏教より、儒教の影響のほうが大きい気がします。 儀式的なところは神道と仏教だけど、根本的な考え方(○○すべき論とか)は儒教っぽいし。 寺社仏閣はごまんとあるのに、いまいち宗教が根付いてない感がするのは儒教の影響が大きいから、な気がするのは私だけでしょうか。
突然変な質問をして申し訳ないのですが、 お坊さんは宇宙人を信じますか? 仏教的な視点でも、お坊さん個人の感覚でも何でも良いので、ぜひ聞かせて頂きたいです。 また、仮に宇宙人がいたとして、宇宙人が仏教徒になることは可能なのでしょうか。 意思疎通が出来れば、クラゲみたいな宇宙人でもOKなのでしょうか。 変な質問をしてしまいましたが、気軽に答えて頂けたらうれしいです。
父親が風俗を経営しており、その金で暮らし、高校を卒業し、大学に入りました。 そのことを知ったのは大学に入ってからで、それまでは父親に職業を隠されていました(ほとんど別居状態でしたが、自分も能天気だったと思います)。大変ショックを受け、親と縁を切ろうと家出をしました。しかし内臓の病気と精神疾患を患っており、信念を貫くことはかないませんでした。 その後大学を中退し、今は障害との付き合い方を模索しつつアルバイトをしています。中退の理由には、「女性が身体を売った金でこれ以上大学に行くわけにはいかない」というのは一つとしてあります。 恥ずかしながら、性欲と寂しさに負けて風俗を利用した経験はあります。そこでは良い思いもしましたし、生き生きと働いてるように見える女性も見受けられました。しかし世の中には性産業の悲惨な裏側の情報が飛び交っており、父親に何も話してもらえない私は、何を信じればいいのかわかりません。 私は搾取構造にもたれかかる卑怯な罪人なのかもしれない。そう自らに何年も問い続けて、性風俗の歴史について調べたり、社会構造について考えたりし続けました。しかし一人で考え続けても暗闇が広がるばかりで、途方に暮れてしまいました。あまりにも辛く、苦しい自問自答です。 過去、カウンセラーや社会学の教授にも相談したことがありました。それで返ってきたのは「風俗は犯罪じゃないから気にする必要はない」というものでした。しかしその答えに甘えてよいのでしょうか? 仏の道を歩んでらっしゃる皆様の智恵をお貸し願いたいです。風俗の存在に加担することは罪悪でしょうか?それが罪悪ならば、罪人の庇護に甘んじた私もまた罪人でしょうか? 何卒、お答え願いたく存じます
初めまして。質問させていただきます。 30代の主婦です。 幼少時代から高校生まで父の浮気による両親壮絶なケンカを見てきて、さらに特に母からのしつけというなの暴力を受けてきたせいか、どこにいっても異常なまでに他人の顔を気にしてしまいます。 また、仕事なので怒鳴られたときや、患者さんに怒鳴られたときなど、殴られるのではないかびくびくしてしまいます。 また、昔から友達にもばかにされてきました。 今までの人生で関わった親も友達もみんな、私に対してすごく厳しかったです。 私にだけ求められるものが厳しく、なぜわたしばっかりと思ってきました。 知らない方から容姿をバカにされたこと、突発性難聴で片耳がほぼ聞こえなくなったことなどにより、近年さらに他人の視線が怖いです。 そんなわけないのにみんな私に怒ってるのではないかと思ってしまいます。 しかし、出産し、このまま過去のことばかり思いだし、外に行くのが不安なまま子育てをしたくありません。 主人と子供達と堂々と楽しい人生を歩んで行きたいです。 過去を振り返ってもしょうがない、自分をバカにしてきた、傷つけてきた人のことをいつまでも憎んでもしょうがないことはわかっています。 しかしどうしても毎日考えてしまいます。 前向きに人生を歩んでいくための心構えがございましたらご教示いただきたいです。 お忙しい中大変恐縮ですが、どうぞ宜しくお願い致します。
初めまして。答えにくい微妙な質問だとは思いますが、どうか読んでいただけたらと思います。 私は10年ほど心の病で通院しております。基本的には安定していますが、時々今日みたいにとても気分が落ち込み、何もする気が起きない日があります。本当はベッドから起きたくもありません。 もちろん、そんな訳には行きませんし、起きないと余計に気分が悪化するのは分かっているので、なんとか出勤します。 そこでふと、お坊さんも人間ですし、心の病を持っている方や、そうでなくても「とにかく今日は辛い、落ち込んでいて何もしたくない」という日があるのでは?と思いました。(見当違いで失礼な事を言ってたら申し訳ありません...) もしよろしければ、差し支えない程度で、「自分の周りにはこういうお坊さんがいる」とか、「(具体的な解決方法がない理由で)落ち込んでいる時、こういう風な心の持ち方を心がけるようにしている」等といったご意見、その他どのようなものでも、よろしければ教えていただければと思います。 よろしくお願いします。
私は仕事の関係で、中国や韓国の方々と接する機会が時々あります。 中にはあまり友好的ではない方もいます。 彼らが日本の悪口を言う時や、ニュースなどで反日運動を目にする時などは非常に腹が立ちます。 しかし一方、最近ネットなどでよく見かける極右的な意見には賛同できません。 あまりにも極端なコメントを見ると背筋が凍るような悲しい気持ちになります。 教育現場などでも取りざたされているように、健全な愛国心を育てる事は必要なのかもしれません。 しかし私自身も恥ずかしながら愛国心をどのように表現するのが良いのか戸惑うことがあります。 仏教的な観点からは「愛国心」をどのように捉えるべきなのでしょうか? 愛国心をもつことは望ましいことではないのでしょうか? また、中国や韓国の方々の非友好的な態度に接するときは、どのように対応するのが良いのでしょうか? 是非ご意見を拝聴させていただければと思います。