半年お付き合いした彼氏が自殺してしまいました。 別れ話をするたび、死ぬ死ぬと首吊りの写真を送ってきたりいつも 死ぬ気はないのに演技をしていました 最後に大喧嘩をしてまたいつもの首吊りの写真を送ってきましたが 本当に亡くなってしまいました 事故死で亡くなったのかヤケになって 亡くなったのか未だにわからず 毎日辛い日々を送っています お葬式にも行けず、近々四十九日が きます。 彼に手を合わせに行きたい気持ちがすごくあるのですが彼は 私を物凄く恨んで亡くなっていきました。 手を合わせに行くべきではないのでしょうか?
先日も質問させて頂き複数の回答有難うございました。 彼が自殺でいなくなり7ヵ月が過ぎました。 彼が居なくなり…人は亡くなると本当に【無】になるのだと… 彼の後を追っても会えない事はなんとなく分かるような…最初は頑張って彼の為にも生きて行こうと思いました。でも…それは偽善の言葉で、本当は 意味も分からず残され、他人に責められ…それでも、 人って悲しい思いしても生きて行かなければいけないのでしょうか?? 病気や事故や老衰や自殺どんな亡くなり方でもそれが寿命ならば早く彼のように楽になり…無になりたいです。 もう自分でも理解出来ない事で人に責められる事に疲れました。 死んで無に本当になれるのなら親にだけ詫びて、彼のように楽になりたいです。
hasunohaは勿論、さまざまな仏教関連のわかりやすい本を読む機会もあり、少しでも心穏やかに正しく生きていきたいと思っております。そこで、例えば洋服を着飾ったりして少しでもよくみせたい、子供をどこかの遊び場に連れて行って喜ぶ顔をみてみたいというのはやはり煩悩のあらわれなのでしょうか。実際に結果的にうまくいかなかったときにつらい思いをするのは自分であり、ちょっとしたことでうつ気味になってしまうことも少なくありません。良い処方箋を頂けますでしょうか。
父が、死んでしまいました。 あんなに元気だったのに、検査もしていたのに、病気が判明してからは、わずか2か月ちょっと。驚くほどあっという間でした。 こうなることが怖かったから、話をしようと言ってきました。でも、その言葉を正面から受け止めてくれることはありませんでした。 父は本当にすごい人ではありました。地域のボランティアもたくさんしてきました。父が始めたプロジェクトは今もたくさん残り、地域の絆も生まれました。こんなに地域の人がたくさん集まったご葬儀は初めてですと、葬儀場の方に驚かれました。お父さんには本当にお世話になったと、見知らぬ人から何度も声をかけられました。 父にあてた相談の電話を、子供の頃から何度も取り次ぎました。呆れるくらい、ずっと話を聞いてあげていました。 辛いとか苦しいとか、そういう愚痴めいた言葉はとうとう最後まで一度も聞いたことがありませんでした。もうかなり痛みがあると思いますと、お医者様にも何度も言われました。亡くなる直前まで、毎朝ぴしっと背筋を伸ばして起きてきて、自分で身支度をして、おはようと言って起きてきました。 体力を振り絞って、最後に庭にでた日にしたことは、花を植えることでした。この花が、春になるときれいに咲くよと笑っていたそうです。父が亡くなってから、きれいに咲き揃いました。 皆がもっとのびのびと仕事ができるようにと、父が改革をしたときは、現場からは大歓迎の声が上がりましたが、前任者の方には激しく罵倒されたそうです。周囲もかなりはらはらしたそうですが、父は最後まで見事なほど穏やかに対応したそうです。大丈夫だったの?と母が声を掛けたら、「俺はこんなことではくじけんよ」と、そう言って笑ったそうです。 昔、私が学校に行けなくなったことがありました。毎日の生活を何一つ変えない父でしたが、家に閉じこもる私を、黙って職場に連れて行ってくれました。仕事を黙々と手伝い、父の行きつけのお店でお昼を食べ、午後もまた仕事をして帰る、そんな毎日でした。特に何かを話したわけではないですが、あの時間だけは、ずっと感謝しています。 おれはじっとしていられる性格じゃないから、向こうでも、また何か新しいことを始めるよと、最後はそう言って旅立ちました。 もっともっと話がしたかったの。 そう……わたしはただ、あなたともっと話がしたかった。 なぜ、もういないのですか?
僕は日々陰鬱に生きていて、変わらなければならい節目を迎えた時、生きる意味について考えるキッカケを授かりました。生きる意味というか、今、生きているということに納得する理由がほしくて。僕はその理由をなんとなく自分の中に見出しました。 それは「人は善を為そうとし、真に為し得ない。優しくあろうとし、真に優しくあれない。愛そうとし、真に愛せない。」その善を為そうと、優しくあろうと、愛そうと努力することこそが生きる悦びだと、僕はそう納得していました。そしてその「生きる意味」を職業(カウンセラー、精神科医、臨床心理士、お坊さんなど)にしようと、大学を入り直すことさえ考えました。 しかし、その友達は、僕の生きる理由を「現実を決済する」こと、僕が信じる「美しいものを美しいものだと感じる心そのもの」を妄想と否定し、浄土、成仏の存在を真っ向から否定しました。 僕は、その友達の考えを否定することはできませんでした。かといって僕の本来持っていた考えを否定する気を起こそうとも思いませんでした。 またある人は「誰かがあなたに、本音や弱音を告白しているときに絶対に言ってはいけないことがある。正論です。」と言いました。 浄土、仏性、成仏は、そして仏教は、自己満足させるためだけの嘘なのでしょうか?美しいものを美しいものだと感じる僕のこの心は妄想でしかないのでしょうか? それは僕が在る、と考えれば在る、のだと信じておりますが、僕はこの途方もないやるせない気持ちをどうにかしたいのです。 僕は恐らくこの(実存哲学?という)正論を信じると一生不幸だと思い、しかも僕はそれに対してどうしようとすることもできないのです。 僕は、仏様から授かった自分の寿命を全うするために死ぬまで生きようと思っておりましたが、その考えが不安定にならざるを得ないのです。 僕はこの儚い気持ちにどう向き合えば良いのでしょうか?お智慧をお貸しください。 長く稚拙な文章となってしまい申し訳ありません。また仏教思想を自分勝手な解釈で捉えております。それは違うというところ、誤解があれば、感謝と敬意をもってお説教を受け賜わります。 便宜的に、思想的に、僕はその人を友達だと書きましたが、本当はツイッター内において、フォローフォロワーの関係にすらなっていない、赤の他人です。 (´・ω・`)...
2015年の4月に離婚し、ばつ二回になりました今は一人で派遣社員の仕事してます、二回の結婚で実の子供が三人いまが子供たちにわ 父親らしいことは何一つ出来てなく養育費も渡してない状況ですこんな自分が情けなく子供たちに申し訳なく日々、死にたい気持ちと格闘してます。 でも死ぬ勇気がない自分が情けなく思います こんな自分がこの世の中、生きてる意味有るのでしょうか、こんなくそみたいな世の中、生きてる意味有るのでしょうか?お金がないと何も出来ない世の中…