お世話になります。 娘を亡くしてからいろんなことを聞き、自分でもどうすれば前をむいて生きられるのかと考えました。 →私が悲しむと娘も悲しい→いくら悲しんでも娘は帰ってこない→娘や残された今そばにいる家族のために前を向いて生きよう→乗り越えよう→強くなろう→生きがいを見つけよう→でもなんのために?→私が強くなっても誰も救えない、意味がない→私の生き方を見せる娘はもういない→「泣いて過ごすのも笑って過ごすのも同じ一生、それなら笑って過ごそう」こんな言葉、笑ったからってなんかあるの?意味がない→「神様は乗り越えられる試練しか与えない」ってなにこれ? 私が乗り越えられるかの挑戦ですか? そんなことに大事な娘をつかわないでください。乗り越える? 娘を踏み台にして私が成長してなにになりますか?→ああ、だめだ、こんなにひねくれた私を見たら娘がつらくなる→ごめんなさい。→私がつらいと娘もつらい→ このぐるぐる回る思いからぬけだせません。 どうぞ、少しはなれた場所から、ここから抜け出せる矢印と方向を教えてください。 よろしくお願いいたします。
悟りって本当にあるのですか?悟っているお坊さんはどのくらいいますか?
いつも仏教のこと教えてくださって、ありがとうございます。 供養の作法に関して気になることがあってお坊様にお訊きしたいと思いました。もしよかったら、お暇な時に教えてください。 私は帰省するとまず仏壇の前でお線香をあげて手を合わせていました。お線香は仏教式の供養だと思って、実家に着いたのが遅かった時は夜でもお線香をあげていたのですが、夜にお線香を焚くと供養して欲しがっている霊が寄って来るからやめたほうがいいと聞いたことがあるんです。出所のよくわからないお話だし迷信ではないかと思うのだけど、仏教的に夜にお線香はよくない作法なのでしょうか。
先日、台湾の友人にこのような質問をされました。 「台湾の僧侶は肉は食べない、酒も飲まない、女性との関係も持たない、そうやって厳しい修行をしているから尊敬されている。 日本の僧侶は肉も食べ酒も飲み女性との関係も持つ、どうしてそれで尊敬されるのか?一般人と同じじゃないか?」 わたしは仏教に詳しくなく、戸惑ってしまい、彼の質問にうまく答えることができませんでした。 「日本のお坊さんも修行はしていると思うし……それにお酒と肉と女性をやってなければ偉いっていうのも違うと思うし……うーん……」 というような曖昧な返答になってしまいました。 もし、お坊さん自身がこのような質問をされた場合、どのようにお答えになるでしょうか。 ご不快な思いをさせてしまっているかもしれませんが、どうかお答えいただければ幸いです。
仏教の本質とはどのような教えですか? 宜しくお願い致します❗
諦めては毎日昼まで時間など無かった事にしてきました。 子供達を送った後、何も考えたくなくなるから。 最近では壮絶な虚無に襲われて 奇声を放つこととか頭をそこら中に打ち付けることは無くなったけど 生きて何になるのかわかりません。 ナルコレプシーで薬が全部効かなくて アルバイトなど出来ない私は 家事をしていると泣けてきます。涙ナシの虚し泣きです 家事など向いてはいない。 生きていくにはある程度掃除や洗濯が必要だろうけど だからってー体それがなんだっていうんでしょう。 こんなくだらないことが息子為だとは思えない よくいろんな偉い人が家事をこなすことが徳を積むことになるとおっしゃいますけれど 私には到底くだらないことにかわりございません。 漠然とですけど以前から世の中の全てがかけまちがってる気がしていました。 それはこの世の中に金があるということ自体間違いでは無いか という事です。 なんだか全てが馬鹿バカしくてなりません。 生きていったい何になるんでしょうか。
こんにちは。 これだけこのサイトにお世話になりながら、悟りについて良く考えた事がありませんでした。私の考え含めて質問させていただきます。 仏教の入門書だとよく「修行の完成」→「悟りを開く」→「輪廻の苦海から解脱」と解説されています。 しかし自分はこの解脱と言うか、輪廻転生が今一つピンと来ません。 生前や死後については無記とするのがお釈迦様の真意に近いと思うし、 輪廻とは一種の比喩と考えるのが適切と思うからです。 実際、輪廻を考えると色々と矛盾が生じます。 例えば虫の輪廻転生。一生無心に鳴き続けるセミ等に「善行」「悪行」などあるのでしょうか?善行を積んだセミが高次の存在に転生し悪行を積んだセミがさらなる悪趣に落ちるのだとしたら、誰がそれを判定するのでしょうか? そのような超越的な存在(判定者の類)は仏教では否定されるのではないでしょうか? となると、悟りも輪廻転生を前提にしている限り、よくワカラナイものになってしまいます。 悟った覚者は転生せず、凡夫が転生する・・・のでしょうか? だとしたら悟ったかそうでないか判定者がいる事になります。 (ここでまた超越的な判定者の問題にぶつかります。) 悟りによって体質と言うか、魂(?)の質が変わるとでも言うのでしょうか。 じゃあ輪廻とか死後が無記なら、結局「悟り」て何なの?って話になって 頭の中ぐるぐるで何だかよくわかりません。 こんな考えって戯論でしょうかね? お考えを教えて頂ければ嬉しいです。
毎回、私のは質問というよりイチャモンと言った方がよいかもしれませんが、今回もよろしくお願いします。 私(S40年代生まれ)の子供の頃は、現在よりもずっとお坊さんは尊敬される存在であった気がしますが、現在の僧侶の威厳の低下(私にはそうみえる)はどこに原因があるのでしょうか? それは、現在の僧侶の大半に、戒律を厳守して生活している印象が全く無い、というところが大きいのでないか(あくまで部外者の印象で、実際のところはわかりませんが)と私は考えます。 「威厳なんていりません」とおっしゃるかもしれませんが、毎日、朝夕「三宝に帰依します」と唱えている側にしてみれば、やはり僧侶には、仰ぎ見る存在であってほしいのです。 現在、僧侶(日本仏教界)にとって戒律はどのようなもので、どれくらい重要視されているのでしょうか? ぜひ、ご意見をお聞かせください。 ちなみに、私は仏教徒であることを強く意識するようになって、五戒のうち、せめて不飲酒戒の一つだけでも、死ぬまで守り通そうと決めて、十四年間一滴も飲んでいません。それ以前は、ひどいもんでした...。 私は本当に仏教に救われたと思っています。
俗な質問で恐縮ですm(__)m 母の戒名を付ける時、お坊さんに「80〜120」と言われました。 一番リーズナブルな信女で、です。 思わず「単位は何ですか?」と、聞いたくらいです(^^ゞ汗 万と言われ、思わず、えーーー!?と声を出してしまいました、、 無職なので、少しまけていただきましたが、生活保護の方にも20は出していただいてますと言われました、、 生活保護の原資は税金なのにそれも如何なものか?と、思ってしまいました┐(´д`)┌ 枕経、通夜、葬儀、火葬、埋骨時にもいちいち3〜5万包んでくださいと、葬儀屋さんに言われ、定期預金を解約し、払い続けました、、 (お寺さんから紹介された葬儀屋さんなのでグルですねw) あと、母が亡くなった夜、安置していただいたお寺の部屋代は5万円でした。 以上、普通の事ですか? 戒名の相場はこんなに高いのですか?? 差し支えない範囲で回答いただけたら参考になります。 毎年高い維持費を取られるし、離檀したいけど、離檀料も何百万円とか一千万とか言われそうで怖いです(笑)
はじめて質問させて頂きます。 49日までは、故人はこの世にいると何かで読みました。 故人は彼氏で、私は親族ではありません。 49日までに、故人が行きたがってた場所へ、私一人で旅行に行くのはどうでしょうか? 故人が一緒に来て、その場所を見せてあげる事が出来ますか? 後悔が沢山あり、何か故人に出来るだけの事をしてあげたいのです。 どうか回答よろしくお願いします。
師僧、信徒さんとの付き合い方に最近悩んでおります。 師僧とは血縁関係はありません。 寺院にて妻も含めて一緒に生活をおくるようになりました。 妻も私も師僧の寺院に入れてもらってまだ日が浅く、時には厳しく時には優しく日々様々なことを教えていただいてます。 ですが、一緒に生活を始めてから師僧が信徒さんのところで私たちの悪口、至らない点さらには私たちの両親の悪口を多々言っていると聞きました。 これまで信徒さんとお付き合いをしていく上で不安がありましたが、最近さらに不安が強くなりました。 これも修行と思い、乗り越えようとしていますが、私以上に妻が精神的に追いやられている現状です。 一僧侶として、お恥ずかしい現状ですがどこかで吐き出したいと思いここに相談させていただきました。 相談というよりも愚痴のようなものになり申し訳ありません。
勤め先の会社にはお稲荷さんがあります。 1年に一度、お坊さんが来てくださり 線香をつけて、お経?を唱えています。 お稲荷さんに、お坊さんが来ていることに すごく疑問を感じます。 調べてみると、神仏習合の関係?と出てきますが なぜなのかあまり理解ができません。 詳しく解説していただけますでしょうか。 よろしくお願いいたします。
変な話かもしれませんがお読みいただけますと幸いです。 結論から言うと、「ある土地のある歴史上の人物のお墓参り」についていくべきかどうかというお話です。 1.なぜ迷う必要があるのか、というとタイトルの通り私は良くない念を受け取ってしまうことがあり、本来ならばそのような土地には行かないようにと昔住職さんに言われたことがあるのです。(その歴史上の人物のお墓の場所が所謂いわくつきという土地です) 2.しかし、どうやら私の先祖はその土地と関わりが強く、またその歴史上の人物を討った武士と関わりがあるようなのです。 3.場所や人物などは伏せますが、以前その土地で起こった大地震の際は前日に大地震が来る予知夢を見ましたし、その史実の人物に関してもやたら縁を感じることがあり、調べてみると2.のような関係があることが分かりました。その他にもその土地に関する縁を感じることが多く、遅かれ早かれ私はその土地に行くのであろうと思います。 呼ばれているとも感じます。ただし私は前述の通り感受性が強く、その史実の人物に縁があるとは言えお墓参りに行ってもいいのか、(良い縁だとは言い難いですし)もし行くとしたらどのような準備をしてお墓参りにいくべきなのか、悩んでいます。 何とも抽象的な話になりますが、お答えいただけますと嬉しく思います。
自分の預かり知らぬところで、生きていいいのちと奪っていいいのちの選別が行われる。少し不快になったら「死ね」と言う人々が多い小中高時代でした。故に、生きる権利は簡単に奪われるものであるもののように思います。 実際に「不快だから殺す」が個人レベルではなく国家レベルで行われる可能性があり、それがもうすぐそこまで来ていること、発射ボタンひとつで何の心構えもできないまま全てが終わることを感じた今朝、不安と恐怖に耐え切れず、書き込ませて頂きます。 物理的要因で人間は簡単に終わらされます。凄惨な死は避けられず、成す術もない。自分はあまりに無力で、何をしたって意味がないと自暴自棄になりそうです。楽観はあてになりません。苦しみと凄惨な死があるだけです。何かを信じるのも怖いです。 自分について上手くいくイメージができないことと社会的な問題が解決する見込みが得られないことで、人生に希望を持てずにいます。意欲は薄れ、渦巻く感情を持て余し、生きていけないのに生きていようとします。 物理的問題は高潔な精神でどうにかできるものではないのです。「全てが自分の思い通りになるなら何がしたい」と考えた結論は、「存在していたくない、あらゆる感覚を捨て、物理的世界から完全に解放されたい」でした。 「みんな辛いのに頑張って生きている、辛いことを我慢して適応しなければ生きていけない」 ただ吐き出したいだけ、甘えたいだけなのだと思います。本当は他人の言葉を聞き入れる余裕もなく、それだけで死にたい、死ななければならないような気になります。 駄目でした。やはり生きることが難しいです。
最近相撲業界で起きた暴行事件のニュースを見るたび、いったいこれのどこが神事かと思います。 過去に表彰の為土俵に上がろうとした女性知事を「女が土俵に上がると穢れる」という理由で断りました。 しかし彼らは八百長、暴行、派閥争いなど等、神聖とは言い難い行為を繰り返しています。 そもそも女に生理があるのは子供を生むための準備であって好きでなっているわけではないですし、出産だって男が女で性欲を発散するから起こることでしょう。 自分たちだって母親に命がけで生んでもらっておいて、女を穢れとみなすことのどこが差別ではないのでしょうか? 子孫繁栄を掲げながら女を穢れとするのは勝手過ぎます。 神を理由に差別を正当化するというのなら、神を理由に異教徒等を迫害する某宗教の過激派と同じではありませんか。 なんでこんなおかしなことが日本で正当化されているのか、本当に悔しくてテレビで相撲(球場が女人禁制の甲子園も)が出るたび涙があふれます。 これらを喜んで見ている人々もいい加減目を覚ましてほしいです。 お坊様は仏教徒ですが、こういった差別を正当化する宗教をどのようにお考えですか?
お世話になっております。 柴田秋です。 以前、こちらで葬式をあげてほしくないという質問をいたしました。 戒名をもらった時点で仏教徒になるのが嫌という理由を上げましたが、それは誤りとの指摘がありました。 戒名とは法号のことであり授戒の証、すなわち仏門に入ることのはずですが、何故、戒名をもらうことが仏教徒になるということではないのですか? 少し長いですが、それでも、詳しい経緯をお知りになりたい方は下記をご参照下さい。 http://hasunoha.jp/questions/5942 予想される答えとしては「私はすでに仏教徒である」ということと思います。 一度も同意したことはありませんが… 私が嫌いなのは仏教だけではなく、宗教全般なので、特別仏教がどうのこうのというわけではないので、ご理解ください。 ただ、ガウタマ・シッダールタや、イエスや、ムハンマドなど、一人の人間の言葉の元に集まった集団が起源なのが特に嫌という感じはあります。 神道に言及しているのは、少なくとも私は宗教ではなく、神話扱いしているという理由です。 ギリシャ神話、ローマ神話、ゾロアスター教、それから、特に好きというわけではありませんが、エジプト神話あたりは、私に対して「無害」なので、別に嫌いというわけではありません。
最近、ネットが普及し、自死者に関することで色々と閲覧することができる。こちらのサイトのお坊さんは、自死遺族の気持ちを察して頂き自死者も必ず成仏するとご回答を頂きます。 しかし、他のサイトで真言宗の修行僧と称する者が、自死者は永遠に苦しむと書き込んでいます。同じ仏教徒でこんなに違うのでしょうか?本当に可笑しく思います。あるスピリチュアルでは、自死者は反省の部屋に入り、自分で納得すればガイドに従って成仏できると言っています。テレビで出ていた江原は違いますが 私は、なんとなくこのスピチュアルが主張する自死者の死後のあり様が自然に受け入れることができます。 要は、誰もが死んだ経験がありません。死後の世界なんかわかる訳がないと思います。昔は自死者は、地獄で永遠に苦しむと言われていましたが、ここ最近は自死遺族の苦悩を和らげるためか、成仏できるとお答えを頂きます。僧侶によっては、地縛霊のことは教えられていないと言っている者もいます。 キリスト教なんかは最悪です。よくもここまで豹変できるのかと思います。 こちらの僧侶の方は、本当に心の優しい方だと思います。カルトの様な馬鹿な話は信じません。しかし、本当のところはどうなのでしょうか?自死した者の霊は、安らかに成仏できるのか? 本当は、人間世界で何十年、何百年と苦しむのか?噓を言われて心を和ませたくありません。本当は、自死者が、一人で永遠に苦しむのであれば私が自死をして、妻を救いに行きます。私の魂は、あくまでも妻を救出のため。自身の我儘で自死するのとは違います。 イスラム教で言えば聖戦です。自死者の魂の行先は、僧侶や所謂霊能者と言われる人によっては行き先が二分されていると思います。地獄か極楽浄土へ行くか・・・ 言われていることがおかしいです?お釈迦様は、自死について良いとも悪いとも言っていないと今は言われているというか無理にその様に解釈をしているのでしょうが、本当はどうなんですか? 慰めで極楽浄土へ行くと言われると心が少し和みますが、自死遺族のために止むを得ず真実と違うことを言われるのは、返って罪なことだと思います。実際に真言宗の僧侶が永遠の地獄に行くとネットに平然と書いている。本当のことが私は知りたいのです。永遠の地獄に行くというのであれば私は、自死(救出のため)して地獄から妻を救い出す覚悟です。お答えをお願い致します。
お世話になります。 主人の実家にお仏壇とその斜め上に神棚があります。 仏教的に神様とはどの様な存在でどの様な位置付けになりますか? 仏教初心者なので、色々と気になってしまいます。 宜しくお願い致します。
こんにちは。 私は現在生まれ育った町に戻ってきています。 留学に近いことをしていて、 一度親元を離れて暮らしていました。 休みなので帰ってきましたが、 もう残り僅かの時間が悲しくて仕方ありません。 留学へ行くときはさほど寂しくありませんでした。 親ともまた会えるし、いつでもここへ戻ってこれ ると思っていたからです。 今ではそんなこと思えません。 一度離れた、慣れ親しんだ町へ帰ってくると いかに思い出があるか、いかに愛着があるか、 いかに家族といたいかということを痛感してしまいます。 その上、父の仕事の関係で家族全員が会えることが滅多にないなかで、 いま一番好きな場所で会えてしまっていることが 幸せすぎて 本当にこの時間が終わって欲しくない。 次いつ会えるか確実でない家族と離れることが 違う場所で暮らすことが、そばにいないことが、こんなに悲しいなんて知りませんでした。 誰かと本当に会えなくなってしまうのではないかと不安でたまりません。 母は重めの体調不良で 「もしかしたら病気なのでは、」 という考えが頭をよぎるし、 父だって、 不規則な生活をしていて、年齢のこともあります。 どうしても笑顔でまたねと言える気がしないのです。どうしたらこの不安でたまらない気持ちを取り除けますか。どうしたら泣かないでいられますか。どうしたら留学先に明るい気持ちで帰れますか。 どうか教えてください お願いします。
あるお寺で賽銭泥棒が捕まったことがニュースで取り上げられていました。お寺が設置した防犯カメラの映像も流れ、お寺の住職もインタビューに答えていました。 レ・ミゼラブルのミリエル司教のように、とは言いません。警察に通報し、引き渡すのも当然だと思います。もちろん、私が物を盗まれれば同じように対応します。 しかし、それをマスコミに取り上げてもらい、防犯カメラの映像を提供し、インタビューに答えることは、人の心の拠り所となる宗教家として正しいのでしょうか?