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hasunoha 問答検索結果 : 「お坊さん 人生 」
検索結果: 2738件

どこに「かえりたい」のか

社会人4年目です。 学生の頃から、いわゆる『逃げ癖』のようなものが酷くて、高校生の頃は受験から逃げて一浪、その後どうにか入れた大学も中退、という中途半端な生き方をしています。 社会に出てからも職を転々としていて、偶然の御縁で数ヶ月前から大学時代に目指していた業界で働き始めました。 いつ頃からなのかは定かではないのですが、あまりにも仕事や人間関係でストレスを溜め込んだり、逃げ出したくなると「かえりたい」と口走るようになりました。 それが通勤中や会社などで出てくる言葉なら「家に帰りたい」という意味であるとは思うのですが、これが寝起きだったり、休みの日だったり、家の中にいる時でもぽつりと呟くことが多いのです。 きちんと働かなければいけないと理解していて、頑張らなければいけないと思う自分と、本音として何もやらずにひきこもりたく、今のストレスから解放されたい自分とでいつもうまくバランスが取れず、結果として「かえりたい」と呟いてしまいます。 どこに「かえりたい」のか、自分でもわかりません。 これを家族に聞かれた時、冗談半分で「土に還りたいんじゃないかな」と言ったことがありますが、わりとその通りなのかなとも思います。 「かえりたい」と呟くのをやめて、しっかりやるべき事と向き合いたいのですが、どうしたら良いのでしょうか。 逃げ癖が出そうになって必死に抑えていることがあるのですが、どうしたらすんなり逃げ癖をやめられるようになるでしょうか。

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浄土真宗と曹洞宗の二股はだめですか

こんにちは、宜しくおねがいします。  生き方について悩みが多く、暴れる心をなんとか鎮めたいと最近、 浄土真宗の聞法に通っています。  随分昔に死んだ明治生まれの祖母を思い出したからです。彼女は封建的な夫に黙々と仕え、息子に戦死されても、一人娘に急死されても、毎日の日課を黙って静かにこなし、仏壇になんまんだを唱え、老いては子に従い、右を向いていろといわれれば右を向き、左を向いていろといわれれば左を向いているような、大切にはされていたのでしょうが全く存在感のない祖母でした。無口で静かでしたから声も覚えていないのです。すっかり忘れていたのです。  ところが、自分も老境に入り、しかしいまだ心穏やかならず、怒りや貪りに振り回され苦しむ有様で、あの諦観したのか、または阿弥陀様にお任せしきったのかのような祖母の姿が私を聞法に向かわせました。  しかしこの身はしぶとく、聞法をいただいている間は少しは素直な気持ちになるのですが、それもなが続きしません。  第一、近代教育を受けた私には、「はからいを捨て、お任せする」のは難しいです。はからうことばかりを目指し、学び、訓練してきたのですから。もしかすると、もっと死が近づいたら少しはそんな気持ちが持てるのかもしれませんが・・・  ただ、三木清が言うように「自分は最後は親上人の言葉どうり、あの世で懐かしい人たちに会えることを信じている」のは私も同じです。  問題はあの世のことでなく、日々の生活で心配や怒りや嘆きに振り回されることです。  そんな私が禅宗の教えで行住坐臥を整えることや、禅の言葉に従うことで、少しは苦しみから離れられるように思うことがあります。 子供のころ永平寺を訪れて、「こんな風に生きている人もいるのだ」とショックを受けたことから大人になって、禅林句集や道元禅師を読むようになりました。指針になります。  阿弥陀様にお任せできない私が曹洞宗に頼るのはいけませんか? 浄土真宗では一筋でないといけないと聞きます。お任せしきらないといけないと聞きます。浄土真宗と曹洞宗の二股みたいで罪悪感があります。  迷える私にお言葉をいただきたいです。  宜しくおねがいします。  とんぼ

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生きながらえている意味が見出せません

生きながらえている、とは書きましたが大病をしたわけではありません。 ただ、この死因にあふれた世の中で運よく日々を生きてこれてしまったわけですが、いつまでものらりくらりと生きていていいものか疑問に思います。 なぜこのように考えるようになったか順を追いますと、私は昔から他人の期待に添うように行動してきました。 親や学校の先生、友達、赤の他人… そうしているうちに、突然、「私ってなんだ?」という疑問が降ってきたのです 「いい子だね」という言葉に惑わされ、へらへら笑っているうちに本来の自分をどこかにおいてきたのではないか? そのことに気づいてからはちょいちょい心の健康を損ないました。 いくら疑問を抱いても、長年しみついてしまった「いい子であること」はそうそうやめられません。 何度か死にたいと思うこともありました、そのたびに「実際そんなに死にたくないな」と思って先延ばしにしていました。 直近のことです、就活が始まる年なので、インターンシップなどを調べていた時のことでした。 「働いてまで、お金を得てまでしたいことってなくないか?」 ということに気が付いてしまったのです。 これまで、つらいことがあったら「あと○年頑張れば自分でお金が稼げる」と思って心の支えにしてきたのですが、よくよく考えてしたいことって? そもそも今も研究室に朝から晩まで拘束されてほかのことなんてろくにできず いつキレるかもわからない教授たちにおびえ、六に教えてもらえないまま実験をし… 書いていておなかが痛くなってきたので尻切れとんぼになりますが、私はどのように考え方を改めたら、どのように日々を受け止めるようにしたらいいのでしょうか。 まとまらない長い文章をすみません、よろしくおねがいします。

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自殺って最高の救いではないか?

全ての苦しみから逃れることが出来、生きるという動から離れることができる。 自殺に対して迷惑!とか好きに死んでもいいけど、他人に迷惑かけるクズは死ぬべき!とかいっちゃう世の中の大半の利己主義な人達からも離れることが出来ます。 自殺は迷惑というのは=自分が損したくない、もしくは自分が死ぬ時に社会の迷惑になってないと思ってるお花畑。老人になって大量の国家予算のかなりの占める医療費を国が払い沢山のワーカーの働きにより初めて死ぬことができる。 しかし自殺は家で首をつれば終わり。アマゾンですぐ買える。 死ぬ前に警察でも業者でも呼んでおけばいい、もちろん死体の横に迷惑料数十万とか置いて掃除代金や葬式代にして貰えばいい。首吊る場所も山の中とかにすればいい。 本来ならマグマに落ちるとかそういうのが完全に死ぬ方法としては最高だと思うけど、そもそもマグマには行けないし遠い。 家族も悲しむけど、それだけ、遺書も70年分くらい書いたりしておけばオッケー。 でも生きてて変な苦しい生き方をしてて親も苦しんでるなら自殺した方が良くないか?と思うのです。 どうせこれから生きててもいい事はないし、小さなくだらん事で幸せを、噛み締めて生きるよりは安楽死した方がマシだろう。 いや実際こわいと思う、死刑囚と同じ死に方だし、何千億年も経っても目覚めないってのが壮大に怖い。 でもおそらく大半の自殺者はそれよりも今が苦しかった、あんまり考えてない小学生とかでも自殺してておそらくその場の雰囲気が大事。 輪廻転生とかいうけど本気で信じてるなら死も怖くないはずだよな。 生まれてきて知的障がいとか植物状態とかに生まれたらそもそも生きてる私という認識すら持てない認知症もそう。俺たちは結局は脳で動く電気信号にしか過ぎないって。 ISISとかの動画とか見たことあります?頭打たれて顔がそもそも原型をとどめていない。そんな人達が意識を残してると思う? 首切られた人は叫んでいて、ある一定に達したら半目になって徐々に意識を失う。 彼らの輪廻は?意識は?沢山殺した人はどうなるの? 結局チリになるだけだろう、魂なんてものはなくてコンピュータシミュレーションのようなこの世界で苦しみいつか死ぬ それが早いか遅いか。 何をしても苦しみはなくならない。 だから私は自殺は最高の救いではないか?と思う。そう思わないでしょうか?

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2025/07/22

縁を自分で切ってるのか

私は今まで30年間彼氏ができたことがなく、今年こそ結婚しようと思い結婚相談所に入会しました。しかし、10ヶ月たつも中々先に進めておりません。最近、この理由は自分にあるのかなと思っております。 今まで何か決め事があったら、直感で決めてきたことが多く、婚活も直感で判断してきてしまいました。 この前会った人は、最初お見合い時間がとても長かったり、上から目線の発言があり、変な人だなと思いながらも、もう一度会いました。お店は相手が選んでくれ、居酒屋でした。今まで、2回目で会う時は、カフェでしたので、2回目で会う時の居酒屋は初めてで、不思議な人と思ってしまいました。お話も、前回話したお話が中心になってしまい、自分から広げられませんでした。ここでは、3回目に会う約束はできませんでした。この時は、もう会っても会わなくてもどちらでもいいやという気持ちでした。その後、家に着いてからお礼の連絡をしました。その後返信が返ってきて、私は凄く嬉しく思っていました(前の恋愛みたいに毎日LINEが続くのかなってドキドキしちゃいました)。ここから、LINEが続いて会えれば会おうと思ってました。しかし、LINEしても返信が続かず、私からお断りすることにしました。 今、気になる人を探してはいますが、中々いいなと思う人はいません。今思うと、もう少し自分からLINEやお話を広げられれば良かったのかなと後悔しております… もっと知れば、その人の良さが知れたのかなと。自分の行動を振り返ってみて、あの時もう少しこう質問しておけば良かったかなとか、変な人と思う判断が早かったのかなって… どうすれば、こんな気持ちから抜け出せますか??

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中年期のコンプレックスからの脱却ついて

皆様、こんにちは。 中年期のコンプレックスからの脱却、やるべきことへの向き合い方についての相談です。 私は身体的な特徴故、幼少より、親族をはじめ学校の先生・クラスメート、社会人になってからは職場の人にからかいを度々受けてきました。また変な先入観をもたれ、社内外でセクハラを受けることもありました。 そのため外見にコンプレックスがあります。(コロナ禍で生活が変わったこともあり、何の拍子か一時忘れていたコンプレックスが再燃してしまったという側面もあります。) 10年近く連れ添っている夫は人格者であり、私のことは「愛嬌のある姿をしている。朝見ると元気が出るし、夜見るとホッとする。存在自体が可愛い。」と言ってくれます。 加えて私の年齢が30過ぎということもあり、自分の身体云々よりも、他者や社会への貢献、内面の成熟に注力する過程にとっくに入っていると思います。 しかし今だ身体へのコンプレックスがあり、人間としての浅さに、我ながら呆れ、軽蔑の念さえ抱きます。 どうしたらコンプレックスから離れ、年相応に向き合うべきことに集中できるのでしょうか。 仏様の教え、お坊様方が実践されていること等ありましたら、ご助言いただけますと幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。 最後になりましたが、お盆が近づき繁忙期に入るお坊様もいらっしゃるかと思います。暑い最中ですのでお体を壊さないよう、お祈りしております。

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2025/10/07

妻(10年レス)と想い人との再会

私は現在、結婚して10年になります。妻のことは愛しており感謝もしていますが、長年セックスレスであり、子どもを望んでいるのに応じてもらえず、この点で強く悩み続けています。1年以上前になりますが、こちらでもご相談させていただきました。 そんな中、大学時代からずっと私のことを想ってくれていた女性と再びつながることになりました。 彼女とは大学時代、飲みに行く程度の友人関係で、当時の私は別の恋人がいたため、アプローチをお断りし、それ以上の関係にはなりませんでした。 社会人になってから私が付き合っていた恋人とは別れ、その後は私を想ってくれていた彼女と会う機会が増え、私の彼女に対する好きという気持ちが大きくなり、告白もしました。 しかし、その時すでに彼女は別の方とお付き合いをしており、その人との間に子どもを授かり、結婚してしまいました。 その後、年に数回友人を交えて会う関係が続きましたが、次第に疎遠になり、10年以上が経ちました。その間に私は別の女性と出会い、結婚しました。 ところが昨年、急にその大学時代の女性から連絡があり、二人で会うようになりました。食事を重ねるうちに男女の仲となり、1年が経ちます。 身体だけの関係ではなく、気持ちのつながりも感じています。 私は今の妻を大切に思っており、離婚したいとは考えていません。 ただ、大学時代から自分を想ってくれ、そして私の方からも好きと思えた彼女と今結ばれたことが、罪悪感を上回る喜びとなっており、この関係を持てている今を「幸せ」と感じてしまっているのも事実です。 なかなか子作りが進まない家庭にも、上手くいかない仕事にも疲れ切ってしまっており、正直、今はもう彼女の存在が自身の生きる心の支えで、彼女がいないとダメになってしまいそうとも思います。 そこでご相談です。 ・それでも今すぐ関係を終わらせるべきなのか ・このまま続けてもよいのか ・妻と彼女、二人を同時に愛し続け、隠し通せればそれは許されるのか どう考えればよいのか、ご意見をいただければ幸いです。

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霊魂の存在を否定されるお坊さまへのご質問

 こんにちは。先日は私の拙い質問にご回答頂き、誠にありがとうございました。また、こちらで何度もご質問させて頂いておりますが、その度毎に丁寧なご回答を頂いておりまして、大変感謝しております。本日は、多少突っ込んだ質問になってしまいますが、自分の中でどうしても整理がつかない点があり、それを質問できるような場が他にありませんでしたので、この場を借りて質問させて頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。  こちらのサイトを拝見しておりますと、「霊は存在しない」と回答しておられるお坊さまが何人かいらっしゃいます。お坊さまの中でも意見が分かれる問題なのだと思いますが、私は霊魂の存在を信じており、また輪廻転生もあるのではないかと考えております。霊魂の存在を否定されるお坊さまは、霊感商法やカルト教団への対応など、現実的な対策の観点から、またお坊さま個人の世界認識から、そのような発言をされているのだと思います。しかし、素人の私から見ると「悟り」や「阿弥陀仏の救い」を前提としてお話をされているお坊さまが、「霊魂」の存在を否定されることが、どうしても理解できないのです。  素人の私から見ると、「悟り」も「阿弥陀仏の救い」も、それが一体何であるのか分かりません。そのため、お坊さまが「悟り」や「阿弥陀仏の救い」をお話されることは、「霊魂」や「輪廻転生」のお話をされることと同じくらい荒唐無稽なもののように感じてしまうのです。唯物論者の方が霊魂の存在を否定されるのは理解できるのですが、お坊さまが否定されることは、私にはどうしても理解できません。霊魂の存在については、「分からない」とおっしゃることが最も妥当なのではないでしょうか。  実際に、現代には様々な宗教がありますが「霊魂」や「輪廻転生」の存在などを説いている宗教も数多くあります。もし、お坊さまが霊魂は存在しないと考えておられるのであれば、それらの宗教についてはどう理解されているのでしょうか。  このような突っ込んだ質問をして、誠に申し訳ありませんが、霊魂を否定されるお坊さまのお考えをどうしても伺いたいと思いました。ご回答頂ければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。

有り難し有り難し 168
回答数回答 7