ブッダの言うように、 私たちの命は因果の一部を勝手に切り取ったものでしかないとしたら、確かに死の恐怖はなくなります。 ただ、それは同時に、生きることと死ぬことの境界線をなくすことになる気がします。 道元の言う「空」も私たちが「波」ではなく「海」そのものだと気づくことなのだとしたら、それは「全体に溶け込む」ことである「死」と何が違うのでしょうか? よろしくお願い致します。
私は8年程販売職をしています。 最初は契約社員として好きな美容の仕事をし、給料面を考えて昇格試験を受け、3年前から家庭用品で働くようになりました。昨年からリーダー職を任されています。 接客で人の笑顔を見るのは楽しいし、やりがいもあるのですが このままでいいのかなという気持ちが常に漠然とあります。 接客以外の仕事についてみたい。 でもはっきり何がやりたいのか見えていない。このままやりたいことが見つからないまま終わるのかと思うとゾッとします。 仕事とは、本来どのような心で臨むものでしょうか。今置かれている場所で、もっと努力した方が良いのでしょうか。
最近、初めてのアルバイトを始めました。 ですが、仕事内容と覚えなければならないことの量の多さに初出勤から怖じ気づいてしまいました。長く続ける自信も無くしてしまいました。 慣れれば大丈夫と友人や家族に言われましたが、神経質で緊張しやすく物覚えの悪い私はそう簡単にその励ましを受け入れられませんでした。 他にも家族からは、アルバイトでそんなことを言っていたらこの先就職なんてできないと言われました。本当にその通りだと思います。自分は甘えていると思います。こんな自分が恥ずかしいし、情けないです。 最近そんなことばかり考えていて、こんな自分に何ができるのだろうか、生きていても社会のためになるのだろうか、生きていてもどうしようもないのではと考えてしまうこともあります。 とにかく、失敗が怖いです。それに伴って怒られたりすることも…。 失敗しないことはないとわかっていても、したくないです。 私はどう考えたらいいのでしょうか… 文がまぜこぜで申し訳ありません。
こんにちは。宜しく御教授お願いします。 父の死後、九州で一人暮らしを続けていた80歳の母が身体的にも介助が必要になり、認知症らしい言動も出てきている為独居は限界と判断。私も兄も関東に住んでいる為、関東の施設入所して貰う事になりました。 離れている為、近くにいてもらった方がいいと思ったからです。 受診、入所先探し、転居の手続き、親戚への挨拶、荷物の送付、入居準備全て私が行いました。 後は、住んでいた九州の実家の片付けがあるのですが、かなり家財道具がある為大変です。 兄に相談しましたが、手伝ってくれる気は無さそうで、当然私がやるものと思っています。 その事で、喧嘩もしました。私は充分やったし、これ以上の負担は身体的、精神的に無理です。 母の認知症は、まだまだ軽い方ですが、以前と違う母といることがとてもつらく、ストレスを感じます。 冷たい娘とお思いになるかもしれませんが。 母は本当はずっと、生まれ育った町で暮らしたいようです。私達の為に、入所してくれるんだと思います。 そんな母を見ていると、本当にこれで良かったんだろうか?と思ってしまいます。兄弟で揉める姿も、見せたくはないです。 私はケアマネの仕事をしていますが、自分の親の介護については考えていませんでした。敢えて、考える事から逃げていたとも言えるかも知れません。利用者さんの御家族が、介護の負担分担で揉める姿を散々見て、悲しい気持ちになっていました。まさか、自分がこんなことになるとは。お恥ずかしい限りです。 私は 子供が出来ない身体ですが、たとえ子供がいても老後は決して安泰ではないのですね。 人は生まれて、それぞれ一生懸命その人の人生を生きて、老いていく。 やっと、ゆっくりと人生の最期の時のためにのんびりと穏やかに暮らせる時間が来たのに、子供たちは世話のなすり付け合い、生まれ故郷から離れての生活。 老いることは悲しい事でしょうか。 私達は、人生の最期の時期をお手伝いする仕事ですが、どんな人にも最後は幸せでいて欲しいと願って仕事をしています。御坊様は、本当の最期のお見送りをするお仕事だとおもわれますが、人の老いについてどのような考えをお持ちでしょうか。 私事の相談のはずが、話が大きくなってしまい申し訳ありません。
私の過去の選択のせいで、たくさんの人に迷惑をかけてしまいました。 そして、一人の人からは恨まれる結果となってしまいました。 あのときの人生の選択のせいで、今でもずっと恨まれて生きるのは辛く、また過去に遡っては後悔の念が消えません。 罪悪感ばかりが年々増していきます。 どうしたらこころがかるくなるのでしょうか?
初めて質問します。 こどもの頃から1つの理想がありました。家族がいて、持ち家があり、仕事をしている自分がいる。誰に言われたわけでもなく、ただ強い意志を持ってそこを目指してきました。 ありがたいことに、20代後半で叶いました。同じような価値観を持った幼なじみがいるのですが、私たちが思い描いた理想を叶えることの難しさ(特に結婚・出産関連)について話すことも多いです。思ったより早くに実現できたなと思いつつ、簡単だったとは思いません。結構大変でした。 問題はここからです。 理想を目指して生きてきました。そしてそれが叶いました。でも、この後どうしたらいいのかわからず困っています。正確には、毎日本当になんとなく生きています。これまで理想を目指して生きてきた身としては、この「なんとなく生きる」ということが非常に後ろめたいです。理想を掲げて生きている人たちのことを羨み・妬んでいます。 何か新しい理想を見つけられればと思いますが、見つかりません。では見つからないまま何となく生きていけばいいのではと思いましたが、そんな選択をする自分も嫌です。結局、ただ時間を浪費をする毎日です。 人生に満足した後、どう生きていくのがよいのでしょうか。 何卒宜しくお願い致します。
はじめまして。 よろしくお願い致します。 私は決まった宗派に属している訳ではないのですが、以前からお寺と仏像が好きで、あるお寺に月に1度程度なのですが参拝しています。 そのお寺のご本尊はお不動様なのですが、何度も通い拝んでいる内に、何とも言えない心の満足感や安らぎを感じるようになりました。 そこで、自宅でもお不動様を拝みたく、木彫りの不動明王像を購入しました。(ひと目見てとても気に入り、彫刻家の方に直接連絡をとってオーダーメイドで造って頂きました。まだ手元にはありません。) 生活状況から毎日しっかりお勤めができる自信が無い為、開眼供養はしないつもりだったのですが、調べている内にしないで拝むと魔が入るという事を目や耳にし、大変不安になっております。。。 お勤めがしっかりできなくとも開眼供養はするべきでしょうか? そもそもそんな心構えでは仏像を手元に置くこと自体間違っていますか? 魔が入るといるのはどういった事なのでしょうか? 勉強不足で申し訳ないのですが、ご助言頂けると嬉しいです。
先日夫が自殺しました 毎日泣いて苦しいです 立ち直れるのだろうか?と不安です 自分も後を追いたいと考えてしまいます 自殺した人は天国に行けない、成仏できないとネットや友達から言われました それはそれでかわいそうだと感じました お坊さんのお考えを聞きたいです
2ヶ月前に、妹が自宅で自死しました。遺書に葬儀をしないでとあり、義弟の意向とコロナ禍ということもあり、両方の両親と義弟、姪、甥、私の夫、私のみの家族葬で送りました。 義弟のご両親に宗派を聞いたのですが、よく分からないようで… 義弟のご両親は他県在住で、本家ではないのでお墓を持っておりません。 義弟も宗教や宗派がよく分からないとのことで、急なことでもあったので家族葬にしたのですが、お坊さんに来て頂くこともなく葬儀を終えたので、初七日や49日法要など何もしておりません。 お骨は、義弟の家にありますが戒名が無いためお位牌もありません。 妹は嫁いだ身ですから、私の両親や私は宗派や供養の仕方について、なかなか意見を言い出せずにおりますが、ずっと違和感を感じるとともに、妹が成仏しないのではと悩んでおります。 自死したうえに、読経も戒名も法要も無しでは成仏できないのでしょうか? 妹が成仏できずに彷徨っているのではと思うと…私の両親も私も心が落ち着かず、悲しみが増すばかりです。 義弟も、気持ちがまだ落ち着かず妹の死を受け入れられないこともあり、今後の供養方もきちんと決められてないようですが…義弟の相談にはのるつもりです。 今後、どのように供養していけばよろしいのでしょうか? 義弟の家の近くのお寺を探して相談するべきか、他県在住の義弟の両親の家の近くのお寺に相談するべきでしょうか? ご意見、ご見解をよろしくお願いいたします。
はじめまして。 7月末に祖母が亡くなりました。 初七日まで祖母宅で過ごし、その後自宅に戻りました。(自宅は埼玉、祖母宅は岩手です) 帰宅したその日、夕方にいきなりリビングの証明が消えました。 今までこのような事はありません… リモコンもない為、間違えて消したわけではありません。 また数日後、今度は勝手に消えて、すぐにつきました。 体温計もひとりでに動き出し、35,5度と体温をはかりだしました。 こういう事が1ヶ月間ずっと続いています…。 今のマンションにも3年住んでますが、このような事はありませんでした。 祖母が亡くなってからです。 祖母が何か伝えたい事があるのか… それとも、違う霊が着いてきたのか… 自宅では、ホワイトセージを焚いたり盛り塩をしたり、知り合いから教えて貰ったことは実践しました。水晶や黒水晶も購入しました。 ですが、状況は変わらず…むしろ最近頻度が増えてきています… やはり、こういう事が起こると怖いです。 もうどうしたらいいのか分かりません… お祓いなどして頂いて、落ち着きますか? 又、お通夜のあたりから、ずっと私にだけ白い煙のような物が見えていたり、床に置いたバックがズズズッ…と動いたり、不思議な現象に見舞われています。 証明が消えたり、体温計が動いたりするのも私だけです。 なぜ、私だけこのような現象に見舞われているのでしょうか… ずっと続くのかと思うと、やはり怖いです…。
18歳になった息子が交通事故で他界しました。まだ49日も来ていません。 毎日泣いて泣いて泣きわめいても これが現実なんだと思う度に辛くて苦しくなります。 同じ様な経験をした人のブログやグリーフケアの人達の言葉も見ましたが、前を向けた人達の言葉であって、今、どん底にいる私には遥か遠い先の言葉にしか聞こえません。 毎日何もする気になれず、何かしようと思っても1つ1つに息子との思い出が蘇ってきて、また辛くなって・・・逃げ出したい。。 楽になりたい。。の繰り返しです。 事故の瞬間の事も考えてしまいます。 怖かっただろうな。痛かっただろうな。苦しかっただろうな。。 どんな思いを残していったのだろう…。 まだやりたい事もいっぱいあったのに、これからの進学も新生活も凄く楽しみにしていたのに、一瞬で消えてしまうなんてあんまりにも残酷すぎる。 そんな事ばかり考えてしまいます。 息子が居なくなったこれからの人生に、夢・希望・喜び・笑顔・楽しみ・を失って生きて行く意味さえも分からなくなります。
問5366 を拝見して、思い出したのです。 http://hasunoha.jp/questions/5366 既にいったん行き詰まった、混乱した者には、何かちょっと、持たせてやらねばと思ってしまうのです。 その上つい説き【すぎて】しまうのは、全く己の弱さのなせるところなのですが。 かつて行き詰まった己を動かしたのは、偶然手に取った本でした。 支持以上の、なにか実践的きっかけのようなものが、必要だったのです。 そういえば、対機説法というそうですが(問1099ほか)、釈迦はいかに聞き、いかに応えたのでしょうか。 思索の深まる答を欲します。
私は仕事のサボり癖が抜けず長い間悩んでいます。そのため様々な方に相談させていただきいろいろなアドバイスをいただきました。結局は問題はあまり解決していませんが、こんな相談を聞いていただいた方皆に感謝しています。 さて、この悩みを一度だけお坊さんに相談させていただいたことがあります。妻が昔、評判のよいある高名な僧侶に相談をしたことがあり、その伝手で私もお話を聞いていただけることになりました。 ただし、すでにかなりご高齢であったため、そのお寺に連絡した時点では残念なことにその僧侶の方はお隠れになられていて、跡を継いだ和尚様がいらっしゃいましたので、その御方にお話を聞いていただけることになったのです。 そのこと自体は大変有り難く、またその和尚様が比較的若いとはいえ不満を覚えたわけでもないのですが、しかし、やはりモヤモヤとするものが残ってしまったのです。 はっきり言って、20年近い間に多くの人に相談しておいて未だに解決しないものは、誰に相談しようがどんないい方法だろうが到底変わらないだろうことは感じつつあります。それでも、人生経験が豊富な方や、長年多くの人の悩みに向き合って来た方であれば何かあるのではないか、という考えが頭を離れません。 自分は有能な人や名声のある人に弱いのはわかっていて、それだけでは必ずしも意味はない、と言葉では頭に入れたことがあるものの、本当の意味では身についておらず、すごい人についていきたい、という願望が抜けません。 当時はありませんでしたが、このウェブサイトではたくさんの僧侶の方が様々な悩みにご回答されていて有り難く思います。私自身は仏教の業界にはまったく疎いのでどなたが高名か、などといったことはわかりませんが、しかし仮に評判のよい高名な僧侶の方がいたとして、そのような御方に相談することは意味があることと思えますでしょうか?
ハッキリ言うと 死にたいです。 自分には悪い性格というのがあって、我慢が出来ない 正直に本当のことを言ってしまう(相手にとって嫌なことでも) その性格が子供のころからず~と続いていて、あるとき ADHDという言葉を見かけて検索してみると 自分の悩んでいた問題がそれに当てはまることを知りました。 頭がいい訳でもなく、人とトラブルになりやすいです。 友達もハッキリ言うと自分の悪い性格のせいでいません 仕事をしていても 人との会話が苦手で問題ばかりで辞めてしまう どうしてもうまくいきません ハッキリ言って致命的なくらいに 人は自殺をすると罪という言葉が根強くあって死にたいという気持ちの反面 死ぬと地獄に落ちるのではと怖くてなかなか出来ないでいます。 自分は死後の世界について インターネットを利用して沢山調べました。 臨死体験、前世さまざまな事例について 今では人は死んでも魂というものがあると関心はしていますが今悩んでいる死にたい気持ち(自殺)がどうしても怖くて仕方ないです。 かといって自分の生まれ持った悩みは一生変えられません どうしたらいいのかという答えは間違いなくないでしょう 死んで人生をもう一度生まれ変わりでやり直したいのに どうしていいのかまったく分かりません 世の中を見てみると 戦争、貧困と不幸な人、そうでない人がいますが 動物の世界は喰うか喰われるかの命にかかわる世界 自分はそれを見ると、まだ不幸じゃないんだと思う時期もありました。 だけど自分の持つ悩みが自分を苦しめている現実からは逃げることは出来ません
地球の寿命はあと50億年と天文学では言われています。 つまり今ある社会や生物等は全て無になります。無価値となります。 世界では毎日のように苦しい事が起きています。 それを否定してこの世界は楽しい!と言っても地球は消滅します。 世の中には嫌な事ばかりあります。 常に人類だけでなく昆虫も動物も生ある物全て絶滅すれば良いのにと思っていますがそれが50億年後には事実となります。 つまり無価値な世界で盲目的に何の目的もないままみんな生きて行動してるわけです。 私にはまだ寿命がありますが、この世界に貢献したい気持ちもありませんし、人に優しくする動機も気持ちも喪失しました。 何故かというと怒りがあるからと思います。 それは生まれてきたくなかったのに生まされてこの嫌な世界を嫌というほど体験してるからです。 でもそれは良くないという気持ちが出て苦しくなります。 それに他人に対して危害を加えても罪悪感が出るので全く他人には迷惑をかけずに生きてます。 しかし他人に危害を加えて儲けたり稼いだりする人が世の中には腐るほどいます、例えば不動○産業界とか人材派○遣等の企業は人を搾取したりしていますよね。他人を搾取して平気な人が世の中に腐るほど沢山いて、私は世界は滅びれば良いという気持ちがあるのに他人には危害を加える事すらできない弱者という気持ちがあり何にも他者に利益や貢献を与えられず危害を加えることも出来ずに生きて、この世界を恨んで怒りをあらわにしてるのが苦しいです。
こんにちは。 お釈迦様は阿弥陀様が先輩で、地球に生まれてきてくれて、私たちにこんな約束をしてくれた先輩がいるんだよと教えてくれたっぽいのですが、アミダ様は私達の約束(信じてくれたら必ず救う)を守る代わりに、何かほかの仏様から罰を受けたりはしてないんですか?私たちの代わりにリスクを負ってないんですか?大丈夫なんですか? また、お釈迦様は、本当は阿弥陀様なんていないけど、いるという嘘を自分1人が担って私たちのために背負って行かれたという訳では無いのですか?
私は今イスラム教の国で留学中です。周りが熱心なので私も宗教について考えるようになりました。そこで現地人から神様について聞かれ「貴方は神様に何か頼んだり、願う時どの神様にしているの?」と言われました。はっきり言いますとその時の私は仏教についてがよく分かりませんでしたし、教えに今まで従っていたかも分かりません。なのでこの質問をされた時に戸惑ってしまいました。また、その時にイスラム教の教えを教えてくれましたが心は動かされませんでした。 そして最近インターネットで仏教の教えについて調べてみると仏教の教えは何となく救われた気分になり泣きそうになってしまいました。今まで全くもって宗教などに興味はありませんでしたが、もっと神様を信じたいと思いました。仏教をもっと信仰するにはどんなことから始めるのが良いですか?
お世話になります。 今すぐに死にたい、ということではないのですが、 私は、かねてから「自殺してはいけない理由」が分かりません。 遺族や他人に迷惑をかけるから、というのは理解できます。 しかし、生きているほうが周りに迷惑をかけてしまう者もあると思うのです。 私は同性愛者で、家族や伴侶はおらず、 将来、いわゆる無縁死や孤独死を迎えるのは、 ほぼ間違いないと考えています。 交通事故に遭うなどすれば別ですが、 そうそう都合よく、ぽっくりとは死ねないでしょうから、 体力が衰え、あるいは何かしら病を患うようになった頃からは、 例えば地域の民生委員や、市の高齢福祉課などに、 多少なりとお世話になってしまうでしょう。 そのような方々の手を煩わせ、 また、一般の方々が収めた税金を費やすべき価値が、 私の死にあろうはずが無いのです。 さらに、私は低所得者で、蓄えもございません。 つまり、死を迎える年齢の頃には、 金は無いわ身寄りは無いわ、 ただただ扱いづらいだけの年寄りになるのは、目に見えています。 これで認知症を患おうものなら、さらに厄介な存在となるでしょう。 だから、まだ体や頭が動くうちに、 無価値な自分自身に、落とし前をつけたいと考えてきました。 こちらの相談サイトで、 自殺を肯定するアドバイスなど頂けないのだろうと思います。 では、こんなクズでも生きていかねばならない理由を、 私に教えて頂けますでしょうか。 宜しくお願いします。
いつもお世話になっております。 また少し疑問に感じたことがありますので質問をさせていただきます。よろしくお願いいたします。 浄土真宗では、人はお浄土からこの世に生まれてきて、そして命が終わったらまたお浄土に帰っていく、そしてまたいつの日か、人びとを救う為にこの世に生まれてくる と説かれているかと思うのですが、 それでは人はもう、六道輪廻、輪廻転生を繰り返すことは今後はないということなのでしょうか? 人の死後の転生や、お浄土とこの世との関係について、皆様のご回答を頂けたら幸いです。 よろしくお願いいたします。
お釈迦様って本当にいたんですか。という問いについて、お坊さんはどうお答えしますか。 自己完結している問題なため、わざわざ投稿すると同調を求めているみたいでいやらしい……と思い控え、しかしやはりお坊さんのお考えが気になる……とうろうろしているうちにこんな時間に。 短く内容をまとめるのが苦手なため、事の発端から書かせて頂きます。 私は友人から相談をされると、自分の意見を伝えながら過去にとても納得した誰かの意見を交えて返答することがあります。 「いい考えだね」と言われたりすると、正直に「これはお釈迦様の言葉だよ」と伝えるわけです。 すると、「でもお釈迦様って本当にいた人?」と聞かれることがあります。 実在したかどうかもわからない人の言葉など信用ならないのだと。 私はその言葉にとても疑問を感じるのです。 自分がいい考えだと思ったのなら、お釈迦様がいるいないって関係なくない?と。 そんなことはいいから事実を答えろと言われても困ります。 だって大昔の人の存在をどうやって確認するんでしょう。 お釈迦様はいつでもあなたの心の中に……と哲学的な意味で考えたら、あなたも私も会ったことがあるでしょう。 キリストでは「本当に血を飲めば病気が治るの?」と言われたことがあります。 実は、私はキリストの血を飲んだことがないので、病気が治るかわかりません。 今度飲んだら教えます。 誰の言葉か、誰の作品か、それが説得力という重要な要素であることはわかります。 私もモップはダイソンのものを買います。 しかしその言葉が自分にとって解決策となるなら出所は関係ないと思うのです。 私はお釈迦様関連、哲学、聖書などの本を持っていますが、彼らの生い立ちなど知りません。 数分前までマリアの夫をヨハネという名前だと思っていました。本当の名前はヨ……忘れました。ヨハネでなかったことは確かです。 生い立ちを知らないと言いましたが、お釈迦様の映画は見たことがあります。お釈迦様が生まれた時、木々は喜び、草花は歌っていました。 私にとってマリアの夫の名前がヨ……であったか、お釈迦様が生まれた時本当に草木が歌っていたかなど何でもいいことです。 彼らの残した言葉には力があり、私を救うことには変わりありません。 お坊さんは「お釈迦様っていたの?」に、どうお答えになるのでしょうか。普通にいるよってお答えしますか?