43歳男性独身でアルバイト生活しています。 23歳の時にうつ病を発症して30歳手前まで療養して、今は元気ですがずっとアルバイト生活を継続しています。 病気を経験して人生観も変わり、もうあまり頑張りたくないのが本音です。 一度の人生そんなに生き急がなくてもゆっくりで良いではないのかという思いが強くなっています。 極端に言えば世の中の事が色々見えてしまって、冷めて見ている自分もいます。 勿論、生き方にこうでなければならないという決まりはないと思いますが、日々悶々としている自分がいます。 今の目標はこれだ!というものがなく日々過ごしています。 何とか健康体を取り戻せたということでいっぱいで充分だという考えもありますが このような考えで過ごすのはあまり良くないものでしょうか?
0歳の子育て中です。 ご飯を食べてくれなかったり夜泣きがひどかったりで最近余裕がありません。 今日もご飯を泣いたり遊んだりで食べてくれず、下げたらまた大泣きされて怒鳴ってしまいました。 母性がないのだと思います。 こんな母で申し訳ないという気持ちでいっぱいです。
初めまして。浄土真宗の思想についての質問です。 浄土真宗に「悪人正機」という思想がありますが、これはどんな悪人であっても阿弥陀仏様を信じれば浄土に往生することが出来るという意味なのでしょうか? もしそうなのだとしたら、数百万人を粛清した独裁者や数千億円を騙し取った詐欺師も阿弥陀仏様を信じてさえいれば浄土に往生することが出来るということになりますが、何だか不公平な気がしてなりません。 初歩的な質問ですいません。以前からずっと気になっていたので、この場をお借りして質問させていただきました。よろしくお願いいたします。
一般素人がお経唱えても大丈夫ですか? 前にどこかで、般若心経を一般素人が唱えると幽霊が寄ってきて危険。みたいなのを聞いたんですが、本当ですか? また、除霊効果のあるお経や、霊感上げる効果のあるお経ってあるんですか? よろしくお願いします
僕は日々陰鬱に生きていて、変わらなければならい節目を迎えた時、生きる意味について考えるキッカケを授かりました。生きる意味というか、今、生きているということに納得する理由がほしくて。僕はその理由をなんとなく自分の中に見出しました。 それは「人は善を為そうとし、真に為し得ない。優しくあろうとし、真に優しくあれない。愛そうとし、真に愛せない。」その善を為そうと、優しくあろうと、愛そうと努力することこそが生きる悦びだと、僕はそう納得していました。そしてその「生きる意味」を職業(カウンセラー、精神科医、臨床心理士、お坊さんなど)にしようと、大学を入り直すことさえ考えました。 しかし、その友達は、僕の生きる理由を「現実を決済する」こと、僕が信じる「美しいものを美しいものだと感じる心そのもの」を妄想と否定し、浄土、成仏の存在を真っ向から否定しました。 僕は、その友達の考えを否定することはできませんでした。かといって僕の本来持っていた考えを否定する気を起こそうとも思いませんでした。 またある人は「誰かがあなたに、本音や弱音を告白しているときに絶対に言ってはいけないことがある。正論です。」と言いました。 浄土、仏性、成仏は、そして仏教は、自己満足させるためだけの嘘なのでしょうか?美しいものを美しいものだと感じる僕のこの心は妄想でしかないのでしょうか? それは僕が在る、と考えれば在る、のだと信じておりますが、僕はこの途方もないやるせない気持ちをどうにかしたいのです。 僕は恐らくこの(実存哲学?という)正論を信じると一生不幸だと思い、しかも僕はそれに対してどうしようとすることもできないのです。 僕は、仏様から授かった自分の寿命を全うするために死ぬまで生きようと思っておりましたが、その考えが不安定にならざるを得ないのです。 僕はこの儚い気持ちにどう向き合えば良いのでしょうか?お智慧をお貸しください。 長く稚拙な文章となってしまい申し訳ありません。また仏教思想を自分勝手な解釈で捉えております。それは違うというところ、誤解があれば、感謝と敬意をもってお説教を受け賜わります。 便宜的に、思想的に、僕はその人を友達だと書きましたが、本当はツイッター内において、フォローフォロワーの関係にすらなっていない、赤の他人です。 (´・ω・`)...
4回目の質問になります。 原因不明の病で入退院を繰り返していましたが、確定診断がつきました。症例の少ない難病で治る事はないそうです。 頼れる身内はいません。市役所では生活保護を強く勧められました。 働く事も出来ず、生活保護を受け、社会参加も困難。 薬を飲んで、ただ息をしているだけ。 まだ40代です。 先は長いでしょう。 治らないけれど死ぬ事もない。 この生活を続ける事に何の意味があるのでしょう。 食事して寝て過ごす生活。 外出も困難。 生きる意味は何ですか? 「頑張って生きて下さい」と言われますが、生きていて何の意味があるのか分かりません。
現在、大学4回生です 中学生の時、突然に「死んだらどうなるんだ?」ということに気が付いて恐怖のあまり嗚咽が止まらなくなったのを覚えています。親に相談しようにも、タブーに触れるようで出来ませんでした。 その時は考えに考えて結局わからないということで放置していたのですが、ここ最近になってまたその考えがまたやってきました。 地元の信仰が浄土真宗本願寺派だったのでその考えに基づき、死生観を考えていたのですが、納得できませんでした。 納得というか、信じきれてないというのが現状なのかもしれません。 真に信仰が出来ていたらそもそもこの質問が出ないことになりますから。 どうしても考え方に疑いを持ってしまうのです。「ホンマかいな」と。この「ホンマかいな」自体が信仰に対する冒涜、罪なんでしょうか。 化学に詳しいわけではないのですが、どうもその前提に結び付けてしまします。(無知なのは重々承知しています)生きている状態なのになぜ人の死後が説けるのか?とか。脳がないのに意識は死後存在し続けるのか?、お浄土は本当にあるの?などです 臨死体験も結局は死に切れてないですし、死後の見解が地域、信仰、人によってそれぞれ違うのも疑問です かといって「死後は無なんだよ」「意識はただの脳内の電気信号なんだよ」と言われればとんでもないくらいの恐怖にのたうち回ります。死後、体も感覚も思考も、自分自身も消えてなくなり、二度と目覚めることはない。そんな状態が永遠に続くと思うと... 様々な文献、記事を読み漁っても「そういう考え方もあるのか」程度にしかとれず合点がいきません。 今を生きることこそが大切、もっと他にすることがあるんじゃないの?と言われそうですが、そうではないんです。死後が知りたいのです。 利己的な見解ばかりで申し訳ありません 自分自身でも、どう質問してよいか漠然としててわからないのです 僕以上に、もっとつらい思いをしている人がいる中で... ここまでの人生、たった21年の短い人生ですが、何不自由なく生かされてきました。両親、祖父母そして周りの人々には感謝しきれません。これから、家族やお世話になる人達にいっぱい自分の受けたモノをお返ししていきたいです。 故に死の恐怖にここから先の人生を邪魔されたくありません。 どうか僕に納得できるようなお考えを教えてください。
拝む意味を知りたいです。 お釈迦様や仏教の教えには興味がありますが拝むことに抵抗があります。 「拝む」ことが成仏したいからとか、仏様に縋る気持ちであるのなら凄い強欲に感じます。 以前、法話会で「仏様を拝んでいたら逆に仏様に拝まれていたことに気付いた」みたいなことを教えてもらいました。 拝むことで欠けている自分に気付いたり、振り返ったりできることが拝むことの一つなんでしょうか? 自分に欠けているものを見つけることでより良い自分を目指すも強欲に感じます。 それとも欲ではなく「感謝を知る」ということなのでしょうか? 仏教の知識が豊富というわけではありません。 拝む意味を簡単に教えてください。
お坊さんたちに4つ質問がございます。 どんなに難しい回答となってしまっても構いませんので(仏教を勉強して頑張って理解します)、何卒よろしくお願いします。 ① 人はなぜ、自分自身によって「よいもの・正しいもの」と判断したものを否定されると、自分という存在が否定されたのだと思ってしまうのでしょうか。 ② 人はなぜ、自分という存在が否定されたと思うと、反射的に絶望した感覚へと陥ってしまうのでしょうか。 ③ 人はなぜ、この「絶望した感覚」によって自ずと苦しんでしまうのでしょうか。 ④ 「諸法無我」という教えが仏教にはありますが、上記の一連の流れをリアルタイムで実際に感じている「その“感覚”」及び「主体」も「諸法無我」なのでしょうか。もしそうであるならば、どうすれば「その“感覚”及び主体は諸法無我である」と実感できるのでしょうか。
自分は比較的仕事も人間関係もそつなくこなせるタイプだとは思いますが、特に人間関係に対して、心の中の根底にある自信のなさと弱さから、毎度当たり障りのない自分の意見を押し殺したような対応になってしまう為、苦しいです。 自分の理想が自分の現在の内面とは真逆なので、余計に自己嫌悪に陥ってしまいます。 この性格を治せるのならどんなことでも構いません。何か良い方法がありましたら教えていただきたいです。
ここで一度お世話になり、仏門に興味が湧き 元々、下手なりにも書道を趣味としていたのもあって 写経を始めてみようかと思っていました そうした話を友人、知人に話していたら タイトル名のようなことを言われました 知人によると、お経と言うものは修行を積み 徳を重ねた人が唱えることに意味があるのであって 素人がむやみやたらと、お坊さんの真似をするのはやめた方がいい まして写経なんて、なにかおかしなことがあってもおかしく無い程の やってはいけない行為だと言われました 書店では、初めての写経と書かれた本もたくさん見かけます 宗派によって考え方が違うのでしょうか 私の家は曹洞宗のようですが 自分自身、仏教徒ではあると思います。 と言うより、それしか知りません キリスト様より、お地蔵さんの方が気軽に挨拶できます 写経って、やはり辞めておいたほうが良いことでしょうか
科学的に見れば生きる意味などなく、生物は子孫を残すために生きており子孫を残してきたことや進化も結果にすぎず目的などないそうです。 宇宙には究極的な意志や目的など何もないそうです。 ならば生きる理由は各々が勝手に決めることなのですが、今幸せじゃないしこれからも幸せになる見込みがないなら死ぬというのも勝手だと思うのですがなぜみんな批判するのでしょう? 最近本当に人生辛いし、今まで生きてきても良いことなんてほとんどなかったしこれからもある見込みもありません。これ以上辛い思いをするくらいなら死んだほうがマシと思っているのですが何がいけないのでしょう?
北朝鮮情勢が緊迫し、アメリカが日本海に空母を送り込んだあたりから「自分は近いうち死んでしまうのではないか?」と思うようになってしまいました。 戦争に対する恐怖感は、ここで他の方の質問の回答を見てだいぶ無くなりましたが、(といっても北朝鮮に加え中国や韓国も怖いですが) 最近、調べ物をしてたら「死海文書によると2018年に人類滅亡」とか、今年とそれ以降の人類滅亡に関する予言とか、そういった予言の記事を偶然発見し見てしまい、最近はそっちの方に恐怖感を抱いています。 ノストラダムスの予言の後に生まれたので、ノストラダムスに関してはあまり知りませんが、2012年のマヤ文明の予言にはすごくビビっていた記憶があります。 そういった記事を見てしまったおかげで、頭の中で終末の時の感じとかを想像してしまったりして怯えたり、「今すぐ世界の終わりが来たらどうしよう」などといったことを四六時中考えてしまったりするようになって体調がさらに悪化し、この間主治医に相談して精神安定剤もまた飲み始めましたが、それでもこの胸の気持ち悪さは治りません。主治医の先生には環境が変わって気が張ってるのかな?って言われましたが、そうでもない気もします。 「まだ見たい景色や、やりたい事も沢山あるのに、若いうちに死にたくない!そういった予言怖いわ!そんな全人類が一斉に死ぬなら戦争で死んだ方がまだマシ!だけど戦争も怖い!」って思うのと、今までの人生ろくなことがなかった自分の母親の人生についに光が射し始めているというのに、こんな予言に振り回されたり恐怖感を持ち体調を思いっきり崩したりして母親を振り回している自分が恥ずかしいです。 一日でも長く生き延びるために、この負のスパイラルから抜け出したいです。 長文乱文失礼しました。
いつも読ませて頂いております。 いくつもいくつも聞きたいことがありますが、今度は自殺についてお訪ねします。 身近な人が、自殺しました。 あれから10年近く経ちますが、未だに時々思いだしては泣けてしまいます。 何故自殺したのか。 いくつか原因は思い当たることがあります。 あくまで想像になってしまいますが、体のこと、お金のことです。 何かしてあげられなかったのかなといまだに悔やまれます。 今更ですよね。 でも、ずっとずっと考えてしまいます。 自殺した人は、成仏できないと言いますよね。 この世で生きるというのは、修行だと。 それを自らの手で終わらせるというのは、仏教の考えでは罪になるのでしょうか。 また、自殺した人に対して私はどう考えていけば良いのでしょうか。 あの人が自殺したあの日あの時間から、時が止まっているように感じるときがあって、思い出したらその瞬間に引き戻されるような悲しみに襲われるときがあって、苦しいです。
人間とは偽善と悪の塊だとは思いませんか?
夫とはいろいろあって愛情はまったくありません。家庭内別居状態です。 子供は成人し、子育ても終わり、空の巣症候群で空虚な毎日でした。 そんな時、会社の若い男性に優しくされ、好きになってしまいました。 歳も離れていて、恋愛感情で誘ってくれているのではないと頭ではわかってますが、食事や映画に誘われ、女性として扱われて、依存してしまったんだと思います。 彼にはもうすぐ結婚する彼女がいるのも分かっていますが、その話を聞くたびに嫉妬で苦しいのです。いい歳して情けなくなります。 忘れたいのですが、毎日会社で会うのでなかなか難しいです。 周りの人は、みんな恋人がいたり夫婦仲が良かったりで、自分だけが誰からも愛されていない気がして寂しくて虚しい毎日です。 ただただ、その彼と会社でしゃべったり、食事に行ったりだけが楽しみですが、私から誘うことはできないので、ひたすら誘ってくれるのを待って、また苦しくなります。いい歳をしたおばさんなのに彼の言動に一喜一憂してしまう自分が情けなくて嫌になります。 何にも依存しない強い心になりたいです。 以前、仏教では「依存すると苦しいですよ」という教えがあると聞いたことがあります。 では、依存しない心になるには、どのように暮らせばいいのでしょうか 一人でも強く何事にも動じることなく生きていきたいのです。 具体的な考え方を教えてください 漠然とした悩みですが、よろしくお願いいたします。
今月41歳の兄が自死をしました。 兄とは普段連絡はたまにとっていたのですが、些細な事で一カ月前くらいにブロックをして最近解除していたのですがたまたま自分からも連絡をしておらずその間に亡くなってしまい後悔だらけです。 兄は精神薬を長年飲んでいて最近は肺や足が悪くなり、食事をしても吐くような状態で最後らへんは栄養飲料を食事代わりに飲んでいたようです。遺品整理をしていた時に大量の缶を見て初めて知りました。 自死の理由がどの理由かははっきりはわからないのですが、母に話を聞いてほしいと以前電話がきたらしいのですが母は抗がん剤中や、義母の認知症が進み忙しく、話もろくにきいてあげられなかったらしく後悔しています。 亡くなった日は病院に行った形跡があって肺の検査もしていました。強い吸入器が処方されていました。 母の大変な状況も理解していて、迷惑をかけまいと1人でいってしまったのかなと色々考えてしまいます。 そんなに悩んでいたなら連絡をしたり支えになってあげればよかったと毎日悔やみます。 兄を助けてあげたり、辛さに気づいてあげることもできず、優しい言葉もかけてあげられなかった 自分が生き残っていることにすごい罪悪感で自分が幸せになる資格があるのかと思ってしまいます。 遺品整理をしたときの、血のついたナイフや 部屋の光景、最後の骨になった姿がショックすぎて忘れられません ただ、一番最後に見た顔は安らかに見えたので少し安心はしました。 兄を救えなかった事に、毎日罪悪感と後悔です 今後どんな気持ちで生きていけば良いでしょうか お言葉頂けたら幸いです
辛いことがあり落ち込んでいます。 友人は励ましてくれ、よく話も聞いてくれていました。 しかし、最近はその友人の言葉さえ信じられなくなってしまいました。 その時に、ここまでしてくれる友人でさえ疑ってしまうなんて、自分は壊れてしまったんだと思いました。 時間が経てば落ち着くとか、辛い気持ちを受け入れようとか、それは分かっています。 しかし、今が辛くてたえられません。 こんな辛い思いをしながら日々過ごしていくぐらいなら、またこの先辛いことがあるかもしれないなら、いっそ死んでしまってもいいと思います。 自分は弱い人間なのでしょうか?
突然、シビアな質問をお許しください。 即身仏になられた尊いお坊様が過去にはおられたと、承ったことがございますが、現在は法律で禁止されていますので、詳しいことは解りがたいとは存じます。 しかし、そのような厳しい修行をされた方のご心境を拝聴したく質問させていただくのをお許しください。 この世の一切の無常を憂いてなさるのか、ご自身の身を捧げてこの世の幸せを願われたのか、はたまた修行の果ての純粋なご心境であって我々凡人では到達しえない境地からなさるのか、どなたか教えて頂けませんでしょうか。よろしくお願いいたします。
長いです、申し訳ありません。 去年の10月まで母方の祖母、父方の祖父母が存命でした。親子犬2匹(10歳、5歳)飼っていました。 犬は5年前に保護犬を里親として引き取り、大事に育てて過ごしてきました。(親犬は当時から心臓が悪かった) 昨年の3月、4歳だった子の方の犬に悪性腫瘍が見つかり治療開始しました。治癒困難と言われていましたが半年かけて寛解しました。 同じ頃に父方の祖母の癌がみつかりこちらも手術しました。(がのちに再発) 昨年10月に祖父(97)が急死。 今年2月に長らく寝たきりだった母方の祖母(96)が無くなり、その10日ほど後に心臓病が悪化した親犬が亡くなりました。 5月に容態が急激に悪化した父方祖母が入院後1週間で亡くなりました。 1ヶ月後の6月に悪性腫瘍再発で治療中だった子の方の犬(5歳)が急死。前日まで元気に遊んでいたのでとても急に感じました。 半年の間に祖父母3人と犬2匹を失い、非常に落ち込みました。しかし祖父母は高齢であり、親犬も心臓が元々悪かったので悲しいながらも納得しています。 職業柄生死について考えることは多く、乱暴な言い方ですが死に抵抗はあまりありません。 死ぬことや病気にかかるという事は誰のせいでもなく、誰にもコントロールできることではなく、仕方のないことだと思っているのです。出来るだけのことはして、それ以上は人ではなす術もないと思っております。 しかし、若くして亡くなった犬の事を考えると未だに涙がとまりません。納得がいかないのです。なぜ普通若い犬がかからないような悪性の病気にかかってしまったのか。苦しまずに急に亡くなってよかったと思う反面、元気だったのに急に亡くなったことに心がついていかない。 でも本当はこうなることは病気が見つかった時からわかっていました。命が長くないこと。でももしかして治るかもしれないと、奇跡を信じて現実から目を背けてしまった。 日常生活はいつもと変わらず過ごしており、誰にもこの感情は話していません。 時間以外にこの悲しみを和らげるお言葉をいただければと思います。