お坊様に質問です なぜ人は輪廻転生をするのですか? 人が生まれる理由はなんですか?
私は、17才から25才までの間に6回中絶しました。 そのうち1度は子宮外妊娠でした。 産むことが出来なかった、というより、本心では産みたくありませんでした。 どの時も、相手との結婚を望めなかったからです。 内、3人の子供の父親とは10年一緒に暮らしましたが、相手が結婚を望まず、また私への返済も断られました。様々に気持ちが限界で、家財も全て置いて私は部屋を出ました。私には親はいません。 今はOLとして勤めていますが、様々な経緯から風俗経験もあり、経済的にもボロボロです。 部屋を出る費用もどこからも借りられず、友人夫婦から借りましたが、彼を訴える事は止められました。感謝する反面、友人夫婦は彼と仲が良く、何故かとても悔しかったです。 1人になっても全うに生きることはない。 絶対に過去がついてくるから、真っ直ぐな世界には行くまい。怖い。 そう思っていました。 でも、そんな私にプロポーズしてくれた人が居ます。 とても大切にしてくれて、私と会えて幸せと言ってくれます。 風俗に勤めていたこと、こういった過去がある事は言っていません。 結婚の話があっという間に進む中、経済的に厳しい事は話し了承してくれましたが、それでも前の彼と別れるために友人からお金を借りたと言えず、取り繕いながらこっそり夜のお店でアルバイトをしています。 とても惨めです。 望み続けた幸せの筈なのに、毎日過去の事を思い出して、後悔ばかりしています。 唐突に死にたくなります。 もう、普通の顔をして生きて行きたいけれど、これだけの事をした自分を許したらどうなるのか。 望まず子供を殺しておいて気休めに謝って、そんなに救われたいのかと。 自分の事ばかりですが、何か幸せに繋がる事を想像しただけで大きなストップがかかります。 浅ましいと思います。 逆恨みと知りつつ友人夫婦の事も、また前の彼の事も、自分の事も許せません。 ただ、もう、投げ出したくも逃げたくもないのです。 気持ちが壊れそうです。 過去と事実をどう受け止めればいいのでしょうか。 全て忘れて人並み(もしかしたらそれ以上)の幸せを手にしたとて、その先に何があるのでしょうか。
最近瞑想に励んでおります。 ヴィッパサナー瞑想です。すごく良い意味で自分に変化があり、怒ったり周囲に不満を感じることがなくなりました。 しかし、それと同時に欲というものが全くなくなってしまって、これをどう理解してよいのか戸惑っております。 私は今まで欲がものを言う世界で生きておりました。 競争社会です。誰よりも上手になりたい、誰よりも良い指導者でありたい、出来ないことは克服したい、そういう気持ちがあったからこそここまで来れたのです。 しかし、こういった欲が全くなくなってしまったのです。 むしろ、私はこんなことに時間を費やして一体何をしているのだろうか、と疑問にすら思います。価値観が、まったく逆転してしまったのです。自分が良かれと思ってやってきたことは実は単なる執着であった。 この執着がもたらす苦しみからはなるほど解放されました。 けれど、ダイアモンドだと信じていたものが単なる石だったと気がついたかのように、とてつもない虚無感に襲われています。けれど幸せかと問われれば今までより幸せなのです。 すごく情熱を感じることや、とにかく楽しくてしょうがない感覚が全くありません。逆に嫌だとか嫌悪する気持ちもありません。 このまま同じ仕事を続けられるのかわかりません。 全く違う新しい価値観で向き合うべきなのか、別のものを選ぶべきなのか、迷っております。
お年玉あげる人いないんでさみしいなと思ってたけど、とうさんとかあさんにあげたら喜んでくれました。幸せです。幸せだなって思います。幸せな事って身近にたくさんあるんですね。お休みは明日までです。
仏教の教えで、なぜ私たちは他人の幸せを気にするべきとありますがなぜですか? また、経典に従えば道徳的な心の改善はできますか?
仏教的には人間なんのために生きてるんですか?
貪・瞋・癡という言葉を知りました、それぞれ難しいのですが特にこの癡が分かりません、他と自を分けないとの言葉の意味は理解しますが、実際の自分には理解出来ないのです、体感が大事とのことですが、どうしてもその状態が浮かんで来ません。 確かに自と他を分けないということは人に優しく出来ますし、人の為になることを躊躇いなく出来ると思います、今まで自分のことしか考えなくて、人に優しくするのは人に好かれたいからだとこの年にして気が付きました、こんな生き方は人として情けないですし、人に対しての思いやりなどはまったくの嘘ということになります、これは人として生きていることにならないという気がします。 そんな自分にこの癡がなにか少しでも分かれば、生き方も人への接し方も少しは変わるのかなと思っています。 このような質問で申し訳ありませんが、お答えをいただければ大変有り難いです、よろしくお願いいたします。
この間から、お墓や納骨のことで何度も質問させていただいております。次々と申し訳ありません。 亡くなって7ヶ月、私と母の二人暮らしでした。四十九日を過ぎた頃、亡くなった母の遺品といっていいのかも分かりませんが、二人兄弟の兄に遺品分けをするといったところ、要らないと。姪たちは洋服等を持ち帰りました。特に高価な物や資産も無いためそのままにしていましたが、生前は誰かが訪問して家に上がることもなく、夜に突然病院に運び、私が付き添っていたので母の部屋も布団を畳んだだけで、何の整理もしていなかったのですが、母の他界後、何かと人の出入りが多くなり、(私が鬱になったことから、医師に早く片付けろと言われたこともあり)仏壇も母の部屋にあるため、ある程度大きな物は整理をし、業者に頼み処分しました。 長らく二人暮らしだったので、家中に細々した母の物があり、大切にしていたものを残し、少しづつ処分しているのですが、飲み薬や目薬等、病気であったため常に使っていた薬品があります。 あの世で苦痛があっては可愛そうと思い、納棺時に入れようとした時、葬儀業者さんが入れないようにと。亡くなってもう苦痛はないからと言われました。 今日ももう捨てようと思いましたが、どうしても捨てられず、またいつも保管していた所へ、いつでもつかえるようにと戻しました。 いつまでも置いていると、母はいつまでも苦痛から解き放たれないのでしょうか?亡くなると仏様となり、すべての苦痛から解かれるのですか?早く捨てないといつまでも苦しませることになりますか? 病院から葬儀社へ運び、顔に掛けた布をめくると、病院で鼻からチューブを抜いて時間が経っていなかったためか、血液が流れており、拭いてやったのですが、亡くなってもなお苦しむのかと思い、目薬を入れ、唇が荒れ、いつもリップクリームを塗っていたのでリップも塗ってあげました。 長文になってしまい申し訳ありません。
こんにちは。以前は失礼なご質問をして申し訳ありませんでした。再度こちらで質問させていただきます。 私は将来の進路として、自衛官になることを考えています。災害派遣や国の防衛など、社会の役にたつ機会が多いと考えたためです。 しかしながら、政府の集団的自衛権の行使容認などもあって、自衛隊は将来、戦闘地域に派遣される可能性が高くなっています。 そこでご質問なのですが、万が一戦闘となり人を殺めることになった場合は、仏教の立場からはやはり不殺生戒を犯す罪になるのでしょうか? 不殺生戒を犯すことになるかもしれないと思うと、応募するのに気が引けてしまうことも確かです。 僧侶の方のご意見を是非伺いたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
重複した質問がありましたら、ごめんなさい。 以前、別なことで質問した時、ご回答をいただきまして、ありがとうございました。 人はなぜ手を合わせるのでしょうか? 仏様、神様、人にお願いする時やご飯の前、 祈らずにはいられない心境の時など。 なぜ手を合わせずにはいられないのでしょうか?(無意識に) 毎日、手を合わせている時に、ふと思ったのです。 疑問に思うこと自体間違っているのかもしれませんが… 色々、調べてみましたが難しく良くわかりません。 申し訳ごさいませんが、私の様な無知な人間にも分かり易く ご教授いただけないでしょうか? よろしくお願い致します。
仏教の修行において師との対話が大切だと思ったので、私の修行をチェックしていただこうと思い投稿することにしました。 座禅を組み「ぎゃーてぃぎゃーてぃ」と呪文を唱え頭を空にし、 歯磨きなどの行為の間も頭を空にしました。 一日中この修行をしていると、心が水のようになり、世界が静かになりました。 さらに頭もすっきりとして、座禅を組まなくてもこの状態が続き、 あらゆる事柄も自分も、まるで他人ごとのように流れとして感じるようになりました。 この状態は修業が良い方向に進んでいることを示していますか?
松本史朗氏は『チベット仏教哲学』に於いてツォンカパを称賛される一方で、 「縁起説を擁護するツォンカパでも、縁起よりも無自性を重視し過ぎてしまった事により、 論理的矛盾から逃れられなかった。」(意訳) と仰っておられますが、果たしてツォンカパの論理的矛盾とはどういう物でしょうか?
久しぶりに相談させていただきます。もし過去の相談に答えてくださっている方がおられましたら、その節は本当にありがとうございました。 最近、日常生活の中でしんどいことやつらいことが多く、もう死んでしまいたいと思ってしまうこともあります。そのようなことをこの前、クリスチャンの友人に相談したところ、彼女はしんどい時は神様に「状況がよくなりますように、神様支えてください」とお祈りするのだと言っていました。 そこでふと疑問に思ったのですが、浄土真宗(家の宗派なので、他は詳しくなくてすみません)では南無阿弥陀仏とお唱えすれば極楽に行けるといいますよね。しかし、今現在苦しいときに、仏様にお祈りなどをして頼ったり、支えていただいたりすることはできないのでしょうか。仏様にお願いできるのは極楽に行くことだけなのでしょうか。 もしよろしければ教えていただけると幸いです。よろしくお願いします。
般若心経の意味と般若心経を仏壇等に対して唱える意味を教えて下さい。
自分は現在 自律神経失調症 パニック障害 強迫性障害です。 写経をしたり座禅会に参加したりしてますが 中々自分の感情をコントロールするのが少し難しいです。 少しでも自分の感情をコントロールする方法がありましたらアドバイスいただきたいです。 よろしくお願いいたします。
キリスト教では体が不自由でも障害をもっていても、また病気などによる身体的な理由で体力がなく例えば車いすが必要なひとでも、精神的に思考する能力がある場合、信仰を持ち研鑽を積み牧師になることができます。 仏教の場合、出家をした後の修行が厳しいようですが、仏教僧になるという道はそういった修行ができない身体的弱者には開かれていないということなのでしょうか。 1.例えば麻痺で体の一部がゆっくりしか動かせないひとや、生まれ持って歩けないひとや腕がないひと、声帯に問題があり機械でしか話せないひと、聴覚に問題があるひとなどは、どんなに頭が正常で思考する能力があっても掃除や行ができないため仏教の僧になることはできないのでしょうか? またはがんなどの病気をしたため体力的に限界があり一般にその行をしなければ僧としてみとめられないとされるもの(例えば天台宗なら比叡山での修行など)が体力的な理由でできない場合、それでも出家したいと願う場合、そのひとにはまるで仏教僧になる道は開かれていないのでしょうか。 2.その場合その理由というのは単純に物理的にできないということだけで判断されてしまうのでしょうか?もしもそうならば、それはどう正当化されているのでしょうか?そして、それをかえる動きはあるのでしょうか? よろしくお願いいたします。
初めて利用させていただきます。 わかりにくい日本語かも知れませんが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。 今に始まったことではないですが、 やる気が続かない・努力ができない こんな状態が今まで以上に強くなっています。 やる気が出る時はもちろんあるのですが、短時間です。 すぐ集中が切れ、やらなくてはならないことができなくなってしまいます。 努力ができないなんて、自分次第ですし、そんなの甘えでしかないのはわかってます。 だからこそ、どう足掻いても努力が少ししかできない・自分に甘すぎるような今の自分だったら、 社会に必要ないですし生きる意味もないかなぁと思ってしまいます。 だからといってもちろん自分で生命を絶つ勇気もないです。 要するに、僕自身目標はしっかりしたものを持っているのに、それに向けての努力ができない。もう自分が何がしたいのかわからないし、どうすればいいかもわかりません。 うまく言えませんが、どーすればいいかアドバイスがいただければと思います。何が質問なのか自分でもあやふやになってるので、答えにくいと思いますが誰にもこんなこと言えないですし、このようなとこでしかいうことが出来ないです。よろしくお願いします。
質問させて頂きますハルソラと申します。 仏教の学びから、観音さまの慈悲の心に感銘を受け、慈悲の心を身に付けたいと思っています。 しかしながら現実の私の行動を鑑みるに、慈悲を実行できてるとは到底思えません。 それは慈悲に対して、概念的な理解だけにとどまり、エゴ(自己中心的な考え)を離れる事が出来ないためだと考えています。 とある座禅会に参加した際に、和尚さんにそれを質問したところ 「体験を通して学ぶことです」 という有り難いお言葉を頂きましたが、何をどう体験すれば良いのか分からず進歩がありません。 慈悲の心を身に付けるための体験とはなんでしょう。 また考え方の上の事でも構いません。慈悲を身に付けるためのご教授よろしくお願い致します。
正直と善行のどちらをまず取るべきなのか悩んでいます。 まず、善行とは誰か自分以外の人のためになることをすることだと思っています。これは同時に、自分以外の人を傷つけることはしてはならないということだと思います。 しかし善なる本心のついてこない善行は偽善に過ぎず、結局は背後にある虚無的思考や悪い意図が露呈して失敗するから、まずは自分の思いに正直であり、正直な状態で自然と善行を行うようになるまで待つべきなのではないか、というふうに考えることがあります。 一方で同時に、自分が正直にあると暗く冷たく幼く醜く、共感に乏しい人間にしかならないので、嘘でも善行を行なって本心がそれについてくるのを待つべきなのではないか、というふうに考えることもあります。 共感に乏しい自分の正直な本心では、善行を行うことはできないと思うので、正直であると同時に善行を行うというのは考え難いです。 仏教について何も勉強しておらず、要領を得ないうえ何の文脈も踏まえていない駄文となってしまったかもしれませんが、宜しければお知恵をお貸しください。お坊さんが何を善行と考えるかについても、もし宜しければお教えいただければ幸いです。
観音経と延命十句観音経の違いを詳しく教えてください。