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hasunoha 問答検索結果 : 「悟り」
検索結果: 2148件

故人のためにできること

いつもありがとうございます。 他の方の問答、法話なども拝見、拝聴しておりますが、良く分からないのでご指導ください。 大切な彼が亡くなりました。 彼を支えられなかったことを後悔しています。 あんなに素敵で優しい彼は死を選ぶほど辛かったにも関わらず、彼の優しさに甘えるばかりの自分勝手で未熟な私は今もこうして息をして食事をとって、生きています。 毎月お墓参りを欠かさず、ご先祖さまの供養やや親孝行をしていた彼がこんなに苦しみ、ご先祖さまのお墓参りも行かない私は生きています。 毎日彼を想って、お経や念仏を唱え、思い出を辿り、彼の好きな曲を聞き、彼に話しかけ涙しています。 しかし、これらは結局遺された私のために行っていることで、彼のためにはなりません。 もちろん、優しい彼は、私の幸せを祈ってくれていると思います。逆の立場でも、私は彼の幸せを願います。 それでも、これ以上ない愛と優しさで包んでくれた彼に何も返せないことが辛くて辛くてたまりません。 亡くなったことで、彼は苦しみから解放されたのだと思います。 それでも、なぜ皆に優しかった彼があんなに苦しまなければいけなかったのかと考えると悲しく悔しく、彼が報われないと思ってしまいます。 遺された私のためにではなく、彼のためになることは何があるのでしょうか。

有り難し有り難し 3
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真言密教からみた障害者の立場

いつもお世話になっております。 まずは先に、お詫びとお願いを申し上げます。 この質問の題名および趣旨が私の見当違いであった場合は、平にご容赦くださいますようお願い申し上げます。 ご縁を新たにして以来、今のところは具合が順調に落ち着いております。ですが、あらたなお寺も件の寺と同じ新義真言宗の寺院です。 件の寺では、しゃべり好きのおじいちゃんが若いお客様に一生懸命お寺のルーツや住職さんの経歴を聞かせてあげていたのをカウンターの寺務員さんが集団でにらみつけていたり、 祈祷の後のお話でお坊さんが「ちょっと指導を受けただけで退職や中退してしまうような弱いお子さんに育ててはだめですよ…」などと言っておられたり… そこで、ご質問させていただきます。 真言密教、おもに新義真言宗では自分で覚りを開く能力のない障害者や病人、そしていわゆる「弱い人」は、 救済や極楽往生の対象ではないのでしょうか。地獄や畜生道、餓鬼道などに落ちてしまってもかまうな、という教えなのでしょうか。 私は平日の昼間に出歩くなど頻繁なので、次のお寺様とご縁が切れてしまったり、大好きな仏さまと疎遠になってしまうのは悲しいです。 私たちは、真言宗さんにお参りしても本当にいいんですか? 見当違いな質問だったら大変申し訳ございません。 これからも様々な仏様とのご縁を大切にしていきたいので、 どうかご教授願います。

有り難し有り難し 12
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解き放たれた気がします

前回までの質問を通して、大学に入ってから今までずっと悩んで悩んで自分を苦しめていました。 ですがようやく自分の中で気づきがありました。本当に頭にビリビリきました笑。 それが「許すことは、認めること」です。 そう考え始めた瞬間に今までずっとモヤモヤゴチャゴチャしていたものが、なくなっていき、また点が線になったような感覚がありました。 自分が発言し、行動したこと全てが派生していって、巡り巡って今目の前で良くも悪くも縁として起こっているんだと思いました。 その中には良い習慣でのことも悪い習慣でのこともあります。悪いことだけにとらわれていましたが気づきのおかげでわかりました。 大学での私は一言で「逃避」そのもの。全てから逃げました。 大学での私のゴール、卒業や格闘技が強くなることだったり、なにより大きな壁に道を塞がれた自分から逃げていました。 中学では厳しくも愛のある監督のもと毎朝7時に学校へ行き全校の清掃から始まり、ただ勝てばいいというだけでなく人間的な部分まで本当にたくさんのことを教えてもらい結果も残せました。まわし姿で学校の周りを走らされたり校外のゴミ拾いなどさせられましたがそれも良い思い出です笑 それらの環境のギャップと現実から目を背けていました。その現状を認めることができていなかったんです。 あの時今のように考えられたら違ったかも、とも思ったりしましたが恐らく無理だったでしょう。 なぜなら今こうして、テレビでたまたま見て頭の隅にあったhasunohaに質問をし解答をいただけたこと、そのおかげで考えが今に至ることができたからです。そういうご縁があったからです。未来に答えがあったからです。 今まで過去の中に見つからない答えを探していました。弱い自分を認めず何かのせいにしていました。でももうそんな今までのクソッタレな自分とはおさらばです。弱い自分を、大学に入ってからの出来事を認めました。 そして中学、大学の経験は人生においてものすごく意味と価値のあるものだったと心底実感できます。↑と↓を今までの人生で学びました。これからを形作るのは今この瞬間のこれまでです。 大学に関してはもう1年行かせてもらえるかはわかりませんが誠意を持ってお願いしてみます。 もっともっと言いたいことはありますが字数の関係で終わりにします。 本当に有難うございました。

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身体的弱者と仏教

キリスト教では体が不自由でも障害をもっていても、また病気などによる身体的な理由で体力がなく例えば車いすが必要なひとでも、精神的に思考する能力がある場合、信仰を持ち研鑽を積み牧師になることができます。 仏教の場合、出家をした後の修行が厳しいようですが、仏教僧になるという道はそういった修行ができない身体的弱者には開かれていないということなのでしょうか。 1.例えば麻痺で体の一部がゆっくりしか動かせないひとや、生まれ持って歩けないひとや腕がないひと、声帯に問題があり機械でしか話せないひと、聴覚に問題があるひとなどは、どんなに頭が正常で思考する能力があっても掃除や行ができないため仏教の僧になることはできないのでしょうか? またはがんなどの病気をしたため体力的に限界があり一般にその行をしなければ僧としてみとめられないとされるもの(例えば天台宗なら比叡山での修行など)が体力的な理由でできない場合、それでも出家したいと願う場合、そのひとにはまるで仏教僧になる道は開かれていないのでしょうか。 2.その場合その理由というのは単純に物理的にできないということだけで判断されてしまうのでしょうか?もしもそうならば、それはどう正当化されているのでしょうか?そして、それをかえる動きはあるのでしょうか? よろしくお願いいたします。

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正直と善行のどちらをまず取るべきなのでしょうか

正直と善行のどちらをまず取るべきなのか悩んでいます。 まず、善行とは誰か自分以外の人のためになることをすることだと思っています。これは同時に、自分以外の人を傷つけることはしてはならないということだと思います。 しかし善なる本心のついてこない善行は偽善に過ぎず、結局は背後にある虚無的思考や悪い意図が露呈して失敗するから、まずは自分の思いに正直であり、正直な状態で自然と善行を行うようになるまで待つべきなのではないか、というふうに考えることがあります。 一方で同時に、自分が正直にあると暗く冷たく幼く醜く、共感に乏しい人間にしかならないので、嘘でも善行を行なって本心がそれについてくるのを待つべきなのではないか、というふうに考えることもあります。 共感に乏しい自分の正直な本心では、善行を行うことはできないと思うので、正直であると同時に善行を行うというのは考え難いです。 仏教について何も勉強しておらず、要領を得ないうえ何の文脈も踏まえていない駄文となってしまったかもしれませんが、宜しければお知恵をお貸しください。お坊さんが何を善行と考えるかについても、もし宜しければお教えいただければ幸いです。

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努力

初めて利用させていただきます。 わかりにくい日本語かも知れませんが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。 今に始まったことではないですが、 やる気が続かない・努力ができない こんな状態が今まで以上に強くなっています。 やる気が出る時はもちろんあるのですが、短時間です。 すぐ集中が切れ、やらなくてはならないことができなくなってしまいます。 努力ができないなんて、自分次第ですし、そんなの甘えでしかないのはわかってます。 だからこそ、どう足掻いても努力が少ししかできない・自分に甘すぎるような今の自分だったら、 社会に必要ないですし生きる意味もないかなぁと思ってしまいます。 だからといってもちろん自分で生命を絶つ勇気もないです。 要するに、僕自身目標はしっかりしたものを持っているのに、それに向けての努力ができない。もう自分が何がしたいのかわからないし、どうすればいいかもわかりません。 うまく言えませんが、どーすればいいかアドバイスがいただければと思います。何が質問なのか自分でもあやふやになってるので、答えにくいと思いますが誰にもこんなこと言えないですし、このようなとこでしかいうことが出来ないです。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 53
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凡夫成仏している人、2人目を見つけました。

(編集部より。規約により一部を変更しています) いつもお世話になっております。 感謝申し上げます。 もう一人凡夫成仏している人をみつけました。 凡夫成仏していると思われるコメントは以下の通りです。 神さまという宇宙的な意識と人とをつないでいる媒介者から「メッセージ」が発せられていのだと私は思います。 心の中に直接メッセージが伝わってくるという感覚です。 Q1.神さまと向き合うにあたって,どのような心的構えが重要なのでしょうか。 無理に礼拝を行う必要はない。 Q2.神さまはどこにいらっしゃるのでしょうか。  万物が神。この世界が神。この世の中にあるものすべてが神の顕れである。自然(宇宙)が神である。お前は神の中に生きている。お前の心の中にも神はいる。霊界も,神界も,仏界もすべては自分の心の内側にある。 Q3.偶像や神話は本当のことなのでしょうか。  神仏の偶像や神話は人間が勝手に作り上げたものである。 後世の歪曲や改竄が甚だしく,事実関係を反映しているとは限らない。人の意識が神のイメージを作り上げ,人間の行いを正当化するように神話は作り上げられた。 Q4.神社やお寺に神様や仏様はいらっしゃるのでしょうか。  神社,寺院に神仏がいるのではなく,自分の意識が映し出され神仏の働きを感じ取りやすい場所が神社や仏閣だ。本来は自分がどこにいても神仏との交信は可能である。また,神具や仏具がないと神仏を拝む気になれないのは,信仰としてはまだまだ未熟である。 Q5.神仏との交信はどうすればできるようになるのでしょうか。  意識状態を変えることで誰でも神仏意識を感じることができる。 お前たちが勝手に作り上げた偶像や逸話が神仏と一体化できない障壁である。天界,地界,人界。神仏と人,これらは本来1つである。 神が色々なものに姿を変えて現れるというのもも同じである。 Q7.罪と罰についてどう考えれば? 罰とは人間の恐怖心罪の意識が罰となって生じる。神は罰を当てない。自分で自分に罰を当てているだけ。人間の社会で悪行を積み人々から怒りや憎しみを買っているのになぜ罰が当たらないのか。善良な者の身に不幸事が襲うのはなぜだろうか。 神は全てのものへ平等に光を放つ。どんな悪人にも光は降り注ぐ。その光を遮るのは本人の意志である。

有り難し有り難し 17
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