宮城県仙台市に住んでおります。 普段、、写経、写仏、読経をします。 読経は真言宗、曹洞宗門で唱えるお経が中心です。 以前、東京に住んでまして、あるお寺で朝と夕に勤行をする際に一般の方も気軽に参加してくださいという寺があり、時間が許す時、参加していました。 今回、転勤で仙台に来ました。 近くのお寺で読経する会がありましたら、参加したいと思います。 宜しくお願いします。
仏教の教えで、なぜ私たちは他人の幸せを気にするべきとありますがなぜですか? また、経典に従えば道徳的な心の改善はできますか?
長く長く続く慢性疼痛のため、ノイローゼです。 気がつけば、最後に笑ったのがいつだったか忘れてしました。 たまにパニックと動悸に悩まされます。 気持ち穏やかになれる方法や心構えをアドバイスいただけたら嬉しいです。 にこっと、笑えるよーな何かないかなぁ…
いつもありがとうございます。 他の方の問答、法話なども拝見、拝聴しておりますが、良く分からないのでご指導ください。 大切な彼が亡くなりました。 彼を支えられなかったことを後悔しています。 あんなに素敵で優しい彼は死を選ぶほど辛かったにも関わらず、彼の優しさに甘えるばかりの自分勝手で未熟な私は今もこうして息をして食事をとって、生きています。 毎月お墓参りを欠かさず、ご先祖さまの供養やや親孝行をしていた彼がこんなに苦しみ、ご先祖さまのお墓参りも行かない私は生きています。 毎日彼を想って、お経や念仏を唱え、思い出を辿り、彼の好きな曲を聞き、彼に話しかけ涙しています。 しかし、これらは結局遺された私のために行っていることで、彼のためにはなりません。 もちろん、優しい彼は、私の幸せを祈ってくれていると思います。逆の立場でも、私は彼の幸せを願います。 それでも、これ以上ない愛と優しさで包んでくれた彼に何も返せないことが辛くて辛くてたまりません。 亡くなったことで、彼は苦しみから解放されたのだと思います。 それでも、なぜ皆に優しかった彼があんなに苦しまなければいけなかったのかと考えると悲しく悔しく、彼が報われないと思ってしまいます。 遺された私のためにではなく、彼のためになることは何があるのでしょうか。
もうじき男の子を出産予定です。 名前で悩んでいます。良いなと思っても字画がイマイチだったりしてなかなか決まりません。 自分の足でしっかり立って自分の人生を切り開いて大きく羽ばたいて欲しいといった意味のある名前にしたいなと思っています。 候補は 瑛翔 えいしょう 拓翔 たくと 奏翔 かなと 蓮 れん です。素敵な名前アドバイスお願いします。ちなみに苗字は小林です。一生の名前なので納得のいくものにしたいです。よろしくおねがいします。
お坊様に質問です なぜ人は輪廻転生をするのですか? 人が生まれる理由はなんですか?
いつもお世話になっております。 まずは先に、お詫びとお願いを申し上げます。 この質問の題名および趣旨が私の見当違いであった場合は、平にご容赦くださいますようお願い申し上げます。 ご縁を新たにして以来、今のところは具合が順調に落ち着いております。ですが、あらたなお寺も件の寺と同じ新義真言宗の寺院です。 件の寺では、しゃべり好きのおじいちゃんが若いお客様に一生懸命お寺のルーツや住職さんの経歴を聞かせてあげていたのをカウンターの寺務員さんが集団でにらみつけていたり、 祈祷の後のお話でお坊さんが「ちょっと指導を受けただけで退職や中退してしまうような弱いお子さんに育ててはだめですよ…」などと言っておられたり… そこで、ご質問させていただきます。 真言密教、おもに新義真言宗では自分で覚りを開く能力のない障害者や病人、そしていわゆる「弱い人」は、 救済や極楽往生の対象ではないのでしょうか。地獄や畜生道、餓鬼道などに落ちてしまってもかまうな、という教えなのでしょうか。 私は平日の昼間に出歩くなど頻繁なので、次のお寺様とご縁が切れてしまったり、大好きな仏さまと疎遠になってしまうのは悲しいです。 私たちは、真言宗さんにお参りしても本当にいいんですか? 見当違いな質問だったら大変申し訳ございません。 これからも様々な仏様とのご縁を大切にしていきたいので、 どうかご教授願います。
前回までの質問を通して、大学に入ってから今までずっと悩んで悩んで自分を苦しめていました。 ですがようやく自分の中で気づきがありました。本当に頭にビリビリきました笑。 それが「許すことは、認めること」です。 そう考え始めた瞬間に今までずっとモヤモヤゴチャゴチャしていたものが、なくなっていき、また点が線になったような感覚がありました。 自分が発言し、行動したこと全てが派生していって、巡り巡って今目の前で良くも悪くも縁として起こっているんだと思いました。 その中には良い習慣でのことも悪い習慣でのこともあります。悪いことだけにとらわれていましたが気づきのおかげでわかりました。 大学での私は一言で「逃避」そのもの。全てから逃げました。 大学での私のゴール、卒業や格闘技が強くなることだったり、なにより大きな壁に道を塞がれた自分から逃げていました。 中学では厳しくも愛のある監督のもと毎朝7時に学校へ行き全校の清掃から始まり、ただ勝てばいいというだけでなく人間的な部分まで本当にたくさんのことを教えてもらい結果も残せました。まわし姿で学校の周りを走らされたり校外のゴミ拾いなどさせられましたがそれも良い思い出です笑 それらの環境のギャップと現実から目を背けていました。その現状を認めることができていなかったんです。 あの時今のように考えられたら違ったかも、とも思ったりしましたが恐らく無理だったでしょう。 なぜなら今こうして、テレビでたまたま見て頭の隅にあったhasunohaに質問をし解答をいただけたこと、そのおかげで考えが今に至ることができたからです。そういうご縁があったからです。未来に答えがあったからです。 今まで過去の中に見つからない答えを探していました。弱い自分を認めず何かのせいにしていました。でももうそんな今までのクソッタレな自分とはおさらばです。弱い自分を、大学に入ってからの出来事を認めました。 そして中学、大学の経験は人生においてものすごく意味と価値のあるものだったと心底実感できます。↑と↓を今までの人生で学びました。これからを形作るのは今この瞬間のこれまでです。 大学に関してはもう1年行かせてもらえるかはわかりませんが誠意を持ってお願いしてみます。 もっともっと言いたいことはありますが字数の関係で終わりにします。 本当に有難うございました。
私は昔から落ち着きがありません。 じっとしてるのが苦手で、 テストの時とか困りました。 中学の時 一人すごく落ち着きがない人がいるんだよね〜 カンニングみたいに見えちャうんだよね〜 本人は気づいていないみたいだけど〜 と、みんなの前で話されて 先生と目があったことが忘れられません。 私は昔から落ち着きがなくて いつも不安でたまりません。 ずっとこうなんじゃないかと思うと苦しいです。 悟って楽になりたいです。
キリスト教では体が不自由でも障害をもっていても、また病気などによる身体的な理由で体力がなく例えば車いすが必要なひとでも、精神的に思考する能力がある場合、信仰を持ち研鑽を積み牧師になることができます。 仏教の場合、出家をした後の修行が厳しいようですが、仏教僧になるという道はそういった修行ができない身体的弱者には開かれていないということなのでしょうか。 1.例えば麻痺で体の一部がゆっくりしか動かせないひとや、生まれ持って歩けないひとや腕がないひと、声帯に問題があり機械でしか話せないひと、聴覚に問題があるひとなどは、どんなに頭が正常で思考する能力があっても掃除や行ができないため仏教の僧になることはできないのでしょうか? またはがんなどの病気をしたため体力的に限界があり一般にその行をしなければ僧としてみとめられないとされるもの(例えば天台宗なら比叡山での修行など)が体力的な理由でできない場合、それでも出家したいと願う場合、そのひとにはまるで仏教僧になる道は開かれていないのでしょうか。 2.その場合その理由というのは単純に物理的にできないということだけで判断されてしまうのでしょうか?もしもそうならば、それはどう正当化されているのでしょうか?そして、それをかえる動きはあるのでしょうか? よろしくお願いいたします。
質問させて頂きますハルソラと申します。 仏教の学びから、観音さまの慈悲の心に感銘を受け、慈悲の心を身に付けたいと思っています。 しかしながら現実の私の行動を鑑みるに、慈悲を実行できてるとは到底思えません。 それは慈悲に対して、概念的な理解だけにとどまり、エゴ(自己中心的な考え)を離れる事が出来ないためだと考えています。 とある座禅会に参加した際に、和尚さんにそれを質問したところ 「体験を通して学ぶことです」 という有り難いお言葉を頂きましたが、何をどう体験すれば良いのか分からず進歩がありません。 慈悲の心を身に付けるための体験とはなんでしょう。 また考え方の上の事でも構いません。慈悲を身に付けるためのご教授よろしくお願い致します。
観音経と延命十句観音経の違いを詳しく教えてください。
正直と善行のどちらをまず取るべきなのか悩んでいます。 まず、善行とは誰か自分以外の人のためになることをすることだと思っています。これは同時に、自分以外の人を傷つけることはしてはならないということだと思います。 しかし善なる本心のついてこない善行は偽善に過ぎず、結局は背後にある虚無的思考や悪い意図が露呈して失敗するから、まずは自分の思いに正直であり、正直な状態で自然と善行を行うようになるまで待つべきなのではないか、というふうに考えることがあります。 一方で同時に、自分が正直にあると暗く冷たく幼く醜く、共感に乏しい人間にしかならないので、嘘でも善行を行なって本心がそれについてくるのを待つべきなのではないか、というふうに考えることもあります。 共感に乏しい自分の正直な本心では、善行を行うことはできないと思うので、正直であると同時に善行を行うというのは考え難いです。 仏教について何も勉強しておらず、要領を得ないうえ何の文脈も踏まえていない駄文となってしまったかもしれませんが、宜しければお知恵をお貸しください。お坊さんが何を善行と考えるかについても、もし宜しければお教えいただければ幸いです。
最近、死についての質問をいくつかさせていただきましたが、今度は来世の不安が出てしまいました。 私としては、来世は親に会って子孫や世界を見守りたいですがそれは可能なのでしょうか。 もし、それが叶わないのであれば私は生まれ変わり、魚や犬、そして人などの違う命としてまた生きなければならないのでしょうか。 私は食べられる魚や牛などの生まれ変わりになることが怖くて仕方がありません、もちろん、このことが愚かで生命に対して無礼だと承知です。 ですがやはり不安で仕方がありません。このように考える私は外道なのでしょうか。長文で愚かな質問で申し訳ありません。ごめんなさい
自分は現在 自律神経失調症 パニック障害 強迫性障害です。 写経をしたり座禅会に参加したりしてますが 中々自分の感情をコントロールするのが少し難しいです。 少しでも自分の感情をコントロールする方法がありましたらアドバイスいただきたいです。 よろしくお願いいたします。
初めて利用させていただきます。 わかりにくい日本語かも知れませんが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。 今に始まったことではないですが、 やる気が続かない・努力ができない こんな状態が今まで以上に強くなっています。 やる気が出る時はもちろんあるのですが、短時間です。 すぐ集中が切れ、やらなくてはならないことができなくなってしまいます。 努力ができないなんて、自分次第ですし、そんなの甘えでしかないのはわかってます。 だからこそ、どう足掻いても努力が少ししかできない・自分に甘すぎるような今の自分だったら、 社会に必要ないですし生きる意味もないかなぁと思ってしまいます。 だからといってもちろん自分で生命を絶つ勇気もないです。 要するに、僕自身目標はしっかりしたものを持っているのに、それに向けての努力ができない。もう自分が何がしたいのかわからないし、どうすればいいかもわかりません。 うまく言えませんが、どーすればいいかアドバイスがいただければと思います。何が質問なのか自分でもあやふやになってるので、答えにくいと思いますが誰にもこんなこと言えないですし、このようなとこでしかいうことが出来ないです。よろしくお願いします。
こんにちは。 色々な寺院の大般若会へ参加させていただきました。 ありがとうございました。 最近は、経本の内容や意味も細かく知りたいと思うように なり詳しくお話し聴きたいです。 いつもではないですがとても気になり頭から離れません。 これも煩悩。(?)
生きている時の怒りや苦しみ、辛さは、あの世にいっても続くのでしょうか? 私は父が生存中に、酷いこともしました。 やられたら、やり返す。そういう感じです。 父の死後もその事に悔いが残っています。 思いついた時や毎朝、仏壇の中の父に「ごめんなさい」と思ったり、手を合わせています。 けして許してもらおうとは思ってはいません。恨んでいるなら、それでいいし、どんな天罰も構いません。 ただ、父が死後の世界、あの世で穏やかにいてほしい。そんな想いで質問をさせていただきました。 お忙しい中、大変恐縮ですがご回答をお待ちしております。 よろしくお願い致します。
最近たまたま儒教について調べました。 儒教には先祖が自分を助けてくれるから敬い大事にするという教えがあるそうです。 仏教でもお葬式などの際にそのような話をされたような記憶が薄らあるのですが、これはたまたま釈迦の考えと孔子の考えに共通点があったということなんでしょうか? また輪廻転生するのであれば先祖は既に別の生き物としての人生を歩んでいるはずで、助けてくれる先祖と輪廻転生した先祖で2つに別れると言うことなんでしょうか? 先祖が助けてくれる ということと輪廻転生自体が相反することを言ってるいるように感じました。 仏教を否定している訳ではなく単純な疑問なのです。 時代によって少しずつアップデートされたということなのかもしれませんが、この点を現在のお坊さんはどのように解釈しているのでしょうか?
(編集部より。規約により一部を変更しています) いつもお世話になっております。 感謝申し上げます。 もう一人凡夫成仏している人をみつけました。 凡夫成仏していると思われるコメントは以下の通りです。 神さまという宇宙的な意識と人とをつないでいる媒介者から「メッセージ」が発せられていのだと私は思います。 心の中に直接メッセージが伝わってくるという感覚です。 Q1.神さまと向き合うにあたって,どのような心的構えが重要なのでしょうか。 無理に礼拝を行う必要はない。 Q2.神さまはどこにいらっしゃるのでしょうか。 万物が神。この世界が神。この世の中にあるものすべてが神の顕れである。自然(宇宙)が神である。お前は神の中に生きている。お前の心の中にも神はいる。霊界も,神界も,仏界もすべては自分の心の内側にある。 Q3.偶像や神話は本当のことなのでしょうか。 神仏の偶像や神話は人間が勝手に作り上げたものである。 後世の歪曲や改竄が甚だしく,事実関係を反映しているとは限らない。人の意識が神のイメージを作り上げ,人間の行いを正当化するように神話は作り上げられた。 Q4.神社やお寺に神様や仏様はいらっしゃるのでしょうか。 神社,寺院に神仏がいるのではなく,自分の意識が映し出され神仏の働きを感じ取りやすい場所が神社や仏閣だ。本来は自分がどこにいても神仏との交信は可能である。また,神具や仏具がないと神仏を拝む気になれないのは,信仰としてはまだまだ未熟である。 Q5.神仏との交信はどうすればできるようになるのでしょうか。 意識状態を変えることで誰でも神仏意識を感じることができる。 お前たちが勝手に作り上げた偶像や逸話が神仏と一体化できない障壁である。天界,地界,人界。神仏と人,これらは本来1つである。 神が色々なものに姿を変えて現れるというのもも同じである。 Q7.罪と罰についてどう考えれば? 罰とは人間の恐怖心罪の意識が罰となって生じる。神は罰を当てない。自分で自分に罰を当てているだけ。人間の社会で悪行を積み人々から怒りや憎しみを買っているのになぜ罰が当たらないのか。善良な者の身に不幸事が襲うのはなぜだろうか。 神は全てのものへ平等に光を放つ。どんな悪人にも光は降り注ぐ。その光を遮るのは本人の意志である。