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法事の際に受けた説法が引っ掛かっています

先日、年忌法要の為に帰省したのですが、そこで受けた説法が今も引っ掛かっています。 その説法とは『身内葬で済ますのは不幸なこと』『親族の傲慢』といった内容で、 (忘れようとしているのか)細部まで記憶していませんが、とある事情から恥ずかしながら非常に怒りを覚えました。 その事情とは、年忌の前日に別の親族が亡くなり、事情から親族だけの葬儀にしていたからです。 つまり、その説法と亡くなられた親族が被ってしまい、 『なんて身勝手なことを言うのだろうか』という怒りがあったのだと愚考します。 ただ、親族の代表として向かった手前、怒りを堪えたものの、未だにお坊さんが唱えられた話が引っ掛かっています。 身内だけの葬儀は悪いことでしょうか?確かに親族や友人、知人を呼んで大きく葬式を行うのが一般的でしょう。とはいえ、それが絶対かというと腑に落ちません。 また、説法を行ったお坊さんとは今後も顔を合わせることになるでしょう。 その時にどう顔を合わせたものかと思うと、辛いものを感じます。 (今は説法に対する怒りの感情というより、疑問が凝り固まっているような状態です。) 不躾な文ではありますが、ご教示願えればと存じます。 余談ですが、出来れば浄土真宗本願寺派のお坊さんのアドバイスを頂ければ幸いです。 もちろん他宗の方のお話もお聞きしたいです。

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悟りと解脱、輪廻転生について

こんにちは。 これだけこのサイトにお世話になりながら、悟りについて良く考えた事がありませんでした。私の考え含めて質問させていただきます。 仏教の入門書だとよく「修行の完成」→「悟りを開く」→「輪廻の苦海から解脱」と解説されています。 しかし自分はこの解脱と言うか、輪廻転生が今一つピンと来ません。 生前や死後については無記とするのがお釈迦様の真意に近いと思うし、 輪廻とは一種の比喩と考えるのが適切と思うからです。 実際、輪廻を考えると色々と矛盾が生じます。 例えば虫の輪廻転生。一生無心に鳴き続けるセミ等に「善行」「悪行」などあるのでしょうか?善行を積んだセミが高次の存在に転生し悪行を積んだセミがさらなる悪趣に落ちるのだとしたら、誰がそれを判定するのでしょうか? そのような超越的な存在(判定者の類)は仏教では否定されるのではないでしょうか? となると、悟りも輪廻転生を前提にしている限り、よくワカラナイものになってしまいます。 悟った覚者は転生せず、凡夫が転生する・・・のでしょうか? だとしたら悟ったかそうでないか判定者がいる事になります。 (ここでまた超越的な判定者の問題にぶつかります。) 悟りによって体質と言うか、魂(?)の質が変わるとでも言うのでしょうか。 じゃあ輪廻とか死後が無記なら、結局「悟り」て何なの?って話になって 頭の中ぐるぐるで何だかよくわかりません。 こんな考えって戯論でしょうかね? お考えを教えて頂ければ嬉しいです。

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2022/02/10

ご先祖に感謝?したくない

 お寺のご法話などで「今、あなたがいるのはご先祖様のおかげ。感謝しましょう」と言われます。それを素直に受け入れられません。  両親ともにいわゆる毒親です。 亡き父はDV男。根拠なく他人を見下すが、本人は自称自営業で社会的な信用がありません。その他諸々こちらに書くのが恥ずかしい程幼稚です。 存命中の母は過干渉で自分があがめられないとキレる。 両親ともとにかく話が通じません。  父母とも健全な家庭で育っておりません。特に父方の祖父母、父の兄弟姉妹は絶望的です。DV、たかり体質です。今は没交渉です。  ここでふと気づいたのですが「虐待は連鎖する。祖父はやはりDV、祖母はたかり体質。ということはその親もおなじなのでは?まともな家庭からあのような人たちが出るわけがない。もう家系としてダメなのか。」  これでご先祖様に感謝してと言われましても。厳しいです。辿っていくとたくさんいるという話ではなく、直系で代々ろくでもない人たちなのか?親と自分は別とはいえ、その代々の血が流れていることに嫌悪感すら抱きます。  言っても仕方のないことですが、この親の元にうまれた運命が残念で仕方がありません。毎日苦しいです。  このような思いを抱えながらも、それをより大きく包み込み、自分がつぶれないヒントをいただけると幸いです。

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あるお坊さんに言われた内容

お世話になります。 現在妊娠6ヶ月になる妊婦です。 初めての妊娠ですが、性別もわかり経過も順調で心配事がないといえば嘘になりますが、楽しいマタニティライフを送っておりました。 先日、十数年ほど前に知人に紹介され一度だけお会いしたことのある天台宗のお坊さんから連絡があり、『お腹の子供は脳に障害があるかもしれないからお祓いに来ないとしらんぞ』と言われました。今までも数年に一回、来ないと子宮ガン・乳ガン・不妊症になると言われて来ましたが、お祓いには行かず定期的に検診をうけ、子作り翌月には自然妊娠と問題なく来ています。(お祓いの内容も頚部に指を入れて動かしながら子宮に向かって拝むという内容で親や旦那とは来るなと言われ不信に思い断ってました)こんなやりとりが何年も続き、今回は楽しみにしている子供のことで不安なことを言われたので、お坊さんは産まれてくる子供の病気を予知したりそれを治したり、女性の頚部に指を入れてお祓いをすることが実際にあるのでしょうか。 第一子ということもあり、通常の検診以外でも胎児専門医ににも二度ほど診察して頂き、問題なく順調に成長していると話はしましたが、『医者には治せん、来ないと知らないぞ』と言われると出産を楽しみにしてる為、気にもなります。どのように解決したらいいかアドレスをお願い致します。

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お坊さんの戒律に関する質問です

僕は来年僧侶になる予定の高校生です。 お坊さんの戒律の現状に関して皆様の意見を教えてください。 明治以降、国の政策によってお坊さんは肉食、世帯、飲酒、その他諸々の戒律を守らなくてもよいことになりました。 そして国家の規定による持戒は戦後の信仰の自由の徹底化によって可能性はほぼ無くなりその状態は今現在も続いています。 以前こちらでも活躍されている大慈さんの配信で僧侶の肉食、世帯に関する質問をしたのですがその際に ・肉食は栄養の問題で必要だし仏教の教義としても問題ない ・世帯は無条件の良い事では無いが寺を継ぐ後継者を育てていくためにも必要 ・これらの問題は全てを解決できる答えが無いから考え続けることが大事 という様な答えを頂きました。 僕も大慈さんのお考えに感銘を受け、すぐに結論を出さすこの問題に向き合う事にしました。 しかしすぐに結論を出さないという事は問題に向き合う事に消極的になるという事では無く様々な意見、主張を聞き考え続けることだと思います。 そこでここにいらっしゃる僧侶の方々の肉食、世帯に関する意見をお聞かせください。 また、大慈さんは戒律の問題を一括りにはせず肉食と世帯を別の理由でもって語って下さいました。 確かに一つ一つ事情は異なっているので僕も個別に考えようと思います。 そこで肉食、世帯に加えて飲酒や金銭に関する問題もお伺いします。 今現在の僕の意見としては、しょうがない理由のある肉食や世帯と違い嗜好品としてのお酒やお寺を支えるため、生活するため、将来のための貯えを超えた過度な儲けと散財はある程度宗派、教団で規制してもいいんじゃないかと思うのですが皆様はどうお考えですか?

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釈尊の言行

 厚かましく、非宗教説を続けます。  釈尊の言行については、立川武蔵先生の「ブッダをたずねて」の受け売りですから、皆様先刻ご承知と思いますが、信仰について言及したいと思います。  先ず釈尊は、偶像崇拝を禁止したとのことですが、釈尊の死後、舎利を分配して、早速信仰の対象にしました。  仏像も信仰の対象として作成され、祇園精舎での説教で済むところを、巨大な寺院を建築し、仏像を納めて 荘厳さを競いました。  これは中国の仏教を模倣したのでしょう。  釈尊の言行からはまったく不要なものであるはずです。  次に釈尊の死が近づいたときに、近隣の村人たちが釈尊の葬儀の支度を始めているのを見て、弟子にあそこに参加してはならないと戒めたそうです。  元々葬儀には無関係だったようです。  確か応仁の乱で加茂川に死体が放置されていたのを、僧侶が荼毘に付したのが始まりだったようです。  釈尊の言行に従って、これらの行事を無くせば、仏教はただ説教と修行に励むことだけが残ることにはなりませんか?  仏教は信仰とは無縁だと思います。これが非宗教説です。  蛇足ですが、通常寺院の参道に仁王門がありますが、これが参道の入り口ではなく中ほどに建てられいます。  これは参道が、輪廻転生を示したと考えられます。  参道の入り口は娑婆です。参詣者は参道を通って本堂に向かいます。  本堂は娑婆から切り離された死の世界です。  本堂に居続ければ平穏ですが、娑婆に還るときは仁王門で苦しめられます。  「チベットの死者の書」によれば、丁度3週目に怒りの神々に遭遇します。  仁王門が中途にあるのはそれを模したものと考えられます。    従って輪廻転生は仏教にとってそれ程重要なものです。  現在仁王門の像は参道を向いていて外敵を防ぐと言われていますが、参道の中途にあるのも不自然だしその必然性が考えられません。  像は本堂を向くべきだと思います。  さびれたお寺の仁王門がその向きになっているとの記事も見かけました。

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考え方の矛盾

以前もお世話になりました。今回もまたお聞きしたいことがありましてお邪魔しました。 人付き合いがあまり得意ではなく、基本的には皆さんとつかず離れずの距離を保ちつつ生活しています。好かれたいわけでも嫌われたいわけでもなく、毒にも薬にもならない、明日になればそんな人いたかしら?と思われるくらいの存在感でいたいと思い、そのように生きているつもりです。 しかし、何か困ったことがあると頼られたり、アテにされたりすることがあります。引き受けますが本当はとても嫌です。褒められるのも好きではありません。 目の前の席の人の機嫌がよろしくないと、わたしとその人の席の間にある物入れに八つ当たりのようにペンをしまったり、引き出しを大きな音を立ててしめたりします。これもビクビクしてしまいます。 わたし以外の人たちがどこかに集まってひそひそ話をしていることがあります。どうせあの人いなければいいのにと言っていることでしょう。 このように並べると、わたしはもしかして人に好かれたいのかなと思うことがあります。でも本当に存在感のない生き方をしたいのです。誰にも覚えていてもらわなくていいのです。 こういう些細なことを気にせず、皆さんに忘れられるように生きるにはどうしたらいいでしょうか。 よろしくお願いいたします。

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