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検索結果: 3999件

飲酒について

お酒を飲みたい思いと葛藤しています。 親族の死をきっかけに仏教について調べるようになり、五戒のうちの一つに不飲酒戒 があるのを知りました。 ネットで調べていると、「『不飲酒とは、酒を飲むこと自体を戒めているのではない。酒によって堕落し悪行を行うことを戒めているのだから、多少ならば良い』などというのは詭弁」 「飲酒など人に酔いをもたらす行為は、仏教の核心に大きく差し障る行為」 とありました。 不安になり、ここ約半年間、飲み会の席でも飲むのをさけ、料理をするときもみりんや酒などを使わない、もしくは沸騰させてアルコールをとばすようにしたりしています。 みんな飲んでいるし、少しくらいなら、自分のためになることもあるのに、などと言い訳をしている自分がいます。不飲酒戒について知らなかった人は飲んでも許されるのだろうな、いいなと思ってしまったりもしました。 飲み会があってもいつもは飲んでいたのに飲まない私は他人からどう思われているのだろうとか考えてしまいます。 ここにこうやって書いているのは、「飲んでも大丈夫」と言ってもらいたいのかもしれません。 罪悪感と煩悩と、いろんな考えで頭がごちゃごちゃです。 飲酒についてのお坊さんのお考えを教えてください。

有り難し有り難し 66
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2023/09/09

いつか死んだ子に会いたい

我が子を自死で亡くしました。死後、いくつも心の闇を抱えていたことを知りました。その内容は裏切りでもあり、哀しみでもありました。 以来、想像を絶する悲嘆と悲しみに苦しむ日々です。 私自身、寺に生まれ寺で育ちました。懐疑的な性格であったので、熱心な仏教徒ではありません。 我が子の死と向かい合わなくてはならなくなった今、仏教やキリスト教で何かが救われるかと言うと、やはりまだそこに至っていません。 辛くてメンタルクリニックにも行きましたが、薬が欲しかったのではなく、あの子に会いたい、この苦しい気持ちをどうすればよいのか?という問いに医師は薬を勧めるだけでした。(当然ですよね…。) あの子に会いたい。話したい。抱きしめたい。あの子はどこにいるのか、自分が死んだら会えるのか、と日々問い続けています。 あの子が自分の周囲を彷徨っているのなら、声が聞きたいとイタコにすがろうかと思った時期もありました。霊感を説く宗教にはまってしまう人の気持ちがわかるようにもなりました。イタコや変な宗教には何もコンタクトは取っていませんが、辛い気持ちは何も癒されません。 最近、知人の医療従事者が、私に「自死した人はあの世に行けないんだよ」と言ってきたのは、さらに私を打ちのめしました。 私はいつか会いたい、その気持ちだけのためになんとか生きています。 あの世があるのか?そこで会えるのか? 誰もがわからないその問いでしょうが、 これからこの悲しみにどう気持ちをもっていけばよいのでしょうか。 愛別離苦の辛さだけでも、心が悲しみで爆発しそうです。 倶絵一処というのは、自死した子とは願ってはいけないのでしょうか。あの世があるのであれば、死に方次第でそんなに区別されるものなのでしょうか。 会いたい、会いたい。こう願う気持ちはおさまることを知りません。 体調のことがあって止められていた飲酒をするようになりました。長生きしたくないからです。それでも日々、仕事やボランティア等できることは無理してやっています。時々涙が出てきます。 自死したあの子と会いたいと、ひたすら願いながら。 けれどもだんだん疲れてきました。 自死した子と浄土で会えないならば、何に縋って生きていけばよいのでしょうか。

有り難し有り難し 62
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助けてください。明日にでも死にたい。

現在私は、学校で言ってしまえば1人なのです。 一年の最初も原因はふわふわとしたことで追い出され、その後おいでと言われた所でも、じゃれてやる様なこちょこちょが嫌だったと結果的に言われ、イジメのように追い出され。 その後もそのような事が2回ほど続き、結果的最近までは何とか学校を卒業したいと思い、辞めずに普通に過ごしていました。 安定してきた、絶対一緒に行動すると言うような子はいませんでしたが、皆と楽しく過ごしこれなら大丈夫と思っていたのですが、数週間前から、以前こちょこちょが嫌だったと私を追い出したリーダー格の女が私に近づいてきて、もう許したから来てもいいよ。と。 ですので女からも話しかけてくるのでそれに応じて楽しくやっていました。所が数日前からまた、おかしいのです。私と目を合わせようとしなく、話しかけても来ません。なので今日もリーダー格のその女は私の目の前で他の皆だけでUNOをしたりしていました。何となく一緒に行動していた子までそこにいるのです。 お昼もその子と保健室に行って食べてたのですが今日は、その周辺で食べている仲のいい子と食べると言い出したのです。と言うことは、私がそこについて行っても楽しくないのです。話に入れないし、UNOもさせてくれないし。 1人で保健室に行くしかないかもしれませんが、今まで2人で行っていたので何だかあれですし。 ほかのクラスに友達と呼べるであろう人はいますが、その子もクラスのグループがあります。そこに入るのもまた厄介だと思うんです。 今月にもバス見学もあるし、クラスマッチも…。 本当に辛くて。こんな事何回繰り返すんだろう。私そんなに悪いのかな。嫌われてるのかな。でも、そのリーダー格の女はもっと悪い所があるとみんな言うのにのにな。 他の人に聞いてみても、私どこか悪い所あるのかな?と聞いても、うーん?どうなんだろう。とか、親や先生親戚にすべて話しても私が悪いと言われたことはありません。 なので、どうすればいいのかもう分からなくて。やってもやってもこうなる。死にたくなります。涙が出ます。私は何かいけないんでしょうか。 クラスは二人づつ固まっていて、私の入る隙間はありません…。 どうするべきだったんでしょうか… 長くなって申し訳ありません。 もう切羽詰っていて…助けてください。明日も怖いです。通学中死にたいです。

有り難し有り難し 379
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「蜘蛛の糸」について

私は、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という作品が、昔からいろいろに解釈できて、ずっと不思議に思っていました。 最初に読んだとき(子どものとき)は、 ①カンダタは莫迦だなあ、自分ならきっと、みんなと力を合わせて、みんなで極楽にたどり着くのに と思った ちょっと時間がたって(思春期) ②どうせ私もカンダタと同じだろう、きっと誰でもエゴが勝ってチャンスをだめにしてしまうに違いない と思った またしばらくして(反抗期) ③お釈迦様って何様なんだ!(お釈迦様だけど。)教養もなく悪人として生きてきたカンダタを、カンダタが成功しそうにない極限状況で試すなんて。助ける気なんかもともとないじゃないか、この話に正解も救いもないじゃないか と思った また少しして(青年期) ④カンダタが蜘蛛の糸を見ても登ろうと思わないくらい達観していたら、もしくは落語の江戸っ子のように、「一度地獄に落ちた身分の自分が、いまさら蜘蛛の糸などにすがってたまるか」と居直っていたら、お釈迦様は確実にカンダタを助けていたのかも と思った そして今(中年期) ⑤芥川が絵本として子供向けに書いた以上、一周回って、①の子どもらしい慢心(カンダタを通した戒め)が作者の意図した一番素直な読ませ方なのでは とも思う そこで質問です。 カンダタが確実に極楽に上がるためには、どうすればよかったのでしょう。 回答者陣のお坊様方は、自分の仏教に関するすべての見識や体験をふまえたならば、助かりたいカンダタに何とアドバイスしますか? それともこれは、カンダタはどうやっても助からないというお話なのでしょうか? その他、この作品に対してどう解釈しますか?

有り難し有り難し 115
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周りの友人が羨ましくてたまりません。

私には婚約者がいて、もうすぐ結婚する予定です。 本来なら幸せなはずなのに、不安です。 それは、婚約者の仕事が上手くいっていないようで、結婚式がおわった後、辞めるかもしれないということ。 そして、彼は近い将来、彼の実家で同居しようと考えていること。 仕事に関しては、結婚式前には辞めると世間体が良くないと思ってのことか、今は我慢して働いているようで、結婚式がおわったら辞めるかもしれないと言われました。 彼の両親との同居に関しては、付き合ってる頃からなんとなく、同居を希望しているのは、彼の言動からして感じていましたが、この前、家探しについて話している時に、将来の同居について言われました。 同居はイヤだということと、できれば将来は同居じゃなくてせめて彼の実家の近くでアパートを借りて住むのはどうか?と言ったのですが いずれも却下され、将来同居することを納得してほしいと言われました。 彼の両親はあまり体がよいほうではないし、一人っ子なので、実家で両親の側で暮らしたいそうです。 彼には、「君は自分のことしか考えていない。」と言われました。 周りの友達を見ると、新築を建てた友人、又は家を建てるために夫婦でお金を貯めている友人、旦那様が公務員、旦那様の給料がいい、豪華な結婚式場で豪華な結婚式や二次会をする友人、自分の実家で旦那さんが同居をしてくれてる友人、、、言い出すときりがないですが、とにかく周りの友人と比べるて羨ましく感じてしまいます。 私の彼の給料は良くないどころか仕事を辞めてしまうだろうし、その上、彼の両親と同居するということが近い将来に待っています。 私はこうしてこれから先も、周りの友達と自分を比べて羨ましがって、、、こんな気持ちで一生生きて行くのかと思うと辛いです。 そしてこんなにも人と比べてしまい、人の幸せが素直に喜べない自分がとても嫌です。 最近ではfacebookすら見るのが嫌です。 こんな自分がとても嫌です。 周りと比べてしまい、自分が幸せに感じません。 私は、将来のパートナーを、中身ではなく、どれだけハイスペックかで判断するような人間なのかもしれません。 結婚式の準備や家探しなどいろいろやることがあるのに、最近は気分が憂鬱でなかなかはかどりません。

有り難し有り難し 227
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読経が何故供養になるのか教えてください。

お経を読むことがなぜ先祖や自分に関わりのある仏様の供養につながるのか? 大変罰当たりながら、そのような疑問を抱いてしまいました。 仮に例をあげますと、日蓮宗では法華経を読んで先祖供養などをされると思います。 法華経は釈迦が悟りを開いて亡くなられる前に最後の教えを説いたもので、 数ある経典の中でも最上の教えとされていると聞いたことがあります。 その素晴らしい教えを守り、帰依しますと宣言する=「南無妙法蓮華経」と題目を唱える。という事になるのでしょうが、なぜそれが供養につながるのか疑問です。 自分は先祖や仏様との何らかのつながりがあるから、その自分が題目を唱えることで先祖や仏様の過去の罪が軽くなり救われる。=先祖や仏様も成仏できるという考え方も確かに一理あると思います。 しかし、お経というのはただ聞いたり意味を知らずに読んだりすれば、まるで呪文のようでいかにも効果がありそうに思いますが・・・。 現代語に訳して意味を分かるようにしてみると、一つの物語をただ読んでいるにすぎないように思えてしまいます。 とてもありがたい教えが書かれていることは理解していますが、客観的に考えれば子供に絵本を読み聞かせているようなものではないかと思ってしまうのです。 子供ではなく対象が先祖や仏様へ、絵本がお経という物語へ変わっただけではないでしょうか・・・。 物語を読み聞かせる行為がなぜ供養につながるのか? 先祖供養のためによくお経を読む者として、大変疑問に思っています。 どうか教えてください。

有り難し有り難し 101
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謝らなければいけないのか、どう生きていったらいいのか

13年前、幼稚園の近所の店舗の駐車場に駐車させていただき、送迎をしていました。迷惑なので停めないようにと運動をしていた頃で、しかし、記憶も飛ぶほど疲れていたので必ず買い物をして停めさせて頂きました。知り合いだった人にそのことを咎められて、勿論いい事では無いが、その駐車のひと時だけが息抜きの時間になっていた友だちがいたのと、他にも停めさせて頂いてる人もいたし、自分も疲れが酷くどうしようもなかった状態でしたので、その友人の気持をも考えて、停めさせてもらってる。と答えた。相手は訳も聞かず急に、どなりつけた。 後日、人のプライベートなので細かい事を話す訳にもいかず、どなった人をまだ友人と思っていた気安さから、そんなに悪意を持ってしていたわけじゃないから理解して欲しい気持を、私はいい人だと冗談めかして言った。その後、学年中のPTA、近所、様々な所で誹謗中傷され、知り合いは関係無いのにヘイトされ、対人関係もズタズタにされ、外で知り合いに会えば顔を背けられ、人間が嫌いで信じられなくなりました。死のうと思いましたが、家族を考えるとそれもできず、今は生きる喜びも無く、心を殺された状態です。私は昔から人の嫌な所は見ずに良い所を見て慈しみあいながら生きて行こうと決めて生きて来ました。誰にもひどい事は言ってもしてもいない。何故、子育ても終え、自由にお友達と老後を楽しみたいとしてる矢先に、真反対の孤独に苦しめられなければいけないのか。相手は色々とひどい事をしている。全くの誤解から。でも、13年も他人を巻き込んで誹謗中傷した人に、今更言っても余計また酷い中傷されるのでは無いかと思う。公的機関に相談したらそれは明らかにいじめだと言われた。辛い毎日から救って下さい。

有り難し有り難し 68
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哲学専攻の友達に論破されてしまいました。

 僕は日々陰鬱に生きていて、変わらなければならい節目を迎えた時、生きる意味について考えるキッカケを授かりました。生きる意味というか、今、生きているということに納得する理由がほしくて。僕はその理由をなんとなく自分の中に見出しました。  それは「人は善を為そうとし、真に為し得ない。優しくあろうとし、真に優しくあれない。愛そうとし、真に愛せない。」その善を為そうと、優しくあろうと、愛そうと努力することこそが生きる悦びだと、僕はそう納得していました。そしてその「生きる意味」を職業(カウンセラー、精神科医、臨床心理士、お坊さんなど)にしようと、大学を入り直すことさえ考えました。  しかし、その友達は、僕の生きる理由を「現実を決済する」こと、僕が信じる「美しいものを美しいものだと感じる心そのもの」を妄想と否定し、浄土、成仏の存在を真っ向から否定しました。  僕は、その友達の考えを否定することはできませんでした。かといって僕の本来持っていた考えを否定する気を起こそうとも思いませんでした。  またある人は「誰かがあなたに、本音や弱音を告白しているときに絶対に言ってはいけないことがある。正論です。」と言いました。  浄土、仏性、成仏は、そして仏教は、自己満足させるためだけの嘘なのでしょうか?美しいものを美しいものだと感じる僕のこの心は妄想でしかないのでしょうか?  それは僕が在る、と考えれば在る、のだと信じておりますが、僕はこの途方もないやるせない気持ちをどうにかしたいのです。  僕は恐らくこの(実存哲学?という)正論を信じると一生不幸だと思い、しかも僕はそれに対してどうしようとすることもできないのです。  僕は、仏様から授かった自分の寿命を全うするために死ぬまで生きようと思っておりましたが、その考えが不安定にならざるを得ないのです。  僕はこの儚い気持ちにどう向き合えば良いのでしょうか?お智慧をお貸しください。  長く稚拙な文章となってしまい申し訳ありません。また仏教思想を自分勝手な解釈で捉えております。それは違うというところ、誤解があれば、感謝と敬意をもってお説教を受け賜わります。 便宜的に、思想的に、僕はその人を友達だと書きましたが、本当はツイッター内において、フォローフォロワーの関係にすらなっていない、赤の他人です。 (´・ω・`)...

有り難し有り難し 78
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友達の相談に素直に乗れません

ある親友がいて、頻繁に会っては互いに話しをするんですが、 どちらかというと私は聞き役で、話を聞いたり、よく相談にのる側です。 はじめはちゃんと聞いていたんです。 ですが、私の悩みに比べたら、どうしてそんなことがつらいの?と どうしても思ってしまうようになってしまいました。 誰の方がつらいってことはないし、その友達の話も真剣に聞いてあげたいんです。今までちゃんと聞いてあげていたつもりでした。 ですが私も色々な出来事があって、精神的にもつらいときがあって そんな時に、その子の話を聞いてると、 何がつらいの?とか たいした事ないじゃない、とか そういう感情がうかんでしまって、、、 その子には直接そんな言葉は言いませんが、 返す言葉が適当になってしまったりして 今はあまり話をしてません。 どうしても比べてしまうんです。。。 私はそんな自分が嫌で仕方ないです。 それこそ、SNSなどでその子がつらい、とか だれか話聞いて、とか書くんですが どうせたいしたことない、とか 何度聞けばいいんだ、とか 醜いことばかり考えてしまいます。 その度に、自分で苦しくなります。 本当はどうしたの?と聞いてあげたいのですが、 また軽くみてしまいそうで、何も反応しないでいます。 今は自分の悩みで頭がいっぱいで、 そんな時どういう気持ちで接したらいいのかわからないでいます。 どうか教えてください。

有り難し有り難し 58
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南無阿弥陀仏をおとなえする意味について

私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。

有り難し有り難し 712
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葬式をあげてほしくない

死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 411
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