唯識にも様々な説がある事を知って以来、大変混乱しているところです。 まず二取の真偽を基準するところで有相・無相唯識説に分かれ、そこから更に形象の有無についての解釈で形象真実・虚偽説に分かれる事、 また中観派のシャーンタラクシタは形象の有無に拘る双方の形象説を否定した、という事までは理解出来ました。 しかし『摂論』と『弁中辺論』にみられる無著と世親の三相に対する解釈の差異や、安慧も世親とは三相に対して微妙に解釈が違っている事を知って頭が痛くなってきました・・・。 もし宜しければ私のような凡夫に解説して頂いても構いませんでしょうか? 皆様のお知恵を貸して頂けるのであれば誠に幸いであります。
現在、少しでも自分を変えようと、異業種のアルバイトをしております。 初めて1週間しか経っていませんが、既に苦しいです。 というのも、出勤前には軽い吐き気と頭痛を覚え、業務中も 「なんでこんなに自分は効率よく物事ができないのだろう」 と責めております。 こういった話を知人にすると、 「そもそも自分を変えたいのにその仕事を始めてすぐに『苦しい』って言ってるのはどうよ」 と言われ、対話を進めていくうちに、どうやら 「今目の前にあることを淡々と片付けられるようにならないと、苦しいだろうね。それと、叱られたりして自分が傷つくことがそんなに怖いのかい?」 と言われました。その知人の意見の通りで、私は異常に自分への執着が強いらしく、傷つくことをバカみたいに恐れています。 そこで質問です。 自分の執着を捨ててもっと淡々と生きていくには、どうすればよろしいのでしょうか。 自分の執着の根本には渇愛があるのは自分でも分かっているつもりなのですが、それを解消しようと行動はしてみてるつもりでも、心がそれを受け止められてないのではと思ったりする今日このごろです。
前回も相談させていただいた内容です。 今年、第二子が生まれました。 幸せを感じる中にもやはり素直には喜べず、この先の不安の方が多くなってしまいます。 夫についてる嘘は第一子が夫の子でないということについてです。 いつも悩んでは、やはり墓場まで持って行こうという結論にいたるのですが 第一子の顔を見るたびにどう見ても私にも夫にも似ていません。 やはり本当のことを伝えた方が良いのでしょうか。 私にとっての罰とは、どこにあたるのでしょうか。 現在も夫婦仲は良好です。家族みんな仲が良いと思っています。 私が夫に本当のことを話したら離婚するかもしれない。 家族を大切に思っている夫から家族と最愛の我が子を奪うことになるかもしれない。 また、子どもも夫のことが大好きです。 子どものことを考えたら心が痛みます。 しかし、今言わなくて運良く墓場まで持って行ければいいが 思春期あたりにバレてしまったら… それこそ大きな傷を与えてしまいます。 暴露することで私は罰を受けられるのでしょうか。むしろ悩むことがなくなり気が軽くなるのではないかと思ってしまいます。 知らぬが仏なのでしょうか…。 親戚の集まりに行くことが憂鬱です。あまりにも似てないのです。 何が最善なのか。悩んでおります。 ご教授願います。
観音経に出てくる無尽意という方に方について以前よりどういう方か気になっています。 それで、真言宗のお坊様に質問したら80種類位の法門を説く方だと教えて貰いました。 そして、禅宗のお坊さんなら詳しく分かるかもしれないともお聞きしました。 観音経の本や訳を読んでももさっぱり分かりませんでした。
精神病を長年患っており死ぬ事ばかり考えています。病苦も有ってか嫌な事に対して敏感で過剰反応します。特に人間の醜い所を見聞きするのがウンザリです。早く解放されたいです。 方法は死ぬ事でも良いのですが、輪廻してしまっては苦しみの繰り返しになるので輪廻から解脱したいです。この事は消滅する事と同じなのでしょうか? 私は仏様になって誰かを救いたいという気持ちよりも、早く苦しみから逃れたいという気持ちから消滅したいと考えています。 精神科医には「肉体があるから消滅は出来ない」と言われました。死ねば消滅するのでしょうか?どうしたら消滅出来るのでしょうか? 痛いのも苦しいのも醜いのも…全て嫌です。完全消滅して、1秒でも早く全てから解放されたいです。 上座仏教やチベット密教の記事を読むと「輪廻から解脱=消滅」と捉えられるような記述がありました。 輪廻から解脱する事と消滅する事の違いは何でしょうか? どうしたら輪廻から解脱(消滅)する事が出来るのでしょうか? 1秒でも早く人間を辞めたいです。なるべく簡単な方法を探しています。 助けてください。これ以上、人間の醜さに触れたくありません。 早く死にたい、消滅したい、輪廻から解脱したい。
先日、祖父が亡くなりました。 私は幼い頃からのおじいちゃん子で、亡くなったと聞いて頭が真っ白になりました。 地元から遠く離れている事、新しい仕事を始めた初日での出来事だった事、金銭的な問題などの理由により、大好きだった祖父の葬儀に駆け付ける事も出来ず、後悔しております。 数日は涙も出ないほどショックを受け、何も喉を通らず、眠気も来ないままいつの間にか気を失ったかのように寝ているような状態でした。 ただ、私には妻と息子二人を守っていく義務と責任がありますので、弱い姿のままでは居られません。家族を守る為にも、祖父に恥じない男になろうと決意しました。 何をどうすべきか、強くあるにはどうしたら良いのか、ご助言を頂ければ幸いです。
現在、父の会社で働かせてもらってます。 祖父が創業した小さな会社ですが、後継者不在という事から、近い将来会社をたたむという事も視野に入れておかなくてはいけないと思います。 父は70代ですが、今のところ全くその事を考えている様子はなく、この先どうするかさえも考えていないようです。 自分が死んだ時に会社をたたんで欲しい…そんな印象が今のところあります。 本当はそれでは困るのですが… もし会社が無くなったら、仏様に仕えたいという道を選びたいと思っているのですが、40代からのスタートは無謀でしょうか? お寺運営の保育園に通ったり、お寺に貢献していた祖父に連れられ、行事参加や墓参り・法要にも頻繁に参加していましたので、幼い頃から仏教には親しみがあり、仏様への関わりは歳を重ねてからも多少あります。 ただ、仏教関係の学校は出ていないため、専門的な知識や資格は一切持っていません。 昨年、死ぬまでに必ず訪れたいお寺を訪れた際、安堵感と共に、心がグッと引きこまれるものがあって… 何と言いますか、言葉に表せない思いで涙が出ました。 これが仏様に仕えたいという思いを強くさせたのだと思います。 僧になるまでは大変困難な道を歩まなければいけない事は存じております。 やはりお寺関係者や若いうちから経験を積まないと僧になる事は厳しいのでしょうか? 甘い考えとお叱りを受けそうですが、ご回答いただけるとありがたいです。 どうぞよろしくお願いいたします。
今月の頭に、有名な神社に行って、家の間取りや、家族の原因を見てもらいました。今は良い方向に向かっているので、本当に感謝しています。 お釈迦様のお話を聞き、すごく知りたくなったのですが、 生き方について学びたいなと思っております。 お釈迦様を深く知りたいのですが、どうやったら知ることができるのか教えてください。
いつもお世話になり、ありがとうございます。 時々、思うのですが…仏様の供養を忘れた場合 あの世で仏様はどのような感じになるのでしょうか? 友達がお父さんの7回忌を忘れてしまってたと言っていました。 でも仏壇には供養できなくてごめんねと言ってお参りしてると言ってさほど気にはしていないようでした。 私は小さい時から仏様の事などは母がよくしてたので、友達のお父さんがあの世でどのような状態なのか心配になりました。 友達の義息子はお坊様なので普通の人よりも法要の事は気になりそうですが…相談もしていないようです。 私的には仏様はお経をきいたりお線香を焚いてもらったりで進んで行かれるものだと思ってたので 仏様は法要とかしてもらわなくてもあの世では 上に登っていかれるものなのでしょうか? 質問の内容が拙い文章ですみません。
始めて相談させていただきます。よろしくお願いします。 私は今年専門学校(ペット関係)を卒業しました。就職については、校長先生から'このまま学校の先生として学校に就職しないか’とお誘いを受け、その予定でいました。 ですが、2月という卒業を間近に控えた時期に’やはり、違う職に就いてみたい。学校から離れたい'と思い始め、 悩みに悩んだ結果、その内定を蹴ってしまいました。 親には私が一人暮らしだということもあり、’2年間を無駄にするのか。これからどうするんだ'と散々に怒られました。 また、担任の先生からは’安全な場所が用意されているのにわざわざリスクのあるところへ飛び込む意味が分からない' ’お前は結局、プレッシャーから逃げただけ。どうせまた別の場所に行っても逃げるだろう' と言われました。 怖かったです。それでも、私は内定を蹴ったんです。 ですが、なかなか他での就職が決まらず、自分が何をしたいのかも分からなくなってしまいました。 やはりこの選択は間違っていたのか。結局は家族や友達や先生たちに迷惑をかけただけだったのではないだろうか。 そう考えて毎日、死にたいと思っています。 もともと考え込みやすく、周りの目を気にしてしまう性格で過去に自傷行為をしていました。 また最近してしまって更に自己嫌悪に陥っています。 この癖も早く治したいです。 私はこれからどこに向かえばいいのでしょうか。 明後日にはまた面接が控えていますが受かる自信がありません。 何もできない、すぐに逃げてしまうような私を拾ってくれる企業があるのだろうかと思います。 私の勝手な行動で迷惑をかけ、周りの人に申し訳がないです。
9月からダンスレッスンに通い始めました。3年ぶりの再開になります。 きっかけは、コロナ自粛中の体調不良を改善するためでした。 最初はまるで体が動かす、年齢的な衰えも感じてがっくりしていましたが、山登りを平行して行っていたので次第に体力がつき、ダンスもやりやすくなりました。 まだ2ヶ月ほどしか通っていませんが、ダンスを通して気づいたことがありました。 自分は、凄く承認欲求が強いということです。 褒められたい、すごいっていってもらいたい、肯定してもらいたい。 そういうのは、自信のなさにつながっているらしいですね。 ダンスは体にいいかなとおもって続けるつもりですが、この承認欲求がやっかいで、自分を自分で苦しめているようです。 ダンスに限らず、自分はずっとこの他人からの承認欲求を欲しがって苦しかったような気がします。自己アピール下手です。 何か欲しいんだが、何がしたいんだか、なにをどうすれば満たされるのか。 ひとに認められなくても、自分を認めらられる方法を散々探しましたが、わかりません。 寂しいんです。 めんどくさい質問、すみません。 回答いただけたら嬉しいです。 よろしくお願いします。
私の極楽浄土にたいする思いとは、全ての苦痛から、開放されて、阿弥陀様と、愛した者の魂があれば、それでよく、他は何も要らないと思います。例えば、空腹も苦痛のひとつです。金銀財宝が極楽浄土ではなんのやくにたつのでしょうか?わたしは、生まれてから、色んな想像を絶する苦痛に、耐えてきました。無限地獄なんか、はるか生ぬるいぐらいでした、だから、本当の極楽浄土の有り難みをしっています。後、余談ですが、有り難いの対極は、当たり前とは、思っていもせん、有り難いの対極は、勿体無いだと、私は思います、当たり前とは、有り難いを守る為の行動であり、勿体無いことをしない行動だと思って思います、愛する妻と結婚できたことは、極めて有り難いです。だから妻を守ることは、極めて当たり前の事と思っていきています。対して、勿体無いとは、ある命を粗末にする事ではないでしょうか。全ての衆生の命は、尊いものです。命を尊ぶことを、当たり前としましょう。
守護霊・霊言があると言うのは、ブッダの教えに背いていると思いますが、 宗派によって様々な考え方が有るというのが現実なので、仕方ないのかもしれません。 しかし、僧侶が苦しんでいる人を救うことに努めるという事は、 全ての宗派に共通するのではないでしょうか? 最近話題の清水富美加さんが出家した宗教団体、について >その方々のことはよくわかりません。 と言うのは、僧侶の行を果していないと思います。 その教団に苦しんでいる人、苦しめられたと言う人々が沢山いるのですから、 その様な方々の事に思いを巡らした上で回答するのが、僧侶の責務ではないでしょうか?
hasunohaで善因楽果・悪因苦果との説を目にしました。善因善果・悪因悪果ではなく、本来はこちらが正しいとのこと。 善因楽果・悪因苦果とは、善い行いをすれば自身の心が報いを受けて、楽(幸せ)を感じられる。悪い行いをすれば自身の心が報いを受けて、苦悩という形で返ってくる、との内容であったかと。 衝撃でした。まさしくその通り、なるほど納得、目から鱗。今まで善果・悪果説に疑問を感じていた事が全て合点。 しかし、善果・悪果説もこれだけ広く一般に知られているのだから、全くの間違いとも思えず。別の説が形を変えてそのように言われるようになったのでしょうか。 もしかすると、宗派によって言い方が違うだけなのでしょうか。 それとも言い方が違うだけで、どちらも同じと考えてよいのでしょうか。 ご教授下さい。よろしくお願いします。
ネットで検索した限りでは、魂を消滅するには悪いことをたくさんしないといけないそうです。 地球上には戦争をしている人もたくさんいるけど消滅していないので、少しくらいの悪事では魂は消滅しないでしょう。 悪いことをせずに解脱ではなく完全消滅する方法を教えてください。 私の魂を作った仏であれば必ずできるはずです。 来世以降で地獄に落ちたり虫に生まれ変わったりする可能性が少しでもあるなら今生で終わりにしたいと思います。
現在、貯金を切り崩して生きています。 このまま稼ぐ手段が見つからなければ死にますが、自分が野垂れ死ぬことには納得がいくというか、客観的な視点で「こんな奴死んだ方がいい」と自分にずっと思いながら生きてきました。 問題のある人格に対して「そんなんじゃ生きていけない」と家族から「厳しくも厳しくもありがたいお言葉」をいただきながら育ちました。結果、その通りになりました。 この世界がうまく回っていて、私だけに問題があるのならばまだ生きる希望がありました。しかし、現実はそうではない。私が生きていてもいなくても、この世界はどんどんと悪くなっていく。そもそも、生きることそのものが欠陥だとしか思えません。 人生は「他人にどう見られるか」が全てです。完全な自給自足ができない以上、何かの手を借りなければなりません。そのためには他人に好ましい印象を与えなければなりません。私はそれができませんでした。 この世界は私が生きようが死のうがどうでもいいものです。生きていられる人間は、「自分を大事にしたい」という動物的本能を疑わないでいられるから生きられるのです。しかし私はその本能こそが全ての苦しみの元凶と憎み、「全ての生命は存在しないほうがいい」という強固な思想に囚われています。これを打ち破る根拠をこの世界に見出せれば良いのですが、その機能が私に備わっている気がしません。何を論じられても、申し訳ないことに、「わざわざ生きる根拠」にはなり得ません。この世界には私よりもずっと有能で賢い人間が沢山いるのに、全生命を安楽に絶滅させる方向に行かないのは、私が決して感じることのできない「それでも生きる意味」があるからなのでしょう。 私の人格や感性が望まれたことなどありませんでした。それとも、関わる人間の誰からも死を望まれながら、殴られながら生きるのが修行でしょうか? 未来を捨て、この世界や他の人間に「生きさせてください」と頭を下げ、心身を削る「労働」を辞めた今が人生で一番安楽です。つまり、私の幸福は死の直前にしかありませんでした。 私の望みは、「物質世界から解放される」「五感、痛覚、あらゆるものを感じる機能を失う」「誰からも観測されない状態になる」こと、つまり、「永遠の死」「存在しないこと」です。そして、これこそがあらゆる生命が目指すべき地点だと思っています。こんなことを考える人間だから生きられないのです。
大学生男です。生まれつき髪が薄く、 部分的にハゲている箇所があります 小学生ぐらいの時から、時々、「ハゲ」とからかわれる時がありとても辛いです 植毛をするのにもお金がかかりすぎて無理です 周りの人がいつも自分のことをハゲと笑ってみているのではないかと不安になってしまい、自分に自信が持てません。 大学生なので、恋愛もしたいのですが、薄毛は人気がないというのもわかっており、勇気が出ません。 一生、独身で孤独のままじゃないのかととても不安になり、辛いです 回答お願いします
宗派が色々あることで、どうしても救われない気持ちになります。それぞれ宗派が違って、宗派によって違う念仏もあると思います。僕の実家(父方)は浄土宗で南無阿弥陀仏と言います。でも、母方の実家は宗派が違います。ですので、別の念仏をとなえます。浄土宗では、南無阿弥陀仏というものは極楽往生するという考えがあり、倶会一処という考えもあります。僕はこの教えがこの世での、唯一の心の拠り所です。ただ、母方の実家の宗派が違うということだけが気掛かりなのです。宗派が違うということは、となえる念仏は当然、違ってきます。つまり、僕は母方の祖父、祖母と再会できないということになると思うのです。その不安ばかり募って、勇逸あった拠り所もなくなりそうで凄く怖いです。
こんにちは。仏教の慈悲について考えていたのですが、迷いました。お暇な時に、教えてくださると助かります。 私は最初、慈悲は愛と同じかな?と思いました。愛とは誰か困っている人を見つけたら自分がしてほしいと思うように相手を扱い助けることだ、と助祭から昔教わったんです。それと似た気持ちかなと思って。でも慈悲について過去の記事を読んでいるうちに、慈悲と愛は違うかもしれないと思うようになりました。仏教では周りの人や生き物と自分が皆繋がっている考えがあると感じたんです。それで、まず慈悲とは共感することなのかなと思いました。でも、共感だけではなくて広い心で人の為に祈るような意味もあるのでしょうか。うまく言えないけれど、憐みみたいな....例えば、自分に敵意を持っている人に対して慈悲の心で接するような表現をどこかで見たのですが、それは相手が自分のやっている悪い事に気がついて正しい道に進めるように祈ることかな、と思ったり。あれこれ考えているうちにわからなくなってきました....。 題とは直接関係ないけれど、今月父の一周忌でお坊様のお祈りと共に納骨されていくのを見届けることができました。普段は全然泣かないのに涙が出てきました。悲しいからではなくて、安心したからだと思います。僧侶とはすばらしいお仕事ですね。とても感謝しています。
突然の出来事と後悔で整理がつきません。 3日前に飼い猫を外に出し、いつもなら2時間くらいで帰ってくるのに帰ってこず、一昨日市役所にて引き取られていました。無傷でしたが、おそらく事故死だと思われます。 日常的には庭で紐を繋いで遊ばせていました。たまに玄関が空いた隙に出てしまうことがあり、それでもわりとすぐに帰ってきていました。 13年一緒に過ごしてきましたが、同じ布団で寝てずっと一緒に過ごしてた母が今年の8月に他界し、その後父も施設に入所することになり、猫にとっては毎日いたはずの2人が突然いなくなってしまいストレスが溜まってるのではないかと思い、たまに夜少し紐に繋がず外に出してあげるようになりました。 いつもすぐ帰ってくるし、団地で車通りも少ないから大丈夫だろう、という安易な気持ちでした。 まさかこういうことが本当に起こるとは思っておらず、自分の浅はかさに後悔しています。その出した日の夜、ちょっとだけ猫の鳴き声がしました。今にして思うと、ぶつかったときの飼い猫の鳴き声だったのかもしれません。他の猫と威嚇しあってるのかなと、性格的にわりとすぐ逃げる猫だったのですぐ帰ってくるだろうと思ってました。そんな近くにいたのにもし探しに行ってたら救えた命かもしれません。飼い主の責任として命を守ってあげらることもできませんでした。 最近ようやく、淋しいのか私の部屋で過ごすことも増えた矢先の出来事でした。悲しくて悔しくて、まだ数年は一緒に過ごせた未来があったのかと思うと申し訳なくて涙が止まりません。痛かっただろうか怖かっただろうか、寒いところで一晩も過ごさせてしまいどう償ったらいいのかもわかりません。今は天国で母と過ごしてることを祈るばかりです。