ごめんなさい、こんばんは。 この時間になって、やっと書き込みが出来ました。 悩んでいる方か多いのですね。 私は、自殺をしました。 失敗しました。 その後、死にたいけれど、自殺の恐怖には勝てません。 ただ、生きていても、自信もない、力もない、夢もない、お金もない、思いやりもない人間なので、周りに迷惑をかけてしまいます。 だから、また、死のうと思います。 すると、サポートしてくれた方、親の悲しむ顔が邪魔をします。 だから、また、生きます。 けれど、生きているのは、辛く、身体は思いし、思い描いた自分との差に悩まされます。 親孝行の1つも出来ない自分が大嫌いです。 素敵すぎる両親に申し訳ないです。 だから、また、死のうとします。 次は、死んだ後、地獄に行くのかとか、自殺した人は、より苦しむと言う言葉が頭をよぎります。 そして、また、生きます。 そして、また、死にます。 そして、この苦しみのループから、抜けることなく10歳だった僕は、今年で23歳になります。 生きたいと思う人が亡くなり、死にたいと思う人が死ねないという、嫌な世界です。 目が覚める度に、また、地獄が始まった。 終わりが早く来ないかなと思ってしまいます。 生き地獄です。 唯一の心の救いは、太ももをカッターて切ること。→自らに罰を与えることで、許された気がします。 そこで、質問なのですが、 ・何故、僕のようなゴミが産まれたのですか? ・自殺(自死?)しても、この世の苦しみからは、解放されないのですか?地獄で苦しむのですか? ・自殺で死ぬのも寿命ではないのですか? ごめんなさい。
空について考えてたら頭がグチャグチャになって何が何だかわからなくなってきました。 全ては同じだとか、無ではなく空だとか、縁起がなんだとか、自然に身を任せるとか、日常生活を大切にしろとか、分別はするなとか… 端的に何が最重要なのか教えて下さい 空を掴むのに最も大切なのは執着を手放すことですか? でしたらその方法を教えて下さい。 それとも他のことが最も大切なのですか? 何にしろとりあえず何を意識してどうすれば良いか方法を教えて下さい。 よろしくお願いします。
以前もこちらで、相談しましたが、大変感銘を受けました。今日は、同じような質問ですが、やはり私は、死が怖く気が重いのです。1日中考えていますし、自分なりに答えを出そうとするのですが、悩みは尽きません。自分の死もこわいし、家族の死も怖いのです。何でそんなことを始終考えているのか、謎ですが、何かしら答えが欲しいのです。明日の運命もわからないなか、恐れなく生きて行くにはどうしたらいいのでしょうか?このように気が重く、憂鬱な気分を、どうにか軽くできないでしょうか?
座禅は無限の功徳であるとか、それ自体が仏であるとか、色んなお坊さんから十人十色のお言葉を頂きました。悟りを開く手段の一つに座禅があるときき始めたはいいのですが、ふと、タイトルにあるような疑問が浮かびました。悟りへの執着は煩悩だとしたら、修行とは何なのでしょう? 自分で考えでも頭の中がグルグルして答えが見つかりません。仏教の極道であるお坊さんからのお言葉を頂戴したく、投稿させて頂きました。沢山のお坊さんからの回答お待ちしております。宜しくお願いします。
お世話になります。 ここで何度か有難い、気持ちが落ち着くようなお返事いただいておりますが、未だ、自死した夫に手を合わせれず、仏壇の前に座れず、念仏も唱えてない状況です。 ちゃんと仏様に導かれて、今は安らかに、私達を見守っているかなー、 迷わず、暗闇が抜け出せたかなーと気になります。 念仏を唱えると、ちゃんと温かく手をさしのべてくれるのが仏教、浄土宗と聞いてますが、私は手を合わせる事も出来ず、南無阿弥陀仏ととなえる事も出来てません。 仏壇の前に座れずにいます。 こんなんで、私もあの世に逝ってしまったら、夫と同じとこにはいけない気がしてます… 夫に会いたくてたまりません また、こちらで拝見させていただいてる中で、自分が亡くなっても、夫と同じとこには行けないみたいですね… 私がもし後追いでもしても、夫と同じとこには行けないみたいですが、後追いしなくても後々、私の寿命がきても、亡くなり方が違うので行く場所は違うのでしょうか? よく、南無阿弥陀仏と唱えましょう…や、手を合わせればきっと救ってくださいます…と聞きます。 今の私では無理です。出来ないです。 今、まだ心配で後悔してウロウロしてるのかなと… 夫に会いたいです
半年お付き合いした彼氏が自殺してしまいました。 別れ話をするたび、死ぬ死ぬと首吊りの写真を送ってきたりいつも 死ぬ気はないのに演技をしていました 最後に大喧嘩をしてまたいつもの首吊りの写真を送ってきましたが 本当に亡くなってしまいました 事故死で亡くなったのかヤケになって 亡くなったのか未だにわからず 毎日辛い日々を送っています お葬式にも行けず、近々四十九日が きます。 彼に手を合わせに行きたい気持ちがすごくあるのですが彼は 私を物凄く恨んで亡くなっていきました。 手を合わせに行くべきではないのでしょうか?
明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。 * 「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。 ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。? 少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。
こんにちわ。 以前個人的な質問をさせていただき、2度目の質問になります。 以前は大変貴重な回答を頂き非常に感謝しています。 さて、表題の質問になりますが、 小学生の頃「死」について考えたことがあり、その時は・・・ 死んだら考えることすらできなくなってしまう。 死んだらこうやって「死」について考えることもできない。 自分という存在はどこへ行くのか。 と、怖くなって夜寝られなくなってしまった思い出があります。 葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉の意味を調べたり、 100歳を越えてもなお現役の医師を続けていらっしゃる日野原重明さんのコラムなどを読んでから、私は「死」という概念は、 抗うものではなく受け入れるもの。 そしていずれ来る死をどのように受け入れるか。 が大事なのではと思うようになりました。 私は仏教には詳しくありませんが、仏教にも輪廻転生や極楽浄土など死後の魂の行方や考えがあると思います。 よろしければ、仏教的観点でも宗派的観点でもご回答くださる方の個人的な観点でもよいので、「死」についての考えをお聞かせ願えないでしょうか。 宜しくお願いいたします。
何十年も前に受けた性暴力の記憶が今もよみがえって苦しいです。 私の身体は不浄だという思いにとらわれます。 もう人生も半分以上過ぎているはず。このままこの記憶に苦しめられるのは辛いです。 記憶を消したい。
とあることから数年前に仏教を求め学ぶようになり沢山のことに気ずかされました。 が…まだ勉強不足なのでしょうけど、この現実世界(社会)は必ずしも信義誠実で成り立ってはいません、むしろ騙し合っている事の共通認識の上に成り立っていると思うほどです、その中で私だけが正しいとも思いません、仏教を通じ気ずかされました、しかし心の中でなんでこんな奴らと…と言う想いや、ここから離れられたら…と現実逃避したくなり、ありもしない理想世界に逃げたくなります、多分この想いを持っている間は私に安らぎはないんだろうと察してはいます。
こんにちは。 空即是色等に言われる空ですが、 なんとなくでの感覚ではわかるのですが、 こういうものだ、というものがはっきり言葉にできません。 言葉にするとどのようなものでしょうか? 何卒、御教示お願い致します。
幸せを求めると失敗する恐怖がつきまとう。 不安を取り除こうとすればより苦痛は増し、 一つ不安を解消する度、新たな不安が現れる。 努力が実って幸せを感じてもあっという間に 消え去って、また不足感に苛まれる。 なにこの無限地獄。 努力とか目標って聞こえはいいけど、 要するに「今の自分はまだ駄目」と否定してるだけ。きりがない。 「頑張る」という価値観にうんざり。 そうやってうんざりしてる自分、 常識からはずれる不安に苛まれる自分、 何が真実なのか混乱する自分、 求めて得たものに本当の幸せはないと悟っている自分、 色んな「私」が溢れかえってます。 きっと「私」という概念そのものが ただの感覚であり幻想なのでしょう。 ありのままに安らぐことはできるのでしょうか。 白隠のように生きたい。
心が強くなれそうと言う単純な理由で、座禅を始めました。 始めて見たら、座禅より、仏教の教えを勉強する方が、心のささえになるのではと思うようになり、座禅の意味が良く判らなくなりました。 座禅は、仏教の教えのひとつなのか? 仏教の教えと、座禅は、同列でどちらも仏教の修行なのか? 座禅で悟りを開いたものが、仏教の教えも理解出来るようになるのか? 仏教の教えを理解したものが、座禅で悟りを開けるのか? 初歩的な質問で凝縮ですが、教えて頂けますでしょうか?
皆さまの問答を拝読し、いつもたくさん勉強をさせていただいております。 今回、自分の気持ちとの向き合い方をご指南いただけないかと思い、相談させていただきます。 私は、自分がとても充実した生活を送っていると思います。 やりたい仕事をさせてもらい、健康で家族にも恵まれ、何不自由なく過ごせていることに感謝をしています。 今以上のことを欲張って願ったりする気持ちはありませんし、自分がいまここに在ることを周囲の人たちにもご先祖さまにも感謝しています。 でも時折、本当に不意に、「虚しさ」が心の中に生まれます。 それまでなんの問題もなく歩んでいた足が突然動かなくなるようにして、心のなかに「空虚」が表れ、それに捕らわれてしまうことがあるのです。 そうなると、全てが後ろ向きに感じられ、自分の存在意義があるのか不安になり、立ち止まったまま途方に暮れてしまいます。 自分はどうして自分なのだろう。 どうしてここにいるのだろう。 なんのために生きているのだろう。 こういう疑問ばかりが、ぐるぐると頭の中を回ります。 なにもかもを投げ出してしまいたくなります。 終いには、それを考えることも放棄してしまいます。 そして、自分の中が空っぽになってしまったような、そういう恐怖を感じてしまうのです。 お坊さまの修行の中や、お釈迦様の教えの中に、そういう心と向き合うためのヒントはないでしょうか。 とても漠然とした質問で申し訳ないのですが、私もその原因不明の漠然とした虚しさに、何度も悩まされてまいりました。 虚しいと思う、空っぽになる心への対処方法、またそういう自分との付き合い方など、なにか参考になるようなことがありましたら、ぜひご教授くださいませ。 宜しくお願いいたします。
お世話になっております。 いつも精神的に幼い私の怒りに任せた質問に懇切丁寧に答えてくださってありがとうございます。 皆様のおかげで仏教に興味が湧いてきたので、一から勉強してみたいと思っているのですが、どんな本を買えばいいかわかりません。 この本が面白い、わかりやすい!というおすすめがあれば、是非教えてください。
中絶してしまった子の為に写経したいのですが、家で密やかに出来ますか? また、どのような経典が良いのでしょうか? 宗派によって何か違いはありますか?
連日の投稿を失礼いたします。 「写経」という言葉がありますね。 平安時代くらいの物語を見ると、何かある度に写経。 これはどうやら、トラブルや揺らぎがあった際に心を落ち着かせる手段です。 ただ書き写すだけの単純な行為は冷静さをもたらしますが、 当時絶対的な力を持っていた仏教の……経典で良いのでしょうか? それを書き写すことにより、「お釈迦様のおかげ」となっているような気がします。 何故なら、お経は唱えるものです。 サンスクリット文字に、中国で「音に近い読みをする漢字」を当て、 それが日本に来たからです。 純粋に、釈迦の教えではなく、かつての中国文化が混じっています。 なので、口に出さず、ただ書き写すのは、ちょっと違う気がします。 # あえて「釈迦」と書いたのは、亡くなっているからです。 # 人々が「天智天皇陛下」と呼ばないのと同じです。 # 軽んじているわけでは、決してありません。 仏教に興味はありますが、わざわざサンスクリット語を勉強するほどか、と言われたら、否です。 なので、釈迦の教えを説く立場の皆様にお伺いしたいと思った次第です。
はじめまして、よろしくおねがいします。 私は、今まで30年以上生きてきましたが、今立ち止まり振り返ると自分のしてきたこと全てを間違えてしまったと感じてしまいます。 人を傷つけ、やさしさを持たず、色眼鏡をかけて見て人を判断し、仕事上ではヒステリックに怒ればことが進むと勘違いし、男女関係でも道徳に反した行為があったと思います。このようなことはしないような人間でありたいと思って生きてきたはずなのですが、いつしか仕事の忙しさや周囲のやさしさにかまけて、気がつかないうちに傲慢になっていました。 それを、今になって気がつきました。いかに周りに対して愛情がなかったのか、、恥ずかしいです。傷つけてしまった方々には本当に申し訳ないとおもっています。しかしながら疎遠になってしまって謝ることもできません。 そしてこのような罪悪感を感じるのと同時に、周りの人々にはどうみられていたのかと人の目が気になり、陰では悪い噂がたっているのではないかという不安があります。罪悪感があり悪いのは全て自分だと感じているのに、まだ保身の考えを持ってしまう自分にも嫌気がさします。 私はこの先どのようにこの罪悪感と付き合い、罪滅ぼしをしてゆけばよいでしょうか。どうか、ご助言ください。よろしくお願い申しあげます。
たったひとりの娘が亡くなり、ひとりぼっちになりました。今は手続き上のことなどをしながら、ぼんやりしながら生きております。せめて娘の供養をきちんとしてあげたいとは思いますが、生きる目標を失くしました。娘が居なくなったのに、お腹が空く自分が、睡魔に負けて眠ってしまう自分が、息をしている自分の存在が苦しくてたまりません。私のことを心配してくれている親族や友人、職場の上司や同僚のことを考えると、身勝手なことはできません。いつか時間がこの痛みを癒すだろうこともわかっています。でも、癒されることを私自身は望みません。誰にも迷惑にならないなら、今すぐに娘のところに行きたいです。
こんばんは。 昨今様々な悩みから、自殺衝動にかられて、 掲示板や知恵袋などに相談・質問する人が後を経ちませんが、 自殺防止サイトや一般の方からの回答に、 『死ぬことは生きることより辛いですよ。』とか、 『死んだら今より辛いですよことが待ってますよ。』という回答があるんですよね。 この世が辛くてお別れしたいのに、 お別れしたあとにも、もれなく辛いことが待ってるわけですよね? まさに『生きるも地獄、死ぬも地獄』の人が、 この世にいるわけですよ。 そんな八方塞がりの状況の場合、 人はどの道に進めばいいのでしょうか? 救いの道はあるのでしょうか? 回答よろしくお願いします。