遠方の家族が危篤状態です。会いにいった方がいいのかもしれませんが、死が目前の人と会うのが怖く、また帰省して沈んでいる他の家族と過ごすのも辛いと思ってしまいます。 自分の心を守るためには遠くから安らかに過ごせることを祈っていた方がいいと思います。こんなことを考える自分が最低だと思いながら、かなり気持ちが滅入っています。どうしたらいいのかわかりません。
約一年前に、主人の母がうつ病で自ら命を絶ってしまいました。 その頃、私自身は妊娠8ヶ月でした。 義理の母は、もともとは社交的で明るく前向きな性格でした。 亡くなる3ヶ月程前から『肩や腰が痛いから外出も出来なくて』と聞いていたので、なかなか実家に遊びに行けない状態でした。 義理の母の性格上、とても世間体を気にする人だったので、うつ病だったと聞いたのは亡くなる2ヶ月前でした。 私自身の父親がうつ病の経験があり、自殺の心配があるというところまでいきながらも、なんとか復活したので、すぐに病院などを紹介すると義理の父に伝えたのですが、『あんまり騒ぐと余計本人が気にするから。通院もしてるし大丈夫』との返答で、定期的に連絡は入れていましたが、それ以上はふれられませんでした。 亡くなる二週間前に『こっちに遊びにくる?』と以前の明るい声で電話があり、会いにいくと、以前のように子供を可愛がってくれ、産まれてくる子を楽しみにしてくれていました。 しかし、二週間後に自宅で夜中に服毒自殺をしてしまいました。後に聞いたところ、義理父に『死にたい』と漏らしていたそうです。 主人の家族はとても仲が良く、義理母を中心に笑いの耐えないごくごく普通の家族でした。 以前に義理母が大病をした際も、義理父と義理兄、兄嫁、主人、私と連携し、支えて乗り越えました。そのぐらい仲の良い家族でした。 義理母の死から一年が経ち、残った家族で支え合いながら、前向きに日々を過ごしているのですが、どうしても拭い去れない気持ちがあります。 一つは、なぜ仲の良い大切な家族がいたのに、残して独りでいってしまったのか。あれだけ孫が産まれることを楽しみにしてくれていたのに、それを待たずいってしまったのかと怒りの気持ちです。思ってはいけないのかもしれませんが、どうしても許せなくなってしまいます。 もう一つは、もう少し何かすべきだったんじゃないか、断られてももっと踏み込んで行ってたら何か違っていたんじゃないかという大きな後悔です。 自分自身の父親の経験があったのに、なぜもっと対応ができなかったのかと、悲しむ主人をみる度に後悔をしています。 どう、気持ちを処理していけばいいのでしょうか?
初めまして。 来週、祖父が亡くなります。本人の意識はもうなく、本人自身も延命措置を望まないだろうということで、呼吸器が外されるようです。 その瞬間に立ち会うべきかどうか迷っています。 何せ人生で初めて、こんなにも身近な身内が亡くなるので、亡くなるその時を見ることで受けるショックはとてつもないと思います。家族のことが好きなので相当だと思います。 でも立ち会えなかったことに後悔もするのではないかと思っています。 家が近かったこともあり、半年前に祖父が体を壊して半分寝たきり生活になってからも月一のペースで会いに行っていました。祖母も娘(わたしの母です)も「やるべきことはやった」と後悔ないそうです。母からは「無理に立ち会わなくていい」と言われました。 命は限りあるのでお別れをすることは仕方ないと承知していますが、そのお別れの瞬間はどうすれば後悔なく過ごせるのでしょうか。初めてのことなのでわかりません。
初めまして。中学3年生、受験生です。 勉強、入学、就職と進んで行っても、 結局「死」にたどり着くと思うと脱力感がぬけません。 動物たちを見ていても 別の魂に生まれ変わるのだと信じられないのです。 日々どんなふうに過ごしてゆけばいいのでしょうか。
私は自分が大ッ嫌いです。 他人に八つ当たりしかできない自分。 他人に迷惑しか与えられない自分。 死にたくて行動しても何一つ死に近づかない自分。 何もかもが嫌いなんです。 私は2年前に1度薬の過剰摂取で死を図ろうとしました。でも私だけが生きました。 他の人は死にました。 なんで私だけなんですか? 生きる意味がないと言われ、産まなければ良かったと言われ、同情で接される。 私に生きる意味はあるんですか? 何を信じたらいいんですか? どうしたら死ねるんですか? 教えてください。
私は死ぬのが怖い、家族の死が怖いと、毎日一日中怯えているのですが、最近、死も老病と同じく人のある状態であるから、特別視しなくてもいい自然なことかなと思うようになりました。人間のある姿という点においては、死も老や病と変わらないと思うのです。ですがそう考えると、毎日のテレビなどのニュースで報道される、事故死、早死になどの死亡のニュースはセンセーショナルで、とても人間の自然な死に方とは考えられないのです。死に方に優劣はないと思いますが、そのような特殊な死に方について、どう考えたらよろしいでしょうか?自分なりに考えた死ぬことは自然という、論理に反しています。どうぞよろしくお願いします。
はじめまして、こんばんは。 私は20代大学生です。中学生くらいの頃から、容姿、性格など自分のことが嫌いで、漠然と死にたいなーと考えていました。 確かに、今も自分として生きるのは辛いです。何かの拍子に死んで、別の人間になりたいと思います。 不謹慎ではありますが、自殺した人のニュースを見ると、同情やショックでなく、生きなくていいことへの羨望しか感じません。 それはそれで問題だとは思うのですが、今一番の問題は、母に、つい死にたいと言ってしまったことです。 最近は、もともと自分が嫌いなところに持ってきて、コロナ禍で外出できないことや先行きが不透明すぎること、そのくせ国家試験や受験などのために勉強しなければいけないことなどのストレスが重なり、それにうまく対処できなかったことが原因かと思います。 自殺する勇気もないのに死にたいだなんて言っても、周りに迷惑だし、引かれるし、メリットなんてありません。 どうせ寿命が来たら人間は死にますよね。 「身体と心、どちらかが限界に達すればその時に死ねる、どっちが先に壊れるかはさほど問題じゃない。」 このような考え方から、死にたいと思っても口に出さずにやってきました。 しかし、前述の通り、去年の10月ごろから母に「死にたい」「屋上に行ってみたけど飛べなかった」などと話してしまうようになりました。 親じゃない人に表出したのなら、「構ってもらいたいだけだ」と一蹴されるくらいで終われていたのでしょうが、人に弱みを見せるのが苦手なので、できません。前向きで天真爛漫な人物だと周りからは誤解されているようです。そう誤解されればされるほど自分を繕って、疲れてしまうので、昔から悩みを話せるのは母くらいでした。 こんな歳になっても、親くらいしか相談相手のいない私を母は受け入れてくれて、私も年甲斐もなく甘えていましたが、 「死にたい」だけは違うと自分でも思います。母は深く傷ついているでしょう。 母の相談相手といえば、母の姉(伯母)なのですが、伯母も旦那さんが病気療養中なので、私が死にたがっていることなど相談できないと思います。 こんな歳になってこんな形で親を苦しめたことは反省していますが、死にたいのは事実だし、どう謝ればいいか、どうしたら心配をかけずに済むか分かりません。 私はどうすればいいのでしょうか。
私の祖母は、昨年の今頃、家で転んでしまい、足の骨を折ったきり寝たきりで入院しています。もう一年以上、入院生活を送る祖母はもともとボケていましたが、今やほとんどなにもわからなくなってしまいました。そんな祖母ですが、お見舞いに顔を出すと、ここから出してくれ助けてくれと最近言うようになりました。 たとえボケているとはいえ、やはり入院しつづけるのは辛い精神状態の様です。今では鼻から栄養入れている状態で、たぶんこのまま家には帰れないと思いながらも大丈夫だからここにいて休んでねと声をかけるのはとても辛いです。 それを見ていたら生きるってこんなに辛いんだなぁと思いました。死ぬ事も辛く怖い事ですが、生き続けることもまた辛いのではないでしょうか。なんだか生きることも死ぬこともすごく怖いような気がしてしまい、私自身もなんとも言えぬ恐怖感を感じるようになってしまいました。祖母になんと声をかけてあげると良いか、死と生きることへの恐怖の乗り越え方などアドバイスしていただければ幸いです。
お坊さんの皆さんは、人生を、日々を、どのようなモチベーションで生きていますか? 死ぬことは怖いですか? 私は、思います。世の中や人はとても儚いものだと。その儚さを、どう前向きにとらえればいいよいでしょうか。 命の終わり方は、いろいろあって、 自分もいつかはなくなるんだと。 時々不安になります。私は、リタイアせずにゴールまでいきることができるのか。 私は、シャボン玉くらい心が脆いです。 だから、生と死が隣り合わせのこの世界でこんな自分はこのままやっていけるのだうか。 私の周りの友達のように、生きることに関してあまり重度には考えず、無関心で無意識に生きて、勉強に集中したい。 考え過ぎだよ。 暇なんだね。 悩むことは悪いことじゃない。 みんなそうだよ。 その言葉に私は少なからず傷ついてきました。 私の考えてることは間違ってるのか。悪いことなのか。 事実から論理立てて考えて出した私の考えは、そう簡単には覆せないと心では思ってます。例えば、生まれてこなければよかったとか。(理由を話せば長くなるので)でも、誰か、私を覆す人がいないかなと探してます。めんどくさいですよね、こんな人。 そういう自分が嫌なんです。 このままではさらにエスカレートしていってしまいます。 いつか、悩んで泣いた時間が役に立つときが来ればいいなと思っていますが、それはまだ先の話で、とりあえず今、何かがずっと辛いんです。 生き方、道標を教えてください。
5月に父親を亡くしました。 普通の生活に戻った今頃になって 自分が死んでしまう事に恐怖を感じるようになってきました。 結局死んでしまうのになぜ人は生まれ、生きなくてはならないんだろうと毎晩考え、いつか訪れる自分自身の死に対して怖くてたまらなくなります。 死にたいと言う訳ではなく死ぬ事が怖いです。
この前、臓器移植に関する資料を貰い、家族と考えてみました。 私は死ぬのが怖いです。なので、脳死でもそれを死とは考えられないし、親がそんな状況になっても絶対に死んだとは認めないし、できる限りの延命治療をすると思います。 しかし、臓器移植を待つ方の立場になって考えてみると、それはもう死んでいるのに等しいから、脳死状態でしか手に入らない心臓なんかを譲ってほしいと考えてしまいます。 どっちの立場に立って考えるのもつらくて、頭がいっぱいになってそれ以上考えることができません。死にたくないから、誰かの心臓として生き続けるのもいいし、もしかしたら脳死から回復するかもしれない万一の可能性を信じて、心臓が止まるまで待つのもいい。自分がどうしたらいいのか分かりません。 なんか、脳死とか、死についての捉え方を変えたら自分が納得できる選択肢を選べるのでしょうか。 仏教ではどう死や脳死について捉えているのか、教えてください。
こんにちは。よくある質問ですみません。 長いこと死にたいという気持ちがなくなりません。 長い間、死にたいと思っているせいか、死ぬことへのハードルが年々下がっています。 死ぬことはいつでもできるから、とりあえず現状維持しようと思っていても、死ぬことへの欲求に負けそうになります。 私の調べですが、気楽に自殺するのに必要な金額は3万円です。 「月3万は自分の好きなことに使う。生きるためにお金を使ったのだから今月は生きよう。」という消極的な生き方をしています。 大抵嫌なことがあるから、しんどいことがあるから、自分が恥ずかしいからなど、死にたい理由は私自身の中に、私自身の弱さによると思います。 今回は、バイト先からもう信用できませんと言われたからです。 もともとしたくない苦手な仕事です。断れない状況だったので仕方なく引き受けました。 正直、最初から信用してくれてない感じがあって辛かったけれども、やれるだけやりました。 でもダメでした。 バイトもうやめればいいじゃんと自分でも思います。 死ぬこと以外の解決方法はいつだってあります。 でも、死ぬことへのハードルの低さが、今後も色んな問題がでてくるんだから死ぬのもいいんじゃない?と囁いてきます。 自分自身が死にたいという気持ちを否定してしまいたいわけじゃありません。これはたぶんどうしようもないからです。 実際に死んでしまおうとするのをなんとか止めたいんです。 私自身、死にたいのと同じくらい本当は生きたいのだと思います。 どうしたら、苦しくても死ぬことへ逃げずに生きられますか。 教えてください。
自分のせいでインコを死なせてしまいました。 1週間ほど前、インコのケージの掃除中にインコを放鳥しつつ同じ部屋で飼育してるラットも遊ばせていました。 ラットがインコに近づいたりしたら止めていたのですが、「まあ危なくなってもインコなら飛んで回避するだろう」と思っていたのですが目を離した一瞬のすきにラットにインコが襲われてしまい、噛み跡が胸2箇所、目の下、背中に1箇所と大怪我を負ってしまいました。 襲われたのは夜だったので次の日の朝に病院に行き診てもらったのですが、ここ数日で様子が悪くなりそのまま亡くなってしまいました。 亡くなったその日にも病院に診てもらったりしたのですが、どうしてもあの一瞬の後悔がずっと胸の中にあり息が詰まって苦しくなります。 私のせいでまだ数年あった寿命を消してしまったこと、ケガをしてから羽ばたくこともなく亡くなったことや体重がとても減ってしまって胸骨がわかるくらいに痩せてしまったことなど考えだすとキリがありません。 ケータイの中の元気な姿をみると本当に申し訳なさでいっぱいになります。 どうすればこの気持ちを飲み込むことができますでしょうか?
怒りやその他の感情はどうでもいいと思えるようになりました。 今までの全てを許すこともでき、体は軽くなりました。 ですが、急に消えてしまいたくなるのです。 嫌なことは当然沢山あります。 それでも人生はそれで仕方ないのです。そのような考えもできるようになりました。 急に沸き上がる消えたいという思いは受け止めても満足してくれないのです。 人生に目標はなく、楽しいこともありません。 生きていても死んでいても変わらない人生ならどちらでもいいと私は思うのです。 ただ一つ痛みという恐怖には打ち勝つことができず、死という選択肢は除外されてしまいます。 恐怖だけに支配されて生きるのは辛い。 しかし、恐怖を乗り越えれば死が待っています。 もうつまらないのです。 痛みがいらない消失という選択をしたいだけなのに。 もう何もいらない。消えたいだけ。 とにかく消えたいのです。わけがわからなく消えてしまいたいのです。 誰かの話を聞くのも辛いのです。
こんにちは。 私はうつ病とPTSDと診断されていて通院しています。 阪神淡路大震災で祖母の家が倒壊したり知人がたくさん亡くなった事が原因のようです。 しばらくは大丈夫だったのですが東日本大震災があって当時の事が色々フラッシュバックしてきて死への恐怖心が強くなりました。 両親も祖母も段々と年をとってきて毎日毎日不安で仕方がありません。両親や祖母が亡くなったらどうしよう。生きていける自信が持てない。って事ばかり考えてしまいます。知人に相談したらいつかはそういう時がくるんだから割り切って考えた方がいいと言われたんですが割り切る事ができません。怖くて怖くて仕方がありません。死に対して向き合う事ができません。どのように考えればいいのでしょうか?この不安は取り除けるのでしょうか?
タイトル通りです。 自分は今未婚ですが、このまま独身になって、 両親が亡くなったら天涯孤独になりそうで怖いです。 しかも、友達もほとんどいないし余計に不安になります。まだ30にもなっていないのに、独身の老後というのをネットで見て不安になっています。 会社にも50近くで独身の方がいますが、孤独と周囲に評されて、実年齢より老けて見えるので、独身を貫くのは怖いとすら感じます。 確かに結婚しても子供がいても孤独になる人はなると思います。 独身貫いたら、将来は孤独死?と感じます。 独身の老後が怖いです。 何10年かしたら、私の人生何だったんだろう?と思うのが怖いです。 アドバイス下さい。
お世話になっています。僕はこれまで、「お念仏は1日10回程度でいいだろう」と思っていました。何なら、1回でもいいと思っていました。ところが、あるお坊さんから聞いたのですが、「お念仏というのは、瞑想みたいなものだ」と言っていました。ただ手段が違うだけだと。瞑想では、呼吸や身体の感覚に集中することで、「今」に心を置きます。お念仏も瞑想と同じで、お念仏を唱えている時だけ「今」を生きることができると言っていました。自力の計らいというのも、瞑想でいうところの雑念なのでしょう。また、阿弥陀様や如来というのは、この世の大いなる働き(空、因果律)のことだと言っていました。浄土真宗はとにかく比喩表現が多いんだと。これらのことは本当なのでしょうか?もし、本当だとしたら煩悩を自覚する意味が分かりません。また、煩悩即菩提の概念もよく分からなくなってしまいます。僕は今まで本当に浄土(死後の世界)があり、阿弥陀様も実在する「人」だと思っていました。 しかし、内心では疑いを持っていました。南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生でき、それが出来なければ地獄行きというのは疑問に思っていましたし、大宇宙の法則がなぜ「この人は浄土、この人は地獄」と判断するのかもおかしいと思っていました。もし、このお坊さんのいう通りなら、色々と納得できる部分がありますが、実際のところはどうなのか気になります。回答お願いします。
私は今就活中の大学四年生です。 就活な難航し8月時点で内定ゼロですが、諦めてはいません。 そんな中でメンタルが壊れました。 物事全てがどうでも良く、何もしたくなく、人生壊れてもいい、3年後に死ねば良いじゃん?と思いました。 そんな破壊衝動と僅かな希死念慮が母に伝わり、母が心配してくるのですが、そのたび私が怒り浸透し、終いにものに当たるようになりました。ガラスのコップやメガネが割れて壊れるたび安心しました。私の代わりに壊れてくれたようで、スッとしました。 しかしその度母はキレます。感情をぶつけてきます。 私は本来大学の成績も良くグループワークもできて友達も多く、母も言いますが、人としてそんなに欠損があったとは思えません。 だからこそ最近の急変に母も自分も訳が分からずびっくりしています。 母は私が甘えている、とても子供だから現状から逃げようとしている、感情爆発させるのは恥ずかしい、人に迷惑をかけるな、「とても悲しいけど、縁を切りたい、、って思っちゃうよ?」などと言われます。 父と話すと、父は普段そんなに話さないので、建設的なお叱りと意見をくれてかつ「待つ」と言ってくれて、脳が完全に麻痺した私を現実に引き戻してくれたのですが、 その後も母は私の考えの浅さ、だらしなさ、子供さについて説いてきました。 私も、母に事実を冷静に伝えるのではなく、事実と不甲斐なさを隠した上での二次感情「怒り」を母にぶつけてしまっていて、 なんで素直に言えないのか考えると、 母はいつも感情を強くぶつけてきて、私の就活の状況で私以上に一喜一憂したりしてて、私の失敗を自分ごとのように考えてました。(本人は否定しそう) 最初は、私の就活状況を楽しそうに日記につけてました。プレッシャーがすごかったのでやめてもらいましたが。 私は私の失敗で母をがっかりさせるのが怖かったし、だからこそ「待って」欲しかった。 母とそんなに話さないようにしてもしっぱいばかり。 こんなにコミュニケーションが取れないのはなんでなのか、 「過干渉」なのでは?と思いました。 私も尊大すぎるのは絶対ダメ、とは思いつつも、 母の精神攻撃がとても辛く、このままではまた病んで就活が止まってしまいそうです。 私は自分のことを適切に反省したいですが、母からのダメージが邪魔して冷静に考えられずそれもまた悔しいです。 第三者から見たご意見が欲しいです。
私は、私自身が脳死状態になった時、臓器移植希望で、使える臓器は必要な方にお譲りしたいと考えております。しかし、両親が(私の)臓器移植に反対なので、今はまだ免許証の裏などの記入欄は空白にしている状況です。仮に年の順に行けば、ですが、両親が亡くなった後は、私の意思のみで臓器移植可能だと思うので、年齢的な部分をクリアするなら、是非とも私の臓器を使っていただければと思っております。他にも、いろいろ考えております。身内が肝臓を悪くすれば、生体肝移植をしたい。腎臓は2つあるので、差し上げても構わない。骨髄移植のドナーになるのも良い。最近では、今で1年と9か月、髪を切らずにいるので、このまま伸ばし続けてヘアドネーションするのも良いアイデアではないかと思っています。私自身、病気を患っていて、毎日、大量の薬を飲んでいるので、どこまで世の皆様の助けになれるか分かりませんが、病気なら最後の手段は、医学生の解剖学の検体になることぐらいしか思い付かないなぁ…と考えております。一番身近な献血は、今の状態では無理なので、回復次第、貢献出来ればと思っております。病院の輸血部という部署にい、たくさんの血液製剤を扱うクセに、自らが献血が出来ない、というのは非常に情けなさを感じてしまうところです。「生」に執着がなく、「死」をとても身近に感じている、私。将来、「最終的には検体に」という考えは、仏教ではどのように捉えられるのでしょうか?お教えいただきたく存じます。
今年で80歳になる母のことなのですが。 鬱で ずっと精神科の病院に 入院していたのですが 認知症になってしまい介護施設に入りました。 施設に入るにあたって いろいろ説明をしてくださってた時に もし万が一の時の延命治療は どうするかを聞かれました。 人間誰しも死は訪れるものですが 母の死について考えたくなかったので すっと考えないようにしていたのですが 考えないといけない時が来てしまったのだなと 思いました。 とはいえ余命宣告をされたわけでもないし 今は命が危ない状況ではないので どういう心持ちでいたらいいのか 自分でもわからずにいます。 母には元気でいてもらいたいし でも いつかは死を覚悟しなきゃいけない時が 来るのかと思うと母を失うのが怖いです。 どんな心持ちでいたらいいのでしょうか。