おはようございます 無量寿経を読んでいたところ、41願からの「他方国土の菩薩」という表現が気になり、蜂屋賢喜代という方の本で調べたところ、この方は他方国土の菩薩を念仏者と説明しており、信心を頂くと、41願の功徳により、現世でも身体が壊れなくなると説明していました 私の祖母は、熱心な念仏者でしたが、晩年は目(眼根)が見えなくなりました。これは信心が決定していなかったという証拠なのでしょうか? 私もいつ目が見えなくなったり耳が聞こえなくなったりするか分かりません 身体の障害は信心を頂けてない「証拠」になるんでしょうか 41願の「たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが六字の名号を聞きて、仏に成るまでの間、その身に不自由な点があるなら。わたしは決して仏になりません。 」という願は、本当に信心決定した者への願なのでしょうか?そうすれば、身体障碍者は救われないという結論になると思うのですが… 他方国土の菩薩とは誰のことなんでしょうか? 知恵をお貸しください
こんにちは なつと申します。 今回は宗教を信仰する意義についてご相談したいです。 私は祖父母の代から信仰を持っていて、仏教徒です。とても熱心に修行をしているとはいえないですが、少し修行に参加しています。 しかし、最近信仰することに対して疑問を持つようになりました。 病気、失業、お金のトラブルと悪いことが続き、信仰していても仏様は守ってくださらないと思うようになってしまいました。 辛いことが起きたら、それは仏様がくださった試練ですよ、と一緒に信仰をしている信者さんにご助言いただきました。 しかし、その理論でいくと信仰をしていると試練が下されて辛い思いをしなくてはならなくて、信仰していなければ試練もないということになり、信仰していないほうが幸せなのではないか、と思うようになりました。 信仰している意義がわかりません。 私は生まれたときには親のはからいで入信していたため、自分で信仰したいと思って信仰し始めたわけでもありません。 なぜ信仰するのでしょうか。 わかりません。 よろしくお願いします。
実家の父は昔から感情的に怒りにスイッチが入ることがあり、そうなると怒鳴り散らし、”誰のおかげで飯が食えていると思ってる?”とたびたび言っていました。 そうなるとこちらは口答えすることができず黙って怒りがおさまるのをまつしかありませんでした。母に対する八つ当たりもひどかったです。 子供のころから理不尽な父の罵声や母に対する態度に怒りを感じていました。 結婚してからは少し落ち着いていたのですが、先日少し父が気に入らないことを言ってしまったところ、子供のころを同じように罵声が飛んできました。 ”お前は何もしない。二度と実家に帰ってくるな。お前らの面倒になる気はない。俺はのたれ死んだってかまわない”などと繰り返し怒鳴り、母に対しても”どういう育て方をしたんだ”と罵声を浴びせていました。 言い返せないため、怒りがおさまるのを待つだけでしたが、こちらは姉や弟に比べ実家が近いこともあり、事あるごとに実家に行き、両親の様子を窺ったり、両親からは自分がべったり頼られているのを感じていたので、今回”何もしない”などと言われ、しかも言い返すこともできず、ショックでいっぱいでした。 今後二度を実家になんか行くものかと言い放ちたかったのですが、それも大人気ないことでぐっと我慢をしていました。 そのように子供のころからつもりつもった怒りが解消しきれないままここまで来てしまったように思います。 父はそのように罵声を発しても、翌日にはけろっとした感じで普通に話しかけてきます。それが本当に自分が放った言葉を忘れてしまってそういう態度をとるのか、それとも悪いと思う気持ちがあって照れ隠しでそうするのかわかりませんが、私としては母や自分に謝ってほしい気持ちがあるので、もやもやした気持ちが続きます。 こどものころから続いている父への根底に潜む怒りをどのように沈めればいいのかわかりません。 ちなみに父は私が子供のころ、母以外の女性と付き合いを持っていたこともあり、子供ながらにそうしたことに傷ついてきたこともあります。 ただ、一生懸命働いて大学まで出させてもらったことに対する感謝や、子供のころにお出かけに連れて行ってくれたこともあったりで、否定するばかりでないところにまた気持ちの割り切れなさがあります。 こういった気持ちにどのように対処すればよいでしょうか?
半年前に二十歳の娘が亡くなりました。 娘が元気で笑っていたときに時間を戻したい、生き返ってほしい、声が聞きたい、そんなことばかり思いながら毎日を過ごしています。 死んでしまったと言うことはわかっていますが、それを認めたくない気持ちがあります。 お腹が空いたらいけないと思い、毎日ご飯やお菓子・飲み物はあげています。 退屈しないようにと娘が好きだったゲームやぬいぐるみなどを、遺骨お位牌のまわりにおいています。(納骨はしていません) けれども、お線香をつけたりお教を唱えることにどうしても抵抗があります。 死んでしまったと現実を思いしらされるようで… そのような態度は娘を苦しめているでしょうか?
自分の顔も性格も嫌いです。努力したつもりでも周りから見ると頑張り方を間違っているようです。 和食屋で働いていた時期は頭が真っ白になるほど働いていましたが、とある男性客から「あんた顔が良くないんだからもっと頑張らなきゃダメだよ」と言われました。ナンパしてきた酔っ払いからは「可愛くないけどまぁいいか」と言われました。祖母からも整形したらと言われました。 仕事は高校1年の夏から4年間、書店でアルバイトをしていて、その後飲食店に就職しましたがセクハラとパワハラが凄くてスタッフ全員で辞めました。その後、知人の紹介で料理屋で働きましたが、心身辛くなり事務職の派遣に登録。同じ派遣先に14年。でも、大した仕事もなく、お給料も上がらず、先の保証もなく、今まで動かなかった自分も悪いですが、動く勇気も自信もありませんでした。もう生きる希望が持てません。
「こうしなくてはいけない」「こうあるべきだ」という感情が自分を縛り付け、毎日が苦しくて苦しくて…。 「こうありたい」自分と現実のギャップが辛くて…。 周りの評価や親への申し訳なさで消えてしまいたいです。
こんにちは、今受験勉強中の大学受験生です。 仏教を学びたいと思い、仏教系の大学を志望しているのですがどこの大学が良いでしょうか? 東京の大正大、駒澤大、立正大、そして和歌山の高野山大学が候補として上がっています。 自分は主に密教を学びたいのですが、それなら高野山大学か大正大と思うのですがどちらが良いでしょうか? 回答よろしくお願いします。
21歳大学生です。 自分の容姿がコンプレックスで人とのコミュニケーションにも支障が出ます。 どう考えればコンプレックスを気にすることなく、人と話せるようになりますか。
私は保育士の仕事をしています。 先日、職場の何年も年上の同僚から勤務時間を交換して欲しいと言われました。 交換を頼まれた日の前日まで帰省しているので、余裕を持って翌日の勤務は遅い番にしていました。 その勤務時間を交換して欲しいと言われて、本当に大事な用事があるのかも?と思って「できれば難しいけど、どうしてもなら大丈夫です。」とヤンワリと中途半端な言い方をしてしまいました。そしたら、わたしがOKを出したということになって、勤務交換になってしまいました。でもはっきり断れなく、"相手に搾取されて損した"というマイナスな気持ちになってしまいました。しかも、その黒い感情を実家の親の前で晒し親を嫌な気持ちにさせてしまいました。これでは周りの人から私が愚痴ばかり言う人だ、気性が激しい人だと思われ、私が損するばかりです。後から考えればそこまで大きな事ではなくても、ついイライラしてしまいました。 また、整体のお店に行った時にも、体が痛くてすがる思いでいったのに、説明の時にこちらは分からない保険適用かどうかについて資料もなく口頭で早口で高圧的にされて、詐術を結局しないと言われた上に、説明で時間はかかったので、お金だけもっていかれました。それで辛い気持ちになって家で泣いてしまい。あとからお店の口コミにクレームのように悪評価を書いてしまいました。私がうまく処理できれば恨みのように後から書かなくてよかったのかもしれません。後悔しています。 しかも、最近結婚を考えていていた男性とお別れしました。 親の前で、嫌なことの愚痴を吐いて怒っていたり、イライラして「もうこんな職場なんか、やめてやるから!」など本気ではなくても感情的に言っていたら、「そんな強情で激しいところがあるから彼と結婚できなかったんじゃない」と母に言われてしまいました。整体にクレームを書いたことも彼が知ってたらもっと嫌われてると思います。 普段はそこまで怒らないです。でも家族の前でイライラすると感情的になったり言い合いをしたりもします。 相手にこちらの言い分、気持ちを理解されず言われた時に否定と捉えトゲトゲと言い返しがちです。話し方がキツイのかもしれません。 1番は彼と別れたことがショックなのでもっと自分をコントロールして穏やかで周りをうんざりさせず、一緒にいる人が癒される賢い女性になりたいです。アドバイスいただけますでしょうか。
世界的にコロナウイルスが蔓延しており、日本でも毎日感染者数がニュース速報で流れています。 私も2月ごろからコロナ対策を実施し、外出等の自粛や手洗い消毒の徹底をしどうにか感染せずに過ごしております。 専門家によっては、数年から数十年はこのような暮らしが続き、もう昨年までのような日常には二度と戻らないと言われています。 今は、平日は毎日仕事に行き、休日は自粛のためほとんど家にいます。 昨年までは、スポーツ観戦や音楽鑑賞等アクティブに過ごしていましたが今年は1度も行っていません。 世間的に経済活動が再開して娯楽産業やイベントも再開して日常の一部が戻ってきています。 しかし、私はまだ戻れていません。 コロナが怖いからです。 病気になると苦しい、命を落とすかもという怖さよりコロナにかかると犯罪者扱いをしてしまう世間と、誰かにうつしてしまい殺めてしまうかもという怖さが強いです。 コロナになると会社やお客様に損害や迷惑がかけてしまいます。 世間の目、会社(上司)の目が怖い、そして会社でコロナ第一号になりたくない。ということが要因として大きいと思います。 他の人は、居酒屋で飲みながら会話したり、キャバクラや性風俗店に行ったりしています。 私だって飲みに行ったり、性風俗店に行ったりしたいです。 でも、もしかかったらと思うと何もできません。 SARSや新型インフルエンザの時はここまでしなかったけど、TVからの洗脳かもしれませんが恐怖感でいっぱいです。 これからは仕事だけで人生が終わると思うと本当に辛いです。 早くスポーツ観戦に行きたいし、居酒屋、性風俗店だって行きたいです。 どうのような考えで人生を歩んでいけば良いでしょうか? 怖がって何もできない私とキャバクラや性風俗店に行ったりしている人との考え方の違いってなんでしょうか? どこでも行ける人が羨ましいです。
私は最近休日を布団の中でYouTubeみたりゲームしたり引きこもっております。 以前はテニスの練習をしたり、大会に出たりしていたのですが今はやる気がなく、行く気になかなかなれません。しかし、私は仕事以外テニスしか、ありません、 テニスがなくなったわたしはただの都合のいいロボットに感じてしまいます 、わたしは一体どうすれば良かったのでしょうか
ありがとうやごめんねをちゃんと言える人の方が良い。という話をする人が最近やたらと多い気がするんです。 この話をする前提としてなのですが、私はこの価値観は当然その通りだなと勿論思っています。 ただ時々なんでもかんでもその考え方一辺倒に相手に投げてばかりいる人を見かけて少し疑問をもつことが増えました。 感謝や謝罪を表すことは大事だと思います。でもその前提の上で派生した、相手の心情を汲みとろうとすることとか、そこまで想うことがより大事なのではないか、と思うのですが、案外そこまでを言う人が少なくて、なんならそのことを聞くと、「そこまでする相手でもない」と返ってきたりもします。 個人的に思ってることですが、そう返してくる人はもしかしたら、[感謝や謝罪は自分が最低限悪者にならないための形だけの言葉(?)]のようなものになってるのかなと考えてしまいます。 実際「ありがとうやごめんを言えないとダメだよ」って言ってる人に限ってそういう感謝や謝罪を安易に口にする癖に、次に口にする内容が明らかに最初の言葉とは反対の内容を発言してたり、なんかまるで意味を成してない様な気持ちになるんです。 感謝や謝罪をちゃんと言葉にすること これは大事だし、否定する気は無いんですけど、心のどこかで(本当にそう思って言ってるのだろうか。色んな話をするための体のいい飾りに使われてるのではないか)と考えてしまいます。 もしかしたら私の思い過ごし、或いは普段からあまり口にしてないことの反発なのかもしれないのですが、少し前に知人と喋って以降ずっとそういう人にモヤモヤしていて、久しぶりにここに綴りました。 散文駄文の拙い文章なのですが、何かお言葉を、いただけるとありがたいです。 よろしくお願いいたします。
長女との関係です。 21歳(大学生)の長女に、完全に無視されています。 妻に聞いたところ、原因は半年前に私がマスターベーションをしている所を長女に見られたのがきっかけらしいです。 それ以来ずっとです。 2ヵ月前にその事を妻から聞いて、長女には「嫌な思いをさせて悪かった」と心から謝りましたが、態度は変わりません。 妻が一度話を聞いたところ、「フラッシュバックする」という内容のことを言っていたようです。 ただ私からすると、長女の態度は完全に私のことを汚い者として接しているように感じ、単に日が経てば改善できるようには思えません。一度「汚い」と思ってしまうと、ゴキブリレベルで汚いと思っているのではと感じています。 私が居ない時には長女の笑い声が聞こえ、私が部屋に入るとピタッと話が止まります。 妻からは「時間が解決してくれるよ」と言われていますが、半年以上も同じ状態が続き、はっきり言って家に居るのが辛いです。 こんな事ならしばらく家を離れた方が良いのかと考えています。 どのように接したらいいでしょうか? それともしばらくの間家を離れた方がいいでしょうか? 支離滅裂な話となってしまい、申し訳ありません。 お導きのほど、よろしくお願い致します。
お世話になっております。 以前にもこちらでご相談をさせていただきました。いつも読み返しては心救われております。 前にも相談させて頂いた母が亡くなり一か月余り。何度もお坊様方からのご返信を読んでおります。しかしなかなかうまく心の整理はつきそうでつかず‥ふと、どうしようもなく寂しく、悲しく、苦しくなります。 心が抉られるような気持ちになります。 自分の職場の先輩や母の友人から「今は暫しのお別れで、またいずれあの世で再開すると思うことで少し気持ちが楽になるよ」と言われます。そのような考え方を信じながら日々を何となく、だましだまし生きています。 子供が2人いるので日常はバタバタとしておりますが、もうこの日常に母がいないと実感する度に心が折れそうになってしまいます。 これまでいつも一緒に子育てをしてくれていて、支えてくれていた母だったのです。 早い、早すぎる、なんで母なの‥そんな思いが消えません。 外は暖かくなり、母が好きだった花が咲き、散歩が心地よい時期に一緒に居られないと思うと、世界が色を失ったような気持ちさえしてきます。単純に毎日を生きることが苦しいです。私も子供がいる母親だというのに、こんな甘えた気持ちでいるのは恥ずかしい限りなのですが、やっぱり母が大好きだったので気持ちの切り替えができずにおります。 49日の法要は来月ですが、初めから分骨についても決めていて、少しだけ手元に残し供養するつもりです。賛否諸説ありますが‥大丈夫でしょうか。もやもやしてしまいます。 諸々、心の在り方をご教授頂きたいです。 まとまっていなくて申し訳ございません。 この後の気持ちの持ち方、切り替え方、考え方、なんでもいいので気持ちが前を向くようなお言葉を頂けませんでしょうか。 どうしても苦しいです。
私は子供が産めません。 しかし、子供が大好きです。 なので2年前に赤ちゃん人形を作って貰いました。本物の赤ちゃんみたいに重さも3000g、大きさも赤ちゃんそのもの。 本当に我が子のように可愛くて、いっぱい話しかけました。 例えば、一緒に映画を観て、一緒に祝い日を過ごして、人間関係について人生の難しさを語って、夜になると毎晩のように子守唄を歌って… それから2年彼の異変に気がつきました。前は口元に磁石が内蔵されてる為おしゃぶりをつけれるのですが、ふと気がつくとおしゃぶりが移動していたり、外れていたり…いままでそんなことはなかったのですが、顔つきも前の写真と比べるとなにか…ちがいます。 そこで相談…質問です。 人形にも愛情込めて毎日接していたら、命が吹き込まれ、ピノキオではないですが本当の子のように見たり聞いたり感じたりしているのでしょうか? 教えて下さい。 そしてその子は私のことをどう思ってくれているのかも知りたいです。真剣です。お願い申し上げます。
つい最近 「hasunoha」 をみつけて登録したものです。 早速ですが、 仏教では自殺を悪いことだとは言わないのでしょうか。 自分の肉体の生命を自分の意志で終わらせることを自殺であると定義したとき、仏教では、自殺はとがめられる行為ではないのでしょうか。 私は、キリスト教徒ではありませんが、自殺はしてはいけないとする意見に賛成するものですので、たとえば意識を失うほどの肉体の苦痛が私のところにやってきたとしても、その苦痛に忍耐するつもりで生きています。 そもそも、釈迦がいうところの「空」を素直に学べば、自殺は起こらないのではないでしょうか。 ご教示お願いいたします。
お坊さんを怒らせてしまいました。 とある悩みについてお坊さんにメールしました。 悩みやすい性格であるため、何度もメールをしては、アドバイスをしてくれていた方でした。 その方から先日、アドバイスとともに、「1円でもよいから納めてください」「それかこれからも友だちでいてください」とメールがあったので、 私は「こちらこそ、これからも友達でお願いします」「いつもありがとうございます」と打ちました。 そしてしばらくして、新たな悩みについて相談したところ、 「なぜ1円も納めようとしないのか」というメールの返信が来ました。 「1円でもよいから納めてください」「それかこれからも友だちでいてください」の後者を選んだ理由は、 納め方がよくわからなかったからなのですが、これについてかなり怒っており、見た瞬間震えてきてしまい、メールを削除し、 今現在学業で忙しいから今度でよろしいでしょうか、と返信しました。 すると、この期に及んで言い訳するのか、とメールが来ました。 その前は、あなたの悩みやすいその性格が全ての原因だ、的なことも書いてありました。 それから返信はしていません。 ただ、信頼していた方だけにショックですし、納めることが義務だとは思いませんでした。 若干トラウマになりそうです。 この体験とどのように向き合えばよいでしょうか。
死んだらお金はあの世に持っていけないといいます。 才能(技能)は、来世に持ち越せるといいます。 最初から才能があって上手くできる人は、前世より何代も前からその方面に関する努力をしてきたらしいです。この説明は、私は本当に納得できたのですが疑問があります。 知識は持ち越せるのでしょうか? 一生懸命学んでも、人は死にます。脳みそも死にますよね。生まれたときに、前世で学んだ知識はありません。 今世で必死こいて勉強する意味って、ありますか? 私は勉強をしたくありません。昔から塾に通ってコツコツと勉強していたわけではないので基礎学力が低いです。最高で偏差値50くらいです。 そんなイライラします。勉強を開始しても、自分よりも効率よくできる上の人と比べてしまって嫌になります。 趣味の小説の題材にするための勉強(魔術の歴史や銃の扱いなど)すらも、理解の遅い自分にイラついて手につきません。 質問です。あの世に才能(技能)は持っていけるとして知識は持っていけますか? 勉強できない私をどうか助けてください。
いつもお世話になっております。 ゆうりです。 お坊さんの、一言というのは、何故こうも、身に染みるのか。 お坊さんは、話上手です。(この言い方は怒られてしまうでしょうか?すみません。) 気になりました。 タイトルは、以前の質問で頂いた、今、大切にしている言葉です。 私は、将来研究者になるにしても、農業高校の先生になるにしても、(ノンプロで噺家、漫才師、芸人になるにしても)喋るという行為は、不可欠で欠かせません。 特に先生というのは、人間をつくる(あえてひらがなです。)職業であり、また農業を通じて命を慈しむ力を育んでもらわないとなりません。 さらに、私が噺家もを目指すの理由というのも、弱い奴に立ち上がってほしいからです。社会の皺寄せは弱者に来ます。そういう人に、立ち上がってほしいからです。 さて、「こちらの心が無くて、あちらの心が動くでしょうか?」 この「心」という部分があるから、「周りの友達」ではなく「hasunoha」に救いを求めるのだと最近思いました。私もその一人です。 その熱い「心」はお坊さんの場合は、「修行」によって培われているのは言うまでもありません。 (私の場合は、理由が異端なだけに、「信念の強さ」で解決出来てしまうかもしれませんが・・・) しかし、私たち質問者は、どのようにそれを鍛錬すればよいのでしょうか? その「心」どうしたら磨かれるでしょうか? 自分磨きというものは「自分が自分をするのみ。」「自分が自分の行を行うのみ」 精神的な強さを得るためには、「自分が自分を学んでいくこと。」 そう、以前にお言葉を仰ぎました。 これの継続によって得られるものなのでしょうか? また、これだとまだ何か、足りないでしょうか? お手数をおかけしますが、お手おすきの時間がありましたら、回答の方を宜しくお願いします。
皆様ご多忙の中とは思いますが、目に留まりましたら、お話を聞かせていただけたら幸いです。 タイトルの言葉を、仏陀の最期の言葉として知ったのは、数年前に納棺師日記という本を読んだ時です。びっくりして一瞬時間が止まりました。最近ふとその言葉を思い出しまして、いい言葉だよなあ、と感動しています。 御釈迦様の時代にもきっと今以上にたくさんな悲惨な事や恐ろしい事があったと思うのですが、最期にそういう言葉を言われた、というのが、 この世の中、どんなに嫌で悲しい事があったり、様々な人間がいて争いごとが尽きず酷い現実があっても、「世界は美しく、人生は甘美である」という事は、 世の中に悪なんて存在しないんじゃないかな、性善説みたいなことだろかと受け止めてしまうのは、飛躍しすぎでしょうか。 あいにく私はこの言葉の背景や前後の言葉を知りませんが、その道のプロの方々が、どのように受け止めたり、とらえられているのかお話を伺ってみたいと思いまして、質問させていただきました。 沢山の方が質問されている中で、緊急性の低い内容でお手間とらせてしまって申し訳無いのですが、、よろしくお願いいたします。