最近仏教関連の事柄を勉強しています。 大抵のことには首肯でき、今までの自分にない発想に心が洗われるような気持ちになりますが、イマイチ納得出来ない部分もあります。 それについてはまた別の質問で書かせていただきたいと思いますが、今回は、ここにいらっしゃるお坊さん達が、仏教の教えの中で、今の世相に合わないのではないかと思った部分、疑問を持っている部分などについて聞かせていただきたいと思います。 なぜこのような質問をしたいかと言いますと、例えばイスラム教では豚肉を食べてはいけないという教えがありますが、由来としては「乾燥した地域で、牧草でなく穀物を食べてしまう豚が忌避されたから」「伝染病の蔓延や寄生虫による被害の元になるから」などの説があり、この教えは現代ではほとんど有用性がないといえます。このような、現代社会に合わない教えというものが仏教にもあるのではないかと思ったからです。 なんだか衝突を巻き起こしそうな質問で申し訳ありません。 「ない」という回答でも結構です。 よろしくお願い致します。
よろしくお願いします。 「世の中、お金がすべてじゃない」という言葉をよく耳にします。 「しかし、この世の中、いい大学を出て、大きな会社で働いて、お給料をたくさんもらって不自由のない生活をするのが幸せ」 というような雰囲気を感じています。 特に自分のように、まともに社会に出たこともない人間にはそのような雰囲気や考え方はとてもつらく、むなしくなります。 その考え方は間違っているとは100%言い返せません。
お坊様これは対機説法の修行だと思って怒らずに聞いてくださいね 因果の法則についてですが 前回の質問の答え見て思ったんですよ 蕎麦のレシピなんか見ないで(原因)蕎麦を食え(結果) ごんぎつねは悪戯の過去を見ないで(原因)今反省して修行しろ(結果) 理屈で考えるから真理がわからない(原因)実際に修行して真理をわかれ(結果) 過去や未来や死後なんかより今という悟りの境地 これって因を無視した果の法則ですよね 前回言った、人間も娑婆の世界も全てのものは最初何に作られたのか? きっと煩悩の塊の無明でそれは 何かに作られそしてそれも何かに作られそれも何かに作られ 永遠と原因と結果が連なって最終的に本物の原因は見つからず結果だけが見つかる 因を無視した果の法則 悟りも煩悩の塊の無明も因を無視した果の法則なら 悟りも煩悩も同じフィールドにいるんじゃないですか? というかこの世界そのものを先に作った煩悩の塊の無明のほうが先に 因を無視した果の法則としてあったわけですから悟りすらこれの産物じゃないですか? だとしたらやっぱり悟りも煩悩と同じフィールドにいるんじゃないですか? 悟り開いたら煩悩はなくなるらしいんですが お釈迦様が悟り開いて涅槃の境地行ったのに梵天に頼まれて 輪廻から解脱しないでまた娑婆の世界へ戻るって話って 煩悩である梵天と悟りであるお釈迦様が同じフィールドにいるような気がします お釈迦様は本当に煩悩がなくて悟ってる根拠はなんですか?
散々聞かれた質問だと思いますが なんでですか?? だってコンビニより多い数あるお寺で 二足のわらじの方だっていらっしゃると聞きました。 他になりたい職業はありましたか? 今他になりたい職業ありますか??
以前子育てで後悔していると相談した者です。過去にこだわって現在を見ていない、とお教えいただきました。 これから何ができるか前向きに行動するためにも、今そこにいる子供たちをそのまま見て受け止められるようになりたいと思ってます。 ですが未だに後悔や不安にかられる癖が直りません。 どうすればこの凝り固まった後悔の念を手放すことができますか? すぐになくす事はできなくても、現在やこれからを考えるために自分の中でどう割り切ればいいのか、お教えいただけますか。 今できる事に集中したいので、過去は過去として現在と分けて考えたり感じられるようになりたいのです。 わかりにくい文で申し訳ありません。
先日初めて質問させていただきました。 そこで、お坊さんも色々な戒律や教えに従って日々修行されているのだなと感じました。 そして新たに疑問に思った事があります。 ①お坊さんがパチンコなどのギャンブルをする事はどのような教えなのか? ②お坊さんが風俗に行く事はどのような教えなのか? ③上記の様な事がよろしくない事だった場合、その事をしているお坊さんは少数派かもしれませんが、そういうお坊さんを他のお坊さんは野放しにしているのはどのような教えにのっとっているのか?徹底するべきではないのか? ④お坊さんは高級車に乗っているイメージがありますが、乗る車について何か決まりでもあるのか?また、決まりがないとしたら、高級車に乗っている事はお坊さんとして恥ずかしくないのか? 他にも色々ありますが、とりあえず以上の4つについて出来るだけ簡潔に教えていただきたいです。 日本は無宗派が進んできているなどと言われていますが、お坊さんに対するイメージの変化も影響があるのではないかと思います。 あのお布施はパチンコに使われるのかな...とか、例えそうでなくても心のどこかで思ってしまうのはつらいです。どうしてもやりたいならお坊さんやめてやって欲しい訳です。 「悟りを得る為に良いことも悪いことも経験しよう」という人なら良いのかもしれませんが、悪い事を継続的にやる必要はないでしょうし、第一そういう心構えの人はそういう事をやってなさそうです。欲が絡むのは良くないと思うわけです。 無宗派が進む日本を変えようとするなら 人々を変えようとするのではなく まず、お坊さん自信が徹底して変わっていくのが一番の近道なのではないでしょうか。 最後に ここまで読んでいただきありがとうございました。私の無知さと出しゃばった発言、お許しください。決して、陥れようと思い書いたわけではございません。 ただただ、これからお世話になっていくであろうお坊さんの真実が知りたいだけです。
インターネットをみていたら、以下のような お釈迦さまが自殺をとめられた話がありました。 とても分かりやすいのですが、 これは、何というお経に出ているのか教えて頂けないでしょうか。 ある時お釈迦さまは托鉢中、 大きな橋の上で辺りをはばかりながら一人の娘が、 しきりと袂(たもと)へ石を入れているのをごらんになられました。 自殺の準備に違いない、と知られたお釈迦さまは、 早速近寄られ、優しくその事情を尋ねられると、 相手がお釈迦さまと分かった娘は、 心を開いてこう打ち明けました。 「お恥ずかしいことですが、ある人を愛しましたが、 今は捨てられてしまいました。 世間の目は冷たく、おなかの子の将来などを考えますと、 死んだほうがどんなにましだろうと苦しみます、。。 どうかこのまま死なせてくださいませ」 と娘は、よよと泣き崩れました。 その時お釈迦さまは哀れに思われ、 こう諭されています。 「愚かなそなたには、譬をもって教えよう。 ある所に、毎日、重荷を積んだ車を、 朝から晩まで引かねばならぬ牛がいたのだ。 つくづくその牛は思った。 なぜオレは毎日こんなに苦しまねばならぬのか、 自分を苦しめているものは一体何なのか、と考えた。 そうだ!この車さえなければオレは苦しまなくてもよいのだと、 牛は車を壊すことを決意した。 ある日、猛然と走って、車を大きな石に打ち当てて、 木っ端微塵に壊してしまったのだ。 ところが飼い主は、こんな乱暴な牛には、 頑丈な車でなければまた壊されると、 やがて鋼鉄製の車を造ってきた。 それは壊した車の何十倍、何百倍の重さだった。 その車で重荷を同じように毎日引かせられ、 以前の何百倍、何千倍苦しむようになった牛は、 深く後悔したが後の祭りであった。 牛がちょうど、この車さえ壊せば苦しまなくてもよいと 思ったのと同じように、 そなたは、この肉体さえ壊せば楽になれると思っているのだろう。 そなたには分からないだろうが、 死ねばもっと苦しい世界へ飛び込まねばならないのだ。 その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも恐ろしい苦しみなのだよ」
約三ヶ月ほど前に母が自死を選んでしまいました。仏教では虫を殺しただけでも地獄に行くと聞きますが(無知ですので間違っていたらすみません)仏教的には母は天国にはいけないのですか?長年うつ病といろんな病気に苦しんでいたので、せめて死後の世界があるとするなら安らかに過ごしてほしいですが
新宿での焼身自殺、首相官邸での抗議デモなど、最近の「集団的自衛権」を巡っての抗議が行われています。 仏教的には、「流れに逆らわない」というイメージがあるのですが、今の現状の流れが戦争につながるかもしれない政治家の側にあるのか、戦争反対への自殺・デモなどの側にあるのか、もしくは大多数であろう「傍観者」なのか、疑問に思ってしまいます。 かつて、太平洋戦争が始まった頃ともしかしたら今は同じ状況なのかもしれないという気がしています。 太平洋戦争の頃の宗教家の言動などを踏まえて、今現在の宗教家の方々はどのように考えて、どのような行動を取っているのでしょうか? 大局に囚われず、右往左往するのではなく、今自分の眼の前にある日常生活を淡々と過ごすことが大切なのでしょうか?
無職女です。 過去にも投稿したことがあります。 この無職期間半年 ずっと自分のことについて振り返り考えてきました。 わかったことは、 意志がない 欲がない 諦めが早い 当事者意識がない 危機感がない やる気がない 価値基準がない 方向性ない 性格が定まらない 趣味ない 目標ない 将来像ない 目的ない 自分で決められない 優先順位わからない 何してるのかわからない 有名私立大学をでて、上場企業に入社し退職、その後外資系企業に就職するも退職。 全て短期離職です。就活もほぼせずに紹介で決まってきました。 場所も実家のある都道府県→大阪→東京→実家と、引越しは5年以内に計6回発生しています(実家→祖父母家→一人暮らし→転勤→同棲→解消→退職) 正直、何一つ自分で選んだことはありません。その場の流れで1番都合がいいものに行き着いた感覚です。 2回目の退職で気づいたのは、自分は今、電車が発車してしまって、行き先が全く見当もついてない状況で制御不能であるという感覚です。 アラサーです。 普通、生活や仕事にある程度責任を持って、自分が一体何をしているかくらいは自認しているはずです。 何が言いたいかというと、何かしらで自分の生活や人生自分で面倒を見ていかないといけないのに、この年齢になってもなお、その覚悟や考え方すらない これに気づいたとき心底ゾッとしており、「あー私は餓死するんだ。もう就職もできずに親に寄生していきていけるところまで生きて死ぬんだ、普通の人生送れないんだ」 と感じ絶望しています。 それでもなお当事者意識がないというか、傍観しているような感想になります。ふざけてません。真剣にそう思ってるし絶望と恐怖しかない 周りから見たら奇怪だと思います。 親に全てフルスペックで与えてもらったのに、全ての環境や権利を自ら捨てて堕落しています。 自分で一体何が起きてるのか分かりません。 感覚的には、働かなくても生きていける世界にいるはずなのに、現実はそうじゃないと急に言われた感じです。え どうやって生きていったらいいの? どの仕事もやりたくないし生涯働いて行くことなんて非現実的すぎる。すぐやめるのに? まともに仕事も続けられない人間 自分で自分の面倒なんて見られない 自分で考えるんだよって言われるのはわかってるけど、それでも答えが出ない助けてください
僕は今高校生1年生です。 僕は、努力してこうなりたい!(行きたい大学に行きたい)とは思うのに、目先に楽なことがあるとすぐそちらに流れてしまったりして、勉強に集中できません。 例えばテスト前日とかは集中できるのに、普段例えば自分でやろうと思ってきて買った問題集は続けられません。 追い詰められないとすぐ遊んでしまうんです。 今の自分のままでは行きたい大学に行けないと思います。 だから、こんな自分を変えたいと思うけど、僕はどうすればいいでしょうか。自分の変え方が分かりません。 親や先生にそう言うとお前は甘えているだけだ、と言われます。自分でもそう思うけど、でもどうすればいいのかわからないんです。
何度も何度も占いをしてしまいます。当たらないとわかっていてもしてしまいます。 迷信にすぎないと理解しているつもりなのに、なんか気にしてしまうんですよね… 特に将来の運勢を占うことが多いです。 やめるにはどうすればいいでしょうか…
悟りって本当にあるのですか?悟っているお坊さんはどのくらいいますか?
調べたら餓鬼には36種類あって、なかには生まれたばかりの赤ちゃんを奪ったり仏教に帰依していない人の精気を吸う餓鬼がいるそうです。だから、餓鬼って人に悪さをすることもあるのかな?と思いました。 餓鬼って人に祟るんですか?
以前、自分が男なのか女なのかと質問をしました。 男とか女とか、関係なく、自分らしくあればいい。 そう言い聞かせ、それからも生きてきました。 でも、社会に出れば男女で別けられることが多く、その度に悲しくなります。 公的な書類も、ちょっとしたアンケートも性別を書かなければなりません。 避けて通れるものなら、避けて通ります。 しかし、避けたくても避けれないものでこの世は溢れています。 自分は自分。 そう思っていても、世間はそう思わせてくれない。 女じゃないんです。男でもないんです。 性的な様々な病気もありますが、 知っている限りでは自分に当てはまるものもありません。 何かいい方向に考えられるようにアドバイスをお願いします。
NHKでみたのですが、永平寺での修行はとても大変そうですね 修行していた方、どうでしたか? 並の人ではとても耐えられないような修行ですがどのような気持ちで修行していたのですか?
教えて下さい。 最近、人に裏切られて辛い日々を過ごしていました。自己啓発本を読み漁り腑に落ちることから納得出来ない事まで色々です。ある本には今起きている現実は全て自分が引き寄せたものだと書いてありました。 潜在意識のお話しになりますが。 そこで、色々現状を変えたくて、考え方を変えようとしたり、悲しみや憎しみの感情を持っていたら、また不幸になるのだと焦り、無理に気持ちを前に向けようとすればするほど、どんどん苦しみが増していきます。自分を愛するって、もしかして苦しいなら苦しい、憎いなら憎い、悲しいなら悲しい、未練があるなら未練がある。 その時の感情に自分が寄り添うことなのかなとも思います。 無理に自己啓発したりする必要はないのでしょうか。
前回質問した時 生きがいは後から見つけるものと教えてもらったのですが結局見つかりませんでした まだ若いからそんなに早く見つかるわけないと思うかもしれませんが、今生きている理由が欲しいです というのも自分は周りにお道化て接していて 知らないうちに本当の自分ではない 所謂もう1人の自分のようなものが生まれました 前までは特に気にならなかったのですが 高校に入り、彼女ができ、 一年過ごし、今、彼女と別れそうになっていて お互い精神が不安定で、相手はいいですが 僕はもう生きている理由が見つからず どんな趣味より死んだ方がずっと楽だと思います 死ぬことが芸術のように美しいとおもいます 人の血を見ると性的に興奮するほどです 自分の人格が壊れていく事が怖いです 周りの目が怖いです 完全なる第三者以外信用できないです 親にも本当の自分をみせられないです 自分でも本当の自分がどっちなのかわからなくなってきました。 もはや生きていないといけないとか、生きてさえいればどうにかなるとか、全然響きません。 でも心の何処かにまだ生きていたいと思うのかもしれません。こうやって質問する事で少しでも生きてみようとしてるのかもしれません。 もう生きるのに疲れました。 このまま苦しい人生を送るなら 死んだ方がましです 最近は自傷をしそうになり、 結局やめました しかし、自傷したい衝動が抑えられません。 ただ死にたいという感情だけが頭の中にあります。 寝ても覚めても死ぬことを考えています。 頑張れとか期待されると苦しくなります。 優しくされると死にたくなくなります でも優しくしてくれるのは かりそめの自分に対してで本当の自分ではありません。 そうしてかりそめの自分に触れた時死にたいとおもいます。そうすれば僕に関係した人の中にはかりそめの自分だけが残り、本当の自分になるからです そうして本当の自分を消してしまいたくなります。 無意識に嘘をついてしまって 直せません。 何度も直そうとしても そのたびに嘘を重ね、自分の首を締めています。 生きている事がそんなに偉い事なのでしょうか 死ぬのは本当に悲しいことなのでしょうか じぶんには死ぬことは名誉だと思えてなりません この悩みについてお坊さんの意見が聞きたいです。 めんどくさい人間ですいません。 こんな質問困りますよね…
日本の仏教(浄土真宗を除く)は何故『肉食妻帯』が許されるのでしょうか? 浄土真宗を除く宗派は『肉食妻帯』の禁止が前提で作られていたのでは無いのですか。 肉食関して仏陀は肉食を禁止していないや三種の浄肉をおっしゃる方が多くいますが、その部分だけを引用するとそう解釈できるか分からないですけど、当時は「托鉢」や「午後の食事の禁止」が前提の話で、日本の僧は「托鉢」や「午後の食事の禁止」をしているわけではないのに、その部分だけを引用するのは如何なものでしょうか。 また中国経由の日本の仏教には関係のない話であり、仏陀は肉食を禁止されなかったという個々の考えがあるのであれば、上座部やチベット、真宗などに改宗するか新たに肉食を禁止されない宗派を開宗すべきで妻帯の禁止及び菜食主義であった既存の宗派を変える事は以ての外ではないでしょうか 私は肉食妻帯に対して反対しているのではなく、真宗以外の諸派は肉食妻帯な禁止が前提として作られているのだからそこは徹底的にして欲しいのです。 妻帯については後継者問題があるからとは言いますが、なぜそこまで出家にこだわるのに、妻帯の禁止にはこだわらないのでしょうか。出家せずとも知識ある在家としてお寺を見守る家系として生きていけばいいではありませんか。 出家しているのに妻帯だと在家とあまり違いが無いではありませんか。 これは勝手な私論ですが 末法無戒を、唱えた日蓮上人ですら肉食妻帯をしていませんよね?それは「僧が袈裟を着る事」や「人が人を殺す事はいけない事」と同じ様なもので、その当時は肉食妻帯はしないのが当然なので末法無戒には含まれないからでは無いのでしょうか。 もし政府が「僧の服の着用勝手たるべし」とでも法令出したとしても、日蓮上人は直接は言及していないが、服を着るのは当然でその上で末法無戒と言ってるなんて誰でも分かるじゃないですか。 まとめると肉食妻帯の容認を当初からしている真宗以外は、かつてと大きく肉食妻帯に対しての意識が変化しているのにも関わらず、別宗派を作らず元の宗派を名乗ったまま肉食妻帯を許しているのか。 また現在における出家と在家の違いはなんなのかです?
この世に我こそは『真理』と言う宗教があふれているのはどうしてですか? また、偽物と本物はどこを見れば区別つきますか? 人間に絶対的真理なんて見分けられるのですか?