密教の在家信者でも悟りに至ることができるのか、質問したものです。出家者にお布施をして悟りに至るとのことですが、即身成仏の問題があります。 在家信者でもご真言を唱えれば即身成仏できるんですか?(出家者にお布施なしで)
こんにちは。 近所にあるお寺や神社には、ほとんどホームページがありません。 もしかしたらほとんどのお寺にも無いんでしょうか。 これだけネットしている人が多いのに、どうしてなんでしょう? 単に、必要ないからなんですか。忙しいんでしょうか。 いろいろ調べたいときに情報が少ないです。 わかる範囲でご回答いただけませんでしょうか。 よろしくお願いいたします。 ホームページを持っていない方に質問です。 1. なぜ持っていないのでしょうか? 2. 今後予定はありますか? いつからですか? 3. 今後必要な方は、なぜ必要なのですか? 4. 今後も必要でない方は、なぜ必要でないのですか? ホームページを持っている方に質問です。 5. いつ作りましたか? 6. どのように活用(どんな情報を発信)していらっしゃるのでしょうか? 7. 更新は誰がしていますか? 8. 更新はどのくらいの頻度でされるのでしょうか? お忙しいとは思いますが、よろしくお願いいたします。
みなさまには基本的かと思われる質問ですが、お許しください。 仏教で言われる三昧とはなんでしょうか?詳しく教えてください。 その定義はあるのでしょうか?条件とか? また、それに至るための修行がありますか? 修行があるならばそれはどういったことをするのですか?
お寺での生活や、僧侶として従事する方の日頃の暮らし、なぜ仏門に入られたのかきっかけ等に興味があり、件名の通りの質問をさせていただきます。 不躾な質問でしたら申し訳ございません。 お寺や宗派によってもまた違うかと思いますが、できるだけいろんな方の回答を伺えたら幸いです。 質問数が多くなってしまい大変申し訳ありませんが、差し支えのない範囲でご教示いただけますと幸いです。 何卒よろしくお願い申し上げます。 ①一般的に、住宅街にあるような比較的小規模な寺院には、住職以外のお坊さんは大体何名ほどいらっしゃるのでしょうか? ②お坊さんが一通りの修行を終えたとされるのはどのような段階ででしょうか? ③修行を終えたのち、学校職員など他の職業と兼任しながら、お寺に住み込みで役僧や僧職員として住職のお手伝いをして暮らす言うことはあるのでしょうか? ④お寺に住み込みで働く場合、住職にご家族がいらっしゃる場合、同じ場所で暮らすのでしょうか?別棟などが用意されてるのでしょうか。 ⑤実家がお寺で家業を継ぐ以外で、お坊さんになられた方がいらっしゃいましたら、なぜ仏門を目指されたのかお話を伺えますと幸いです。 以上です。 もし失礼なことを伺っていたら申し訳ありません。
職場でミスをして「あなたのような人は初めてだ」と呆れられました。物事を難しく考えすぎると言われましたが、私には意味がわかりません。社会人になったばかりの頃、上司からパワハラを受けて思いつめていたことを思い出しました。当時もその上司が何を言っているのか、私に何を求めてるのかが全く理解できませんでした。もしやと思い、発達障害のチェックリストをいくつかやってみましたが、どれをみてもアスペルガーという結果でした。一時期在宅の仕事もしていましたが仕事がなくなり、止むを得ず今のパートを始めたのですが、もう会社に行きたくありません。発達障害者の面倒など見てる暇もない零細企業です。在宅の仕事に戻ろうにももうツテもなく仕事のカンもなくなりました。この数日間寝込んでいます。昔鬱と言われて薬を長いこと飲まされていましたが、断薬にほぼ成功してもう大丈夫だと思っていた矢先でした。老いた母を置いて逝くのは申し訳ないのですが、母から私という心配事を減らしてあげたいです。毒親の母とは暮らすのは苦痛でした。楽になりたい。明日朝死んでいますように。お坊さんからもお祈りしてください。ありがとうございました。
私は、ある団体サークルに所属しており、会員への連絡係りをしています。 最近は、会員も増えて様々な意見が出るようになりました。そんな中で言葉のやり取りに困惑しています。 会議をしていても、感情的になり人を責めるようないい方、人の気持ちを考えない配慮のない言葉が、私は大変気になるのです。 後から傷ついた人の気持ちを聞いては、結局言われた人が我慢しているのを感じます。 メールで会員への連絡をしていても、私の言葉の言い回しについて、指摘が入ってきます。 例えば、「いつもお世話様になります。は失礼です。いつもお世話になっております。にすべきです。」等ただ、その文面だけで送信されたりすると、ひと言付け加えて送って欲しいと思い心が折れます。 暫く考えて、教えてくれてるんだからと受け止め返信するようにしているのですが、度重なるとまた、心が苦しくなります。 私は気にし過ぎている。もっと、大きな広い心で気にしない性格に変わりたいと思う次第です。 もっと、おおらかに受け止める、いい方法はないでしょうか。
私は生徒会に立候補してます。 前に給食当番という食器などを片づけたりする当番でした。 給食室へ食器を片づけに行ったあと教室に戻ろうとしたら同じ学年の子が食器&お米が入っていた箱を持っていてとても重たそうでした。 とても辛そうな感じだったので食器を持って、給食室に持って行ってあげました。 そしたら先生に呼ばれ 『○○さんは生徒会に立候補してるんでしょ?こういう事したら選ばれるために助けてあげたと私は思いました。他の人も思う人いると思うからやめなさい。』 と言われました。なのでなぜ手伝ったのかを説明したら怒られました。 選挙だからとかではなく重たそうだったから手伝っただけなのになぜ怒られなきゃいけないのでしょうか これは私が悪いのでしょうか??
私は今24歳の会社員ですが、昔から生きづらさと仏教への関心が あり、お坊さんになりたいと思い続けています。 経済的な面、在家という面で、簡単な事ではないという事はわかって いるつもりですが、どうしてもなりたいのです。在家でお坊さんになれるものなのかと、お坊さんになるという事についてどう思われるかご教示下さい。よろしくお願いします。
過去にいじめられ、現在でも憎んでいる人たちがいます。もはや時効であり、逆恨みの域まで達していると思います。 いじめられたわけでも敵意すらなかったにしろ、それでも許せない人もいます。 そもそも因果応報とはどこからどこまでで成り立つのでしょうか?悪いことをすれば跳ね返ってくるんでしょうか? 実際に今でも何かされているわけではありません。それでも不愉快なのです。
どうしても意味・ユーモア感覚が分からないので、ここでお坊さんに直接質問をさせて頂きます。 いま私は、とある掛け軸について研究をしています。ですが、私は仏教の世界を深く知るようになったのは、つい最近になってからであり、そのせいで仏教世界のユーモアが分かりません。 研究している掛け軸には、掛け軸の下の方に、『十六羅漢のうち十人が水が足首らへんまでしか来ていない海(若しくは川)の浅瀬を渡って、上の方を見上げている』描写があり、左上の方に、『龍頭観音と思われる龍が一匹と、龍の口らへんに、モワモワした煙と共に、お花のような(?)ものを手に持っている着物を着た女性が一人立っている』描写があります。更に、この空の方へ登っている龍には、十六羅漢のうち六人が乗っており、そのうちの一人が釣り糸みたいなもので蛸を海から釣っています。 十六羅漢が川ではなく、海を渡っているのは、蛸が海にしか生息していないからという理由で、海だと推測しました。 この絵には漢詩が付いているのですが、以下のようなものです: 是秋釈子袿第響 無転十六蛸入道 為老先生博祭無事居楽 遊印には→星洲晩漁 と書いてあるはずなのですが(あまりきちんと読めませんでした)、漢詩の意味は全て分かりませんが、ここには蛸入道としっかり書いてあります。 以上のことから、私は、蛸とお坊さんの頭を掛け合わせて、笑いを取るような絵だと見受けました。 が、私の感性では、釈迦の弟子たちで笑いを取るという感覚が全く分からないのですが、ひと昔の日本では(明治・大正あたり)、このようなことはよく起こり得たのでしょうか?またこのような、ブラックユーモア的な掛け軸は、よくあったのですか? ちなみに、私の推測はあっていますでしょうか?(蛸とお坊さんの頭を掛け合わせることで、笑いをとるという感覚) 若しくは、他に何か意味があるのでしょうか? 漢詩の意味も分かりませんが、このセンスが本当に意味が分からなくて、大変困っております。どなたか詳しく説明して頂けますと幸いです。 掛け軸の絵を写真で添付できないので、絵そのもののイメージがし辛いと思いますが、どうぞ宜しくお願い申し上げます。 ちなみに、この掛け軸は、近代に描かれました。
浄土真宗で追善供養をしないのは何故ですか? 「追善供養は自力だから」「亡くなった人はみんな極楽に往生して供養する必要がないから」などなど色んな意見があるみたいですが、どれが本当ですか?
3年ほど前から難病指定のある、SLEという病気になってしまいました。診断された時はお医者さんの前で泣いてしまう程悲しく、受け入れられなくて、しばらく泣き続けていたのを覚えています。ここ最近は月日も経ち、家族の助けもあり、少しずつ受け入れようと努力しています。しかしまだまだふと泣いてしまったりと受け入れられません。 なぜ私がなってしまったのか。なぜ病気のせいで趣味を我慢しなくてはいけないのか。なぜ…という気持ちが強いです。 どうしたら病気を受け入れ、前向きに生きていけるのでしょうか。
ご相談失礼します。 私は通信制高校に通おうと思っていて。親2人にもその話はしていて母親は受け入れてくれたのですが、父親は納得がいっていなかったようで仕事から帰ってくる度説教をされていました。これはもう今に始まった事ではなくて2年前くらいからこれまでずっとです。 正直言うと私の話も聞かずに一方的に命令口調で説教をしてくる父が昔から大嫌いでした。通信高校の話をした時も私の話はスルーされ命令口調ではなかったのですがここ行けばとかそんなのばかりでした。何年も聞いてきました、それを踏まえた上でここに行きたいと言っているのに全スルー。この説教をされてる時今まで沢山高校の事を考えたり先生に相談したり説明会に行ったりしたのですが、それが全て壊されていってる気がして本当にどうしようもなく悔しくて最悪な事に父の前で泣いてしまったんです。父は泣いた私を見て何を思ったのかベタベタ触ってきたんです。頬を捕まれ至近距離で無理やり視線を合わされたり頭を撫でられたり背中を痛いぐらいに叩かれたり3回くらい息がしずらいほど抱きしめられたり。言ったら悪いのですが本当に気持ち悪くて吐きそうでそれでも逃げられなくて、でも父は構わずこんなに可愛いんだからとかアンタなら大丈夫とか、どの口が言ってるんだと思いました。今まで私の何を見て来たの?何が大丈夫なの?私の事知りもしないくせに大丈夫とか軽い言葉を使って私が今までどれだけ苦しい思いをしたか知らないくせに。 私はリアルで誰かに悩みを聞いてもらった事が今まで1度もありませんでした。ずっと一人で泣いて、その度に思ってました 誰かの胸の中で泣きたい、話を聞いてほしいと、ずっと思っていました 父に抱きしめられアンタなら大丈夫と言われた時なんでこういう時に限って抱きしめて来るのはこの人なんだろう。なんで大好きなお母さんじゃないんだろうと最悪な気分でした 父親だけならまだよかったんですが現実は甘くなく、フリースクールでも私だけ挨拶を無視されたり皆の輪から外れていたり私だけずっと1人。フリースクールなら私の居場所になってくれる思っていたのですが真逆でした。何も出来ない私が悪いんです。全部私が悪いんです。 もう何を信じればいいのかどこが私の居場所なのか分かりません。毎日こんなことを考えて私はいつ解放されるのでしょうか。全てが怖いです
初めまして。 私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。 私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。 ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。 仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。 私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。 先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。 もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。 人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。 こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。
現在代々続く和洋菓子屋の5代目として家族などでお店を営んでいます。 毎日仕事をしていても月日ばかり過ぎるだけで成果がなかなかでません。また両親との考えや、やり方が合わずになかなか気持ちが前に向きません。 考え方の違いで揉めたりもします。 僕は40歳までに今のお店を大きくしたい気持ちがあります。 仕事で成果するためには商売において目先の内容をよくする事よりも、 人間本来の気持ちの方が大切なのでしょうか? 仕事に一番必要な事は何でしょうか? 成功するためには何が必要でしょうか? チャンスはどんな人に訪れてくるのでしょうか?
私が、以前働いていたのはお寺でした。 本山でした。 私は、そちらで嫌な思いをし、退職しました。 その人はお坊さんでした。 私は、 今も病院に通っています。 謝るということも、してもらっていません。 このような質問、私ぐらいかな? 聞いて貰えるか分かりませんが、お坊さんとしてご回答下さい。 できる限りのことは、してるんですが答えが分かりません。
いつもお世話になっております。 問答では学ばせていただく事が多く、ありがたい毎日です。 私は「知足」と「本来無一物」という言葉が好きです。 生活において物質的にも精神的にも色んな問題を抱えている中、 この言葉に助けてもらいながら生かせてもらっています。 本当に少しずつなのですが、すぅーっと自然と身について、 ちょっとの事でもありがたいなと感じます。 仏教用語はhasunohaにて拝見する度に「うーん、なるほどありがたい~…」と感銘を受け、頷いていますが、恥ずかしい話…難しい文言も多く忘れてしまいます(哀) お坊さんが好きな(大切な)言葉を教えていただけると嬉しいです。 出来ましたらその言葉の意味・好きな理由等をお聞かせいただければ幸いです。 どうぞよろしくお願いいたします。
僕は「生きる意味」を自問自答し、それを見出せませんでした。僕は僕の意志に主体性が介在しないという結論に至り、もうすぐで寿命が尽きてしまいます。どうすればいいでしょうか。 「知」の欲求が、「生」の欲求を上回り、生活を営めないがために健康を害し、身体が悲鳴を上げている。 これを自覚してなお、僕は自らの意志に主体性を見出せず、仏様から授かった寿命が尽きてしまうことを悲しいと思うことしかできません。しかもこれに対して僕はどうすることもできません。 取り急ぎ回答をお願いしたいと存じます。
皆様初めまして、変な質問で申し訳ないですが… 皆様の最近遊ばれた中での一押しのゲームはなんですか? 別に他のサイトで解答を募ればいいじゃないか…と言う質問ではありますが… 私個人、ゲームが趣味でして「ゲーマーなお坊さんが居るのであれば、一体どんなゲームをしているのか?」と言う興味がありまして… こんな質問ではありますが、回答をお待ちしてます。
戒名・法名は、人が亡くなり仏になった事の名前だと良く聞くのですが、以前戒名等を調べた時に、生前に付けてもらっても良いと書かれていて、ミドルネームと一緒みたいなものだとも書かれていました。 何時から法名・戒名が、亡くなった時に付ける名前と言う認識に変わったのでしょうか? それと、今は戒名・法名も付けない人が多いと 最近TVで見ました。 主人も付けなく良いと言っていますが、どうなんだろう?と、考えています。 実父が亡くなった時に遺言で、葬式するな・お骨拾うな・法名付けるなと言われましたが、結局法名をつけました。 生まれた時に付けてもらった名前が有るから良いと言う考え方も確かに出来ますが、どちらが良いのか分からないので、アドバイスをもらえないでしょうか?