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検索結果: 253件

煩悩も欲も消さなくていい。

煩悩も欲も消そうとする必要はない。この世の理(ことわり)だから。 煩悩や欲はありのままの心の在り方であり、決して消えるものではなく、そのままを受け入れることでその縛りから解き放たれる。 辛い苦しい悔しい腹立たしいだけでなく、ありがとうと感謝の言葉を発することも、何か良いことをするという徳を積む行動も、お念仏さえ煩悩や欲のひとつである。煩悩と欲は人として生きるには逃れられないものである。 また、煩悩は108あるという。言葉遊びではあるが永遠(とわ)とも読める。 これは、煩悩や欲などはこの世の時空間が始まる時から(科学的にはビッグバンか)終わるまでの限られた「永遠」という中に存在することを意味する。 煩悩がこの世の物理的な法則決まりごと、欲が化学結合などを起こすエネルギーとして考えるなら納得してもらえる人もいるだろう。宗教や哲学、科学などは人のごく限られた能力の中で作られたものであり、大した差はない。 別の世、違う時空間には違った煩悩や欲があるだろう。 人は人としてこの世に産まれる前から生命体(あるいは物質)として遥か昔から存在し、煩悩と欲のおかげを受けながら、産まれてからだけでなく、死んだ後も物質やエネルギーとして森羅万象の中で存在しつづける。 自分とは?自分はなぜ?ということに捕らわれず、今の状態、周りの言動はその存在を認め、自分の感情をはじめ、他人の行動や起こった出来事は仕方がないと赦して労わり、その経験をありがたしと感謝しながら、経験を活かして自分の趣くままに行動する。 そうして、普遍的に存在する煩悩や欲にも感謝しながら、うまく活用できれば、自ずとこの世も極楽と気づくことができる。 悟ることができて仏になるであろう。

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仏教は虚無的思想?

最近思うのは、 「仏教は科学を補完するのではなく、包合するものだ」ということ。 科学は森羅万象を解き明かしますが、森羅万象は既にそこに存在し、極めて柔軟かつ精緻に動き続けています。 例えば、未踏峰に初登頂しても、既にそこには太古より山はあり、命名する前から、山なるものは山であり続けたはずです。 人間は、人間が生命として「生き延びる」為に、「生命に必ず備わる生の渇愛」という衝動を原動力に科学を発展させ、生命力の強い種に進化しました。 ただ、進化と言えるか怪しいのは、科学は「外部的要因(環境、自然)」に手を加えて、人間に利するように、供する為の手段と言うこと。 人を支配するのは心ですが、その心を軽視したが故に、あるいは物質科学と心の科学のバランスを軽視した故に、様々な問題が起きているのではないかと思います。 本題ですが、では心の科学の仏教ですが、お釈迦様や南方仏教、明治以前の多数の僧侶は結婚していませんでした。 非常な覚悟、決意のもと、正師の導きで修行しても、「お釈迦様でも七回生まれ変わって漸く…」と言われるように、医王釈尊の入滅後、人は悟りが難しくなりました。 そうした中、結婚せず、子孫も残さずというのは、「虚無」に陥り易いのではないでしょうか。 生命として、子孫を残したいという衝動は根元的なもの。 インドにあるような、人生を何期かに分けて、「林遊期」に仏教を真剣に学ぶのが、生物としての人間に無理が無い気がします。 突き詰めれば、人類という種が滅する、結婚しない生き方が良いのか、囚われずに生きた方が良いのか、どうなのでしょうか?

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人間はなぜ修行しなければ悟れないのか?

ご質問させて頂きますハルソラと申します。 私は禅の思想に感銘を受け、座禅修行を念頭に日々の生活を送っております。 多数の書物やお話から理屈では「なるほど悟りとはこのようなものか」と理解しつつも、お坊さまはご存知の通り、頭の理解でどうにかなるものではなく悪戦苦闘の日々です。 そこで私はふと思いました。なぜ人間はこんなに修行しなければ悟れないのか?…と。 昔、文鳥を飼っていた事がありますが、文鳥は悟っていると思いました。 すべての行動が「作為なく自然体で、ありのまま」なのです。 例えば、指で突っつくと怒るのですが、次の瞬間に手のひらを差し出すと、怒っていた事はすっかり忘れて手のひらに乗って機嫌良くしているし、 晩年は羽の力も衰えて全く飛べなくなりましたが、そんな事を気にしたり落ち込んだりする様子もなく、シャカシャカと素早く走りいつも通りのご機嫌なのです。 動物植物などはそのように「ありのまま」生きている(…と思う私の推測ですが)のに何故に人間は長い間たくさんの修行をしてやっと悟れるか、あるいはそれでも悟れない、という言わば面倒な存在なのでしょうか? お坊さま方もお忙しい中まことに恐縮ですが、ご教授よろしくお願い致します。

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瞋恚を克服したい

2年ほど前に「カタツムリの外見が苦手なのだが見た目でモノを判断するのはどうなんだ」という相談をして、「恨むほどでもないなら別に嫌いでもいいじゃない」といった旨の助言などを頂いたのですが、そのお陰なのか今では手で触れられる(寄生虫がたまについてるらしいので手は洗いますが)ほど克服してしまい、当時を思い返しては内心で驚いています。 ただ、自分の価値判断を省みる中で一つ気がかりな事を見つけて、その事が少々悩みの種になっています。 というのも、これまで蛇蝎の如く嫌っていたカタツムリを克服した事で心持ちに相当の余裕は出来たのですが、自身が本来したかったことはいわゆる瞋恚の克服であり、しかもカタツムリに関しては貝類の図鑑を眺めたりしてどうしたら克服できるか考えあぐねていたはずがいつのまにか慣れてしまったこともあり、実は本当の問題が解決していないのではないか…と思い悩んでいるのです。 浅学の身で大変僭越ではありますが、私の知る限り悟りというのは本来その実利を全く求めずに明鏡止水の心持ちで行を繰り返す事であると聞きます。 ですが、自分はたまにカタツムリの画像を見ては「どうすれば好きになれるかなぁ」と欲望まみれでひとりごちていただけで具体的なことは殆ど何もやってなかったと思うのです。 今は不便こそしていないものの、もし克服したと思った心持ちが来年変わったら…もし再び嫌いはじめたら…と思ってしまうとゾッとします。 それ故、この心持ちが偶然で終わる前に揺るがなくなるような方法を教えて頂きたいのです。 これは、嫌いなものを増やさない為だけではありません。 自身の身に合わないと思ったものを排斥することに執着しない為でもあります。 これは拙い持論ではありますが、人は好きな物事を愛で続けるより、嫌いな物事を憎み、気がすむまで叩きのめすことにより快感を感じる傾向にあると思っています。 しかし、排斥することに味を占めると終わらない闘争の火種になりますし、何より自身の不満不幸に執着し続け、目の前の満足や幸福を取りこぼす事が自分には一番の災厄だと思います。 物事の全てを愛でるには自分はちっぽけではありますが、せめて恨むなら「恨む」という事そのものだけに留めておきたいと思うのです。

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葬式をあげてほしくない

死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 411
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母親を包丁で刺そうとしました

20代の無職です。母親を包丁で刺そうとしました ごはんを作ってもらってる身ですが、おかずが少ないしもっと買ってきてよと言ってから口論になり(当然ですが)包丁で「てめえええ」と寸前までいってしまいました 目の前で振りかぶったとこまでいって人生を不意にする気かと思い、止まりましたが怒りは止まりませんでした。包丁をしまって母親を壁にたたきつけ思いっきり爪を立てて顔を握りしめ「てめえがむかつくんだよお」と罵倒しました 気が落ち着いて母親を放してから離れると母親が 「いつまでも自分の思い通りになると思ってんじゃない」 と言ったので頭に血が上って悪態をついた後、部屋に戻りました。 それから部屋で自分がなんて危険でひどい人間なんだろと思うのと このままじゃ殺してしまうかもしれないという思いがあります。 しかも殺してもまあいっか、死刑になってもいっかという思いがあります 以前友達に相談したときも、それなら家を出てって一人で暮らしてけばいいじゃんと言われました。しかしやんてらんね、めんどくせってそういう気にもなってません。本当にひどい人間だと思います 自分の両親は小学校の時に離婚して母親のもとで育てられました。 3人兄弟だったのですが兄は10年前に自殺してます。妹は仕事しながら一人暮らししてて立派にやってます。 父は以前までたまに会ってましたが仕事をやめて引きこもるようになってからあってません。母親を殺したいと相談したことがありますが「なにが親を殺したいだ!」と一喝してそれだけです。 母親はとにかく口が悪く別れた父、別れた後面倒を見てくれた両親、周りの人間の悪口をいつもいってます。僕自身も小さいときから母親に対して文句を言うと、「じゃあッ出てって」「もう面倒みない」と いったり、ものにあたったり投げつけてなにも聞きません と言ってる僕も幼稚園は全くいかず、無理やりつれてかれた学校でもろくに勉強もせず、遊んでばっかでした。 一番むかついたのが「ゲームしか友達いないの?」「がりがり」「だらしない」といった罵倒で(事実もありますが・・)今でも恨みを晴らしてやりたいと恐ろしい想像してしまいます。 僕自身もろくでもないですがなにか救われるような言葉お願いします

有り難し有り難し 85
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葬式のお経

何故、葬式でお坊さんがお経を誰もわからない言葉で長々と読むのでしょうか?なぜそこにいる人々にわかるような言葉で読まないのでしょうか?あれじゃただの雑音です。 せっかくですし自分はお経の内容を知りたいと思っているのに、あれじゃ時間の無駄です。 ただでさえ悲しいのにあんなに長々と意味のわからない音を聞かせられるとか、お坊さんが人々にさらに苦しみをあたえています。 ああいう喋り方じゃなきゃ死者があの世に行けないということはないでしょう。 木で木を叩いて音を出し、声帯から決まった音を出さないと死者があの世に行けない理由もないでしょう。 ありがたいことを読んで悲しんでいる人の心を楽にさせてあげているわけではないでしょう。誰も理解できていませんから。 ああいうやり方にしないと死者への敬意を表せないわけではないでしょう。葬式で大事なのは心から悲しむことで、心から悲しみさえすれば決まった一つのやり方でやる必要はないからです。 自分が推し量るに、ああいうやり方じゃないとありがたみがなくなり誰にでも葬式ができるようになって、お坊さんが金儲けの手段を失うからだと思っています。 悟りを目指し、人々を救うことを目指しているお坊さんが、そのような誤魔化しをして金儲けをしている理由を教えてください。 攻撃的に感じるかもしれませんが、これは子供の頃から気になっていたことなので。どうか誤魔化さずに本当のことを教えて下さい。

有り難し有り難し 578
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ただ無為に生きている

わたしは26歳女で会社員をしています。 恋人もおり、収入もそれなりにあり、身体に大きな問題もなく、生きています。 ですが、自分自身生きることにあまり意味を見いだせておらず、積極的に「生きたい」と思えません。 かといって積極的に死にたいわけではなく、「痛みを伴わずに死ねるなら死にたい」くらいの気持ちしかありません。 多くの人間が当たり前に願う「長生きしたい」「子孫を残したい」などに共感できず、ただ死ぬのは痛いから惰性で生きています。 かつては家族に対して不誠実な行いをした父親に対する怒りや、恵まれた環境に生きる人への反骨精神のようなもので精力持って生きていたのですが、いまはもう、父親とはほぼ縁を切りそこそこの学歴と職を得て、そういった負の原動力も消えました。 今生きているのは惰性です。 恋人のことも、抱きしめたときの温かさに心地よさや愛しさこそ感じますが、それが「だから長生きして一緒にいたい」とつながりません。 あたたかくて、いまこの瞬間の心地よさに包まれて目を閉じて眠り落ちて朽ちたい、そう思ってしまいます。 わたしはなぜ、こんなにも空っぽのまま生きているのでしょうか。どうしたら、活力が生まれ、生きることに向き合い丁寧になれるのでしょうか。

有り難し有り難し 15
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心から人を恨んでいます。どうしたら許すことができますか?

私には12歳離れた弟がいます。 弟とは異父きょうだいです。 弟の父親は、薬物で何度も捕まったり、お酒を飲んでは家で暴れて物を壊したりしていました。 根は優しくて良い人でした。 私がどんなに酷いことを言っても怒らず、お酒を飲んで暴れても、母や私を傷つけることはありませんでした。 しかし私は、それでもその人のことを恨んでいました。今も恨んでいます。 その人が今もどこかで日常を笑って過ごしているんだと思うと、怒りで涙が出てきます。 理由は、弟の妊娠や再婚を母が私に報告してくれなかったこと。自分達は傷つけられはしなくても、暴れている姿はとても恐怖で、今でも大きな物音や扉を激しくノックする音がトラウマだということ。薬物所持を通報出来なかった罪悪感。 だから私は、計画的に、その人と母親を離婚させてしまいました。その時、弟はまだ1歳にもなっていませんでした。 まだ小学生だった私は、弟の父親が写っている写真を、全て捨ててしまいました。 なので弟は、父親の顔さえ知りません。 母の意向で、弟には「父親は死んだ」と、伝えてあります。 弟は私と正反対の性格で、私には言えないようなことを言うことができます。 私には出来ないことが出来ます。 私は小さい頃に母親から育児放棄をされていたので、きちんと愛されている弟に嫉妬しています。 同時に、理解し合うことができなくて、話す度に怒りをおぼえます。 支離滅裂な上に長くなりまして申し訳ありません。 そんな過去があり、私は何度も、まだ母と弟の父親が離婚する前、母と弟とその父親を殺そうとしたことがあります。 弟の首を絞めようとしたり、睡眠薬を飲ませて刺そうとしたり…… もう離婚して、母と弟と3人で暮らし始めて7年ほどになります。 未だに弟の父親と、弟への恨みが消えません。弟の父親の住所も知っています。いつ殺してしまうか分かりません。 こんなにも人を恨んでいる自分が、1番大嫌いで、ずっと苦しいままです。 他にも家庭の苦しい事情は絶えません。 これ以上耐えられません。 でもまずは、どうしたら弟の父親、および弟への恨みや罪悪感を無くすことができますでしょうか? こんなこと誰にも言うことができません。 ご回答をお待ちしております。よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 89
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心のありどころ

すみません、文章をまとめるのが苦手なのと、心の整理が付いていないので、文章がぐちゃぐちゃになるかもしれません。 私は、幼いころからいじめにあってきました、そのためか疲れたりすると自傷感情があふれ出てしまいます。 学生時代に窓か飛び出して頭から庭石にだいぶしたいと思ったこともありました。 仕事で失敗した帰り道川沿いの道を通りながらハンドルを川の方に回せば川に落下できるなと思ったこともあります。 幸い友だちや両親の顔そして、いつか素敵な人と出会えるかもしれないと思って思いとどまってきましたし、リストカットにも走らないで押さえてきました。 そして、こんな思いをする子どもを一人でもを少なくしたいと思い、ボランティア活動をしておりました。 親御さんから「ありがとう」と言われるといじめられて冷たい言葉が多かった反動か、うれしくなるのですが。 その反面自分がいじめられていた時にボランティアさんに会いたかったと言う願望を自分がやることで心を埋めている自分気が付きます。 さてこうしていると、人のためにがんば幸せを感じる一方で、時として、自分自身が救済されたい願望が心の中で暴れだします。 他の人が笑顔になって幸せを感じているはずなのに、私自身が甘えて励ましてほしいと思うことが出てきてしまいます。 いじめられていたころ、いつの日か恋をするかもしれないと自分を励まして来たけど、恋など夢また夢と言う状況も拍車をかけている気がします この気持ちをどのように受け入れていけばいいでしょうか

有り難し有り難し 22
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