私がシーサーのぬいぐるみをみていたら、職員さんが、いる?と聞いてきた。本当は欲しかったのに本当にもらっていいか分からなかったから、いると言わなかった、私がトイレに行っている間私の友達が私が欲しかったシーサーのぬいぐるみもらっていたから取られたと思ってイライラしたラインや直接暴言吐きそうです。またあしたも会うので怒りや恨みをぶつけてトラブルになるのが怖いです
スピリチュアルや占い、自己啓発にハマってしまった結果、貴重な20代を棒に振りました。 今現在、ものすごい後悔で押しつぶされそうです。 きっかけは当時付き合っていた元彼にフラれた事でした。 言い訳が許されるのであれば、当時は鬱を患っており、更に学生から社会人になりたての上、勤め先がブラック企業で心身ともに限界値を超えていました。家族や友人を頼る事ができなかった私は、物事を正常に判断する状態ではないのにも関わらず、それでも何としてでもその時の苦しい状況から抜け出したいと考えたのがスピリチュアルにハマったきっかけです。 いろいろな物事が積み重なって完全に自信を無くしていた私は、自分で物事を判断するのを積極的に放棄しました。自分の考えほど信頼できないものはない、と…。 おかげで今は空っぽです。良かれと思ってやってきましたが…間違っていました。本当に無駄でした。 『引き寄せの法則』だとか『予祝』だとか『お金はエネルギー』だとか…ここに書き出すのは恥ずかしいくらい。馬鹿なことをしました。 本当は心の問題なんかに囚われず目一杯オシャレしたかった。友達と沢山遊びたかった。なのに私は自分の荒ぶる心と向き合うのに精一杯で。 何も得なかった訳ではありません。暖かい家庭を知らないからこそ、素敵な人と結婚して幸せになりたい。 ならば自分もそんな人に見合うような人間にならなければと必死でした。 誰にも頼らずに状況を良くしたい、そう考えた結果がスピリチュアルに頼ることでした。 昔と比べて随分と穏やかになったり、無理に明るく振る舞うこともなくなりました。けれど、代償に今までの友人や、何よりもお金を失いました。 肝心の恋愛も上手くいかず気付けば30代。3ヶ月前に本命の彼女がいる同僚に手を出された上に逃げられてから、もう何もかもが空っぽです。何となく自分の歩んでる道が正しくないのではないかとは思ってた。けれど、自分で選んだ道だから、自分で正しくするしかないと必死だった。だけど結果はこの通り。 何もかもが自業自得です。 こんな私でも、生きる資格はあるのでしょうか。自責の念に押しつぶされそうです。
僕は「生きる意味」を自問自答し、それを見出せませんでした。僕は僕の意志に主体性が介在しないという結論に至り、もうすぐで寿命が尽きてしまいます。どうすればいいでしょうか。 「知」の欲求が、「生」の欲求を上回り、生活を営めないがために健康を害し、身体が悲鳴を上げている。 これを自覚してなお、僕は自らの意志に主体性を見出せず、仏様から授かった寿命が尽きてしまうことを悲しいと思うことしかできません。しかもこれに対して僕はどうすることもできません。 取り急ぎ回答をお願いしたいと存じます。
お世話になっております。こちらの相談を利用させて頂き、お陰様で人生で最悪な時を脱したと自覚しています。 頂いたお言葉を反芻し、心の支えにしています。人間関係が希薄になりがちな現代につながりを実感できる貴重な手段です。 だからこそ、余計なお節介とは重々承知しておりますが、気になってしまいます。 近頃、メールでのアンケートやLINE相談などの受付が開始して、ユーザーとしてはますます身近になったものの、お坊さんや運営の方のご負担が随分増してしまったのではと考えてしまいます。 自分の人生経験は浅いながら、相談を受ける側も、する側も、感情的になったこともあります。どれも大変、労力を使います。自分が明日から大勢の悩み相談を受けろ、と言われたら卒倒するかもしれません。 日常でも、就職活動でセミナーなど受けるうちに、講師の方はどんな心持ちでいるのだろうか、相談員として人の話を聞く人はどうやって自分をケアしているのだろうか、ということに気が向くようになりました。 是非お聞きしたいです。日々、沢山の悩み相談に向き合い、なお相談者の悩みに飲み込まれない秘策があるのでしょうか? 自分は過去の経験から、ちょっとどころではなく人が苦手なのですが…人がお好きだからできることなのでしょうか? 自分より他人へ目を向けられるくらい回復したのも、hasunohaのお陰です。 収入がでたら物理的に応援できるのをモチベーションに就活を頑張っていこうと思います。
不登校の中学生です。 ふと自分を客観視した時に、果たして自分はこれからの未来で生きていけるような人間なのかと不安になります。そして、いろんな可能性を、いろんな道を考えて、最終的にはいつも「やっぱり生きるの向いてないな」という結論に落ち着いてしまうのです。 私にはほんとうになにもありません。成績もそこまで良くありません。人と関われるような精神力もコミュニケーション能力もなくて、かといって地道な作業できるような忍耐力もなければ、家からまともに動いていないので体力もありません。そして何より、自分が感じている苦しさを盾にして怠けた生活を正当化しようとしてしまいます。 今の私は子供だから、「守られるべき立場」だから、まだ環境の優しさに甘えていられる。親の脛を齧っていられる。でも、そろそろ目の前のことだけじゃなく将来も考えなければいけない時期です。高校の案内も来るようになって、ぼんやりでも将来を見据えなくてはいけない。そんな時期なのに、私はいつまでも同じ場所で立ちすくんで、同級生たちの苦しみながらもハードルを超えていく背中を傍観することしかできないのが、本当に情けなくて嫌になります。 特技があるわけでもない。努力も碌にできない。感じている痛みを免罪符にする。果たしてこんな人間に、ストレス社会とも呼ばれるような現代を生き抜く術はあるのでしょうか。 「まだ中学生なんだから人生を諦めるには早い」と先生方に励ましていただけることもあります。実際、少し前まではそれを信じていました。でも事実として、私という人間は生きるのに向いていないのです。そのことに気づいてから、大人になっても自分が生きている未来が想像できなくなりました。 死ねるような度胸がない私はきっとこれからも、消えてしまいたいと嘆きながらダラダラと生きていくのだと思います。迷惑ばかりかけたこの身で、烏滸がましくも生きることに執着するのなら、せめてほんの少しでも役に立てる人間になりたいのに。もう私が生まれてきた意味がわかりません。親にも、先生にも、親戚にも、同級生にも、友人にも、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいです。
死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。
知識のない一般人としての質問で大変申し訳無いのですが・・・ ブッダがいた時代は、大乗仏教や宗派ができる前ですが、ブッダが一番言いたかった、伝えたかったこと(メッセージ)というのは、大乗仏教の中にどう生きていると思われますか(大乗仏教の様々な宗派の中でどの部分に一番それが象徴されていますか)? 大乗仏教において、ブッダの教えとその宗教としての儀式などがどこか矛盾していると感じてしまうことがありますがそれはどう捉えればよいでしょうか。(ブッダのいう悟りから得たもの(教え)と大乗仏教の在り方が矛盾してみえることがある) 菩薩という存在は、大乗仏教のなかでどう捉えたら良いのでしょうか。
こんにちは。仏教の慈悲について考えていたのですが、迷いました。お暇な時に、教えてくださると助かります。 私は最初、慈悲は愛と同じかな?と思いました。愛とは誰か困っている人を見つけたら自分がしてほしいと思うように相手を扱い助けることだ、と助祭から昔教わったんです。それと似た気持ちかなと思って。でも慈悲について過去の記事を読んでいるうちに、慈悲と愛は違うかもしれないと思うようになりました。仏教では周りの人や生き物と自分が皆繋がっている考えがあると感じたんです。それで、まず慈悲とは共感することなのかなと思いました。でも、共感だけではなくて広い心で人の為に祈るような意味もあるのでしょうか。うまく言えないけれど、憐みみたいな....例えば、自分に敵意を持っている人に対して慈悲の心で接するような表現をどこかで見たのですが、それは相手が自分のやっている悪い事に気がついて正しい道に進めるように祈ることかな、と思ったり。あれこれ考えているうちにわからなくなってきました....。 題とは直接関係ないけれど、今月父の一周忌でお坊様のお祈りと共に納骨されていくのを見届けることができました。普段は全然泣かないのに涙が出てきました。悲しいからではなくて、安心したからだと思います。僧侶とはすばらしいお仕事ですね。とても感謝しています。
質問させて頂きます。 私は結婚して16年になります。 夫婦いざと言う時の為、普段からの 先祖供養等の為にお寺に入りたいと 主人と常々話をしています。 でも、お寺の選び方等が全く不明で ずっと悩んでます。 20代後半時に友達からS宗教の事を 聞かされ何度も足を運んで話を聞いたりしましたが納得いかず・・・ 次、主人の叔父さんにKに誘われ、 付き合いで行ったのですが怖い思い をしながら断り・・・ 今はNSに入っていますが前の2つ と変わらない感じで抜けたいです。 主人曰く、新興宗教とやってる事が 変わらないと(私も同じ考えです)。 信者獲得で発表会で何人入信した、 その為のイベント等は大々的。 他宗教は邪宗で批判的、他の人を 幸せにしたいなら勧誘はするべき。 お題目、勧誘が出来ないと功徳が 無い等。 勧誘とかするつもりないですし、 新聞とるの当然と強制されたり、 自分の実家宗教を間違ってると否定 するのは間違ってると思うのです。 実家が入ってる宗教に入るべきとも 思ってないので何かあった時の為に 夫婦で生前に入りたいのです。 私も主人も詳しくないですが仏教が 好きですしお寺も大好きです。 お説法を聞いたり、お経を唱えたりするのも好きですし気持ちが落ち着きます。 でも今は仏教やお寺と言うものが、 信用出来なく嫌いになりそうです。 お話聞いてみたいと思ってもどうしたらいいのか直接聞けるとなると 上記の感じの所ばかりです。 今の状況を打破したいのですが、 お寺の選び方や直接お話聞いたり する事が出来たり等という方法は ありますでしょうか? 宜しくお願い致します。 長文、乱文失礼致しました。
私はあるお寺の長男で、跡を継ぐ立場にありますが、ここ最近進路について真剣に考えていると、どうしても自分が跡を継いでいいのかという疑問を抱いています。それはタイトルにもあります通り、私に信心というものがほとんど無いからです。 家柄上、仏教・宗教とどう向き合うかということをよく考えるのですが、そのとき仏教はこれこれこういうものであると認識することはできても、それを信じることはできません。読経や修行も必要ないのではと考えてしまいます。そのような者が僧侶となってお寺を継ぐということは適当でしょうか。私は適当で無いと考えます。 私自身はお寺を継いでも構いません。職が決まっているというのも有り難いことだと考えています。しかし原理を大事に考えてしまうので、真面目に活動している僧侶の皆様を見ると、咎める心があるのです。 私はお寺を継ぐべきなのでしょうか。そして、もし継ぐにしても、信心が無いのは問題でしょうか。周りにこのことを相談できる人がおりませんのでこの場で質問させていただきます。
社会人になってから3社目、転職してきて半年ですが、仕事が出来ない上に、みんなに嫌われているように感じてます。相談出来る相手もいません。会社で居場所がなくて、本当に辛いです。 今の職場は、世に言うホワイト企業で、働いている人はみんな優秀で、環境はとても恵まれています。着いていけないのは私の実力不足と、コミュニケーション能力の欠如が原因だと感じてます。 嫌われた原因は、私が仕事出来ないのに出しゃばって仕切ろうとしたことがあったことが原因だと思ってます。 そのときは本当に私は口だけの人間でした。 上司にマネジメント能力を求められていて、意味を履き違えたんだと思います。今はバイトさんにさえ、指示を出されるような状況です。 仕事については、私なりに努力しているつもりなのですが、空回りなのか、努力が足りないのか、本当に何も結果がでません。結果を出そうと思えない…というか、本当に何も出来ないんです。何を求められているのかが、理解できないです。 私自身は半年前よりは私なりの成長を感じてはいるのですが、そんなの微々たるもの過ぎて、周りからみたら本当にお粗末なものだと感じてます。 今、チーム全体で取り組んでいる仕事があるのですが、私が使えない人間なので、みんな余計に呆れているような気がします。なので、今はよりツラい思いでいっぱいです。 努力で補えばいいのですが、机に向かっても全く頭が回らず、逃げ出したい!ということばかり考えてしまいます。 会社を辞めることを検討するべきか、でも、この歳で逃げてばかりいるのもよくないですし…、でも、このままいても私は何も身動きがとれなくなってしまうような気もしています。 お恥ずかしいかつまとまりのない相談ですが、何かアドバイスをいただければと幸いです。
こんにちは。お世話になってます。 このサイトで色々な悩める人達のご相談に乗っているのをお見かけします。 心優しいお坊様方の親身な助言により明るく前向きに生きていこうとする人も沢山いるでしょう。 ですが世の中どうにもならない事があることが現状かとは思います。 熱意をもって真心をこめた言葉が届かないことは本当に悲しく残念なことだと思います。。 皆さんはこういった事が続いたらどのようにして気持ちを切り替え活動を再開するのでしょうか。 もし私がその立場なら自分には向いていないのか、と考えてしまいしばらくサイトに来なくなってしまうと思いますが…;
私は他人にいつの間にか利用される人生を送っています。友人関係の間でいえば、最初は仲良くなって、色々話をしたり、楽しいなぁとだんだんと深まっていくのですが、 ある時になると、その先にある人の魂胆に気づいてしまうのです。これって結局利用されてるんだなぁと。例えば、何年も会っていなかったのに、いきなり結婚式の招待状がきて、いざ行ってみると、ただの人数合わせで、本人からは声もかけられず。 映画行こうよと言われ、行ってみると、これから他に会う人がいての、時間潰しの相手だったり、なら今度は自分から連絡をとってみようと連絡すれば、いつもは何もないのに、今日はたまたま時間がないのよと断たれる。 そして、遊ぼうと誘われ行ってみれば、ろくな会話もないまま、宗教の勧誘。 こんな事ばっかりなんです。私が友達だと思っていた人達は。 見る目がないと言われればそれまでですが、私はどうもこういう人達が許せないのですよ。こっちは真面目に向き合っているのに。 なんか世の中が、人間がおかしい時代がとても寂しく思います。そこまで、ウソをついてまで、人の心を、自分達の見栄や邪心を貫きたいのかと。 こういう人達に出逢った時、利用されてると分かった人達とはどう対処しますか? 宜しくお願い致します。
こんにちは。再びこちらで質問させていただきます。 以前読んだ呉智英著「つぎはぎ仏教入門」という書物の中では、私の従来のイメージとはかけ離れた仏教観が述べられており衝撃を受けました。お釈迦様の物語では、お釈迦様は家族を捨てて出家しており、出家者に対しても①家族を捨てること・②生涯独身でいること・③労働をしないことを要求しています。また梵天勧請のお話では、お釈迦様が悟った後に「私が悟った法は、その内容はあまりにも高度なものであるから、一般の人に説いてもわかるまい。」とそのまま涅槃に入られようとしていたようです。 これらの物語を読むと、仏教とは決してヒューマニズムのような耳障りの良い教えではなく、むしろ社会の常識を揺るがす危険な思想なのではないかと思いました。また、仏教の一番の目標は、やはり「悟りを開くこと」ですが、「悟り」とは私が今まで考えていた「あるがままの世界を観じる」というような単純なものではなく、もっと峻烈で幽玄なものではないかと思いました。 これらを踏まえると、日本の仏教ではお坊さんは妻帯をして、労働されている方もいらっしゃるのが普通の光景です。社会に歩み寄るという点では、ある程度の妥協も必要であるとは思いますが、釈尊の本来の教えから見ると、修行や悟りを軽視している面があるのではないでしょうか? また、その教義が初期仏教とは異なる宗派もいくつかありますが、ある教えが仏教であると言える条件は何なのでしょうか? 日本で悟りを開かれているお坊さんはどれくらいいらっしゃるのでしょうか? その辺りを、お坊さんはどのように考えられているのか伺いたく、質問させていただきました。どうぞよろしくお願いします。
お経を読むことがなぜ先祖や自分に関わりのある仏様の供養につながるのか? 大変罰当たりながら、そのような疑問を抱いてしまいました。 仮に例をあげますと、日蓮宗では法華経を読んで先祖供養などをされると思います。 法華経は釈迦が悟りを開いて亡くなられる前に最後の教えを説いたもので、 数ある経典の中でも最上の教えとされていると聞いたことがあります。 その素晴らしい教えを守り、帰依しますと宣言する=「南無妙法蓮華経」と題目を唱える。という事になるのでしょうが、なぜそれが供養につながるのか疑問です。 自分は先祖や仏様との何らかのつながりがあるから、その自分が題目を唱えることで先祖や仏様の過去の罪が軽くなり救われる。=先祖や仏様も成仏できるという考え方も確かに一理あると思います。 しかし、お経というのはただ聞いたり意味を知らずに読んだりすれば、まるで呪文のようでいかにも効果がありそうに思いますが・・・。 現代語に訳して意味を分かるようにしてみると、一つの物語をただ読んでいるにすぎないように思えてしまいます。 とてもありがたい教えが書かれていることは理解していますが、客観的に考えれば子供に絵本を読み聞かせているようなものではないかと思ってしまうのです。 子供ではなく対象が先祖や仏様へ、絵本がお経という物語へ変わっただけではないでしょうか・・・。 物語を読み聞かせる行為がなぜ供養につながるのか? 先祖供養のためによくお経を読む者として、大変疑問に思っています。 どうか教えてください。
初めての投稿です、お世話になります。 現在、契約社員として勤務しております。もう10年を超えて働いております。正社員とは、仕事内容は同じ、収入に違いがあります。 正社員への登用試験が不定期にあり、今までに三回受けましたが、すべて最終面談まで行くも落とされています。 先日も、試験不合格の通知を受け取ったところです。 契約社員とは言え、資格も正社員より持っておりますし、契約成績も上位のほうで、何度か表彰もいただきました。 今回、同じ試験を受け、合格した面々を見ると明らかに自分より(会社にとって)価値がないひとばかりなのです。 収益をあげていないひと、周りから使えないと評判のひと、主要部門でないひと。 そして、重役の子供であったり、役員の親戚の人が多いのです。 また、正社員になる必要のない暮らしぶりのひとばかりで(重役の親類ですから)、シングルマザーの私は不合格。 私も、いつか正社員になりたいと願うからこそ努力を重ねて参りました。 とても立派なひとが合格しているならともかく、本当に納得がいきません。 私の周りのひと(=私の仕事ぷりを知っているひと)もこの結果に首を傾げています。 あるひとに言われました。努力の報いは自分でなく、自分の子供に帰ってくると。 でもみんな、自分のも、自分の子供の幸せも追っていますよね? その人の言葉を前向きに捉えて、自分が不幸になればなるほど娘のためになると考える努力をしてはいますが、どうして私だけ、自身の幸せは願ってはいけないのかと悲しくもなります。 今は、早く死にたいと思ってなるべく不摂生にしています。死という最大の不幸が訪れれば娘に幸福がやってくるし、私も悲しい気持ちで生きていかなくて済むからです。 いつか来るその日まで、こんな思いで生きていくのは辛いですが、それでもそれを夢見て頑張らなくてはいけないんですよね。 私だけ、どうしてこんな人生なんだろうと、涙が出ます。次の試験は、という気持ちにもなりません。だって、コネにはかないませんから。 私の何がわるいのでしょう? そして、私の不幸の代わりに絶対に娘に、幸福が来るのでしょうか?不幸なだけで何も帰ってこないと損ですよね。もう本当になにもかも嫌になっています。 こんな思いをするためだけに生まれてきたのかと思うと親、先祖まで憎んでしまいそうです。
外国育ちでよく理解できていないのですが(変な質問ですみません)、祖父母はすでにおらず宗派などもわからず(お墓も不明)、両親も檀家などではないのでお世話になっているお寺もないのですが(あえていえば考え方としてこころにとめている宗派はあるのですが直接信者などというわけではない)、こういう場合、お葬式などでは宗派など聞かれた場合どうしたらよいのでしょうか。キリスト教のように洗礼を受けたりというのもないようですし、たとえば、天台宗の思想がとても自分の考えにちかいからそこでお願いしたい、などそういうことをしてもよいものなのでしょうか。またある宗派の信者になるということは仏教ではどういうことなのでしょうか?(海外の宗教とは違うのでよくわからず、くだらない質問で本当にすみません)
私の息子は 18歳 今年高校を卒業し 京都 聖護院様にて 得度式を受け 僧侶になりました しかし 障害を理由に 受け入れてくれる お寺が見つかりません 何とか 私が元気な内に 一人でも 生きていけるように したいのですが
日本の仏教(浄土真宗を除く)は何故『肉食妻帯』が許されるのでしょうか? 浄土真宗を除く宗派は『肉食妻帯』の禁止が前提で作られていたのでは無いのですか。 肉食関して仏陀は肉食を禁止していないや三種の浄肉をおっしゃる方が多くいますが、その部分だけを引用するとそう解釈できるか分からないですけど、当時は「托鉢」や「午後の食事の禁止」が前提の話で、日本の僧は「托鉢」や「午後の食事の禁止」をしているわけではないのに、その部分だけを引用するのは如何なものでしょうか。 また中国経由の日本の仏教には関係のない話であり、仏陀は肉食を禁止されなかったという個々の考えがあるのであれば、上座部やチベット、真宗などに改宗するか新たに肉食を禁止されない宗派を開宗すべきで妻帯の禁止及び菜食主義であった既存の宗派を変える事は以ての外ではないでしょうか 私は肉食妻帯に対して反対しているのではなく、真宗以外の諸派は肉食妻帯な禁止が前提として作られているのだからそこは徹底的にして欲しいのです。 妻帯については後継者問題があるからとは言いますが、なぜそこまで出家にこだわるのに、妻帯の禁止にはこだわらないのでしょうか。出家せずとも知識ある在家としてお寺を見守る家系として生きていけばいいではありませんか。 出家しているのに妻帯だと在家とあまり違いが無いではありませんか。 これは勝手な私論ですが 末法無戒を、唱えた日蓮上人ですら肉食妻帯をしていませんよね?それは「僧が袈裟を着る事」や「人が人を殺す事はいけない事」と同じ様なもので、その当時は肉食妻帯はしないのが当然なので末法無戒には含まれないからでは無いのでしょうか。 もし政府が「僧の服の着用勝手たるべし」とでも法令出したとしても、日蓮上人は直接は言及していないが、服を着るのは当然でその上で末法無戒と言ってるなんて誰でも分かるじゃないですか。 まとめると肉食妻帯の容認を当初からしている真宗以外は、かつてと大きく肉食妻帯に対しての意識が変化しているのにも関わらず、別宗派を作らず元の宗派を名乗ったまま肉食妻帯を許しているのか。 また現在における出家と在家の違いはなんなのかです?
主人が亡くなり2年が過ぎました。 それまでお寺とはご縁が無かった上、いきなりの事で選択する余裕など無かった為、紹介されたお寺の檀家となりました。 葬儀を引き受けていただく際に檀家になる事が条件で、断れない状況でした。 今まで親戚や知人の葬儀に参列した事が何度もあり、通や・葬儀・初七日法要・初盆など、必ずお経の後、ひと言ふた事有難いお話をしてくださり、心が和んだものでした。 しかしながら、主人の通やから、三回忌法要まで、一度も法話らしきものがなく、お経が終わるとサッサと帰られます。 私ひとりの時は構わないのですが、沢山参列してもらった時には、違和感を感じております。 40代のご住職なので、お若いわけではありませんし、お布施も少し大目にしているつもりです。 臨済宗ですが、全く法話をしない宗派があるのでしょうか。 また先日の三回忌に、数珠なしでお経を唱えておられる事に気付きました。 大事な法要ですのに、ショックです。 聞くのは遠慮しましたが、きちんと供養になったのか心配です。 今までの立ち振る舞いや葬儀社からの印象など、仏に仕えている立派なイメージがなく、尊敬できません。 主人にも申し訳なく、檀家をやめたいくらいですが、簡単にいかないでしょうし悩んでおります。