学生の頃から、「人は何故生きるのか、人生とは何か」を考えるようになり、自分なりの答えとして、「世界、社会に何かを遺すこと」という結論に達しました。 自分の行い、作ったものが、他の人の役に立ち、笑顔にできるなら、自分が生きた意味があるだろうと考えるようになりました。 30代後半で、他の人にはできないような大きな仕事を達成して、燃え尽き症候群といいますか、他の人の人生の手伝いをしようと思うようになりました。 40代半ばになり、欲が減衰し、自分のしたいことがなくなり、食事すら面倒に思うようになりました。 未だ独身ですので、女性一人幸せにしていないと考えることもできますが、過ぎたる欲は不幸を招くとも言いますし、特に意中の女性が居るわけでもありません。 平均寿命で考えると、まだ人生の折り返し地点ですが、満足感と無欲で、この先40年どうすればいいのか、悩んでいます。 この手の疑問は、様々な経典・古典に通じていらっしゃるお坊さんが答えを持っているのではないかと思い、相談させて頂きたいと思いました。 お忙しいところ恐れ入りますが、道標、お導きの程お願いいたします。
仕事も人間関係も健康も、、何をやってもうまくいかず、四面楚歌状態です。 男なのでもっとしっかりせねば、と思います。今年35歳ですし、焦りもあります。 今考えている目標が成就できそうもないので、別の新しい目標を立てようと思います。 生きることは辛さ、苦しみで満ちていると思いますので、「その辛さ苦しみをなくすこと(なくすことはできなくても可能な限り軽減する)」というのは、どう思いますか? 漠然としていますが…。 よろしくお願いいたします。
はじめまして。猫かぐらと申します。 さっそくご質問させていただきます。 お釈迦様は輪廻転生から解脱されたとのことですが、前世を覚えている子供たちが世界中にいて、実際に前世としてその個人が存在していたという確証までとれるケースがあると聞きます。 仏教の概念では、生まれ変わりという意味での輪廻転生はあるという姿勢なのでしょうか。 もしあるのだという姿勢なのであれば、輪廻転生から解脱されたというのはどのような意味があるのでしょうか。 また、生まれ変わりとは、未熟な者が成長するために人生を一からやりなおすということなのでしょうか。 そうだとすると、この世は学校や道場のようなものなのでしょうか。
自分が嫌いです もう31歳、そこそこ人生歩いてきて 経験から人間性ができている気がして 全て顔に、体に、態度に、出ている気がして 鏡を見たくありません 自分を好きになれない自分が嫌いです 『ありのままの自分を認める』 の意味が、つかめずにいます 幼少期から、『お姉さんなんだから』と言われ続け 甘えたこともなく 気がつけば、自分がここにいるのに理由がないと、手が震えます 人のためになっていなければ、ここにいてはいけない気がします 自分を愛してくれる人もいるのでしょう でも、私にはそれを感じとる力がありません 人間不信、疑心暗鬼 こんな言葉を最近知りましたが、 人を信じるということがわかりません 寂しいと思う自分もいますが それを伝える人がいません こんな自分が、子育てをしていることが この先不安だし 子供を私のように不孝にするのではないかと思っています 自分自身もこのまま生きてこのまま死ぬことに不満があるのに、どういう心持ちにしたら良いのか、わかりかねています わかりにくく、申し訳ありませんが、御指南いただけませんでしょうか。
よろしければ皆様の意見をお聞かせください。 仏教は向上心を否定するか。 向上心とは現状に満足せず、さらに高い目標を目指す心の有り様を表す言葉です。 向上心は現代社会で広く受け入れられ、むしろ向上心が無いことは悪い事という風潮すらあります。 私は向上心の動機として、欲と執着は不可欠だと感じます。 小欲知足を基本とする仏教において、向上心は否定されるでしょうか。 否定される、と言うのが私の考えです。 現代社会は、キリスト教等の禁欲思想を否定し、 欲望を肯定し、それを達成する事で発展してきたように感じます。 ゆえに、欲望を受け入れ自らを切磋琢磨する向上心は、社会の発展に有意義なために広く受け入れられていると考えます。 人の無限の欲望をエネルギー源としている現代社会は、仏教思想と相容れない部分があると思います。 よって、仏教は向上心を否定すると考えます。 皆様はどのようにお考えでしょうか。また、お弟子さんやお子さん等、身の回りの方に向上心が見られない場合、どのように指導する(あるいは指導しない)か教えていただけると助かります。
いつもこちらではお世話になっています。 定年退職まであと少しのアラ還おじさんです。 最近急に老いを感じるようになりました。生老病死の老に苦しんでいます。ここに来てもうこんなに年をとった、と後悔ではありませんが愕然とします。 体力、気力の低下だけではなく、アラ還と言う焦燥感、職場での若手の活躍と焦り劣等感、世の中の動きについていけない、等書き切れません。 実際に定年退職したあとは再雇用制度を選択する予定ですが更に疎外感が強まりそうです。 今のところ家族ともお陰さまで健康面で大きな問題はなく、経済的にも問題ありません。 自灯明法灯明を模索し何を目標にすれば良いのか、生き甲斐にすれば良いのか、まさに迷走中です。 アドバイスをいただけると深甚に存じます。
僕は、ある怖い話をきいたのですが、 その中に、「あんた長生きできないよ」と言われる内容があるのですが、それはある呪物をみてしまったからもう長生きできないという事です。 実際の画像があったので見たくなくてもみてしまい、僕は、「見ちゃった」って不安になり怖くなりました。これで自分の寿命もそうなったのかと。 なるべく気にしないように「こんなの嘘だ、ありえない、信じない」と言い聞かせて努力はしているのですがやはり不安はこみあげてくるときもありました。見えない事ほど怖いです 結構洒落にならないのですが本当に嘘ですよね。嘘であってほしいです。
自分が持ったエネルギーをどこに使えばいいですか?
私は普段お寺で坐禅をしておりますが、時々出家の言葉が頭に浮かびます。 それで、一度だけ母に出家したいと言ったことがありますが、 何でそんなことを言うの?と嫌がられました。 私には姉が二人おりますが、(三姉妹です) 一人は自分の思い通りにいかないと少々イライラする人で、 もう一人はシングルマザーで精神疾患があり、自立できておりません。 子供も不登校で、両親の援助で生活をしております。 そういうこともあり、自分達の老後の世話を私に看て欲しい願望があるようです。 あとは、出家するとほぼ会えなくなるのだろうと、それが嫌なようです。 私も同様に、会うことはそうそうできないのではないかと想像しております。 私も今まで自分で苦しみを作り、はまっていたことがありましたが、 今は少しずつ解けていっております。 思い込みの苦しみに囚われている人達の手助けになりたいと思うのですが、 そのためにも、もっと本格的に仏道に打ち込みたいと願っております。 両親に納得してもらうにはどうしたら良いものでしょうか? 在家出身の方もいらっしゃいましたら、是非経験談をお聞かせ願えませんでしょうか? どうぞ宜しくお願いいたします。
大きな悪行でなくても良くないこともやってきました。そんな人間でも仏様の前に行き全ての今までの悪い行いを話し悔い改め仏様の前で祈ることは許されるでしょうか? このくらいはいいだろうと思うような悪い行いも今思えばどんなに小さなことだろうと良くないと思うようになりました。仏様の前に行くことは許されるでしょうか?
今朝、目覚めてすぐに、 「私は今まで何をして生きてきたのだろう」 と頭を過り焦燥感に襲われました。 こちらに最初に相談させて頂いた時に、今年心折れる事が続きどうすればいいのかとネット内を彷徨う内に、斉藤一人さんや小林正観さん、ホ・オポノポノ等々を知り、そこから派生して、心理カウンセリングやスピリチュアル系の記事を読むようになった事をお伝えしました。 それらに何度も頼りたくなったのですが、完全には信用出来ず、入り込まずに無料メルマガを読むに留まっています。 それらは総じて、「潜在意識が自分の世界を創っている」というもので、その潜在意識を書き換えれば、自分の望む人生を創っていくことが出来るというのです。 ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」という著書が一番の大元なのでしょうか、分かりませんが… 今の自分について言うと、家があり主人が居てお互いに仕事を持ちお金も多少はあり、生きていくには充分に足りている生活をしています。 ただ子供が居ないことについては、長い間、寂しさを消す事が出来ませんでしたが、やっとここ数年で諦めが付いた処です。 子供が居ない分、両親に対して時間やお金を使って喜んでもらえる事が自分の喜びでした。 特に、仲の良かった父とは一緒に居られるだけで楽しく幸せでした。 その父は他界し、母だけとなった今、それまでと同様、母に喜んでもらえる事を考えたり行動したりすることに幸せを感じています。 しかし、そのような幸せとは別に、物質的環境的には事足りているのに、何故か心が満たされません。 特に、スピリチュアル系ジプシーになってからは強く感じるようになってしまい、本末転倒です。 2回ほど、こちらで相談させて頂いた事により、苦悩からは解放されつつあります。 お蔭様で、姑の件は心を落ち着かせることが出来、感謝に堪えません。 以前から薄々感じてはいたのですが、人生を振り返ったとき、自分自身何を残してきたのか何をしてきたのか、という事が見えず愕然となります。 仏教では、「相対の幸福」に対する「絶対の幸福」が「真の幸福」である、というのだそうですが、「絶対の幸福」とは何か、またそれをを得るにはどうすればいいのかご指南頂けますでしょうか。 心の持ちようであり、自分は感謝と幸福に包まれている、というのは頭では理解出来るのですが、正体のない何かが拭えず困惑しています。
はじめまして。お忙しいところ申し訳ありませんが、宜しくお願いします。 私は今まで生き急ぐ(死に急ぐ?)生き方をしてきました。 元々「生きたい」と思わず、 「人生は思い通りにならないのが普通だ」とか、「みんな同じ、みんな大変」という言葉を耳にしてから、尚更生きたくなくなりました。 もしも人生というものが、細々とした幸せと大半の苦労でできているのならば、もうこれ以上、僅かな幸せの為だけに生きていたくありません。 何十年生きて、心からの幸せを感じたことがないことも拍車をかけています。 「幸せは自分の心の中にある」と心の持ちようを変えても見ますが、幸せを感じる為に毎日あれこれ考えて、少し気力が出てきた頃に就寝時間がやってきて、朝起きると…また気持ちが沈んでいます。 無理やり作った幸せは、心が納得していないようです。 頑張っても報われない。あと何十年もこれを繰り返さないといけないのかと思うと途方に暮れます。 「その人の為に生きたい」と思えるような人もいません。 やりたいことは、暇つぶし程度ならありますが、その為に生きたいとは思えません。 心理学の言葉をお借りすると、私の状態は「アダルト・チルドレン」の症状が最も近い気がします。 今回お聞きしたいのは、 このような人間が心から「生きたい」と思えるようになるには、 無理ではなく、心からの幸せを感じるにはどうしたらよいか ということです。 どうかご教授頂けないでしょうか。 長文になり申し訳ありません。
(編集部より。利用規約により一部修正しています。) 私には個人で救済活動をしているチベット密教を継いだお坊さんに色々電話や、お会いして教えをいただいています。それらは今の腐った金銭目的の仏教界とは異なりお金のない人にもどんな人も救済をしたいという心から出家された方で、私にはヨーガの修行とともに財施を月に2-3度行うよう言われています。 私はこの方と知り合ったのは2ちゃんねるで、個人で活動している祈祷師さんといった形でした。恋愛で悩んでいて助けを求めたところ、得意ですとのことでしたが、何も進展しませんでした。祈祷師というより、仏教の教えを広め、魂の底上げがしたいということでした。話がとてもためになりました。忍辱が私の悪業を滅するとのことでキャバクラでもバイトをしています。 導師、グルという立場で色々な話をしてきたのですが、最近預貯金のこと収入のこと、布施についての話が多く、気が滅入ります。布施は相談をはじめた当初からしていましたが、最近額や頻度についても言及があり辛いです。 基本的には祈祷や法施のために料金はとらず、遠方から来ていただくにも交通費しか受け取りません。とても貧しい暮らしをしている方です。 また、グルの相談者はワーキングプアの方が多く交通費すら自腹のときもあるとのこと。 私は普通かそれ以上の収入があるのですが、何世代分かの功徳を使うほどの幸福を得ている、お金に執着がある、他の人から見て幸せな状況なのにそれ以上の幸せを求めるなら財施をすることで功徳を生じさせるしかないといいます。また、部屋を導師のために借りることで大きな功徳になるといいます。 だんだん辛くなってしまいました。 このことを伝えると、じゃあ布施をしないでください、半年しなければ変わることがわかるはずといいます。体感しないとわからないこと。布施は導師にするのが最も功徳を生むのだから、と。 また、この布施のことで苦しみ、他の方は布施をほとんど払っていないので、そのことを掲示板にかいたことがありましたが、それも悪業で、今後もいろんな人が見るたびに影響を及ぼす、悪業がさらに募ると言われました。 状況を理解していただきたくたくさん書いたけどまだ書ききれないし私の理解の足らないところもあります。 けれど私はただ恋愛成就がしたかった。できないばかりか気持ちは辛くなる。
悪魔に取り憑かれました、どうしたらいいですか、私の魂はもう取り返しがつかないみたいです、悪いことをした覚えはないのに
ある新興宗教の方に 南無妙法蓮華経の題目 と 般若心経なんて一緒に唱えては絶対ダメと言われました。 もちろん、南無阿弥陀仏なんてもってのほかと言われました。 その方は 南無妙法蓮華経の題目以外唱えるなと強く言われました。 私の家は曹洞宗で 私は南無釈迦牟尼仏と唱え お経も本で勉強して少し唱えてます。 母は、昔ぶつしょごねんに入っていて 南無妙法蓮華経だけ唱えています。 どの新興宗教の方に言われたのかお分かりでしょうが 一緒に唱えててはいけないお経などあるのですか? 曹洞宗の道元の悪口まで言ってました。 とにかく批判されまくりました。
2年5カ月前、近くの草むらに迷い込んだのか捨てられたのか分かりませんが、迷いうさぎがいて、1週間通い保護しました。 その子が闘病後亡くなり1カ月が経ちました。 体調が悪くなり病院に何度も通い様子を伝えましたが、数名の獣医師が詳しく診察することもなく、別の獣医師が検査をして病気がわかりました。 その時には重症となっており、4カ月の闘病生活をし、最期は呼吸困難となり苦しみ亡くなりました。 あの時、別の病院に行っていたら結果は違っていたのか、私の介護が間違っていたのか、など考えてしまいます。 2年5カ月と一緒に過ごした月日もあっという間で、もっと生きていたかったのではないかという思いや、病気を早く見つけてあげられなくて申し訳ない気持ちでいっぱいです。 私が保護せず、他の方が保護していたらもっと元気に過ごせていたのではないかなどと考えてしまいます。 亡くなると、生きていた時の苦しみや痛みはなくなりと聞きますが、旅立った子は今は苦しみから解放されているのでしょうか。 亡くなったあとも近くにいる気配を感じる方がいると話を聞いたこともありますが、私には感じません。苦しんで旅立ったので、もう近くにいたくないのかとも考えてしまいます。 短い年月ではありましたが、とても大切な存在で、保護した時よりも日増しに表情も穏やかになってとってもかわいい子でしたが、今は最期の様子しか思い起こすことができません。今は苦しみから解放され過ごしていてほしいと願うばかりですが、どのように供養すればあの子はこれから穏やかにいられるのでしょうか。 アドバイスを頂けたらと思い質問させていただきました。
過去の罪は消えません。 自分で蒔いた種は、自分で刈らなければいけないことも分かっています。 毎日お経を唱えると共に、過去の罪を懺悔しています。 今、自分にできる事を一生懸命することで、良い種を蒔く事で、運命を変える事ができるというのは本当でしょうか。 最近よく読んでいる、仏教に関した本のいくつかに、そう書いてありました。 また努力をしている姿を、仏さまは見ていて下さいますか。 そして、自分が救われたいと思いながら努力する事は、いけない事でしょうか。 まとまりの無い質問ですみません。 どうぞよろしくお願いいたします。
私自身ではどうしようもできない家族の問題が何ヶ月も続き、私の負担が非常に大きかったため、私自身が落ち込み、鬱になってしまいました。 よい精神科の先生と巡り会うことができ、健康上の問題はゆっくりではありますが、回復の傾向にあります。 ただ、そんな辛いことがあるからか、友達や周りの人の幸せなことやよかったことを聞くと「よかったね」よりも「どうして私はそんな幸せになれないんだろう」と最近は思ってしまうことが辛いです。 もちろん、口に出すことはありませんが、こんなこと思ってしまう自分にショックです。 今まではそんな思いを抱いたこともなく、他の人の幸せは素直によかったね、と一緒に言えていたのにと思うと、更に辛くなります。 どうしたら他の人のよかったことを素直によかったと思えるようになるでしょうか。 家族の問題や鬱が治ってからでないと無理なのだとしたら辛いなぁと思います。
はじめまして。 わたしは、ある本を読んで、勝鬘夫人が書かれた『勝鬘経』に、すごく興味をもちました。 『勝鬘経』とは、どういう内容のお経なのですか? すごく、知りたいです。 よろしくお願いします。
人への悪口や批判的な事が自分の中に浮かぶとき、自分の事は棚に上げて、とか何様なんだ、などと自問自答が起きることがあります。 悪口を言いたい瞬間というのはありますが、言う事や言っている自分にやや抵抗を覚えます。 なんだか醜い事をしているような、後ろめたい感情を含んでしまいます。 出来るならばあまり悪口を言わないように、と一応心がけています。 とはいえ、世の中は悪口、愚痴を平気でいう人が多くいるように感じます。 その人達は多少なりともそういった後ろめたさのようなものは感じないのか、と不思議に思います。 そこでお聞きしてみたいのですが お坊さんも他人への悪口を言いますか? また、仏教やお坊さんの立場から見て、悪口、他人を悪く言う事はするべきでないことなのでしょうか?