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hasunoha 問答検索結果 : 「幸福」
検索結果: 779件

大事な人を二人も失くしました

初めまして。長らく辛い日々が続いています。一年半ほど前に片親を亡くし、その後、彼女(婚約者)に別れを告げられました。 その後、ボロボロの心で何かに惹かれるように巡礼に出かけ霊場各地を巡りました。自分の未熟さに気付くとともに大切な人を失くす前から平凡な事が至極の幸せであると思いながら過ごしてきたにも関わらず、それすらも理解し切れていなかったのではないかと思い知りました。 巡礼の途中、京都で事情を知った尼さんから、「辛いことがあっても試されてると思ってしっかり生きて行けば、必ず仏さんは見てくれている」という言葉が心の支えとなっています。 一時は吹っ切れたと思っていましたが、やはり辛いという気持ちに変わりはありません。親を亡くし、事後処理に追われ半年ほどのちに婚約者は僕の元を去りました。恐らく、色々なことにいっぱいいっぱいになっている僕が頼りなく思えたのでしょう。 周りの友人や、同年代の人が結婚したり街でカップル等を見かけると胸をえぐられるように辛いです。 また、亡くなった母に対しても子供として何も恩返しできず、これからもっとしてあげられるはずだったのにと申し訳なさと、なぜ救ってあげられなかったのかという気持ちでいっぱいです。 正直なところ、なぜ周りの人は物事がトントンすすんでいくのになぜ自分は思わぬところでつまずいてしまうのかと辛くなります。 しかし、最後はどこかで必ず自分にも幸せが訪れると信じで日々過ごしております。こんな僕にこれから日々を過ごして行く上でのアドバイスをいただけないでしょうか。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 28
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不条理について教えて下さい。

人は 「真面目に生きていれば」「頑張っていれば」「悪い事さえしなければ」 「人の為に」「困っている人の為に」 と考え実行し生活をしている人も大勢いると思います。 又はそういう考えを持たなくても 自然とそういった生き方になっている方も少なくないと思います。 そういう生き方に対しては成果が出て欲しい、 成果が出なくともよくない事は最小限であって欲しい又はあるべきと そういう生き方ではない人達でさえも そう思うものではないでしょうか? しかしながら現実はそうではありません。 尊敬したくなるような方 普通の方 他人を蹴落としずる賢く生きる方 極悪非道な方 他様々な方 それらとは全く関係ないような事象が起き そのまま終わりを迎える事が多いように思えます。 例えば、生まれてから悪い行いもなく 逆に一生懸命血の滲むような努力を続けていても成果が出ないばかりか よくない事が多く、どうにもならなくなり力尽き 最後には苦しんで苦しんで人生を終える方も少なくないと思います。 それは本人も苦しいし周りにいる人も苦しい上に 本人が居なくなった後も周りの人は苦しみます。 これらを不条理とした場合、 子供にどう教えていったらいいのか難しいと思う事や 自分自身どういう考えを持ったらいいのか悩みます。 結局「努力をすれば」ではなく「成果の出る努力をしないと」になってしまうだけです。 これを前向きになれるような説明をするには 死後の世界・死後の魂・前世などを持って来ることが多いかと思うのですが それを信じる又は受け入れる事が出来ない人も少なくないと思います。 私自身そうですが、かと言って宗教思想を否定する考えでもなく 普段は仏壇に手を合わせたりお墓参りをして 形だけではなく心から敬う気持ちも持ち合わせます。 ただ先の事を考えると人生の最後は「無」になってしまいます。 そういう人に人生の糧をのようなものを見出させてあげる考え方が思い浮かびません。 仏教(ほかの宗教もそうだと思うのですが)は基本的には 死後の世界・死後の魂・前世など有りきの思想だと思うのですが それを無くして人に何かを見出させることは出来るものでしょうか? それとも死後の世界などを信じる事が出来ない時点で宗教思想を否定することになり そういう人との間には相容れないものなのでしょうか? どうぞ宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 45
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「死にたくない」と思わないのは、おかしいことですか

こんにちは。 今年、「私はこのために生まれてきた」と思えるような大きな仕事を、文句のつけようがないほど良い形で果たすことができました。自己満足だけでなく、社会にも大いに役立つ仕事です。この社会に生を受けた責任も、果たし終えたといえると思います。 だから30代半ばにして、私にとってはこの先は「余生」という感覚で、もういつ死んでもいいと思うようになりました。 生きていることが、絶対的に幸せだとは私は思いません。生きていれば、「知らなければ幸せだったこと」を知ってしまい、絶望に苦しまなければならないこともあります。生きるためにはお金が必要ですが、そのためにあくせく働いて「何のために生きているのかわからない」と思ってしまうのでは、目的と手段が入れ替わっているようにも思えます。 それに、今の私は人生の目的を最良の形で果たし終え、幸せの絶頂にいます。もし今、人生の最後の時が来たら「私の人生は最高だった!」と笑って死ぬことができるでしょう。それはある意味、理想の死の形ではないかとも思います。 親はいますが、伴侶や子どもはいませんので、「この子の行く末を見守るまでは死ねない!」というモチベーションもありません。フリーランサーなので、組織に対する責任もないです。親や友人は私にもしものことがあれば嘆き悲しむでしょうが、志半ばではなく充分に人生を謳歌し、社会にも確かな礎を遺して生き切った私を、誇りに思ってくれるのではないかとも思います。 でも、そんな縁起でもないことを考えてはいけない…という風潮もありますし、「長生きしたいと思わない」なんて生物としておかしいのではないか、そんな考えを口に出すことは人としてタブーなのではないか…と我ながら思ってしまうこともあります。 一方で、死生観は人それぞれ、一般論に振り回されても意味がないのではないか…と思う自分もいます。「逆縁なんて親不孝」「生きたくても生きられない人もいるのに」なんて定型文もありますが、そんなのはケースバイケースだと思います。 もちろん、私は「自殺したい」と考えているわけではありません。ただ漠然と「今お迎えが来てもいいな、そうなっても全然『死にたくない』とは思わないな」…などと思っているぐらいです。 私の考えは誤っているのでしょうか。誤っているとしたら、なぜなのでしょうか。 こんな私に、有り難いご教示をいただけたら幸いです。

有り難し有り難し 111
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今年で最後と思います。

はじめまして。質問というより悩みについてです。 私は普通に生きている人間です。 要領が悪く仕事でも迷惑をかけっぱなしで全く上手く行かずミスばかりで呆れられています。 プライベートの人間関係も上手く行かず迷惑をかけてしまい距離を取られてしまうことがあります。 不器用でそれでいて感情のコントロールが難しく 生きづらく自分を責めて生きています。 ふと今年の春頃、殆ど最近です。 「今年のうちに死ななくちゃな」と 思いました。 本当にふとご飯のメニューを決めるかのようにそんな考えが浮かんでその思考にとらわれる形になり今年のうちに死のうと考えています。 嬉しいことも楽しいこともあります。 ただ自分がこうして存在してることが何より辛いし、いけない事で、義務的に死ななくてはと思います。 正直な話、死ぬことは恐ろしいです。 死んで救われるとも思いません。 ただ死ななくてはならないと強く思うんです。 今年中できればもう少し早く。 今年に出来る予定はなるべく無理でも入れました。来年の話ははぐらかしています。 なんだかそうしなきゃならない気がするからです。 今までの人生トータル的にはとても辛い事が多かったです。でも楽しい事もありました。 ですがもう今年のうちに決めてしまわないとならないと思ってます。 あわよくば死ねたらと毎日過ごしています。 自分のこの思考は正しいとは思えないのに死を思いながら生きています。 死ななくてはならないという事は運命なのでしょうか。好転して生きたいと思った時それは私自身を裏切ってしまう気がして怖いのです。 この思考を、捻じ曲げてやる事は出来るのでしょうか。遠ざけてやる事は出来るでしょうか。 長くなりましてすいません。 質問をさせていただきありがとうございます。

有り難し有り難し 51
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善悪とは、どう生きれば?

世の中は陰陽の関係で構成されていますよね? そこで、わたしが葛藤しているのは、善悪や幸不幸などが見る立場や目線を変えて考えると、善悪や幸不幸がコロコロ変わるという事。 例えば戦争、「武器を作る商人にとって戦争は生きていくために必要なので善」しかし「家族を無意味に殺された人達からしたら悪」このように考えるその人の主張、属しているグループ、見る立場や見る視点、価値観、人それぞれによって善悪がコロコロ変わる、それぞれの善悪の主張が目線を変えるとその立場では正しくなるんですよね。 私はみんなが共通で善だと思う世界にしたいんですよ。 でも世の中、育った環境も価値観、思想、知識も違う、千差万別、陰陽の関係で出来ているので私が人を幸せにすると、間接てきに不幸になる人も出る、もう無理じゃんと、これが、壁として出てくるんですよね。これが一つ。 二つ目が、自分を含めこの世全員の幸せと世界平和が叶って欲しい。でも人間欲がある、財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲などなど、これらがある限り世界平和は夢物語。 ならば自分の欲に忠実に生きた方が楽だし、楽しいだろうなと、自己中に生きた方が良いのではと、自暴自棄になっています。 でも、私としては来世の為にも徳分は減るような行為はしたくない、十善戒は守りたいし、経典の思想に則って生きたい。 でも、どうせ現世でみんなが幸せになるのが無理なら、俺も周りの人みたいに自己中になって現世は自分の欲を満たして過ごすかな!という欲 vs 経典に書いてあるような思想にそぐわない、徳分を損なうような事はするな、という構図になるんですよね。 我欲 vs 仏教的思想 心vs脳 これが二つ目。 長くなりましたが、利他の精神で皆んなの幸せを祈る→しかし幸せは人それぞれ、間接的に不幸を祈る事にもなる→仏教思想に矛盾が起きる→アホらしくなる→自己中になる→仏教思想に反するし、来世がろくなことにならない、となる→訳が分からなくなる。これが現状です。 私なりに考えて、利他の精神から起こった純粋な欲かどうかで、自分の欲も他人の欲も、仏教的にも矛盾せず善悪、幸不幸を決めれるのかな?と思いました、又、皆が皆幸せになれなくても、報われなくとも、努力する心が一番大事なのかなと思ったのですがどうなのでしょう。 読んだ感想でも構いません、回答お待ちしています。

有り難し有り難し 25
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「生きる意味」は意味があるのか

「生きる意味を探そう」などといった啓発がよくなされていますが、そうやって見つけた生きる目的には何の意味があるのでしょうか。 いずれ無くなるであろう地球(現世)で、どうやっても百余年で死んでしまう私たちが、「生きる意味」をもって行動したとしても大局的には意味のないことだと思ってしまいます。 小さい頃、自分は歴史に名を残す偉業を成し遂げたいと思っていました。しかし年を重ねるにつれ、そんな社会貢献ができたとして何になるのかを強く考えるようになりました。偉大な結果を残したとしても、自分が死んだらその後の世界を見ることはできない(自分の功績の影響は認知できない)し、世界が終われば無に帰します。「生きる意味」と思っていたものの意味がなくなるように感じてしまいます。 これは「そんな偉業は成し遂げられない」という諦観がそうさせている面もあるとは思いますが、「自分が起こした行動が現在、そして死後の未来に影響を与えたとして、だから何になるのか」を強く考えていることに変わりはないです。 こう考えることで、生きる意味も、それを探すことも無意味に思えてしまっています。 生きる上で苦痛が耐えないこともこの考えを助長しています。なぜ人は苦しみがある中でも生き、この社会で何かを残そうとし、命のバトンを繋いでいくのでしょうか。また、何かを残そうというモチベーションもなく日々を生きている人々は、どんな「生きる意味」をもって生きているのでしょうか。 私自身は、生きる上で生じる苦痛を上回る「生きる意味」を未だ見つけられていませんし、「生きる意味」を見つけるために努力することも億劫で、苦しいのでしたくなくなっています。こんな思いを抱きながら生きるより、すっと消えてしまえた方が楽なのではないか、という考えすら頭に浮かび、数か月離れないので、ここに思いの丈を書かせていただきました。 とりとめのない話になってしまいましたが、よければこのことに関する仏教に基づいたお話をお聞かせください。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 99
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