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hasunoha 問答検索結果 : 「お坊さん 」
検索結果: 7807件
2025/04/20

座禅に関しての悩み

こんにちは。 半年前から趣味として座禅を朝晩40分ずつやっています。 最近はお寺さんでも座禅をするのですが、悩みがありご相談させて頂きました。 1.座禅中に時間を気にしてしまう自分がいる事。 半跏趺坐で両足の痺れが出るのが開始後30-35分ほどなのですが、ここ最近は上手く座れてないのか、2個目の質問である足を組み直すのと並行して時間を気にする自分がいます。その時の感情面が、足が限界、まだもうちょっと大丈夫、あと何分やろ?できれば足を組み直さないで一炷終わらせたい、いつになったら慣れるんやろ。 2. 50分間の座禅中に足を組み直さないと両膝、左肩が痛くて仕方ないのですが、我慢してたら慣れるものなのか。共に座禅をしている方達は静かに座れているのに何故自分だけは我慢できないのかと自己嫌悪してしまいます。 3. 趣味として座禅を行っていた時は苦痛だとは思わなかったが、一つの修行だと考え座禅を行うようになってからは苦行、座禅が嫌いとまでは言わないが辛いと思ってしまうようになった。心の持ち様or考え方で変わるのだろうと思うが、何が正しいのか分からない雁字搦めの状態になっています。 座禅というものを真面目に捉えてちゃんとやらないとと思ってるから苦痛と思うのか、もっと気楽に座ればいいのか、考え方やコツなどありましたら教えて頂きたいです。 よろしくお願い致します。

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「モノ対象」の、思い通りにいかない怒り

お世話になっております。 普段からhasunohaで様々な問答を拝読しておりますが、私がその問答検索でよく用いるワードは「怒り・いらだち・イライラ」です。 人間関係で苦労されている方がほとんどですが、今回は「モノ」相手のお話ということで、お知恵を拝借できれば幸いです。 何かが引っかかる、倒れる、落ちるといった、不本意かつ都合の悪い、想定外の現象が昔から大嫌いです。 器に水を注ぎ入れる →きちんと器が受け止めてくれることを期待する →ところが気がつけば卓は水浸し →どうやら器のどこかにひびが入っているようだ ここまでが事実であり、これ以上自分で余計な感情の修飾をしない、「妄想」しないことが最善だと学びました。 そう頭では理解したつもりでも、怒りに火が付いてしまいます。 その火の付き方は、 「○たばれよ」「ぶっ○すぞ」「お願いだから○んでくれ」 これらの言葉を、心の内で自動的に吐き捨てます。 こういった毒を含んだ言葉で脳を瞬間的に麻痺させないといけないくらい、毎度毎度日常のことでショックを受ける臆病な心です(せめて口には出さないよう留意しています)。 先述の言葉を意訳すると、 なんで俺の邪魔をする! 余計な仕事増やしやがって、この役立たず! 水すら保てないなんて、ただのゴミだ! 無生物の分際でイライラさせやがって! 何事も思い通りにならないのが常。 思い通りにさせようというのが、人の、私の煩悩です。 それでも、他人が思い通りにならない現実と折り合いをつけるのに日々精一杯で、「モノ」相手にまで余裕が持てていません。 こういった時は呼吸を数えるなど、身体感覚に意識をすり替えるのがいいのですよね。 ただ日々の仕事の流れであったり、台所で何かやりながらだとなかなか手を止めることが難しく、実践できていません。 これでも昔に比すれば八つ当たりしなくなっただけ、成長した方なのです。 それでもまだ、無駄に反応するばかりの心を持て余しています。 いい年齢の大人のはずが、心はいつもささくれだち、不安定に波打ち、せめてもとそれを周囲に悟られぬよう努める日々の中、他ならぬ自分自身が苦しい思いを抱えています。 誰も幸せにならない悪癖は卒業し、ゆったりリラックスして生きていきたいです。

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骨壷に水がたまる件について

父が亡くなり、一周忌を迎えるにあたって納骨することになりました。 いろいろと調べているうちに、「お墓に納骨すると骨壷の中に結露が生じて水が口いっぱいまで溜まる」、「骨壷を開けてみたら水がいっぱい溜まってました」という内容のものを多く見つけました。 現在、父の骨壷は陶磁器の切立で底に穴は開いてなく、ふたの周囲はテープでぐるりと留めてある状態です。購入した骨壷メーカーさんに問い合わせたら20~30年で水がたまるでしょう、とのことでした。ほかの骨壷屋さんにも問い合わせてみたら水がたまるのは普通のこと、と教えていただきました。 でも水がたまるのを知った以上、何か対策をしたいです。 『水がたまらない骨壷(素焼きや乾燥性の高い石を使ったものなど)』が販売されているので、入れ替えを行いたいと考えています。 お墓の場所は神奈川県横浜市で、湿度は平均的だと思います。 洋墓のスタイルで排水溝はありますが、通気口はありません(構造上作ることができないのと、雨が入るので一時期流行ったけど最近は作ってない、と墓石屋さんの説明でした)。 カロート内は四方が御影石、その左右外側は土で表面には芝生が植わり、骨壷を安置するところはサラサラな砂です。ちなみに横一列で他の方のお墓と連なっています。 午後2時ぐらいまではだいたい正面から陽が当たり、背面が高い壁になっているのでだんだんと陰ってきます。 知りたいのは 1、 陶磁器の骨壷の場合、そのほとんどは水がたまっていると考えてよいか。 2、 父の現在の骨壷で納骨すれば、やはり水がたまる可能性が高いかどうか。 3、 「水がたまらない骨壷」に入れ替えをするなら自宅で行ってよいか。 その時に注意することなど。 4、 そもそもお骨の入れ替えをするなんてもってのほか、なのか。 質問が多くて申し訳ありません。 インターネットで調べたり、業者さんに電話で問い合わせて確認したことを改めて質問してはいますが、お坊様のお話を聞かせていただきたいと思っています。 このたび初めてお墓を作り、納骨後の状態を知る術がありません。 他になにか気をつけたほうが良い点などがありましたら、 何卒ご教示よろしくお願いいたします。

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死と生きること

小学生2年生の娘が 死ぬことに対して恐怖を抱いているようです。また、生きてるのかということについても考えて、不安になっている様子です。 思い返すとここ数年で ペット(熱帯魚)が死んでしまったり、娘にとっての曽祖母が亡くなったり、死について考える事は何回かあったのですが、曽祖母は娘自身は会ったこともほとんどない近しい関係ではなかったので、それほどショックを受けるような感じではなかったです。 それでも、人が亡くなったらお葬式をして、お骨になるという事は少しショッキングだったのかもしれません。 私はいつ死ぬの? 死んだらどうなるの? 私は本当に生きてるの? 「まだ死なないから大丈夫だよ。 あなたが死ぬのは、ひいおばあちゃんぐらいの年齢になってからだと思うよ。」 「たくさんいい事をすると天国に行けるみたいだよ。」 などとも話してみたりもしましたが、なかなか不安は解消されないみたいです。 明日死んじゃうかもしれないと泣き始めることもあります。 生きてることについては うまく説明もできず 「自分が生きてるのかを今考えられてるってことはあなたが生きてるってことなんだよ。」と 「我思う故に我あり」のような事を伝えてみたりしても、小学生には、まだ上手く伝わりません。 死への恐怖 死後の話 生きてること どのように話してあげればいいでしょうか?

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努力することが怖くて困っています。

 3年前から努力しようと思うとひどい不安感に襲われ(体調が悪くなるほど)、やらなければいけないことがなかなか手につきません。不安と向き合うのが億劫と言えばいいのでしょうか、自身のないことに対峙するといくら頑張ってもダメだという気持ちでいっぱいになってしまいます。  このような状態になってしまった背景には教育実習があります。高校3年生のときから、勉強はもちろん、趣味も含めてすべての事を教師になる糧となるように考え努力してきたつもりです。しかし、教育実習のときに、今までの疲れと完璧主義が相まって、頭が真っ白になるほど授業案が手につかなくなってしまいました。泣きながら担当の先生に相談し、何とか完成しましたが、担当の先生には「勉強が足りない」・「中学生より子ども」と言われ、軽蔑した目で見られてしまいました。また、他の実習生(友人含む)にも心配のレベルを越えてどん引かれてしまい、もう何をどうすればいいのか分からない状況に追い込まれてしまいました。  それからは、わたしはどんな努力をすべきだったのだろうか、いつから努力の仕方が間違っていたのだろうかと悩む毎日でした。そうしていつしか自信をなくして、好きなことも好きでなくなり、向上心もなくなりました。死んではならないから生きている感覚になりました。努力をすることが億劫に感じるようになったのはそのときからです。  このままではいけないと、いろんなサイトを見たりカウンセリングを受けたり、メンタルの勉強をしたりしてして、学校の課題はできることから少しずつやってきました。それでも期限内に課題ができなかったり、失敗ばかりで、不安感は増すばかりです。良いようには何も変わりません。  最近は卒論も間に合いませんでした。ずっと応援してくれた先生や家族、友人に申し訳ないです。頭の中ではみんなのために頑張らなければいけないのはわかっています。でも、最近はもう努力する気力もなくなっていまいました。努力するくらいならいっそ死んでしまいたいとすら思うこともあります。  このままでは心の底からクズ人間になってしまいます。わたしはどうしたらこの状態を抜け出せるでしょうか?どうしようもない質問で申し訳ないですが、どうかアドバイスをいただきたいです。また、具体的にどのような行動をしたらいいのかあれば、教えていただければ幸いです。

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私は物事を考えすぎているのでしょうか?

はじめまして。 私は長い間、それこそ中学生の頃から、生きる事について自分なりに考えて参りました。 幼い頃は、生きるとは正しく(簡単にいうと道徳で習うような基本的なこと)在るよう努め、幸せになる事と思っておりました。 しかし、今までを振り返ると、正しさは私の人生において、幸せになる事とは異なる存在でした。 なぜ嘘をつくのか、なぜ陰口をいうのか、なぜ優しくしないのか、なぜ相手の立場に立って話をしないのか、なぜ傷付け傷つけられるのか… これらのある種意味のない疑問を持ち考え続けたことで、大切な人達にも息苦しい思いや悲しい思いをさせてきことがあると思います。実際に、そこまで正しく生きれない、お前を見てると辛いと言われてしまったことがあります… また、私自身も、正しさに執着し過ぎている為か、怒り悲しみを抑え込み、何よりも叶えたい強い望みも、他者の悲しみの上でしか成立しないと思うと何もできず、消化出来ない感情や気持ちとの矛盾で頭と心が度々悲鳴をあげます。 (勿論、抑えきれないない時もあります。その時は自己嫌悪で悲鳴をあげております…) そんな時にであったのが「人は苦しむためにこの世を生きる。現世で苦しみカルマをかることで、生まれ変わりの輪から抜け出すために人は生きている。」という一文でした。 おかしな話ですが、とても救われたきがしました。幸せにならなくて良い、正しさを求め苦しむことは、間違いではない、と言われた気が致しました。 ただ(だいぶ長い前説となってしまいましたが…)本当に根本的な事なのですが、正直、ここまで考えて生きる必要があるのか、疑問に思う自身もおります。 身近な人たちにこの様な話をすると、そこ迄考えなくて良いと言われてしまいます。 私は…考えすぎなのでしょうか? もう少し気楽に、幸せを求める方が健全なのでしょうか… (ただ、私は現在も決して不幸ではなく、むしろ感謝がつきない日々を送っておりますので、幸せと言う言葉には少し語弊があるかもしれませんが…) 長文の割りにあまり意図が伝わりにくい内容となってしまい申し訳ありません。なるべく素直に頭の中の言葉を書き出させて頂きました。 ご意見をお聞かせ頂けましたら幸いです。 どうぞよろしくお願い致します。

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