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hasunoha 問答検索結果 : 「お坊さん できない 」
検索結果: 7744件

般若心経の「無無明・亦無無明尽・・・」の部分について

こんにちは。 前回質問から、般若心経の「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」 の部分が、やはり気になってしまってるので質問させて頂きます。 この部分は十二縁起についての言及との事ですが、 十二縁起を乱暴ながら私なりに要約すると 根源的な無知(無明)→生存本能と外界知覚(行・識・名色・六処)→本能と分かち難く生じる煩悩(触・受・愛・取)→本能と煩悩で成り立つ生存(有)→生存する主体として「私」という想念が生じる(生)→「私」はいずれ死ぬ(老死) と、言う事でしょうか。 私の考えでは、この部分について般若心経は 「どんなに達観しても十二縁起の因果関係は断ち切り難い」 (「無」無明尽・「無」老死尽→否定としての「無」) けれども 「物事をありのままに見れば(空相にて照見すれば) 全てが、かけがえのない真実と分かる」 (「無」無明・「無」老死→空相、全体性としての「無」) と「無」と言う言葉が違った使われ方をしているように 思うのですが如何でしょうか? 字面通りに読めば「Aは無いけど、Aは尽き無い」と言う二律背反になり、 これでは意味の全く通らないナンセンス文章です。 この部分、般若心経を読む誰もが最初に「あれ?」と思う所ですが、 腑に落ちる説明をしている本がありません。(偉そうに言える程、 本は読んでないですが) 中には「十二縁起なんて形式にこだわるのは小乗仏教だ。 般若心経は大乗仏教だからそんなものに拘らない」 とバッサリ斬っている書籍もあります。 そんな単純なものでもないと思うのですが・・・ 解釈は色々あるかもしれませんが、お考えをお教え頂ければ幸いです。 何だかマニアックな質問になってしまいすいません。

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失敗が多い。失敗が続くとモチベーションが下がる。

この質問を開いてくださりありがとうございます。長文になってしまい申し訳ないのですが最後まで読んでいただけたら幸いです。 悩みが2つあります。 1つ目は工学部のクセに計算ミスが多すぎることです。 小学校の頃からずっと簡単な計算ミスを犯し続けてます。大学受験本番の途中計算では少し緊張しただけで1+1を間違えました。大学に入ってからも定期試験での計算ミスで必須科目を10単位以上落としました。 大学の友達には「計算方法はあってるのに“えっ!?ここで!?”ってところで計算間違うからもったいなさすぎる」と言われます。先生には「実際に車とかロボットを設計するときに計算ミスをしたら人が死ぬぞ」と言われてしまいました。 こんな質問をしているのが先生に知られたら「こんな質問する暇があったら計算練習しろ」と言われてしまうかもしれませんが、練習量は自分なりに増やせるところまで増やしたつもりです。計算中にどうしても焦ってしまう点を改善したいです。 2つ目の悩みは一度モチベーションが下がるとなかなか回復しないことです。 普段は多少試験,課題,実験がしんどくても「全ては自分のため,親友たちのため,夢のため」と自分に言い聞かせることでギリギリモチベーションを維持しています。 しかし、上記のようにしょーもない計算ミスで単位を落としたり、図面に醤油をこぼして書き直しになったり、実験データやプログラミング課題が入ったUSBを落としたりといったことが続くと、徐々にではなくある日突然無気力状態になることがあります。 そうなってしまうと、授業に行くことやペンを握ることすらできなくなってしまいます。夢や親友達のことを考えると、やる気よりも自己嫌悪が表に出てしまい、モチベーションが下がっていく悪循環に陥ります。 毎年上記のような状態になってしまうことがありました。だいたい11月の終わりから1月の頭にかけてが無気力スパイラルになりやすいです。 今年もそうなってしまってはもう取り返しがつきません。なんとかしたいです。

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諦めることと小欲知足

私は回転寿司に頻繁にご飯を食べに行きます。 大体、週に1日くらい行ってます。 そこで気が付いたことに対しての質問です。 回転寿司ではほぼ毎回、お皿22枚(44貫)と青さの味噌汁1杯食べたところでお腹がはちきれんばかりになります。 今日はお皿18枚(36貫)と青さの味噌汁1杯でお腹がはちきれんばかりになり帰ってきました。 ここで普段30皿(60貫)と青さの味噌汁2杯食べる人が、 『その程度の食事で諦めるな(放棄するな)。もっと記録を目指せ』 と言ってきたとします。 自分の中では満足しており別に上を目指す気もない場合は、『諦めている(放棄している)』とはみなしていないです。 また、自分の心の声で、 『普段はもっと食べているんだから諦めず(放棄せず)に普段の記録まで持っていけ』 とあったとしても、今はお腹いっぱいなのでやっぱり『諦めている(放棄している)』とはみなしていないと思っています。 それどころか、満腹でお腹が苦しいという事は、食べ過ぎており、諦めていない(明らかに見ていない=邪見)であるから、次回からはよく心を観察して、今回より減らして食べよう、そしてそれが苦しまずに足りているか確認し、多いようならまたその次は減らそう。 ただし、明らかに少ない皿数(1皿2貫or青さの味噌汁1杯)だけを食べて帰るという真似は足りてないからやめよう、と考えております。 前置きが長くまり申し訳ありません。 ここで質問です。 1.出家者にしろ在家者にしろ、明らかに見た(諦めた)結果の小欲知足は、人によって基準が違うのでは。だからやり方は教えれるけど答えは人によって違うのではないか。 2.ブッディズムでいうところの『気付き』は、特別な場所や時だけのものではなく、いつでもどこにでも転がってお普段から注意深く観察しておれば、誰でもできる『行』となるのではないか。 3.なぜ自分は毎回食べる前からわかっているのに、苦しくなるまで食べ過ぎて苦しんでしまうのか、、それはあれもこれも食べなければ(しなければ)ならないという思い込み、つまり正思惟の逆のことをやっているからでしょうか。 最後は、それでも毎回やめないのは、今現在苦しくても時間がたてば苦しみも治まる(諸行無常である)。それどころか生きてる実感があると高をくくっているところがありますが。 アドバイスをお願い致します。

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仏教徒に対する疑問パート5

お坊様これは対機説法の修行だと思って怒らずに聞いてくださいね 因果の法則についてですが 前回の質問の答え見て思ったんですよ 蕎麦のレシピなんか見ないで(原因)蕎麦を食え(結果) ごんぎつねは悪戯の過去を見ないで(原因)今反省して修行しろ(結果) 理屈で考えるから真理がわからない(原因)実際に修行して真理をわかれ(結果) 過去や未来や死後なんかより今という悟りの境地 これって因を無視した果の法則ですよね 前回言った、人間も娑婆の世界も全てのものは最初何に作られたのか? きっと煩悩の塊の無明でそれは 何かに作られそしてそれも何かに作られそれも何かに作られ 永遠と原因と結果が連なって最終的に本物の原因は見つからず結果だけが見つかる 因を無視した果の法則 悟りも煩悩の塊の無明も因を無視した果の法則なら 悟りも煩悩も同じフィールドにいるんじゃないですか? というかこの世界そのものを先に作った煩悩の塊の無明のほうが先に 因を無視した果の法則としてあったわけですから悟りすらこれの産物じゃないですか? だとしたらやっぱり悟りも煩悩と同じフィールドにいるんじゃないですか? 悟り開いたら煩悩はなくなるらしいんですが お釈迦様が悟り開いて涅槃の境地行ったのに梵天に頼まれて 輪廻から解脱しないでまた娑婆の世界へ戻るって話って 煩悩である梵天と悟りであるお釈迦様が同じフィールドにいるような気がします お釈迦様は本当に煩悩がなくて悟ってる根拠はなんですか?

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回答でとても傷ついてしまいました

以前愛猫が立て続けに亡くなって思いの丈をhasunohaにぶつけさせていただきました。 心救われるような回答もいただきましたが、心を抉るような回答もいただきました。 私が悼むという意味を知らないから、あの子達は化け猫の類になってしまうとか、 猫は畜生で知能が低いから事故に会いやすいのだとか。 私のせいで、あの子達は化け猫にまで堕ちてしまうのでしょうか。 あの子達の命は畜生だと軽んじられてしまうのでしょうか。 私のせいで、私のせいで、私のせいで。 私のせいであの子達は化け猫になってしまう。 猫に産まれたばかりに畜生だと軽んじられてしまう。 とても悲しいです。悔しいです。虚しいです。 釈尊は全ての生き物は幸せであれと説かれたのに。 仏様、優しかったあの子達を化け猫などにしないでください。どうかお救いください。私の全ての幸福と引き換えでも構いません。 全ては私が悪いのです。私が愚かなばかりに、あの子達を物の怪の類になどしないでください。 どうかお救いください。どうか。どうか。 仏様、どうかあの子達が畜生だからとお見捨てにならないでください。どうかあの子達を極楽にお導きください。それだけが私の願いです。どうかお導きください。お見捨てにならないでください。 しかしどれだけ祈っても私の耳には仏様のお声は聞こえません。 こんな事を考える時は涙が止まりません。

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