まだ前の質問のお礼もまだなのに申し訳ありません...。 行ってみたいお寺があります。 このハスノハに登録されているお坊さんのお寺です。 ですが、私は日頃から神社ばかり参拝しており、お寺のマナーをよくわかっていません。基本的には神社と同じような感じなのでしょうか?
見つけて下さり、ありがとうございます。 私は発症前までは、神や仏、ご先祖様や霊魂など、色んなことを信じていました。 母の教えで、特にご先祖様を大切にし、常に手を合わせていたと思います。 ところが発症後、何もかもが信じられなくなりました。 もしもそういったものがあるなら、兄弟姉妹の中で、1番ご先祖様を大事に思い、遠くのお墓にも毎年お参りしていた私が、何故こんなに苦しい思いをしなくちゃいけないのか? 同じ血の通う兄弟姉妹を、どうしてこんな形にしたのか?(プロフィール参照) そんな思いばかりになりました。 母の教えに対する反抗心ではなく、あまりにも酷いと思われる人間からの仕打ちや、物語の様な自身の病気に、あらゆる『人間に関すること』を、心から信じることができなくなったのです。 そうしている内に、ここを拝見し、何度かご質問させていただき、写経や座禅をしてみたい…という気持ちが湧いてきました。 こんな私が、そういったことをさせていただくのは、良いことなのでしょうか? また、それでも良いと言って下さるのなら、何に良いのか?、また、どこでどんな風に行えば良いのか? 教えていただきたく思います。 宜しくお願い致します。
ご供養の仕方について質問です。 私はとある新興宗教に以前入っておりました。 今は経済的に厳しいことや、菩提寺のお坊さんの助言もあり、脱退しましたが、過去帳というものを作ったので日めくりにして、毎日般若心経を読んで、お線香をあげています。今年は月命日という習慣があるんだと知り、月命日にはお墓参りをしようと目標をたてたのですが、母が倒れたショックと、家を売却した環境の変化に耐えきれず入院してしまい、お彼岸にも行けなかったので、先月やっと退院してお墓参りできました。以前はお墓が歩いていける距離でしたが自転車で2時間以上かかるので休みにしか行けなくなってしまったので彼岸とお盆と新年には行こうと思いますが、命日や月命日は行けたら行くので良いんでしょうか。それとはまた別なんですが、うちの仏壇は造花が飾られていてまえから気になってはいたのですが、やっぱり生花のほうが良いのではないかと。言っても、生花はお金がかかるからダメだと親がいうので。 仏教を通して、座禅や写経や読経やお地蔵様のお掃除など作務を行ってきましたが、遠くなってしまっては。よく分からない文章になってしまいましたが、宗教嫌いな人は沢山いるけど、私は仏教が大好きです。仏様が墓参りしろと言ったんじゃないことは知ってますが、お墓参りというのはしたほうが良いと私は思ってますが、宗教はいけないことなんでしょうか。
参拝や座禅会などの目的ではなく、一時間程お寺の境内で過ごすような訪問は迷惑になりますか? 何がしたいかというと、大げさな表現をすれば沈思黙考と言われることです。厳かでありながらも穏やか、そんな空気感に包まれ一体化しながらの黙考は最高のストレス解消法、好きなんです。 以前住んでいた所は観光地だったこともあり、教会もお寺も神社もみーんなwelcome的雰囲気で、気兼ね無く訪れていました。 教会は信者さんがそれぞれお祈りや神様と対話されていることも多く、違和感なく溶け込めましたし、お寺ではあまり人がおらず(たまたま私が訪れた時だけですきっと)、迷惑かなと気にすることはそれほどなく、気にされることもなかったようでした(多分)。 ここ数年は忙しくて全くできなかったのですが、やっと落ち着いてきたので再び黙考timeをと考えています。 境内の片隅で構いません。でも隅にずっと立っていたら不審者だと警戒されそうなので、参拝に来てちょっと休憩、ぼーっと景色を眺めているように思ってもらえるよう、座れる椅子等がある所を探そうと思っています。 教会なら気軽に行けると思いつつも、hasunohaでお坊さんが身近に感じられたことですし、まずはお寺に行ってみたいなと。しかしこの辺りのお寺は、解放感がないというか近寄りがたい印象があって質問しました。 よろしくお願いします。
こんにちは。 何か心の拠り所が欲しいと思い、仏教の勉強を始めました。般若心経を読む宗派・読まない宗派あると思いますが、皆様の解釈を教えてください。 私が読んだ本に依ると、 ブッダは五蘊や十八界、十二因縁は存在するが、その「持ち主としての私」という確固とした存在は錯覚だ、「空」だ、と説いた。大乗仏教ではそれすら錯覚で、「空」という法則のようなものがあると説いている。 ブッダは「世の中はこのように構成されていて、だから生きることは苦しいのだ。ひたすら瞑想をして煩悩と戦いなさい」、 大乗仏教は「今見ている世界は全てが錯覚だから、思い悩むことはない。ひたすらお経を唱えれば、必ず救われる」という教えだ、と解説されていました。大乗仏教が「宗教」であるのに対し、ブッダの教えは「思想」であるとも書いてありました。 科学が進歩しておらず世界が何も解明されていなくて、生まれた環境を受け入れるしかなかったような時代、貧しい庶民の心を救ってきたのは大乗仏教に他ならないと思います。今でもそうです。私はお経にある呪術的な力も信じています。 でも、大乗仏教の僧侶の皆さんには大変失礼なことを申し上げるようで、申し訳ないのですが、般若心経を読むと全てが幻だと言われているようで、納得できません。現代社会においては、ブッダの考え方の方が合理的で理にかなっているような気がするのです。 それに般若心経は、ブッダが瞑想している間に、そのすぐ隣で観音様が舎利子に対してブッダの説を全否定して新しい呪文を教えて、それにブッダ自身にその通りだと言わせる、という舞台設定ですよね。それは、大乗仏教が原始仏教を越えようとしてできたものだからだと学びました。「日本人として般若心経を心の支えにしたい」という気持ちと、「ブッダの説の方が自分は納得できる」という気持ちが自分の中で葛藤してしまっています。 先日も、近所のお寺の座禅会に参加し、全員で般若心経を唱和しました。ブッダが推奨していた座禅の前に彼の教えを否定する内容のお経を読んで、裏切っているような罪悪感にかられてしまいました。 (私が読ませていただいた本は、仏教系の大学で教えていらっしゃる権威ある先生の本です。以上の解釈は私独自のものではなく、その方の受け売りです。) 私のこのような理解はものすごく偏っているのでしょうか? 皆様は般若心経をどのようにお考えですか?
・三帰礼文(今、人として生まれたことに感謝し、仏、法、僧の三つの宝を敬い、拠り所にして生きます) ・十善戒(正しい行い、正しい言葉、正しい心を保つ事を誓います。) ・発菩提心真言(私は今、悟りを求むる心を起こしましたという真言。オンボウチシッタボダハダヤミ) これらの経や真言を「全くその気がない者」がするとどうなりますか?例えば… 私の声「オンボウチシッタボダハダヤミ…」 私の心の声(別に悟りに興味ないし…単にこの真言を唱えたいだけだ) 私の声「三帰礼文~!~自ら仏に帰依し奉る。まさに願わくは衆生と共に~…」 私の心の声「仏様は大好きだけど帰依とかそんな重たい誓願なんてしたくないよ…しかも衆生と共になんて!衆生の事なんてどうでもいい!自分や家族さえ良ければそれで良いんだよ!」 このように私が経や真言をする時はなんとなく仏様を近くに感じたい時、落ち着きたい時などに座禅を組み合掌(印母)を結びながらやってます。 単に仏教の教えにあまり興味なく仏様が大好きなだけなんです。 でも一つ言い訳させてもらいますが、私は決して仏教や仏様を茶化したり、品位を下げたりする気など無いんです。 単に「戒律を守れない、守る気すら失せた」「衆生がどうなろうが私の知ったことじゃない」「自分や家族さえ幸せならそれで良い」というだけなんです。 ただ「疑城胎宮」の境地から抜け出す気なども失せて「もうこのまま疑城胎宮の中でまったりするのも良いか…」というだけなんです。 【しかし声に出してソレらを唱える以上、それは一つの約束、仏様と交わす誓いになりますよね?その誓願を初めから守る気など無くアッサリ誓いを立てては破り続ける…】 このように仏様を欺き続ける私を、カタチだけの“仏教ごっこ”を楽しむ私を仏様はどう思うのでしょう…また実際に本物のお坊さんが私を見たらどう思いますか? 私はハッキリとモノを言われないと分からないバカなのでよろしくお願いします。 ちなみにこれらの事はあくまで「私独り」の中で完結させているので、決して周りに仏教を語ったりなどはしていませんのでそこはご安心を。
父が亡くなり来週で49日になりますが、お坊さんの都合で、今日49日の法要がお寺で行われました。 墓は未定のため、三回忌くらいまで家にお骨を置いておくつもりでしたが、曹洞宗のお坊さんに、家にお骨をもって帰ると故人が亡くなってから修行したのがもとに戻って無駄になるから、もって帰らないで寺に置いておいた方がいいと勧められ置いてきたと母に言われました。 そのようなことはあるのでしょうか? 将来、そのお寺に埋葬するとか、そのようなことは何も決めていない状況です。母は檀家と信徒の区別もわからず、父の葬式に際し檀家になったとかで、契約書もありません。某県の田舎のお寺です。
質問、宜しくお願い致します。 私の母方は、元々お寺であったらしく、先祖代々のお爺さん、また、その上のお爺さん又 …と、皆んなお坊さんの自画像の家系図がありました。しかし、私は、今、何も信仰をしている訳では無く、この先、私が信仰を持つとすれば、どうすれば良いのでしょうか?因みに、私は、幼い時、兄からの性的虐待がトラウマになり、未だに、精神的に、立ち直れません、親にも相談しましたが、兄がしていないと言っていると、解決にもならず、私は、家族が、嫌いで、お墓参りも行っていません、この家に生まれなければよかったと、心底思うのです。話が、まとまらず、申し訳有りませんが、宜しくお願い致します
前回と同じ質問になりますか、ほかのお坊さんの意見もお聞きしたいので、意見をお待ちしております。よろしくお願いします。
近年、量子力学等の学問での研究に目覚しい進歩が見られます。 量子力学や精神系分野で輪廻転生の研究の話題が盛り上がっています。 量子力学では遂に死後の世界について【量子もつれ】と呼ばれる現象で論文を発表したり輪廻転生の研究をしていらっしゃる学者さんもいますし少し前ですが精神系分野では著名なアメリカのジム・タッカー博士は輪廻転生をしたと思われる2500人の子供達に関して発表しました。 この子供達の実例を見る限り明らかに例えばAという死んだ人物とは関係ないBの少年又は少女がAの生前の記憶を持って生まれてきている事があるようです。 それでも脳の錯覚だとして懐疑的な学者さんが多い中、現在進行形でこの分野の研究は着実に前へと前進しています。 ちなみに、私は死後の世界も輪廻転生も存在すると考えています。 そこで、今回は輪廻転生についてお聞きしたいです。 お坊さんは輪廻転生とはどのようなものだとお考えなのでしょうか? 輪廻転生の仏教的解釈やお坊さん個人のお考えをお聞かせください。
以前、仏教とは?と質問させていただいたものです。沢山の回答がありまして、その中に仏教とは善い行いをするためにする事とあったので、善い行いを心がけてますが、毎日仕事をしていて、雑草を抜いたり、害虫を殺したりしています。お客様や職場の人は喜びますが、これって仏様からみたら善い行いなんでしょうか?また、私の友人の住職は善い行いをするのではなく慈悲の心でする事瞑想をとうして、仏様が私の心になる。とおっしゃっていました。心が瞑想すると第4図という好き嫌いの心から、慈悲の心になるそうで、例えば誰かに刺されたとしても心は穏やかなままになるそうです。その方は曹洞宗です。友人にさそわれ私が信仰していた日蓮宗系なので、お経を毎日あげる事で先祖が喜んで力をかしてくれるという教えでした。わたしは今はお金がかからないので曹洞宗のお寺に行ってますが、日蓮宗が間違えではないと思うので、曹洞宗のお坊さんが読んでる般若心経を譲ってもらったのでそれを毎日よんでます。日蓮宗が間違ってるとは言わないですが、その団体の独自の解釈で抜粋されたお経はスッタニパータ読む限りではずれているので。本物の日蓮宗のお坊さんとは出会った事がないので、自動的に私は曹洞宗になってしまったというか檀家なのでお墓は曹洞宗のお寺なので、わざわざ、変える必要もないというか、遠くてお墓参りにいけないんならいくら日蓮宗のお寺さんにしたいといっても先祖も自分も喜ばないと思います。うちの近くの曹洞宗のお坊さんいいかたですが、日中ずーっと瞑想して座ってるだけの日もあるんそうなんですが、日蓮宗系のお坊さんからしたらお経も読まないで何してんだ感じだろうけど、そのプロセスの違いだけなんだと思います。何を信じたらいいかわからなくなる時もありますが、慈悲の心になればいいし、先祖も大切に生きていきたいです。
年末に円満離婚することになり、現在諸々の準備をしています。 離婚に伴う引越しや就職で不安とストレスがすごくかかってしまい、とてもつらいです。 マイナスなことは何もないし自分でもそうは思っていないのですが様々に精神や体調に異変をきたしていて、どうしたらいいのかと悩んでいます。 何かお坊さんならではのアドバイスを頂けたらな、と思います。
私は現在28歳で、一度も彼氏ができたことがありません。心から好きと思った人もおらず、正直、好きという感情があまりよくわかりません。友達はたくさんいます。家族の仲もよく、幸せだと感じています。 男性に関しては、昔から苦手というのもあります。年齢も年齢なので、婚活をしていましたが、好意を抱いて頂けるものの、私の気持ちがついていかず、お付き合いはできませんでした。 今は疲れてしまって休憩中で、自分の好きなことを探して日々を楽しむことにしています。でも、心の中ではモヤモヤ。 結婚したいのかな?っと改めて考えたときに、正直理想的な家庭を想像すると憧れますが、そうでないなら別に今のままでも良いかな、と思ってしまいます。リスク、利益を考えてしまいます。 このまま結婚ができずに子供ができなかったときに、老後の心配が浮かんできてしまいます。一人で趣味に没頭して仕事と向き合っていけば生きていける、と思う半分、もしも両親が亡くなった時に、私の心は壊れてしまわないか、年を重ねて例えば40歳とかになった時に孤独に耐えられなくなるのでは、などと考えてしまいます。 独身でも幸せに生きれるはず。 でも結婚をしたほう良い。 そんなハザマで揺れています。無理にでも、あまり好きでもない人と結婚をして、将来を補償したほうが良い、と以前言われたことがあります。 幸せは自分が決める。そう思いたいのですが、周りの人を比べてしまい、スッキリしない毎日です。心を落ち着かせたり、自分を見つめなおすために、座禅会などに行ってみようとも思っています。 自分は自分で、自分らしくいるためにはどうしたら良いでしょうか。
浄土宗を信仰していますが、禅宗へのコンプレックスがあります。 道元禅師は「曹洞宗なんて言わないでくれ。釈尊の仏教そのものだから」という姿勢だったそうですが、なるほど釈尊が菩提樹下で坐禅(のようなもの?)をして悟りを開いた以上、禅宗が仏教のメインストリームであることは自然だと思えます。 我が浄土宗も「禅宗のような自力行に耐えない人は念仏しましょう」だったらまだ問題無いんですが、法然上人の主張では称名念仏だけが正道だと説くわけで、行者の機根の問題だけでなく行としての坐禅をも退けてしまっている。これはやり過ぎなんじゃない?と思うわけです。 浄土系のお坊さま方はこんな思いになることはありませんか? また、禅宗のお坊さまからのご意見も聞きたいし、もちろんその他の宗派のお坊さまからも広くご意見聞かせていただきたいです。
例えば浄土宗の檀家で、普段は念仏を唱えているけれど、ときどき座禅や阿字観に参加したり、お護摩に参加する。 そう言う人が知人に居ます。 私の場合、浄土宗で冠婚葬祭も勤行も、阿弥陀様メインではありますが、同時にお不動様と大黒天様に惹かれ、こちらも勤行しています。 (浄土宗のお寺にも多くは無いですがお不動様をお祀りしている所があるので、大きな軋轢は無いだろうと思いました) 最近、一般向けの仏教の啓蒙書でも、そうした「宗派にこだわらない」立ち居地から仏教を紹介している本も少なくないように思います。 私も、とある有名な仏教解説者の影響を受けて、こうした立ち居地が、個人的に合うように思い、そうしてきました。 ただ、色々と仏教を勉強していると、「そうした信仰はよくない、宗派は1つに絞るべき」と言う意見にも、しばしばぶつかります。 最近では、浄土宗の檀家の私が、護摩に参加するぐらいならともかく、結縁灌頂まで受けるのはやり過ぎかな? と悩んだりもしています。 お坊様は「宗派にこだわらない信仰」についてどう思われますか? この質問は聞きずらいですし、お坊様がたもお答えしずらいかもしれませんが、「宗派にこだわらない」一般仏教啓蒙の影響を受けた者には、けっこう切実な悩みです。 よろしければ、ご意見を伺えたら幸いです。
今年24歳になります。色々とあり発達障害、鬱病の診断を前々からされています。 もともと10代の頃から、おばあさんになって自分のやりたいことが出来なくなったら仏門を学んでみるのもいいかもしれないと思っていました。 通信制の学校を卒業し、やっとやりたいことをみつけ、SNSや動画を作ったり個人で活動をしていましたがメンタルも体調もよくならずやっと3年続けて折れてしまいそうです。 こんな自分を変えたいと思い、筋トレを始め、たまに仏教や神様のことについて調べて、自分を愛す、諦める、という方法を試したつもりでしたが 自分はだめだ、という固定概念が覆せずやりたい事、今まで楽しかったこともダメになってしまい これでは人を笑顔にするのはおろか、自分のことも幸せには出来ないと嘆いてばかりです。 バイトを始めれば人間関係が上手くいかず、働かなければ罪悪感に苛まれ、休むこともままならない中、 修行僧を募集しているお寺さんがあることを知りました。 ここで2つ疑問があります。 自分は、仏教について趣味程度の知識しかなく、学校にて学んだことはありません。 精神病について悩んでいる方も迎える、と言ったお寺さんがあることも知っていますが 自分を変えるため、自分のため、と言った理由でも、履歴書をちゃんと書いて、ゆくゆくは人の為に祈りたいと仏門に入ることは許されるのでしょうか。 また、大学に入って学ばなければ修行僧としての受け入れは、やはり難しいでしょうか。 まずは家でやれる写経や座禅、やってみました。 近くのお寺では説法会?など予定が何年も前からずっと更新されず体験出来ていないのが現状です。 頭の硬い私にはなかなか効果がでず、悪い言い方になりますがいっそ 厳しい世界でシバいて だめならシバかれた経験を生かし自分に強く生きていきたいと思っています。 女の体として生まれたので壁もある世界かもしれませんが、頑張りたいと想ってもいいのでしょうか。 お坊さん本職の方から意見をお聞きしたいです。 よろしくお願いします。
hasunohaでお坊さんたちの回答を拝見して、今まで自分は心を鍛えてこなかったということに気づきました。 人生色々とヘビーなことはあり、私はどんなことがあってもしっかり頼れる存在としてあってきたつもりで、自分ではメンタルを鍛えてきたと思ってきました。(機嫌がころころ変わり度々爆発するヒステリーな母を見て育ち、そういう女性にだけは絶対なりたくないと思って生きてきたので)、家族喧嘩や深く付き合った恋人の前以外で他人様の前で自分の感情のコントロールができずに、浮き沈みや波を見せたり迷惑をかけたことは全くと言っていいくらいありません。 他方で、自分一人でいる時は心の波がぐっちゃぐちゃにあり、私自身も躁うつ病の気があるのではと思われるくらい、行動力と向上心に満ち溢れている時と、死にたい自分なんて無用だと思う時を入れ替わり立ち代わり繰り返して不安定な人間であることに、社会人になってから気づきました。それは、もともと芸術家志向だったこともあって、芸術は爆発だてはないですが、そういった波や破滅的な思考があることを個性ととらえ、変なくらいが個性的で良いと肯定していたことも原因としてあると思います。 これらの結果として、他人様の前では極端にしっかりと人間関係がちょうど自分にとって望ましい方向に転んでいくように表面に出す感情をコントロールするくせに、自分の心自体をしっかりとマネジメントし平静に保つことについては、全くやってこなかったのではとふと気づきました。 特に恋愛面での嫉妬心や独占欲が、究極的に強い人間である自覚はあります。(彼氏を束縛しようとしてうざがられるような可愛いレベルではなく、彼氏の精神を上手いこと支配して自分に依存させ、絶対振られないようにしてきたことにアラサーになって気づきました。) 根本には家庭仲が悪くどうやってもうまくいかないことによる不安定があり、最近では早く信頼できるパートナーを見つけて結婚したかったのにそうできてない自分への焦りやらがあります。 さぁ心を鍛えようと思っても、座禅をして無になってみるくらいしか思い浮かばないのですが、それでは実際に人と対峙する時、特に家族や恋愛的な嫉妬の対象である男性と対峙する時には中々うまくいかないのではと思います。毎日できるトレーニングとあわせて、人と対峙する時のコツについて何か御助言をいただけるととても嬉しいです。
こんばんは。 以前に質問させて頂きましたが、またこちらで質問させて頂きます。 私は現在、社会人をしながら様々な哲学や思想について勉強してきました。 勉強をする理由は、様々な思想がある中で、真理(正しいこと)を知りたい、あるいは自分の納得できる考え方を見つけたいと強く思ったです。 そして、これまで学んできた中で、仏教の考え方(特に空の思想)が最も真理に近いものだと考えるに至りました。 これ以上は、学問ではなく座禅などの修行をしないと真理は分からないと思っています。 しかしながら、修行の道に踏み出すことにもためらいがあります。 理由としては ・社会人としての現実の生活があり、それを捨てて修行の道に入ることは現実から逃げているのと同じではないかと考えること。 ・出家して何かしら悟りのようなものを開いたとしても、後の生活がつまらないもののように予測してしまうこと。 ・仏教の教えが一番真理に近いものだと思うが、自分が惹きつけられる思想が他にあり、そちらの教えの方が自分が納得できるのではないかと考えること。 (具体例 三島由紀夫から西部邁先生に連なる保守主義、フライトからラカンに連なる精神分析、キルケゴールやカントなどの実存主義的哲学、大本開祖の出口王仁三郎に代表されるスピリチュアリズム) これらの理由があり、様々な思想のどれにも惹きつけられて、どれかに決めて一歩を踏み出せていないのが現状です。 また、仏教の教えの中でも様々な考え方がありますが、私は最近ご活躍されている南直哉和尚の本に非常に納得させられることが多いです。 特に、この前出版された「超越と実存」という本の中の、親鸞と道元についての文章には深く納得させられました。(どちらも、超越的存在を排除しつつも、実存を受容するための思想として紹介されていました。) しかしながら、批判をする方もいます。 このように、様々の思想の中で混乱しているのが現状です。 お坊さんにお伺いしたいのは、「私の文章を読んでどう思われるか、私はこのままでいいのか、それとも何かを変える必要があるのか」ということです。 現在、28歳ですが、17歳から今までずっとこのような思想的混乱状況から抜け出せていません。 このまま人生が終わるかもしれないと思うと発狂しそうです。 何でも良いので、何かアドバイスを頂けたら幸いです。 よろしくお願いします。
私は三日坊主になりがちです。 今回は勉学やスポーツを続ける心得みたいなものを聞きたいです。 私は勉強で難解すぎて理解できなかったり、量が多すぎて進まなかったりすると、ストレスで現実逃避を2週間ほどしてしまいます。 その間、ゲームをしたりネットサーフィンしたりと、とにかく勉強してる難解な分野を考えないように朝から晩まで没頭してしまいます。考えたりすると、胃にくるみたいでキリキリと痛みます。私はフリーターなので、割と自由に過ごせる分、没頭すると止まらないです。 それでネット中毒になり、頭の回転が遅くなり記憶も落ちた頃にまたやりだすので、全然進まないのです。 やる気はそこそこあるけれど、ストレスに弱すぎるんです。忍耐、根性論の風当たりが厳しい今日ですが、まさに私にはそれらが必要だと思ったりもします。 それともう1つ、私は趣味がありません。でも前々からいいなと思ってたけど金銭的な理由で諦めていた個人スポーツの道具や本を最近ようやく手に入れました。もし勉強が限界で暇つぶしに逃げても、ネットよりは健康だろうと思ったのもあります。 それで完璧主義な性格から上達のため練習メニュー(筋トレやジョギングなど)やメンタル面、身体の知識、栄養学まで多方面に調べたのに、ふゆの寒さに耐えられず怠けてしまい、続きませんでした。自分でもショボいと思います。 お坊さんは真冬にほぼ裸で冷水かけたり、なにも摂取しないまま一週間程座禅?したりする修行から、分厚い本とかを暗記したり(イメージ)大学でたりと、すごく大変でそこから三日坊主という言葉が作られるほど厳しいのだと、足りない頭で想像して、どうやったらそれらを乗り越えられる人になれるだろうと思い質問に至りました。 長々とすみません。出来れば勉学のストレスとどう付き合えばいいかのヒントなどの具体的なものから、物事に対する忍耐の養い方などをお教えくださると嬉しいです。 よろしくお願いいたします!
知らぬが仏という言葉がありますが、それでも知ってしまい負の感情(怒り・悲しみ・辛い・不安等)が何をしていても、普通に生きていても出てきてしまいます。 暇を作らない、考えない、目の前の事を淡々とやる…色々試しましたが。 約7ヵ月間続いています…息苦しいです。 お坊さんでも、そういう経験はあるのでしょうか? 負の感情を消すには、どうしたらいいのでしょうか。