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検索結果: 264件

葬式のお経

何故、葬式でお坊さんがお経を誰もわからない言葉で長々と読むのでしょうか?なぜそこにいる人々にわかるような言葉で読まないのでしょうか?あれじゃただの雑音です。 せっかくですし自分はお経の内容を知りたいと思っているのに、あれじゃ時間の無駄です。 ただでさえ悲しいのにあんなに長々と意味のわからない音を聞かせられるとか、お坊さんが人々にさらに苦しみをあたえています。 ああいう喋り方じゃなきゃ死者があの世に行けないということはないでしょう。 木で木を叩いて音を出し、声帯から決まった音を出さないと死者があの世に行けない理由もないでしょう。 ありがたいことを読んで悲しんでいる人の心を楽にさせてあげているわけではないでしょう。誰も理解できていませんから。 ああいうやり方にしないと死者への敬意を表せないわけではないでしょう。葬式で大事なのは心から悲しむことで、心から悲しみさえすれば決まった一つのやり方でやる必要はないからです。 自分が推し量るに、ああいうやり方じゃないとありがたみがなくなり誰にでも葬式ができるようになって、お坊さんが金儲けの手段を失うからだと思っています。 悟りを目指し、人々を救うことを目指しているお坊さんが、そのような誤魔化しをして金儲けをしている理由を教えてください。 攻撃的に感じるかもしれませんが、これは子供の頃から気になっていたことなので。どうか誤魔化さずに本当のことを教えて下さい。

有り難し有り難し 578
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自己嫌悪から抜け出せないのが苦しいのです。

相談させてください。 私は26歳の大学院生です。高校卒業後に3年間、精神疾患の治療のため引きこもりのようになっていました。 その3年間はもちろん、高校在学中も精神疾患により勉強が出来ず、勉強の遅れはかなりのものだったと思います。 しかし当時の私は「絶対に治るんだ」と固く心に決めていて、また両親が教師であったことも幸いして、 疾患が治った直後の半年ほどの勉強で地方私立大学に合格出来ました。 その後、やはり足りていない勉強を頑張り、また不眠症で使える体力が限られる中、 外部受験を行い、現在は地方国立の院生になれました。 今の大学はとても良い就職先を持っていて、今までの気を張りつめた感じは全く必要ありません。 特に私は理系の女子学生であるため、就職はよほど変な事をしない限り大丈夫でしょう。 しかし私は、それに怒りのような、やるせないような、気の滅入るものを感じています。 環境の変化によるもの、と言ってしまえばその通りだとは思いますが、 実害(研究活動の遅れ)が出てしまい、非常に困っています。 研究活動が主なのですが、頑張ることが犯罪のように感じています。 というか、今の自分が嫌いです。 頑張っても、頑張るなんて悪いことをしている、と全然喜べません。 嫌な夢もたくさん見ますし、嫌なこともたくさん思い浮かびます。 (私をいじめた人(精神疾患の原因はいじめなのです)は今どんな大学に行き、 どこに就職しているか、結婚しているか、幸せか、など。) これらは考えても仕方のないことです。それはわかっているのです。 が、どうにも悲しくなります。地方とはいえ国立大に入れたことで、「いじめが無かったらありえた人生」が具体的に描けるようになってしまったのが原因ではないかと自分では感じています。 要するに、ありえた人生に比べたら、今の人生はゴミクズのように価値の無いもの、と感じているのだと思います。 それで"いじめをした人"に思いが及ぶようになったのではと思っています。 私は人生をやりなおしたいと感じています。 また、今はこれまでの努力に価値を感じられません。 悲しさが極まると自分の頭を叩きます。自分を罰することが出来たと感じられ、その時は自分を許せます。 こういう気持ちで居続ける事が辛くなってきました。 助言を頂けないかと思っています。 よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 90
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2022/04/19

恐怖を忘れることは良いことか?

お世話になっております。いつも温かいご回答を頂き、大変感謝しております。ありがとうございます。 今回お聞きしたいのは、「恐怖を忘れて過ごすのは良い傾向なのか?」というものです。 以前より、死の恐怖を克服する方法についてご教示頂いております。怖くなったらお念仏を唱えたり、仏教に関する本を読んだりして、少しでも悟りに近付けるよう勉強しています。 その中で、以前よりも、恐怖を感じる時間が少なくなっていると感じます。しかし、決して死が怖くないわけではなく、ただ別のことに気を取られて恐怖を忘れているだけなのです。 日々が忙しくなるとそのような「忘れている時間」が増えていくのですが、隙間の時間に死の恐怖を思い出して、絶望感に苛まれます。 そこで、 ・死の恐怖を忘れている時間は、仏教の修行的にはあって良いのか?それは、克服へと繋がっているのか? ・それとも、何度も恐怖を思い出し、その度に勉強したり念仏したり…と繰り返す方が好ましいのか? の2点について、ご教示願いたいです。 どうしても、文献に触れたり念仏を唱えたりすると、死の恐怖を連想してしまうので、精神的に疲弊してしまいます。そのため、どうでもいい娯楽で恐怖を誤魔化してしまうこともあります。 一方で、死に対する絶望感から、「早く死の恐怖を全く感じないようになりたい」と思い、つらくても修行した方が良いのか、と思うこともあります。 また一方で、自分のしたいことは「死の恐怖の克服」だけではなく、ほかの勉強や趣味にも勤しみたいので、少なくとも現状では、やることを仏門修行だけに絞るのは避けたいと思っています。 長文かつ、わかりづらい文章になってしまい、申し訳ございません。お時間ある時で構いません。ご教示頂けますと幸いです。

有り難し有り難し 12
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心と実際の間で。

最近、とても気持ちが不安定です。 心の持ち方を変えなくては…と出来ることを始めようと、お坊さんの書いた本や、ブッタの本、自己啓発の本、写真集や偉人の言葉などを読み漁っています。 例えば、怒りの気持ちを10秒我慢してみましょうとか、普段の生活を見直しましょうとか、あらゆる色々なアドバイスを読んでは実行しようと頑張っています。 でも、そうやって1つ1つの動作に緊張感を持ってるせいか、今まで以上にストレスがかかり、それがあちこち体に出てしまいます。 心が乱れると、食生活も乱れ、家族には手の込んだものを作っていても、自分は菓子パンとか、ごはんだけとか、お菓子で済ませることもあります。 1番治したいところは、すぐにイライラしてしまう事です。接客業なので、仕事中は感情を露にはしませんが、その分些細な事で子どもに必要以上に怒鳴ってしまったり、理由もなくイライラしては甘い物を過食してしまったり… 最後に笑ったのはいつなのか分かりません。 多分、こうして切羽詰まって相談させていただいていますが、その御返事の御言葉も心の奥底では分かっているのだと思います。周囲はそんな私に、更年期だから…と言いますが、そういうせいにはしたくないのです。精神科に行って薬に頼るのも嫌なのです。 心穏やかに、周囲に感謝し、妬み恨みを抱かず、優しく静かに暮らしたいです。もちろんそうならないのは、自分自身のせいだと熟知しています。だから苦しんでいます。 抽象的で矛盾したご相談かもしれませんが、どうか教えていただきますたいです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 15
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命ってなんでしょうか…

最近私はまだ乳呑み子の子猫を5匹保護しました。何度か保護した経験はあるので里親さんが見つかるまでしばらく家で今面倒を見ていようと思ってます。 ですが最近知人から、"父親の会社の倉庫で、まだ乳呑み子の母親のいない子猫が見つかったのだが、父親は頑として家で飼うとは言わないので受けとってはくれないか"とった連絡がきました。 よくよく話を聞いてみると、病院に連れて行き、数日間保護できるが、貰い手がはっきりしない限り保護するつもりはないと彼女の父親は言っているということでした。引き取って、長く里親が見つからなければ困るからとのことです。 でもそれは話が逆ではないでしょうか? 保護することができるのならば、まず保護することが先決なのではないでしょうか?どんどん衰弱していっているということなのに、なぜ頑として動かないのでしょうか。彼女には里親は(今まで保護した経験から言うと)すぐに見つかるからまず保護してみてはと説明したものの、父親が許さない…と言うのみです。 そして、もう一つ怒りを感じるのは、私が子猫を保護していることを知って、それならそこに預けてしまえば安心だ自分に責任はないと考えているように思えることです。とても無責任だと思いました。かわいそうと思いつつも(しかも手を差し伸べることができるのに)自分はそれを背負いたくなくて他人に預けてしまおうという考えが許せませんでした。命ってそういうものなの?と思います。 でもそう思っている自分も結局無責任なのではないか、責任を負いたくないだけなのではないかと悩んでしまいます。 世の中にはたくさんの命があってそれを助けたくて仕方ないけれど1人では決して叶うことではなくて、だからなるべく預けてしまえばいいみたいな無責任な考え方を正して、1人でも多く手を差し伸べてくれる人になってほしいと思うのに、なんだかそれもやっぱり偽善なような気がしてきてしまい、苦しくて仕方がなくなってしまいました。命ってなんでしょうか。どうかかわっていけばいいのでしょうか。人も動物も同じ命を持っているはずなのに、どうして手を差し伸べないんでしょうか。

有り難し有り難し 14
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無常観と向き合いたい

昔から断続的に、無常観に由来する虚しさに襲われます。 研究が上手く行った時、恋人と互いを大切にできた時、音楽で満たされた時、古典を読んで古人と共感した時、夕焼けや木漏れ日など身の回りの自然に感動した時、幸せを感じることは多いし、上手く行っているときは自分が本当に幸せで、信じられないくらい恵まれていると思えて、自分を取り巻く全ての人や、私に恵みを与えてくれた運命か何か、すべてに感謝しています。 しかしそのようなポジティブな気持ちは長くても一月も続きません。何か上手く行っていないことをきっかけに私はまた、無常観に捉われるのです。 結局人は皆死ぬし、文明も人類も滅びるのに、自分はなぜ何かを残そうとしてもがいているのだろうか。究極的には人は孤独で、全てをわかり合うことはできないのに、なぜ時に寂しくなりまた傷つくのだろうか。全て消え行くのになぜ生きるのか、自分の行為1つ1つには何の意味があるのか。 私の虚しさは、もし、一神教の神を信じることができたら、私の悩みは救われるような気がします。善悪を教えてくれ、自らの行いを見て報いを与えてくれる神の存在を信じられれば(そんな単純ではないかもしれませんが)。しかし、そのような価値基準と人格を持った神を、私は信じることができないと思います。 私は人智を超えたものを否定しているわけではありません。たとえば、個人の力ではどうしようもない巡り合わせは存在して、それを運命と呼びうると思います。 しかし、私が科学者であることと関係があるかもしれませんが、それらは価値判断とは無関係なニュートラルなもので、人間に喩えられるような心を持っているとは思いません。ですから、自らを神に任せることで苦しみから解放される、という類の救いは私には訪れない気がします。また、そもそも、人智を超えたものも、全ての価値も、結局人間の心が生み出した共同幻想である、という考えから自由になることはできません。するとやはり虚しくて辛くなります。 なんでも構いません、このような私が、無常観から逃れる、もしくは無常観と向き合うヒントをいただければと思い質問させていただきました。 悟りを得る具体的な行動や、東京都文京区に住んでいるので、具体的な法話や修行のご案内もぜひお願いします。この質問をきっかけに、長年の悩みに前向きに取り組めたら嬉しいです。

有り難し有り難し 20
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人と自分を比べてしまいます

私はほとんどの能力が人より劣っています。読解力も理解力も低く、忘れっぽい。運動能力の低さで負ける気はしないし、不器用で社交が苦手です。 しかし、持ってないながらも何か得意なものがあれば、それを伸ばそうと、少しずつ頑張りました。結果、絵とピアノの技術ではほとんどの人に負けなくなりました。プロの世界となれば下の方ですが、それでも、一般の中で「あの子はダメダメだけど絵とピアノがすごい」という評価をいただくことが出来るようになったのはとても嬉しいです。 性能の低い私ですが、性能が低くても、自分のことは好きです。精神障害がありますが、寛解し、最近は自身の選択や人生を受け入れることが出来るようになりました。 ですが、どうしても、他人と比べてしまいます。前より前向きに生きられるようになったのは良いのですが、「あの子は勉強が出来ていいな」、「あの子は運動が出来ていいな」、「あの子は人気者でいいな」…と、考えてしまいます。ないものねだりをしています。そして、嫉妬し、強烈な劣等感に苛まれます。 とても苦しいし、誰かと自分を比べるのは人にも自分にも失礼だと思うので、やめたいのですが、気付いたら比較してしまっていて、どうすれば良いのか分からない状態です。 私は苦しみから逃れたいです。僭越ながら、何かアドバイスをしていただきたいです。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 23
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煩悩も欲も消さなくていい。

煩悩も欲も消そうとする必要はない。この世の理(ことわり)だから。 煩悩や欲はありのままの心の在り方であり、決して消えるものではなく、そのままを受け入れることでその縛りから解き放たれる。 辛い苦しい悔しい腹立たしいだけでなく、ありがとうと感謝の言葉を発することも、何か良いことをするという徳を積む行動も、お念仏さえ煩悩や欲のひとつである。煩悩と欲は人として生きるには逃れられないものである。 また、煩悩は108あるという。言葉遊びではあるが永遠(とわ)とも読める。 これは、煩悩や欲などはこの世の時空間が始まる時から(科学的にはビッグバンか)終わるまでの限られた「永遠」という中に存在することを意味する。 煩悩がこの世の物理的な法則決まりごと、欲が化学結合などを起こすエネルギーとして考えるなら納得してもらえる人もいるだろう。宗教や哲学、科学などは人のごく限られた能力の中で作られたものであり、大した差はない。 別の世、違う時空間には違った煩悩や欲があるだろう。 人は人としてこの世に産まれる前から生命体(あるいは物質)として遥か昔から存在し、煩悩と欲のおかげを受けながら、産まれてからだけでなく、死んだ後も物質やエネルギーとして森羅万象の中で存在しつづける。 自分とは?自分はなぜ?ということに捕らわれず、今の状態、周りの言動はその存在を認め、自分の感情をはじめ、他人の行動や起こった出来事は仕方がないと赦して労わり、その経験をありがたしと感謝しながら、経験を活かして自分の趣くままに行動する。 そうして、普遍的に存在する煩悩や欲にも感謝しながら、うまく活用できれば、自ずとこの世も極楽と気づくことができる。 悟ることができて仏になるであろう。

有り難し有り難し 11
回答数回答 1

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