お寺での生活や、僧侶として従事する方の日頃の暮らし、なぜ仏門に入られたのかきっかけ等に興味があり、件名の通りの質問をさせていただきます。 不躾な質問でしたら申し訳ございません。 お寺や宗派によってもまた違うかと思いますが、できるだけいろんな方の回答を伺えたら幸いです。 質問数が多くなってしまい大変申し訳ありませんが、差し支えのない範囲でご教示いただけますと幸いです。 何卒よろしくお願い申し上げます。 ①一般的に、住宅街にあるような比較的小規模な寺院には、住職以外のお坊さんは大体何名ほどいらっしゃるのでしょうか? ②お坊さんが一通りの修行を終えたとされるのはどのような段階ででしょうか? ③修行を終えたのち、学校職員など他の職業と兼任しながら、お寺に住み込みで役僧や僧職員として住職のお手伝いをして暮らす言うことはあるのでしょうか? ④お寺に住み込みで働く場合、住職にご家族がいらっしゃる場合、同じ場所で暮らすのでしょうか?別棟などが用意されてるのでしょうか。 ⑤実家がお寺で家業を継ぐ以外で、お坊さんになられた方がいらっしゃいましたら、なぜ仏門を目指されたのかお話を伺えますと幸いです。 以上です。 もし失礼なことを伺っていたら申し訳ありません。
深刻な問題ではなく気になっている程度なのですが、質問をよろしくお願い致します。 仏門に入ったり修行を積んだりしていなくても、悟りを開くことはできるのでしょうか? 私は家庭環境の事情もあり、ほぼ天涯孤独な人生を歩んでいます。 病気・事故などで死にかけたこともありますが、その都度周囲の方々に助けてもらいながら約50年生きてくることができています。 その中で一つ一つの問題を自力で解決する中でたどり着いた結論があります。 簡単に表現すると、自身を取り巻く環境はすべて自分が決定している、というようなものです。 欲求をコントロールすることで環境は変えられ、安心安楽な生活を送れると考えています。 実際に一般的には余裕は全くありませんが、平穏・安楽な毎日を送ることができています。 仏教に関する教えなどを本で読むと、私にとっては当たり前の論理が展開されており、少々物足りない感じを受けます。 もちろん書物は一般向けの表現であり、実際はもっと複雑なものだと思います。 現在の生活環境で特に問題があるわけでもなく、自身の人生を全うすべき邁進する毎日ではありますが、この状態が悟りを開いた状態なのかどうかが最近気になっております。 仮に悟りを開いているとしても、論理的に理解できているだけでまだまだ体調の良くないときは欲が出てきたり、咄嗟に感情が表に出そうになることもあります。 まだまだ私の世界は狭く、もっと広い世界を見れば私の論理が通用しないことも出てくるとは思いますので見聞は広げていきたいと思っています。 悟りを開きたいという願望は特には無いですが、一般個人でも悟りを開くことができるのであれば、自分の意見に自信を持って周囲の人に助言をすることができるのでないかと考えています。(もちろん自分の意見として) これまでは、他者に不用意な発言をするのもある種の自己の欲求であることも判っておりましたし、天涯孤独という特別な環境に生活する個人の特殊な論理として自分の発言を控えていました。 しかしながら当然の帰結(私の理屈では)で悩み、怒り、ストレスを抱えている周囲の人の力になることも自身の存在理由なのかと感じることも増え、この度の問い合わせとなりました。 お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
皆さまの問答を拝読し、いつもたくさん勉強をさせていただいております。 今回、自分の気持ちとの向き合い方をご指南いただけないかと思い、相談させていただきます。 私は、自分がとても充実した生活を送っていると思います。 やりたい仕事をさせてもらい、健康で家族にも恵まれ、何不自由なく過ごせていることに感謝をしています。 今以上のことを欲張って願ったりする気持ちはありませんし、自分がいまここに在ることを周囲の人たちにもご先祖さまにも感謝しています。 でも時折、本当に不意に、「虚しさ」が心の中に生まれます。 それまでなんの問題もなく歩んでいた足が突然動かなくなるようにして、心のなかに「空虚」が表れ、それに捕らわれてしまうことがあるのです。 そうなると、全てが後ろ向きに感じられ、自分の存在意義があるのか不安になり、立ち止まったまま途方に暮れてしまいます。 自分はどうして自分なのだろう。 どうしてここにいるのだろう。 なんのために生きているのだろう。 こういう疑問ばかりが、ぐるぐると頭の中を回ります。 なにもかもを投げ出してしまいたくなります。 終いには、それを考えることも放棄してしまいます。 そして、自分の中が空っぽになってしまったような、そういう恐怖を感じてしまうのです。 お坊さまの修行の中や、お釈迦様の教えの中に、そういう心と向き合うためのヒントはないでしょうか。 とても漠然とした質問で申し訳ないのですが、私もその原因不明の漠然とした虚しさに、何度も悩まされてまいりました。 虚しいと思う、空っぽになる心への対処方法、またそういう自分との付き合い方など、なにか参考になるようなことがありましたら、ぜひご教授くださいませ。 宜しくお願いいたします。
私は身近な人たちにお祓いに行っておいでとよく言われます。 私自身も試練だとか今が大事だとか思っても心が弱ってしまっています。 小さな頃から叔父に性的虐待、母からは暴力暴言を受けていました。 叔父からも母からも愛故にだと言われていました。 母はいつの間にか父と離婚し別の男性の元へいってしまい その男性から暴力暴言を受けて何度も救急車騒ぎになったり 叔父の性的虐待が親にバレて母はアルコール中毒になり 私が16になった頃首を吊りなくなりました。 その後も兄が離婚し子供を引き取り私が育てたり 子宮の病気になったり怪我が絶えなかったり 今現在進行形で怪我や病気が絶えません。 私は一体何をしたんでしょうか。 悪いことをしたのでしょうか。 そしてお祓いとはどんなタイミングで行けば良いのでしょうか。 受けるものは厄払いでよろしいのでしょうか。 長々とすみません。 ご回答よろしくお願いいたします。
連日の投稿を失礼いたします。 「写経」という言葉がありますね。 平安時代くらいの物語を見ると、何かある度に写経。 これはどうやら、トラブルや揺らぎがあった際に心を落ち着かせる手段です。 ただ書き写すだけの単純な行為は冷静さをもたらしますが、 当時絶対的な力を持っていた仏教の……経典で良いのでしょうか? それを書き写すことにより、「お釈迦様のおかげ」となっているような気がします。 何故なら、お経は唱えるものです。 サンスクリット文字に、中国で「音に近い読みをする漢字」を当て、 それが日本に来たからです。 純粋に、釈迦の教えではなく、かつての中国文化が混じっています。 なので、口に出さず、ただ書き写すのは、ちょっと違う気がします。 # あえて「釈迦」と書いたのは、亡くなっているからです。 # 人々が「天智天皇陛下」と呼ばないのと同じです。 # 軽んじているわけでは、決してありません。 仏教に興味はありますが、わざわざサンスクリット語を勉強するほどか、と言われたら、否です。 なので、釈迦の教えを説く立場の皆様にお伺いしたいと思った次第です。
初めまして。20代後半の女です。知り合いには相談しにくいのでこちらに投稿しました。是非色々な宗派の方や人生の先輩からの言葉が欲しいです。 私の実家が、お寺なのですが跡継ぎ候補のことで(一族もですが)私個人苦しんでいます。私には姉がいてその旦那(普通のお家から来てくれた人:まだ養子でなくお試し期間中)が寺に勤めてくれているのですが、最近になり現住職(父)と母が、″今後彼が婿養子になることはない"と判断しました。そして、3つの提案を私に投げ掛けてきました。 1.私が継ぐ(僧籍持ってますが持ってるだけ...とゆう情けない状態:まだ世間的には男性がなるものだとゆう世代の人が多い地域:そもそもサポートは出来るが住職は私が嫌) 2.私が結婚して婿を迎える(父が連れてくる寺のことできる寺の人) 3.寺を終う、譲る の、どれにするのか、と今問われています。急で戸惑っています。 父母が望んでいて、私もそれがある意味、自分が楽だと思うのは、【私が寺の人と結婚して旦那さんが住職に】←とゆう形なのですが...家の為に死ねと言われてるみたいwと悲しい気持ちになり疲れます。幸せを後から創っていくのも悪くはないですが、、。好きな人(好きなだけ)がいるのですが、実際そんなこと言ってられる年齢でもないし諦めるのか、、とゆうリアルな状況もまた辛いです。 前に、親孝行も出来てないし、役に立ってない←と言ったことがあるのですが、「お前がちゃんとした後継者と結婚すればそれで役に立つ」←と、言われました。やはり役に立ってない...私w こんなこと言う住職ほんとどうかしてると思いますが、実際問題こればかりは仕方ないのだろうと身内だからこそ思います。私は女姉妹の末っ子で、親は男の子が欲しかったんだろうなとか色々察しています。 私もご先祖様たちの苦労のもと長く続いてきたこのお寺を出来ることなら家族で守りたいと思う気持ちもあります。 まぁしかし親が生きている間は言う通りにしてもいいかな、と思っている部分もあります。私が先に死ぬこともあるし、そもそも結婚できるかどうか等、まだ分からないのでなんとも言えませんが、、。 何かお言葉を頂ければと思います。;;似た境遇の方などもおられるかと思います。アドバイス等どうぞよろしくお願いいたします。 文章が不自然な箇所、お許しください。
今若い方の間で御朱印集めが流行っているようです。私の妹もそんな1人で神社の御朱印を集めに夢中のようです。今まで神社に定期的にお参りに行ったり、神棚を飾ってお祀りして特に信仰などもないようです。「次はどこの神社の御朱印をもらおうかな」と言っており、スタンプラリーかなにかと勘違いしているようで違和感を持ちます。神社仏閣などへは神様や仏様へ日頃の感謝など礼節と信仰を持って参拝する事が本来の目的ではないかと思われて不作法にも感じてしまうのです。 参拝より御朱印と考える妹のその行為に憤りを覚えます。 本来の御朱印の意味とはどのようなものなのでしょうか?お教え頂ければ有り難いです。よろしくお願いします。
先日の疑問に答えてくれた方、ありがとうございました。m(_ _)m 仏教を学び、これからは五戒を守ろうと決めました。 仏教を実践しようと、身近な家の手伝いからはじめたのですが、 家が農家なので当然畑仕事が含まれます。畑仕事の内容のほとんどが 作物の収穫なので、植物の命を奪う殺生の罪にならないのでしょうか。 仏教を実践して、五戒を破るようでは本末転倒なのでわないか?と思い疑問を投稿させていただきました。 また、畑仕事は悪いことでは無かったとしても、その為に害虫や害獣の駆除はいいのかなどの、どこからが良くてどこからが悪いなどの事と、何故、虫や動物の殺生が悪くても、植物の殺生はいいのかと言う 事にも答えていただけるとありがたいです。 ご回答お待ちしています。
散々聞かれた質問だと思いますが なんでですか?? だってコンビニより多い数あるお寺で 二足のわらじの方だっていらっしゃると聞きました。 他になりたい職業はありましたか? 今他になりたい職業ありますか??
私は今年の3月で大学を卒業し、新社会人になりました。 ですが、新型コロナの影響で仕事もまだ始まっていません。 学生時代は進学、卒業、就職という目標があり、それが私の生きる意味でした。 しかし、学生生活を終えてしまった現在では、特に目標もなく、正直、いつ死んでもいいと思っています。 恋人も23年間出来たことがないし、恋人も欲しいとは思いません。 また、浅い付き合いの友人ばかりで、SNS中心の社会にも疲れています。 行きたかった国や場所も学生時代に行きました。 将来やってみたいことはありますが、金銭的に挑戦が難しいし、そもそもあと70,80年も生きたいとは思えません。 私はこれから何のために、誰のために、生きればいいのでしょうか。
夫は前向きな考え方をする方で、あまり悩んだりもしません。私は細かなことが気になったり傷ついたりしやすく、人間関係でも悩んだりすることも多いです。そのため普段から私が悩んでいることを話しても共感されず、「気にしすぎ」と言われることもよくあります。 先日食事の準備の時に、私がお茶碗にたくさんご飯をよそったのを見た夫が「入れ物(のサイズ)がおかしいだろ」と言い、私が「その言い方はないでしょう」と言ったところ、「冗談も分からないのか。そんなことだから職場のコミュニケーションもうまくいかないんだろ」と言われました。 これまで仕事の人間関係でとても悩んでいることを家でよく話しており、私が悩んでいることも知っていると思っていたので、その言葉がとてもショックでしたし、夫の思いやりの無さを改めて知って、人として尊敬できないと感じてしまいました。 これまでも夫はいろいろことに対して私の考えよりも自分の考えが正しいと思っているようで、私と意見の違いなどで話し合っても、鼻で笑うように言い返したり、私の考えは間違っている、世の中の多数の人は夫と同じ考えだ、ということがよくありました。 なので、夫は恐らく私を下に見ているのだと感じていましたが、今回のことで私に対する思いやりの無さを改めて感じ、また人に対して傷つける言葉を傷つけているという自覚もなく言う夫を人として受け入れられないと感じました。 そのことがあってからお互い口をきいていません。でも子供がとても心配して「仲直りしてほしい」「お互い口をきいてほしい」「離婚はしないで」と必死で仲を取り持とうとする姿がかわいそうで本当に申し訳なくなります。 そのため少なくとも子供が自立するまでは離婚はしてはいけないと思っています。 でも人として尊敬できない夫と、これからも共感されることなく、私の感覚は間違っている、感覚や考え方が人と違っていておかしい人間だ、と言われ続けることが辛いのです。 どのような心持ちで過ごしたら、夫と同じ屋根の下で笑顔で過ごせるのでしょうか。 気にしないようにする、他人と分かり合うことはできないと諦める、夫の良いところに目を向ける、違いを受け入れるなど、いろいろ考え方を変えようとするのですが、人として尊敬できない以上、夫に笑顔を向けることができません。でも子供には安心して過ごしてほしいのです。
最近、坐禅に興味を持ったものです。 恥ずかしながら十年間引きこもりで、障害年金で暮らしています。 井上貫道師の著作を読み、坐禅に興味を持ち、その弟子筋にあたる方に電話面談を予約しようとしたのですが、自閉症ゆえ、極度の人見知りが発生して、キャンセルしてしまいました 只管打坐と言っても、ただ坐るのが難しく、参禅は必須と聞いております けれど、田舎住みなので近くに寺もなく、本当にハッキリした方につくのは難しそうです。 坐禅をしたい理由は、お釈迦さまの見た光景をこの目で見たいというものです。 けれども坐禅は諦めるしかないのでしょうか? この本があれば大丈夫、というのもないと思いますし、電話で気軽に坐禅を訂正してもらうというのも、忙しいお坊さんには無理ですよね… 長文失礼しました
初めて質問いたします。 恐怖に打ち勝つお智慧を、授けて頂けたら嬉しいです。 先日、ロシア軍がウクライナに侵攻を始めました。 (ご回答をいただく頃には決着がついてしまっているかもしれませんが、何卒ご回答をお願い致します。) 成人してから初めての、しかも先進国同士の大きな戦争に激しく動揺しています。両国共に言い分があり、外交上の話し合いで解決できず、政治外交手段としての戦争というのも、大人ですからわかっております。 (本で読んだり、話で聞いて)私は子供の頃から戦争が本当に恐ろしく、家族や自らが無事であるようにずっとお祈りをして生きてきました。大きくなってからは、正しく怖がれるように、軍事や外交の勉強もしました。 それでもやはり今回の侵攻は恐ろしく、ネットには次々と悲惨な報が上がって来ています。現地の方が苦しんでいるニュースに接し、私は居ても立っても居られないほど苦しく、恐ろしいです。そんな中、ウクライナは弱いから攻められた、日本も核武装しないと攻め込まれる、ロシアに舐められたらいけない、という意見も散見されます。 勝てば官軍という言葉があり、この世の中で強さ(暴力?権力?)が何よりも強いことはわかっています。ただ、どうにも腑に落ちないのです。 一般庶民がどんなに努力してもプーチン氏のような絶対的な強者にはなれないでしょうし、国の武力も米露レベルに追いつける小国はそうそうないでしょう。 実力主義の残酷な世界の中で、私のような弱い者は強者大国に震えながら生きていくしかないのでしょうか。お釈迦様が修行されていた頃のインド地域はもっと過酷な状況だったと思います。歴史の中の戦争よりもマシだと思いながら、諦めて生きていくしかないのでしょうか。 開戦の報に接し、同じように怯えている方も多くいらっしゃると思います。 どうか、この恐怖へのアドバイスを頂けますととても助かります。 どうぞよろしくお願いいたします。
はじめまして 私は今妊娠中で8月末に出産予定です 出産するにあたって今子供の名前を考えているところなのですが いくつかの候補の使いたい漢字に絆という字があります ですが、絆という漢字の意味を調べてみると、今でこそ人のつながりを表し、良い意味のように思われますが、もともとの意味が動物を縛る紐や、束縛などあまりよくない意味でした よくない意味の漢字は名付けには向かないのか、現代では良く言われる言葉なので気にせず使うか悩んでいます
私は小さい頃から、悲しい事や辛い事があると、しみじみ考える事があります。 どうして生きるんだろう、 最近自分なりに答えを探ってみて居るのですが、くだらない理由しか思い浮かびません。 親を心配させない為、とか、周りの人が悲しむから、とか、 別に自殺願望がある訳ではありません。 素朴な疑問です。 親や友人に相談すると、変な勘違いをされてしまいそうで、誰にも相談した事はありません。 今の生活はとても楽しく、満足しています。 でも、何処か他人に気を遣って、他人の為だけに生きているような気がしてなりません。 それで良いのでしょうか。 拙い文で申し訳ありませんが、是非答えていただけると嬉しいです。
こんばんは。 いつもご回答ありがとうございます。 私はいま20なのですが、今まで青春というものを送ったことがありません。 人それぞれ青春は違うものであるとは思っているのですが、大事なものがあるから頑張れる!とか、ここが私のいていい居場所などがまだ見つかりません。 そして、卒業してから今も受験勉強中で大学を狙っています。 この2年間何をしてもうまく行かなくて、ずっと悩んでいました。夜も、また落ちるんじゃないか、とか不安なことが多くて夜中までずっと起きてしまっています。 私は幼少期から、母がずっと入院したり、友達に騙されたり、いろんなことがありました。 そして、いまは受験勉強をしていて、このままでいいのかな、とか、この先何か幸せだって、大事だって思えるものに出会えるのか、不安です。 そこで、私のように自分に自信がない者でも、何か人生を変える出会いなど訪れる者なのでしょうか。 人生の幸福量は、幸せな人は幸せ、そうじゃない人はずっとそのまま、なのでしょうか。 気づき、や、少しの事にも感謝することで人生は幸せになるものだとも思っています。 青春を送れなくて、いま青春コンプレックにも陥っています。 ご回答よろしくお願いします。
私は、今スペインの大学院で、宗教学について学んでおります。 お恥ずかしい事に、日本に住んでいるときはあまり仏教について考えた事がなかったのですが、今自分が海外にいる事で、改めて日本が仏教国であり、数々の素晴らしい文化、そしてそれにともなう言語・思想等を生み出してきたという事に気付きました。 そこで、今仏教について、スペインで本格的に研究しているのですが、どうしてもスペインにある仏教に関する本ではわからない事がございまして、ぜひお坊さんたちに答えて頂きたい質問がございます。 ドイツの宗教学者であるルドルフ・オットーが、「ヌミノース」という言葉で表している、言葉では言い表す事のできない他者では経験不可能な不思議体験・神秘体験(?)が一体どのようなものであるのかを、教えて頂きたいのです。 恐らく日本語で表すと、『見性体験』というものだと思います。ルドルフ・オットーも「聖なるもの」という著書の中で、この経験の内容に関しては体験者の唇は固く閉ざされると言っておりますが、仏教を研究している以上、私はどうしてもこの体験がどのような物なのかが知りたいのです。 もし言葉で深く説明できないのであれば、本当にキーワードだけでも良いので、どのようなものなのかを教えて頂きたいです。 難しい質問かもしれませんが、どうぞ宜しくお願い致します。
タイトルにあるような質問を、自殺志願者の男性に言われて答える事が出来ませんでした。彼は、彼女と一緒に死ぬと言ったまま音信不通になりました。あれから、彼に言われた問いが、私の中に残っています。お坊さんだったら何と答えますか?
こんにちは。宜しく御教授お願いします。 父の死後、九州で一人暮らしを続けていた80歳の母が身体的にも介助が必要になり、認知症らしい言動も出てきている為独居は限界と判断。私も兄も関東に住んでいる為、関東の施設入所して貰う事になりました。 離れている為、近くにいてもらった方がいいと思ったからです。 受診、入所先探し、転居の手続き、親戚への挨拶、荷物の送付、入居準備全て私が行いました。 後は、住んでいた九州の実家の片付けがあるのですが、かなり家財道具がある為大変です。 兄に相談しましたが、手伝ってくれる気は無さそうで、当然私がやるものと思っています。 その事で、喧嘩もしました。私は充分やったし、これ以上の負担は身体的、精神的に無理です。 母の認知症は、まだまだ軽い方ですが、以前と違う母といることがとてもつらく、ストレスを感じます。 冷たい娘とお思いになるかもしれませんが。 母は本当はずっと、生まれ育った町で暮らしたいようです。私達の為に、入所してくれるんだと思います。 そんな母を見ていると、本当にこれで良かったんだろうか?と思ってしまいます。兄弟で揉める姿も、見せたくはないです。 私はケアマネの仕事をしていますが、自分の親の介護については考えていませんでした。敢えて、考える事から逃げていたとも言えるかも知れません。利用者さんの御家族が、介護の負担分担で揉める姿を散々見て、悲しい気持ちになっていました。まさか、自分がこんなことになるとは。お恥ずかしい限りです。 私は 子供が出来ない身体ですが、たとえ子供がいても老後は決して安泰ではないのですね。 人は生まれて、それぞれ一生懸命その人の人生を生きて、老いていく。 やっと、ゆっくりと人生の最期の時のためにのんびりと穏やかに暮らせる時間が来たのに、子供たちは世話のなすり付け合い、生まれ故郷から離れての生活。 老いることは悲しい事でしょうか。 私達は、人生の最期の時期をお手伝いする仕事ですが、どんな人にも最後は幸せでいて欲しいと願って仕事をしています。御坊様は、本当の最期のお見送りをするお仕事だとおもわれますが、人の老いについてどのような考えをお持ちでしょうか。 私事の相談のはずが、話が大きくなってしまい申し訳ありません。
仏教の教えに全ては苦しみである、というのがあると思いますが、僕は普通に人生楽しいです。この苦というのは思い通りにならないという意味らしいですが、例えばテレビの電源をつけようと思ったらつけられます。この時点で一切ではないと思います。 そもそも一切皆苦であれば、自殺をすればいいのではないでしょうか?(自殺を推奨しているわけではありません)輪廻という前提がない現代日本で一切皆苦と言われても、「じゃあ死ねばいいんじゃない?」と思ってしまいます 僕はアンチではなく、仏教徒です。真宗の門徒なのですが、一切皆苦と言われるとひっかかってしまいます。