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検索結果: 438件
2023/10/01

愚かな過去

私は数年前、とある施設の女性トイレに私自身の携帯電話を置き、盗聴するという愚かな行動をしました。 警察に通報されたわけではなく、相手の方が気づいていたのか、気づいていないのかはわかりません。 お相手の方は、全くの他人であり現在何をしているのか知ることはできません、その時に私自身、法によって裁かれ直接相手の方に謝罪ができていればと悔やむ毎日です。 ネットなどで、盗聴や盗撮などに被害に遭われた方の事を見たり、聞いたりすると心から傷をつかれた方が沢山目に入ってきます。 私もお相手の方の心、そしてその周りにいる方々の心に大きな傷をつけてしまったと思っています。 お相手の方は今、生きて幸せになっているのだろうか、それとも私の愚かな行動で、心に傷をおって、自ら命を絶ってしまったのではないかと思ってはいけないことを思ってしまっています。 ならば、私も自らの命で、償うべきではないのかと思い、日々葛藤する毎日です。 私は現在、その方が幸せに生きていると願い祈り、そして謝罪をしながら日々生きて おります。 そして自分勝手ながら、人の心を助けたいという夢も見つかりました。でも、誰かを傷つけた私なんかに人を助ける夢などという言葉があっては良いのかともおもっております。 もうお会いすることのできない方に、幸せに生きていてほしいという願いを届けるためには、私はどのような心を持ち、どう行動していけばいいのか教えていただけないでしょうか。

有り難し有り難し 5
回答数回答 1
2023/04/23

本当の正義とはどこにありますか?

「浮気・いじめ・暴言や悪口・男(女)遊び」など私は倫理的にダメだと思っていますが、人は皆違うからこそ、この倫理観は僕だけのものだと思います。 それを他人に押し付ける行為は他者のことを尊重できていなくて、よくない行為だと思うのですが、上記の行動を見ると、どうしてもすごく不快になります。 「こんな人もいるんだな〜」や「世の中そんなもの」と割り切りづらいのです。割り切れない訳ではないですが、モヤモヤしてストレスで病気に罹ったほどです。 他者を尊重することは大事だと言いますが何を基準にどこまでを尊重とするのでしょうか? 「浮気・いじめ・暴言や悪口・男(女)遊び」 ← これらを"尊重"して許すべきなのでしょうか? 極論、人を殺めるという行動も尊重しないといけないのでしょうか?僕は倫理的に良くないと思いますし人の命を存外に扱っている行為だと思います。 ですが、これはあくまで"自分の倫理観"ですし、他人に押し付けてはよくないですよね?そこに人を殺めてはいけないなんて法律もないですし。 これを尊重と言うのなら皆本当にできるのでしょうか? 僕はどうしても許せないです。モヤモヤして気持ち悪くなります。見て見ぬふりが苦手なんです。 もし、それができたとしても他人に無関心で冷たい世界が作られると思います。 "倫理観"を基準に尊重しても、そんなものは互いに違いますし、それを振り翳した殴り合いが始まりますよね。 本当の正義とはどこにあるのですか?それとも、そんなものは無いのでしょうか? 見方を変えれば全ての物事が善でもあり悪でもあるのでしょうか?

有り難し有り難し 24
回答数回答 2
2022/03/02

生老病死

 数年前、願誉浄史ご住職様から「阿含経典」を勧められましたが、驚いたことに此処にすべて仏教の真髄が集約されていました。  ご住職様には、深甚な感謝と共に厚く御礼申し上げます。  そこには、仏教の目的である「輪廻転生からの解脱」が唯一仏教の教えに尽きることが書かれていました。  般若心経に「照見五蘊皆空度一切苦厄」とありますが、「一切苦厄」の主体が生老病死の事でありましょう。  生老病死は仏教の専売であると思っていましたが、阿含経には仏教に関係なく「自然の摂理」で釈尊以前から定まったものであると述べられています。  「自然の摂理」に対しては、釈尊も手の施しようがなく只管死を待つほかありません。  即ち、生きている総ての生物には生老病死はつきもので、仏教の救いは何もないという事です。  従って仏教の救いは死後にあることになります。  しかし死ねば生老病死は消えますから何も問題はありませんので、仏教の救いは必要ない筈ですが、再び誕生することを釈尊は悟りで明らかにしました(過去世)。  それが輪廻転生です。そこから解脱することが仏教の救いであり、仏教の存在価値です。  そのことを阿含経は下記のように述べています。 城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑)  前略  その時、世尊はかように仰せられた。  比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。  まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。  後略

有り難し有り難し 19
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2022/07/05

年明けを待たずに死にます

現在、貯金を切り崩して生きています。 このまま稼ぐ手段が見つからなければ死にますが、自分が野垂れ死ぬことには納得がいくというか、客観的な視点で「こんな奴死んだ方がいい」と自分にずっと思いながら生きてきました。 問題のある人格に対して「そんなんじゃ生きていけない」と家族から「厳しくも厳しくもありがたいお言葉」をいただきながら育ちました。結果、その通りになりました。 この世界がうまく回っていて、私だけに問題があるのならばまだ生きる希望がありました。しかし、現実はそうではない。私が生きていてもいなくても、この世界はどんどんと悪くなっていく。そもそも、生きることそのものが欠陥だとしか思えません。 人生は「他人にどう見られるか」が全てです。完全な自給自足ができない以上、何かの手を借りなければなりません。そのためには他人に好ましい印象を与えなければなりません。私はそれができませんでした。 この世界は私が生きようが死のうがどうでもいいものです。生きていられる人間は、「自分を大事にしたい」という動物的本能を疑わないでいられるから生きられるのです。しかし私はその本能こそが全ての苦しみの元凶と憎み、「全ての生命は存在しないほうがいい」という強固な思想に囚われています。これを打ち破る根拠をこの世界に見出せれば良いのですが、その機能が私に備わっている気がしません。何を論じられても、申し訳ないことに、「わざわざ生きる根拠」にはなり得ません。この世界には私よりもずっと有能で賢い人間が沢山いるのに、全生命を安楽に絶滅させる方向に行かないのは、私が決して感じることのできない「それでも生きる意味」があるからなのでしょう。 私の人格や感性が望まれたことなどありませんでした。それとも、関わる人間の誰からも死を望まれながら、殴られながら生きるのが修行でしょうか? 未来を捨て、この世界や他の人間に「生きさせてください」と頭を下げ、心身を削る「労働」を辞めた今が人生で一番安楽です。つまり、私の幸福は死の直前にしかありませんでした。 私の望みは、「物質世界から解放される」「五感、痛覚、あらゆるものを感じる機能を失う」「誰からも観測されない状態になる」こと、つまり、「永遠の死」「存在しないこと」です。そして、これこそがあらゆる生命が目指すべき地点だと思っています。こんなことを考える人間だから生きられないのです。

有り難し有り難し 13
回答数回答 1

ダンスを再開。自分の承認欲求に気づいた

9月からダンスレッスンに通い始めました。3年ぶりの再開になります。 きっかけは、コロナ自粛中の体調不良を改善するためでした。 最初はまるで体が動かす、年齢的な衰えも感じてがっくりしていましたが、山登りを平行して行っていたので次第に体力がつき、ダンスもやりやすくなりました。 まだ2ヶ月ほどしか通っていませんが、ダンスを通して気づいたことがありました。 自分は、凄く承認欲求が強いということです。 褒められたい、すごいっていってもらいたい、肯定してもらいたい。 そういうのは、自信のなさにつながっているらしいですね。 ダンスは体にいいかなとおもって続けるつもりですが、この承認欲求がやっかいで、自分を自分で苦しめているようです。 ダンスに限らず、自分はずっとこの他人からの承認欲求を欲しがって苦しかったような気がします。自己アピール下手です。 何か欲しいんだが、何がしたいんだか、なにをどうすれば満たされるのか。 ひとに認められなくても、自分を認めらられる方法を散々探しましたが、わかりません。 寂しいんです。 めんどくさい質問、すみません。 回答いただけたら嬉しいです。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 12
回答数回答 1

愚痴を聞き続けることがつらい

こんにちは、初めての利用です。よろしくお願いします。 お坊さんの皆様にお聞きしたいのは題名の通り、他人の愚痴を聞き続けることがつらいためどのように折り合いをつければ良いのか、またどのように振る舞えば良いのかということです。 もちろん私も多少の愚痴は言います。聞く方でも会話の中で多少出てくる程度であれば、慰めたり一緒に怒ったりすることができます。むしろ自分に心をさらけ出してくれたように感じ少し嬉しくもあります。 しかし、会話の内容があまりに愚痴や悪口、文句ばかりであると参ってしまいます。 愚痴を聞けば聞くほどに自分の心に澱みが溜まっていくような感覚です。あまりに聞かされ続けると自分が嫌な感情のゴミ箱にされているような気すらします。 そして、聞き始めた最初は同調できていても段々と受け止めきれなくなり、言っている本人を責めたくなってしまいます。実際に正論という名目で責めてしまっている気がします。 さらには責めるような事を言わせるくらいに愚痴を言いつづけた相手を恨めしくも思ってしまいます。 いま、この文章を書いていて自分の心の狭さが嫌になります。 過去に、愚痴を聞くのが嫌でとても仲の良かった友達と疎遠になってしまいました。 また仲良くしたいと思う一方で再び愚痴ばかりを聞かされるのかと思うと躊躇します。 また、最近は恋人も仕事の愚痴が増えてきました。本人もつらいだろうし聞いてあげることで少しでも気持ちが軽くなるのなら、と、聞いてあげたい気持ちはあるのですが聞いてるうちにうんざりして投げやりな返答をしてしまいます。 愚痴を聞かずに済むのであれば、正直なところ聞きたくありません。しかし生活をしていればどこかで不満を抱きそれを他人と共有したいという気持ちがわくのも良くわかります。 また、話している本人は心を預けてくれているからこそ、他人に言えない分を私に愚痴るのだとも思います。 それをぞんざいに扱うことでその心を砕いてしまう気がして申し訳ない反面、正面から受け止めるのはやはり辛いです。 他人の愚痴に対してどのように付き合えば良いのでしょうか。どう聞けば自分の心に澱みを溜めず相手の愚痴を聞けるのでしょうか。 お坊さんの皆様、どうかこの感情との付き合い方や相手への振る舞い方をどうか教えていただけませんでしょうか。

有り難し有り難し 153
回答数回答 3

因果応報

因果応報という言葉があるように、悪口だったり心ない言葉だったりを言えば、自分も同じことを言われているんだから極力言わないようにと心掛けて来ました。(悪口を言う時に人差し指でその人のことを指さしているとしましょう。中指~小指はどちらを向いていますか?自分ですよね。自分が誰か一人のことを言えば、三人は自分のことを言ってると思いなさいと以前言われたことがあります。) ですが、数年前に知り合った知人なのですが、好き勝手悪口を言ったり、目を覆いたくなるような事件が起きれば、「その犯人、死ねばいいのに」と言ったりします。気持ちは分かりますが、その犯人にも家族があり・・・・と考えると悪いことをした事は別にして、単に一言で死ねばいいと片づけるのは違うのかなと思いますが、その自分の考えが間違っているのか分からなくなります。 そんな知人は、とあるアーティストのファンで、コンサートにも行くのですが、毎回いい席ばかり。偶然なのかと思いましたが、ここ数年ずっと、そこそこいい席ばかりで、それ以外にも偶然が度々重なり何かと巡りあわせが良いことばかりなのです。 一方の私は、あまりいいとは言えない席ばかりだったり、一生懸命やっても上手く理解してもらえなかったりして苦い思いをすることがしょっちゅうです。 普段は巡り合わせのいい知人ですが、いつか因果応報で、他人からあれこれ思われる日が来てしまうのでしょうか?どことなしか、それを待ってしまっている自分にも因果応報で、返ってくるのでしょうか? 何かアドバイス頂けないでしょうか?

有り難し有り難し 22
回答数回答 1
2024/03/18

過去の過ちと罪悪感について

私は子供の頃から二十代前半まで、人に対してかなり不誠実な対応をしてきました。 (詳細は伏せますが人には言えないような悪い事もしてしまいました) 十何年か経過して、結婚をして家庭を持った今、過去を思い出し自己嫌悪と罪悪感で頭がいっぱいになり、ついには「いつか過去に復讐される」「お前は幸せになってはいけない」という強迫観念のようなものに捉われるようになりました。 今はできる限り他人に誠実に対応すればするほど「これで許されると思うなよ」と考えてしまいます。(実際そうだとも思います)。 皆、私みたいに矮小で卑怯な人間ではなく、今までの人生を誠実で真面目に生きてきたのだろうな…と友人や同僚と話す度感じますし、実際そうなのだと思います。 ただ、これから先もずっといつか来る(もしかしたらもう来ている)罪悪感や「過去からの復讐」に怯えて生きていくのは苦しいです。 過去の言動や行動は今更取り消せないことは十分承知しております。居直ることだってできますが、それでは行けないような気もするのです。 今後、そう言った感情や出来事と向き合っていく勇気が欲しいです。 支離滅裂で読みにくい文になり申し訳ございません。 ご助言頂けますと幸いです。

有り難し有り難し 11
回答数回答 1
2022/10/11

仲間の出世への嫉妬心を無くしたい。

私はドラマ・アニメ系の業界で働いていて、大学の頃の友人も同じ業界で働いています。私は働き始めて5年目なのですが、最近、先輩、同期や友人が出世し(番組の重要な肩書を得る、インタビューを受ける、界隈でちょっとした有名人になる、等)、それが嫌で嫌で仕方ありません。 この嫉妬心が、30代に差し掛り、どんどん大きくなっています。「嫉妬をバネに」という言葉もありますが、この嫉妬心は自分の心を腐らせるだけになっている気がします。 私自身、自分の仕事に誇りを持っています。日々、目の前の仕事をこなすことで会社、取引先やお客様の役に立っているはずです。 それでも嫉妬心が抑えられません。死ぬまでに有名になりたい、肩書を得たい、他人から非凡だと思われたいという欲。はっきり言って邪魔です。こんな気持ちは捨てて、まっすぐ穏やかに日々を過ごしたい。真摯に仕事に向き合いたい。同門の仲間たちの出世は、手放しで喜びたい。 この嫉妬心を無くす、あるいは、無くせなくても、薄めるヒントが欲しいです。お坊さんやこの相談をご覧になっている皆様も、嫉妬心で苦しんだ経験はおありでしょうか。お言葉をいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 25
回答数回答 2

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